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2013年6月28日 (金)

勘違い水野忠恒の刃傷・松の廊下

元文四年(1739年)6月28日、 信濃松本藩第6代藩主の水野忠恒が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

江戸時代・・・江戸城内において、いくつかの刃傷事件がありましたが、有名なところでは、あの忠臣蔵のもととなった浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)刃傷・松の廊下(3月14日参照>>)・・・

まさに、同じ松の廊下で、今回の水野忠恒(みずのただつね)も事件を起こしてしまいます。

まぁ、江戸時代の事ですから、その正式記録に、どこまでお互いの言い分が正確に残っているかは微妙ではありますが、大体において、こう言った刃傷事件の場合、結局は「勘違い」や「逆恨み」って事が多い・・・

もちろん、中には、貞享元年(1684年)の堀田正俊(ほったまさとし)・刺殺事件(8月28日参照>>)のように、なんとなくウラがありそうな話もありますが、かの浅野内匠頭も、もともとカンシャク持ちだったようですし、延享四年(1747年)の板倉勝該(いたくらかつかね)の刃傷事件(8月15日参照>>)に至っては、完全なる人違い・・・

・・・で、今回の水野忠恒の刃傷事件も、なんとなく、「勘違い」「思い込み」の要素が強いわけですが・・・

そもそもは、天正十八年(1590年)の9月に、徳川家の重臣であった石川数正(いしかわかずまさ)(11月13日参照>>)が8万石で封じられた事に始まる信濃(長野県)松本藩・・・その後、小笠原氏戸田松平氏越前松平氏と藩主が変わるものの、その歴代の名前を見てお解りの通り、徳川家において重要な役どころの家柄が多いです。

寛永十九年(1642年)に三河(愛知県東部)吉田藩から転封して来た水野氏も、その家系は、徳川家康の母方につながる名家です。

とは言え、6代め藩主となった忠恒は、実は、本来は藩主になるはずでは無かった人・・・

兄の第5代藩主・忠幹(ただもと)が、後継ぎがいないまま25歳の若さで亡くなってしまったために、享保八年(1723年)、弟の忠恒が、急きょ兄の養子となって後を継ぐ事を幕府に申請し、それが認められての6代め藩主就任でした。

後から思えば、これが、忠恒にとって、荷が重すぎたのかも知れません。

そう、現代の感覚で行けば
「兄弟なんだから、同じような環境で、同じように育ったはず…」
と、特に、一般人な私なんかは思ってしまいますが、

これが、江戸時代の名家&名門であれば、将来、後を継ぐ者と継がない者では、その教育の仕方が、全然違うのですね。

将来、藩主になるべき子供は、生まれながらにして、藩主となるべき教育を受けるので、やはり、そこンところに少々の違いが出てしまうのです。

もちろん、中には、あの暴れん坊な徳川吉宗(よしむね)(4月21日中間部分参照>>)井伊直弼(いいなおすけ)(10月7日の前半部分参照>>)のような人もいたでしょうが、むしろ、そっちの方がマレだと思います(←個人的見解ですが)

しかも、忠恒の場合、この亡くなった兄という人が、なかなかの名君だった・・・

質素倹約を旨として藩政を実施し、常に勉学に励んで、古き家訓に、現在にそぐわぬ部分があれば、積極的に改善して家風を正したり・・・

一方の忠恒は、そんな兄へのプレッシャーか、はたまた、嫉妬か負い目か環境の違いか・・・とにかく、未だ年若い頃からお酒に溺れ、その酒のせいか、普段から奇抜な行動が多々あって、藩主になった後も、とてもじゃないが政務をこなせる人物では無かったと言われています。

そんなこんなの享保十年(1725年)・・・忠恒は、大垣藩主戸田氏長(とだうじなが)養女(戸田氏定の娘)と結婚します。

そして、その婚儀を済ませた7日後の7月28日、時の征夷大将軍=第8代:徳川吉宗に結婚の報告とお礼を言うために江戸城に登城したのです。

白書院で吉宗への挨拶を無事済ませた忠恒は、戻る途中の松の廊下で長門(山口県)長府藩毛利師就(もろなり)とすれ違います。

お名前でお察しの通り、この師就さんは、あの毛利元就(もとなり)の子孫・・・この時は、まだ藩主ではありませんでしたが、いずれ、第7代長府藩を継ぐ身・・・

そんな師就が、忠恒とすれ違いざまに
「君、君、そこに君の扇子が落ちてるで」
と、声をかけたと言う・・・

扇子を落とした覚えの無い忠恒は
「侮辱された!!」
と思い、いきなり刀を抜いて斬りかかったのです。

幸いな事に、近くに人がいて、即座に忠恒を取り押さえてくれたおかげで、師就が命を落とす事はありませんでしたが、当の師就には、声をかけた覚えもなく、なんで斬りつけられたかは理解できず・・・

一方、その後の取り調べで、忠恒が、
「酒癖が悪くて評判の悪い自分の領地が、いつか召しあげられて、師就に与えられると思った」
なんて事を言ったなんて話もありますが、結局は『乱心』と記録されて、その動機もウヤムヤに・・・

なんせ巷では、百姓一揆の犠牲者=『多田加助の崇り』なんてウワサ(11月22日参照>>)も囁かれていたとか・・・

とは言え、この事件の判定・・・何となく罪が軽い気がしないでもない・・・(あくまで素人感覚ですが…)

まぁ、毛利は被害者ですし、斬りつけられても抜刀せずに応戦したのでお咎め無しでわかりますが、一説には、師就はかなりの重傷を負ったなんて話もあるワリには、忠恒本人こそ、その罪で改易となって川越藩お預かりの禁固刑となりましたが家名は存続・・・

確かに、被害者も亡くなってはいませんし、当人も
「コチラから水野家に対する遺恨は無い」
てな事を言ってたらしいですが・・・

他の刃傷事件では、ご存じの浅野家は本人切腹で家名断絶、冒頭の堀田正俊事件でも加害者の稲葉家は断絶(本人死亡)に、板倉家も断絶(本人切腹)・・・

もちろん、江戸時代は250年という長い期間でありますから、同じ徳川の時代と言えど、ひとくくりにはできない物で、その時々の判断の差というのもあるのでしょうが、なんか、気になりますね~~

