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2013年5月17日 (金)

公認の不倫?明治に浮上した「権妻」の話

 

昭和二年(1927年)5月17日、大審院において、「夫が家を出て他の女性と内縁関係を結び、妻を顧みない事は貞操義務に違反する」との判決が下されました。

・・・・・・・・・・

大審院(だいしんいん)とは、現在の最高裁判所・・・

で、つまりは、旦那さんが、不倫をして、その不倫相手の家に入り浸りで、奥さんの所に戻らなかったために、「夫としての義務を果たしてない!との判決が下された」って事で、現在の一般常識として見れば、当然の事なわけですが・・・

ただ、このブログでも何度か書かせていただいているように、その一般常識という物は、時代とともに変化していく物でありまして、少々厄介・・・

現在の常識の尺度で、そのまま昔の出来事を計ってしまうと、どこぞの戦国ドラマの姫みたいに柴田勝家と結婚するお市の方に向かって、「母上は、好きでも無いのに結婚するのですか?私は反対です!」てな事をのたまう事になってしまうわけで・・・

それはさておき・・・
現在のように、一人の夫に対して一人の妻・・・つまり一夫一婦制が確立されるのは、明治三十一年(1898年)の民法によって・・・

なので、冒頭の昭和二年なら、完全に夫としての義務を果たしてない事になるわけですが、逆に言えば、それか確立される明治三十一年より以前なら、奥さんが二人いても三人いてもOKって事になってしまう・・・て事?

かと言って、これまた、時代や身分によって一律とは言い難い・・・

たとえば、先ほどの江姫(言っちゃった(^-^;)の戦国時代・・・以前も書かせていただいたように、豊臣秀吉と、その正室のおねに対して、淀殿(浅井茶々)を側室とする同年代の史料は存在せず、むしろ、おねと淀殿の両方を正室と見ていた事が予想されます(5月8日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、正室が一人で、それ以外は側室と定められるのは江戸時代の武家諸法度からですが、これもまた、側室として輿入れするお姫様方は、婚家と実家との架け橋となる政治的な役目があったり、高貴な家の後継ぎを生んで次世代へつなぐ役目があったり、何かしらの役目をおびての結婚であり、単に殿様が「この子が好き!」って感じで側室にするわけでは無いわけで・・・

とは言え、一方で、単に殿様が「この子が好き!」って感じで側に置く女性・・・いわゆるお妾さんもいたわけで・・・

なので、江戸時代の頃には、奥さんの他にお妾さんを囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていましたし、それが「金持ってんゾ」「権力あるゾ」的なええかっこでもあったわけです。

ただ、禁止では無いにしろ、いわゆるお妾さんは、多くの時代で日陰の身であり、何の権利も無いのが普通でしたが、これが、明治の一時期だけ、正式に認められた事があったんですね~

明治三年(1870年)に制定された『新律綱領しんりつこうりょう)・・・これは、江戸幕府や中国の刑法典をもとにして、明治政府のもとで作成された最初の刑法典なので、もちろん、このお妾さんの事以外にも、身分制度など様々な事が定められているわけですが、その中で、妻とお妾さん(二親等)の二人の妻の持つ事が公認されていたのです。

このお妾さんは権妻(ごんさい)と呼ばれました。

権妻の「権」というのは、明治の廃藩置県(はいはんちけん)の時に置かれた知事と権知事(ごんのちじ)の関係を見てもわかるように、権知事というのは、知事の下にいる副知事というのではなく、知事と同等の職務権限を持った知事に代わる役職だったわけで・・・

つまりは、正妻に対する権妻は副妻ではあるけれども、ほぼ同等に扱うみたいな意味が込められていた物と思われます。

これには、欧米化を急いでいた明治政府の下で、婚姻における男女平等が叫ばれ、公娼制度の廃止が議論になっていた一方で、古くからある家族体制の「家を存続させるためには跡取りが必要」という観念を、明治政府が打破しきれず、それならば、お妾さんも妻と同等の地位に押し上げて、堂々と後継ぎを産んでもらおうと考えた?てな事情が背景があったようですが・・・

とは言え、一方では、明治八年(1875年)、私塾・商法講習所(現在の一橋大学)を開設した森有礼(もりありのり)が、一夫一婦制男女同権を唱えて、福澤諭吉の証人のもと、奥さんと日本初の契約結婚なる物を行って話題になったりもしました。

・・・で、結局、刑法では明治十三年(1880年)に、戸籍法では明治十九年(1886年)にというわずかな期間だけで、権妻なる物は姿を消すことになるのですが、その間、「結婚条例とか配偶規制とかの発布以来、本妻を迎えるのに手間がかかり過ぎる」として、土日だけ権妻を雇い入れる『日曜権妻』なる物が大流行するという変な現象まで起こったのだとか・・・

今となってはおかしな話ですが、それだけ、明治の世というのは、世の中が急激に変化して、法律を定めるのにも紆余曲折、人の意識を変えるにも紆余曲折で、最終的な明治三十一年(1898年)の一夫一婦制の確立に至るまで、それこそ、文字通りの紆余曲折があったという事なのでしょう。

なんせ、冒頭に書いた通り、昭和二年(1927年)でさえ、今となっては何の事は無い不倫裁判の判決が話題になるくらいなんですからね~

その時代時代によって「何が普通なのか?」というのは、なかなか、一朝一夕にはいかない物ですね。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんばんは。

何ともコメントしずらい話題ですね。
これ、女性の立場として、どうなんですか?
やっぱり、時代によって、常識は変わるんですね。
うーん、男としても、釈然としない気分ですけど。
でも、その時代のスタンダードなら、その時代の人は納得してたんでしょうね。

投稿: エアバスA381 | 2013年5月18日 (土) 00時14分

 うーむ。明治になってからも一夫多妻を認める法律があったとは知りませんでした。勉強になります。
 最初にタイトルを見たときには権勢を振るう
妻のことかなと思ったのですが(^-^;

投稿: 徳左衛門 | 2013年5月18日 (土) 00時52分

エアバスA381さん、こんばんは~

それこそ、本当に時代が違いますからね。
今と違って、お産も大変ですし、生まれた赤ちゃんが、無事に成人する確率も非常に低かったわけですし、そんな中で、家父長的家族主義が残っていて、後継ぎできなきゃお家が危うい…

その一方で欧米のように女性にも権利を…となって、政府も右往左往したんじゃないでしょうか?
ただ、わずか10年で終わってしまうのですから、やはり、様々な問題があったという事なのでしょう。

投稿: 茶々 | 2013年5月18日 (土) 01時01分

徳左衛門さん、こんばんは~

それまでの習慣と、新しい世の中と、法律と…あまりの急激な変化に、その調整が難しかったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年5月18日 (土) 01時06分

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