とにもかくにも、お預かりの刑が終わった後、叔父である水野忠穀(ただよし)の江戸屋敷で蟄居の身となっていた忠恒は、元文四年(1739年)6月28日39歳でこの世を去りました。

その死期を早めたのは、やはり、お酒・・・と、言われています。

カリスマのような父同様、優秀な兄を持った人にも、生まれながらにして大きなプレッシャーが圧し掛かるという事でしょうか。。。
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2013年6月24日 (月)

上杉に仕えた軍師・清源寺是鑑

天正九年(1581年)6月24日、上杉家に仕えた軍師=清源寺是鑑が、直江兼続に合戦の日取りの吉凶を報告しました。

・・・・・・・・・・

このブログでも、度々登場している『軍師』という職業・・・

現在の私たちが、この『軍師』という言葉からイメージするのは、合戦における作戦の立案や、軍議での提案・・・さらに、実際の合戦で軍隊の指揮をとるといった感じですが、これらは、「与力」「軍奉行」などと呼ばれる、いわゆる家臣で、まさしく戦国武将なわけですが、

それと同時に、武将では無い、陰陽師修験者僧侶といった人たちを雇い入れ、彼らの占いによって合戦の日取りや、その攻め方などを決定する場合もあり、このような占い師的な人たちも『軍師』と呼ばれます。

くわしくは、以前ご紹介した北条家の軍師=中山修理介(なかやましゅりのすけ)のページを見ていただくとありがたいです(10月7日参照>>)

・・・で、今回の清源寺是鑑(せいげんじぜかん)さん、

越後(新潟県)上杉景勝(かげかつ)や、その重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)に重用された僧侶で、「清源寺」で通っていましたが、当時は、安国寺(あんこくじ)の住職でした。

景勝と兼続に影響を与えた僧侶を言えば、あの足利学校を首席で卒業したとの噂の景勝の叔父さん=通天存達(つうてんそんたつ)禅師が有名ですし、兼続の軍師としては、同じく足利学校出身の涸轍祖博(こてつそはく)という人物もいますが、おそらく、今回の清源寺是鑑も、そんなブレーンの一人だった事でしょう。

で、本日ご紹介するのは、その源寺是鑑が直江兼続に送ったという書状・・・

『上杉家文書』に収録されている書状は2通ありますが、1通は、是鑑が景勝から合戦の日取りを占うよう依頼され、それを「承知しました」という返答の手紙で、もう1通が、その占いの結果を、天正九年(1581年)6月24日の日づけにて兼続に宛てて報告した物・・・

書状には、年号は書かれておらず、日づけだけなのですが、その宛名が『樋口与六殿』となっているところから、兼続が直江家を相続する寸前の書状と考えられており、おそらく、この6月24日は、天正九年(1581年)6月24日であろうと言われています。

Seigenzizekansyozyou 清源寺是鑑書状(米沢上杉博物館)…画像は『米沢市広報』より転載させていただきましたm(_ _)m

・・・で、占いの結果は・・・

「御うらないの事、承(うけたまわ)り候(そうろう)(あいだ)、したゝめ上げし候。いかにも御弓矢よき御うらないにて候。目出たく存じたてまつり候…」
つまり、
「御弓矢=合戦には、良い日=吉日である」
という結果が出た事を報告しているのです。

準備万端整えて、作戦を練りに練ったとしても、なんだかんだで勝負は時の運・・・

「人事を尽くして天命を待つ」のごとく、強き戦国武将も、占いを信じたり、ジンクスを担いだりする・・・いや、むしろ、そういった事を重要視して、自らの士気を高めていた事がわかるという事で、この是鑑の書状は、貴重な史料の一つとされてします。

また、それと同時に興味をそそられるのは、この書状の追伸にあたる部分・・・

くずし字初心者の茶々には、ちょいと読めないのですが、聞くところによれば、そこには
「関東口の儀、何事も無く候」
と書いてあるとか・・・

関東口」とは、まさしく北条氏の事でしょう。

この書状が、確かに天正九年(1581年)の物だとしたら、その2年前の天正七年(1579年)3月に終結したのが、上杉謙信の死後に勃発した、あの御館(おたて)の乱・・・

この時、景勝と後継者を争った景虎(かげとら)は、北条氏康(うじやす)の七男として生まれた後、謙信の養子となって上杉に来た人・・(3月17日参照>>)

当然の事ながら、御館の乱の時には、そのバックに北条氏の影が見えていたわけで・・・

この追記の部分は、その御館の乱後も、ずっと継続して北条の動きを探っていたという証であり、明らかに、本文の占いの結果とは異なる分野のもの・・・

そう、例え、僧侶や陰陽師と言えど、その才能は占いやゲン担ぎだけでなく、兵法や軍略、はたまた、敵の動向に関するスパイ活動のような情報収集能力にも長けていないと軍師は務まらないという事をあらわしているようですね。

そういう意味でも貴重な史料です。
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2013年6月21日 (金)

直江兼続を手玉に取った最上の重臣・鮭延秀綱

正保三年(1646年)6月21日、戦国から江戸初期にかけて、最上氏の重臣として東北の地にて活躍した鮭延秀綱が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

鮭延秀綱(さけのべひでつな)鮭延氏は、もともとは近江源氏佐々木氏の流れを汲む名門・・・戦国時代にに入って出羽(山形県・秋田県の一部)に下り、仙北の地で勢力を誇っていた小野寺氏に仕えますが、やがて大永・天文年間(1521年~1554年)のいずれかの頃の秀綱の父=佐々木貞綱(さたつな)の代になって、小野寺氏の配下ではありながら、出羽鮭延城(山形県真室川町)の城主となっていました(苗字を鮭延としたのも、この頃と思われます)

完全に独立とはいかないものの、徐々に小野寺氏の影響が薄れつつある中、そうなると戦国時代の常として、こういった小規模な国人領主は、その領地を度々隣国から狙われる物でして・・・

で、そんなこんなの永禄六年(1563年)・・・勢力拡大を狙う庄内(山形県の一部)武藤氏に攻められた貞綱は、痛い敗戦を喫してしまいます。

『鮭延城記』によれば・・・
永禄六年の役典膳(貞綱の事)の次子源四郎當歳(秀綱の事)なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられる…」
とあるところから、どうやら、この合戦の時に、秀綱少年は捕えられて人質とされ、その後、敵地にて養育されるという、辛くて苦い幼少期を過ごしたようです。

ところが、なんと、その後、成長した秀綱は自力で敵地から脱出し、家督を継いで鮭延城主に納まったのだとか・・・

しかし、それもつかの間・・・そこに猛攻をかけて来たのが、あの最上義光(もがみよしあき)です。

天正三年(1575年)頃には家中の抵抗勢力を抑えて最上家の主導権を握り、いざ、ここから周辺地域に、その勢力を拡大しようと、いま、まさに上り調子の義光は、天正九年(1581年)、秀綱の鮭延城へと迫ります。

数の上でも劣るうえ、最上配下の氏家守棟(うじいえもりむね)の調略によって、秀綱配下の家老格であった庭月氏がアッサリと降伏・・・やむなく秀綱も義光に降伏し、これ以降、最上氏の配下として生きて行く事になるのですが・・・

どうやら、この降伏も、「単に合戦に負けた」という感じでもなさそう(←推測)です。

と言うのも、上記の通り、この頃の義光は勢力拡大を計っていて、当然の事ながら、彼が攻め落としたのは秀綱の鮭延城だけでは無いわけですが、義光に敗れた多くの武将が、それまでの領主の座をも奪われているのに対して、義光は、秀綱の、その所領を安堵する・・・つまり、秀綱は、鮭延城主のまま、その領地ごと最上の配下となったわけで・・・

これには、義光が、いかに秀綱の武勇を高く評価していたかのあらわれ・・・秀綱を倒して鮭延城を奪う事より、秀綱を、自分の配下に入れる事のほうが、よほど価値があったという事なのかも知れません。

Sakenobehidetuna300 こうして最上氏に仕える事になった秀綱・・・早くも、その翌年の天正十年(1582年)には、義光と敵対していた大宝寺氏の配下にあった来次氏秀(きすぎうじひで)を内応させるなど、その能力が、力ワザだけでは無い事を感じさせてくれます。

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また天正十八年(1590年)から翌年にかけて豊臣政権が行った検地の時には、小野寺氏や上杉家臣の色部長真(いろべながざね)らと仙北地方南部の領有権を巡ってモメる中、検地反対で勃発した一揆のドサクサで出羽湯沢城(秋田県湯沢市)を占拠・・・その後も居座りつづけて実効支配し、最終的に、その地が最上の支配下にある事を豊臣秀吉に認めさせています。

何とも強気な秀綱さん・・・そんな彼が、最も活躍するのは、あの天下分け目の関ヶ原と同時進行で勃発した奥羽の関ヶ原=長谷堂の戦いです。

ご存じのように関ヶ原の戦いは、秀吉亡き後の豊臣政権内で起こった派閥争い・・・
(関ヶ原についてのくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>でどうぞ)

伏見城に居座り続けて秀吉の遺言を破り、まるで天下人のごとく振る舞う徳川家康に怒り爆発の石田三成(みつなり)が、その家康が会津征伐のために伏見城を留守にしたところを狙って、伏見城に攻撃を仕掛けたのが事のはじまり(8月1日参照>>)ですが、その時、三成の動きに合わせるが如く、反家康の行動をしたのが、会津の上杉景勝(かげかつ)・・・というより、その重臣の直江兼続(なおえかねつぐ)
(「本物?ニセ物?直江兼続の「直江状」」参照>>)
(「直江兼続・越後一揆を扇動」参照>>)

しかし、会津征伐のために東上していた家康は、伏見城攻撃のニュースを聞いて、即座にUターン(7月25日参照>>)・・・率いていた軍隊そのままに、一路、畿内へと戻り、あの関ヶ原・・・となるのですが、

一方、迎え撃つ気満々で、土塁や掘を構築して支城の守りも固めていた兼続にとって、この家康Uターンのドタバタ劇は、もし会津征伐があったら全面協力するはずだった最上義光の領地へと進攻するのには絶好のチャンス!!

もちろん、家康の支援無しで上杉との交戦が困難と判断した義光も、あわてて上杉に対しての和睦を申し入れたりなんぞしますが、交渉は決裂・・・

かくして、慶長五年(1600年)9月9日に、兼続は、2万4000余りの兵を率いて、居城・米沢城を出陣し、最上配下の支城を次々と落としながら進み、本チャンの関ヶ原と同じ9月15日、いよいよ義光の居城である山形城の間近の長谷堂城(山形県山形市)へと迫ったのです(9月9日参照>>)

迫る30000の上杉に、迎える城兵は、わずか1000(数には諸説あり)・・・この長谷堂城の危機を救うべく、義光が、迷わず援軍として派遣したのが秀綱でした。

着陣早々、夜襲を決行して敵方を翻弄した後、手を焼く上杉勢を、押しては引いて、引いては押して・・・智将の誉れ高き兼続を、この長谷堂の戦いで、見事、手玉に取るのが鮭延秀綱という武将なのです。
(くわしくは【直江兼続・苦戦~長谷堂の戦い】で>>)

9月24日(29日とも)の大きな衝突では、新影流の剣聖上泉信綱>>)の血を引く上泉泰綱(かみいずみやすつな)を討ちとり、あの前田慶次郎を翻弄し・・・

さらに、9月30日になって、関ヶ原での勝敗が決した知らせを聞いて撤退を開始した上杉軍に猛追撃を仕掛け、いち時は、その兼続も切腹を決意するほどの窮地に・・・(10月1日参照>>)

なんとか、その危機を乗り越えて、米沢城へと帰還した兼続は、「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」(『永慶軍記』)=つまり、「秀綱は、武田信玄や上杉謙信よりも強い!」と言ったのだとか・・・

戦後は、本チャンの関ヶ原で家康=東軍が勝った事で勝ち組となった最上家は、出羽山形57万石に封じられ(8月25日参照>>)、秀綱にも真室城11500石(後に17000石)が与えられました。

こうして迎えた江戸時代・・・義光が亡くなった後は、最上家老衆の筆頭格となって領国経営にまい進する秀綱でしたが、元和三年(1617年)、義光の次男として後を継いでいた2代めの家親(いえちか)が亡くなり、未だ幼い息子の義俊(よしとし)が後継ぎとなった事に不安を抱いた秀綱は、義光の四男の山野辺義忠(やまのべよしただ)を後継者に推すのですが、そのために最上家の家臣団が真っ二つ・・・

これが、後に最上騒動(8月18日参照>>)と呼ばれる内紛になってしまった事で、元和八年(1622年)、最上家は改易となってしまいました。

この事件によって、秀綱も、一旦、佐倉藩主・土井利勝(どいとしかつ)の預かりとなってしまいます。

その後、罪が許されてからは、やはり、その武勇を買われてか、そのまま土井家に仕える事になりますが、この時、秀綱は、土井家から与えられた知行・5000石のすべてを、山形時代からの家臣に分け与えたのだとか・・・

なので、その後の秀綱は、その家臣たちに養われる形で、家々を転々として暮らしたと言われていて、その様子は、海音寺潮五郎氏による『乞食大名』なる短編小説にもなっているのだとか・・・(小説は読まないので、内容は知りませんが…) 

かくして正保三年(1646年)6月21日、土井家の転封にともなって移り住んでいた古河の地にて、秀綱は85歳の生涯を終えたのでした。

わずかな兵で立ち向かい、あの直江兼続を翻弄させた華々しい戦績から一転、なんとなく、寂しい感じのする老後ですが、それこそが、戦国に生きた武将という物かも知れません。

最後の最後に、自らの腕を買ってくれた代金を、慕ってくれた家臣に分けてしまうとこなんぞ、まさしく戦国の猛者・・・そんな気がします。
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2013年6月18日 (火)

本能寺の余波に散る織田の重臣・河尻秀隆

 

天正十年(1582年) 6月18日、織田信忠の重臣として活躍した河尻秀隆が、一揆勢の襲撃を受けて死亡しました。

・・・・・・・・・・・・

河尻秀隆(かわじりひでたか)・・・

はじめは、信長の父の織田信秀に仕え、隣国との交戦に度々参加していたという事ですが、一説には、その息子である織田信長が弟=織田信行(のぶゆき)の暗殺(11月2日参照>>)をする際、直接手を下したのが秀隆だった・・・という話もあるものの、なにぶん、その史料が少なく、多くの部分が謎に包まれています。

とにもかくにも、天文年間(1532年~54年)のいずれか頃から信長の側近を務めるようになった秀隆・・・もちろん、あの桶狭間(5月16日参照>>)をはじめ、美濃平定(8月15日参照>>)などにも華々しい活躍をしたと言いますが・・・

そんな中でも、天正元年(1573年)頃からは、トップクラスの参謀として重用されるようになり、信長の嫡男である織田信忠(のぶただ)の配下として、作戦の立案や実戦での指揮命令系統を担当・・・

Odanobutada この頃は、未だ10代の若さだった信忠ですから、配下&補佐というより、実質的には秀隆が中心となって合戦に挑んでいたと思われ、むしろ、信忠は、秀隆のサポートを受け、そのやり方を学びながら成長していったものと思われます。

『太閤記』によれば・・・
天正三年(1575年)の長篠の戦い(5月21日参照>>)において、信長は、自らの兜を秀隆に手渡しながら、そばにいた信忠に向かって
「以後は、この秀隆を父と思って、言う事を聞くように…」
と諭した
と言います。

ご存じのように、この何ヶ月後かには、信長は、信忠に織田家の家督を譲っています(11月28日参照>>)から、そんなあと取り息子を託すに値するほどの信頼を、秀隆は得ていた事になります。

もちろん、その期待に応えるがのごとく奮戦する秀隆・・・

なんせ、この頃から激しくなるのが、あの石山本願寺との交戦(5月3日参照>>)・・・しかも、そこに毛利は参戦するわ(7月13日参照>>)上杉は参戦するわ(9月18日参照>>)

そうです・・・信長が多方面に忙しい中、武田の甲州征伐に力を発揮したのが秀隆です。

ご存じのように、それは天正十年(1582年)に本格的にはじまりますが、信忠が大将となって行われた高遠城の戦い(3月2日参照>>) や滅亡に追い込む天目山の戦い(3月11日参照>>)など、おそらくは実質的な指揮官として活躍したであろう秀隆の功績は並々ならぬ物であった事でしょう。

おかげで、戦後は、甲斐国22万石信濃諏訪領を与えられ(3月24日参照>>)武田の旧領を統治する事になった秀隆でしたが、これが、彼の命取りとなりました。

そう、その3ヶ月後に起こる、あの本能寺の変(6月2日参照>>)・・・

ここで、信長も、そして信忠も亡くなってしまいます。

今回の秀隆と同様に、武田の滅亡によって旧領の北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)海津城・20万石を与えられていた森長可(ながよし)は、主君と弟=森蘭丸(らんまる)の急を聞いて、未だ抵抗する武田の残党を、まるで鬼のような形相でなぎ倒して畿内の戻ろうとした事から、長可は「鬼武蔵」と呼ばれるようになったとの事ですが(6月26日参照>>)

その長可と同じく、この本能寺の時、秀隆は、信長から任されていた武田の旧領にいたわけです。

・・・が、残念ながら、秀隆の方は、その甲斐に取り残され孤立してしまったのです。

しかも、このタイミングで起こった・・・というか、このタイミングだからこそ起こった武田の遺臣たちによる国人一揆・・・

なんとか、甲斐からの脱出を試みようとする秀隆でしたが、天正十年(1582年) 6月18日一揆勢の襲撃を受けて、56歳の命を落としたのでした。

証拠の無い、あくまで噂の域を出ないお話ではありますが、一説には、この国人一揆を影で扇動していたのは、6月7日に、決死の伊賀越え(6月4日参照>>)岡崎まで戻っていた徳川家康だったとか・・・

なんせ、この後、秀隆の死で宙に浮いたこの武田の旧領を手にするのは、争奪戦に撃ち勝った家康なのですから・・・

それにしても、あの日の夜、妙覚寺に宿泊する信忠のそばに、この秀隆がいたなら・・・またまた妄想をかきたてられます。
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2013年6月17日 (月)

アンケート企画「教えてもらいたい歴史上の先生は?」結果発表

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「あなたが教えてもらいたい歴史上の先生は?」結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
ふふ~~ん( ̄ー ̄)ニヤリ
予想通り、アノ先生のアノ塾が1位でしたね~~

まぁ、その人気は不動の物ではありますから…
って事で、とりあえずは、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
32票
吉田松陰松下村塾
やはり…ですね。。。
知名度、雰囲気、先輩…どれも、皆が認める所ではあります。。さすがです!
2位
11票
緒方洪庵適塾
コチラもやはり…知名度、雰囲気、先輩が、1位に次ぐすばらしさですから
3位
7票
佐久間象山象山書院
こちらも、その1位の方が学ばれた場所として知名度バツグン…今年の大河ドラマでの印象も良かった
4位
5票
南淵請安私塾
柳生宗矩十兵衛三厳道場
意外?と検討の請安先生…柳生一族の方は、やはり、体育会系ではトップかも
6位
4票
千葉周作玄武館
体育会系では柳生一族に迫る人気!!幕末の強い人多し
7位
3票
行基青空仏教教室
シーボルト鳴滝塾
大塩平八郎洗心洞
個性派の先生方による個性的な塾(学校)が並んだ感じ?
10位
1票
空也踊り念仏講座
蓮如
吉崎道場
木村蒹葭堂蒹葭堂
橘曙覧黄金舎
投票数こそ1票でしたが、なんとなくオモシロそうな、興味津々の方並びましたね~
14位
0票
中江藤樹藤樹書院
河田小龍
墨雲洞
残念ながら0票でした…やはり知名度なのかしら?
その他 13票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

佐久間象山 象山佐久間先生も皆此の国の人にして〜と小学校で信濃の国を歌った時から
「おぉ、それ、県民ショーで聞いた事あります(*^-^)」
その他 広瀬淡窓の咸宜園。(60歳代/男性/京都)
「おぉ!シブイですね~やはり、大分では一押しの私塾なのでしょうか?」
吉田松陰 こういう所できちんと勉強した人が議員になってほしい(40歳代/男性/愛知)
「う~~ん、ついつい現代と重ね合わせてしまいますね。」
大塩平八郎 地元なうえに大塩さんが格好良いので!(10歳代/男性/大阪)
「やはり大阪では大塩さん…伝説と化してますからね」
シーボルト 当時の西洋医術、神か悪魔か手品師か。興味が尽きません。(50歳代/女性/埼玉)
「日本人は初めて体験するところに居合わせたいです!」
その他 象山書院も適塾も魅力的だけど、僅差で江川塾。好きな人物がここに一番多くいるので。
「松陰が入門した象山が入門した塾なんですね~スゴイな
柳生宗矩&三厳 是非無刀取りの極意を会得したいです(20歳代/男性/滋賀)
「体育会系では、やはりココですね
吉田松陰 塾の雰囲気だけでも味わいたい(30歳代/男性/兵庫)
「どんな感じだったんでしょうね~座敷の端っこにチョコっと居たい~」
緒方洪庵 緒方洪庵を選びましたが,吉田松陰も捨てられません。(40歳代/男性/鹿児島)
「松陰さん洪庵さん…やはり二大巨頭ですね~」
その他 福沢諭吉(50歳代/女性/神奈川)
「慶応義塾…ですね~選択肢に入れようか迷ったんですよね~」
行基 空也のと迷いましたが…。
「空也と行基…どちらも庶民の味方ですもんね~」
その他 役行者に飛行術を学び、飛んで飛んで、飛びまくるってのは!?(40歳代/男性/大阪)
役行者…塾というより、弟子入りして修行って感じですね
緒方洪庵 我が在所に最も近いから、通いやすい(笑)。僕の中では和気藹々なイメージがあり、そんな雰囲気で明治から現代に続く多彩な人材を輩出したところに惹かれます。(50歳代/男性/兵庫)
「なんか、福沢諭吉の話だと、みんなメッチャきたない着物を着てて、勉強以外には無頓着だったみたいですね」
その他 明智光秀→山鹿素行→吉田松陰(女性/東京)
「繋がる繋がる~って、結局は松下村塾という事で良いのでしょうか?
千葉周作 幕末の動乱でも同門同士は絆が強かったとか(40歳代/男性/千葉)
「幕末の千葉道場…活気があったでしょうね」
南淵請安 八木荘司さんの『青雲の大和』・・・に魅せられました。(60歳代/男性/長野)
「小説を読まないので存じませんでしたが、良い原作があるなら、ぜひ、ドラマにしていただきたいです~」
蓮如 家が浄土真宗なので…。(30歳代/男性/愛知)
「今も脈々と、その精神が受け継がれていますから」
その他 伊能忠敬 かしこそー^^ お手伝いしたかった〜(50歳代/女性/奈良)
「塾・学校というよりは、やはり弟子として地図製作の一員に…という感じでしょうか?」
吉田松陰 個人的な話ですが、曽曽祖父ご松下村塾に通っていたので(10歳代/女性/海外)
「おぉ、!!それは…日記とか残してはりませんか?体験談が聞きたいですね~」
緒方洪庵 関寛斎を見ていると、医学に止まらず、広く人生のあり方(哲学)までも弟子に伝わった気がするので。(60歳代/男性/兵庫)
「そうですね~ジャンルの幅が広かったような気がします」
その他 勝海舟の父親小吉を教育した兵法学者平山行蔵…(60歳代/男性/神奈川)
「なんか、細かい事にこだわらなさそうな先生で、楽しいかも…」
空也 運動不足なんで迷わずこれ(20歳代/女性/奈良)
「確かに…体操よしもハードな気がします
緒方洪庵 実は一番尊敬してる歴史上の人物です!一度でいいからお会いしたいです。(10歳代/女性/東京)
「国のため、道のため…最近、大阪で「仁-JIN-」の再放送やってました~ドラマの中での洪庵先生の言葉です」
その他 藤原不比等の偽書の書き方講座(40歳代/男性/三重)
「不比等さんは、忙し過ぎて講義をする時間が無いかも…」
吉田松陰 恥ずかしながら小生の名は松下村塾をたたえた伊藤博文の詩文から考えられたそうですが出世はできませんでした。(60歳代/男性/東京)
「ゆかりがあると、やはり、推しますよね~」
シーボルト 歴史大好き(女性/東京)
「最先端を学べそうです!」
柳生宗矩&三厳 剣術を学びたい!(10歳代/男性/東京)
「強くなりた~い!って感じですか?」
大塩平八郎 大塩平八郎の乱の元となった人物なので大塩平八郎にしましたw(10歳代/男性/神奈川)
「救民の旗印…カッコイイですもんね~」
吉田松陰 やっぱり萩出身なもんで、松陰先生でしょう(40歳代/男性/山口)
「萩出身なら、外せないですよね」
その他 孫子の著者の孫武(30歳代/男性/東京)
「まず、中国語の勉強からしないと…(;´▽`A``」
その他 茶々先生もすてがたい。(50歳代/女性/茨城)
「あら、まぁ…お恥ずかしいです(…と言いながら喜んでいる(*^-^))
佐久間象山 先見の明がある師といえばこの人でしょ(50歳代/男性/東京)
「100年先を見る…と言われる人ですからね~」
吉田松陰 今の世の中をどう見られるか、どうあるべきか聞きたい。(40歳代/男性/神奈川)
「やはり、今と重ねてしまいますね
吉田松陰 こちらでブログを読んで、吉田松陰の人材育成に興味を持つようになりました!自分でもぜひ学んでみたいです(30歳代/女性/神奈川)
「ブログを読んで興味を持ったなんて…ありがたいお言葉です
千葉周作 徹底的に肉体づくりをしたいのと、変革に動揺しない強靭な精神を身につけたいですね。 これならどこでも良さそうですが、学ぶならやはりイイトコで(笑)(20歳代/男性/大阪)
「江戸でトップですもんね」
その他 大岩祐夢の寺子屋。子供と混じって勉強は流石に無理なので、大人用があるのなら。(女性/岐阜)
大岩祐夢の寺子屋…って敗戦で無職となった長宗我部盛親が京都でやってたアレ???それは興味ありですね~
その他 梅田雲浜先生(40歳代/男性/大阪)
「湖南塾か望楠軒…これも選択肢に入れといたら良かったかな?」
吉田松陰 いつも勉強になります。子どもが産まれたので、将来、子どもに歴史を聞かれた際や、子どもが歴史に興味を示した時に、少しでも話してあげられるようにって思ってます。(20歳代/女性/埼玉)
「お子さんと歴史の話…イイですね~」
南淵請安 桜の綺麗な季節にお墓に参らせていただいたことがあります。小さな鳥居をくぐると、別空間に入った感じで身が引き締まる思いがしました。(40歳代/女性/兵庫)
「あそこは、人知れず、それでいて凛とした…請安先生らしい場所ですね」
その他 高島秋帆ね。(50歳代/男性/静岡)
「幕末…先駆けとなった人ですね」
行基 ほかの選択肢より穏健だから。(40歳代/女性/東京)
「落ちこぼれても怒られなさそうです」 
木村蒹葭堂 茶々さまの記事に登場するまで全く知らなかったんですが、すごく興味持ちました! 今あったら、絶対行きたいです(*^_^*)!(40歳代/女性/兵庫)
「あの探究心は見習いたいですね~広く門を開けたサロンなら、すぐにでも入れてくれそうです」
吉田松陰 松陰先生なら、自分の良いところを見つけて伸ばしてくれそうだから。(20歳代/女性/東京)
「未だ所在不明の『やる気ボタン』を、先生に見つけてもらいたいです」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
行基 (ティッキーさん)
吉田松陰 (ティッキーさんのお母様)
緒方洪庵 (時子さん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2013年6月15日 (土)

幕末にいたもう一人の天皇?東武皇帝・即位事件

 

慶応四年(明治元年・1868年)6月15日、東征する官軍=新政府軍に対抗すべく、奥羽越列藩同盟が擁立した北白川宮能久親王が東武皇帝として即位し、元号を「大政」に改元しました。

・・・・・・・・・・・

と言いましても、今回の即位&改元のお話は、未だ研究段階・・・様々な史料が残っている以上、そのような動きがあった事は確かでしょうが、実際に東武皇帝が天皇として即位したかどうかについては、未だ確証は無いので、あくまで、一つの説というスタンスでお聞きくださいm(_ _)m

・‥…━━━☆

今回の主役=東武皇帝とは、北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王の事で(実際には、幼名の満宮(みつのみや)、後に輪王寺宮(りんのうじのみや)、僧としての公現(こうげん)、とお名前が複数ありますが、ややこしいので、本日は、能久親王のお名前で呼ばせていただきます)伏見宮邦家(ふしみのみやくにいえ)親王の第9子として弘化四年(1847年)に京都でお生まれになった皇族・・・第121代・孝明天皇の義弟であり、第122代明治天皇の義理の叔父でもあります。

Rinnouzinomiya600 やがて安政五年(1858年)の12歳の時に、輪王寺門跡(門跡=皇族・貴族が住職の寺)としての勅命(ちょくめい=天皇の命令)と、親王宣下を受け、その翌年には江戸へと下って寛永寺慈性(じしょう)入道親王の得度を受け、年老いた慈性入道親王に代わって寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承する事に・・・つまり、皇族が代々受け継いで来たお寺のお坊さんになったわけですね。

その後、しばらくは、比叡山延暦寺で修業するなど、俗世間とは離れた僧としての修行の日々を送る事になります。

しかし、時代は、刻々と幕末の動乱に進んでいきます。

2度の長州征伐(5月22日参照>>)の後、薩摩と長州の同盟(1月21日参照>>)が結ばれて盛り上がる倒幕運動に、第15代江戸幕府将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、慶応三年(1867年)10月にいよいよ大政奉還(10月14日参照>>)・・・その後はご存じのように、12月9日の王政復古の大号令(12月9日参照>>)から、翌年正月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へ・・・

この鳥羽伏見の戦いで、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍を強調した(1月5日参照>>)うえ、敗戦となってしまった事で、慶喜は単独で大坂城を脱出して江戸へと戻り(1月6日参照>>)、その後は、自ら蟄居謹慎して、ただひたすら恭順(きょうじゅん=戦わず命令に従う)の姿勢をとる事になるのですが・・・

この頃に、薩摩出身の先々代将軍の嫁=天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)4月11日参照>>)や、前将軍=徳川家茂(いえもち)の奥さんで孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)(1月17日参照>>)などが、戦争回避&徳川家の存続を求めて、縁という縁をフル活用して薩摩や朝廷に働きかけた・・・というお話は、以前にも書かせていただきました。

そうです・・・なんとか、使える縁をフル活用して朝廷との間を取り持ってもらいたい幕府にとって、本日の主役=能久親王も、その縁の一つ・・・

慶応四年(1868年)2月、すでに駿府(すんぷ=静岡県)にまで達している官軍の東征大総督府の有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)に働きかけてほしいと頼まれたのです。

「慶喜の無罪を確保してもらえるよう説得できるのは静寛院様(和宮)か輪王寺宮様(能久親王)以外になく…」
と、幕府から懇願され、

早速、江戸を出立した能久親王一行は、戦時下となって雑兵や浮浪者がひきめき合う道を西へと向かい、3月のはじめには駿府に到着しました。

さすがに、能久親王は皇族・・・その名を告げると有栖川宮は、すんなりと面会して話を聞いてはくれたのですが、その返答は・・・
「私は、あのシャッポやし…」
と、近くにあった派手な軍帽を指差します。

そう、「自分は、あの帽子のような、先頭の飾り者だから…」=「何の権限も無い」と・・・で、結局、1週間後に下った総督府参謀の回答は「NO」でした。

むなしく寛永寺へと戻る能久親王ですが、そこに待っていたのは、ご存じ彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)ら、幕府の恭順姿勢や江戸城無血開城を不服とする面々・・・

ここに集まる面々は、「今こそ天海大僧正のご出陣!!」と声を荒げます。

実は・・・
ご存じのように、この寛永寺を開山したのは、徳川家康・秀忠・家光に仕えた黒衣の宰相・天海さん(10月2日参照>>)・・・開幕当初、江戸の町を、そして徳川家を守り抜くべく徹底的に策を張りめぐらせた天海による『天海秘策』という噂が、この寛永寺には、まことしやかに語られていたのです。

その秘策とは・・・
「西より逆乱があって今上帝を奪う時、東叡山(寛永寺の事)の宮門跡を以って当今と仰ぎ平定の軍を進めよ」
と・・・

つまり、「京都におわす天皇が西国大名に担がれて幕府に刃向かった時は、この寛永寺を継ぐ皇族を冠に据えて平定しなさいという事・・・

ウソかマコトか・・・こうして能久親王は動乱の渦に巻き込まれていきます。

やがて、ご存じの上野戦争・・・(5月15日参照>>)

この戦いで彰義隊は壊滅状態となりますが、戦場を脱出した能久親王は、すでに奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(4月25日参照>>)が形勢されていた東北へと向かう事になります(一説には、この一時期、東照宮のご神体も、新政府軍の攻撃を避けるべく、会津に運ばれたと言われています)

かくして、あの会津をはじめとする東北諸藩に迎え入れられた能久親王は慶応四年(明治元年・1868年)6月15日東武皇帝(東武天皇)として即位し、元号を慶応四年から大政元年に改元したのです。

・・・と念のため、もっかい言いますが、あくまで、これは一つの説で、実際に即位と改元があったかどうかは、未だ研究中・・・

また、「その説」によれば、先代の孝明天皇を愛してやまない会津の松平容保(かたもり)は、あまり東武皇帝の事を良く思わず、面会はしたものの、心通わす事もなかったとか・・・

ただし、当時のニューヨークタイムズにも、
「日本の北部における内乱で新しいミカドが擁立され、日本には二人のミカドが存在する事態になった」
と報じられているとの事なので、少なくとも、そう解釈できるような事態になっていた事は確かでしょう。

この時、東北諸藩の要請を断り切れなかった能久親王は
「そうか…それなら、私もシャッポになろう」
と言ったとか・・・

彼の、ここでの役目は、滞在していた白石城下を通りかかる軍隊に「エイエイオー」と声を挙げて、雰囲気を盛りあげる事だけだったらしいですが・・・

しかし、その後は、ご存じのように、北越戊辰戦争(7月29日参照>>)会津戦争(9月22日参照>>)と続き、やがて東北一帯を焦土と化した戦争も終わりを告げます。

戦後には、一旦は蟄居の身となった能久親王・・・明治二年(1869年)に許された後、プロセイン(ドイツ北部)へ留学・・・帰国後は軍人となって日清戦争(2月2日参照>>)に出征しますが、台湾にてマラリアにかかり、48年に渡る波乱の生涯を閉じたのでした。

・・・と、まぁ、憶測含むのお話ではありますが、細かな事はともかく、能久親王は実在の人物ですし、東北諸藩にそういう動きがあった事も確か・・・

幕末動乱の日本にもう一つの・・・妄想をかきたてられる話ではあります。
 .

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2013年6月13日 (木)

一条天皇、悲しみの譲位

 

寛弘八年(1011年)6月13日、第66代一条天皇が、皇太子の居貞親王へ譲位しました。

・・・・・・・・・・・

第64代・円融(えんゆう)天皇の一人息子だった懐仁(やすひと)親王が、第66代一条天皇として皇位を継承したのは、わずか7歳の時でした。

実は、この皇位継承が、なんとなく周囲の思惑ありきの不可解な出家事件を起こした先代の花山(かざん)天皇の退位(2月8日参照>>)を受けての即位・・・

そのページにも書きましたように、誰もが、最も権力を握れる天皇の外戚(母方の親戚)をゲットしたいわけで、その椅子を巡って、とにかく、藤原氏同志でモメるモメる・・・

・・・で、結局、当時、力のあった藤原兼家(かねいえ)を外祖父に持つ一条天皇が、第66代の天皇になったわけです。

その後、即位から4年後の永祚二年(990年)に、その兼家が亡くなった後は、その息子の道隆(みちたか)道兼(みちかね)が摂政や関白を務めますが、この二人も、まもなく病没し、その後に実権を握ったのが、彼らの弟=藤原道長(ふじわらのみちなが)(12月4日参照>>)で、ご存じのような藤原氏全盛の時代となるわけですが・・・

Itizyoutennou600 この間に11歳で元服し、なかなかに聡明な君主へと成長していった一条天皇は、ある寒い夜に「皆が寒がっているのに、自分だけ暖かくして寝るわけにはいかない」と、わざわざ衣を1枚脱いだ・・・なんて、やさしいエピソードも残る温和な天皇で、そのせいか、少々の不満にも声を荒げて周囲と衝突するような事もなく、才能のある者が、その政務を助けた事で、この時代は、おおむね平和な、いわゆる王朝文化華やかなりし時代となっており、

一条天皇自身も、「我、人を得たる事、延喜・天暦にも越えたり」と、世に『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)と賞賛される醍醐・村上両天皇の治世時代の平穏に自らの時代を重ね合わせる事もあったとか・・・

が、しかし・・・
ただ一つの気がかりが・・・

それが、一人の天皇に二人の皇后というややこしい現実・・・

実は、この一条天皇は元服してまもなく、藤原定子(ていし・さだこ)という女性を中宮に迎えていて、二人の間には、敦康(あつやす)親王という男の子が生まれているのですが、この定子のお父さんは、すでに亡くなっている道隆・・・つまり、すでに彼女に後ろ盾はないわけで、

しかも、彼女の兄が、先ほどの花山天皇相手に起こした事件で失脚したショックで出家し、いち時、後宮(天皇の大奥みたいな感じのとこです)を離れていた時期があった・・・

で、その時期に、チャンスとばかりに、時の権力者=道長が、自らの娘=彰子(しょうし・あきこ)を後宮に送り込んでいたわけですが、やはり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、結局、定子は呼び戻されて、再び後宮に入る・・・

道長は、なんとか一条天皇に、娘=彰子のもとへ通ってもらえるよう、書籍好きな天皇のために、彰子の部屋を、まるで図書館のような本だらけの部屋にしたりなんぞしますが、やっぱり一条天皇が大好きなのは定子のほう・・・で、そうこうしてる間に、天皇&定子の間に先ほどの敦康親王が生まれちゃうわけで、

慌てて、道長は、自らの権力をフル回転させて、娘=彰子を皇后、定子を皇后宮(号は二人とも中宮)って事にして一件落着させたのです(1月25日に後半部分参照>>)

ちなみに、上記のページでもお話しましたが、
この時の、定子の家庭教師だったのが清少納言(せいしょうなごん)で、彰子の家庭教師だったのが紫式部(むらさきしきぶ)・・・ただし、よくライバル視される清少納言と紫式部ですが、二人が同時に宮中で働いた事はなく、清少納言が宮中を去った5年後に紫式部が家庭教師に採用されていますので、たぶん、面識は無かったと思われます。

・・・で、このように、面識の無い家庭教師同志がライバル的存在だったように錯覚してしまうくらい、一条天皇を巡る定子と彰子の関係は微妙だったわけですが・・・

そんな中、もともと、体があまり丈夫では無かった一条天皇が、寛弘八年(1011年)5月、病に伏せってしまいます。

当然、そこには後継者問題が生じる事になるのですが、次期天皇としては、すでに一条天皇が即位した時に、一条天皇の叔父で第63代の冷泉(れいぜい)天皇の皇子=居貞(おきさだ)親王が皇太子となっているので問題無し・・・

焦点は、その居貞親王が即位する時に立てねばならない皇太子・・・そう、先ほどの定子との間に生まれた敦康親王以外に、一条天皇には彰子との間に敦成(あつひら)親王をもうけています。

先ほどから書いてます通り、定子が好きで好きでたまらない一条天皇は、その子供である敦康親王を皇太子にしたいわけですが・・・

悩んだ一条天皇は、信頼する側近の藤原行成(ゆきなり・こうぜい)に相談します。

すると行成は
「お気持ちはわかりますけど、やっぱ、それはできまへんやろ。。。
皇統を継ぐっちゅーのは、正嫡やどうかとか、帝の寵愛がどうかとかではなく、外戚がいかに重要な人物であるかどうかですわ」

と・・・

敦康親王の母である定子は、すでに 長保二年(1001年)に亡くなっており、この時の敦康親王には外戚どころか、母さえいない状態・・・敦成親王の母=彰子は、もちろん健在ですし、なんたって、その父親が、今をときめく道長ですから・・・

もう、答えは決まっていました。

かくして寛弘八年(1011年)6月13日一条天皇は居貞親王=三条天皇に譲位し、皇太子を敦成親王と定めたのです。

すでに病が悪化していたのか?
それとも、この悲しい決断が、そのお心に圧し掛かったのか?

一条天皇は、この譲位から、わずか9日後の6月22日に、32歳の若さでこの世を去ります。

やがて、その5年後、三条天皇は、皇太子の敦成親王に譲位・・・これが、第68代後一条天皇で、この時、自らの孫を天皇にした道長は
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば♪

という、勝利の歌を詠む事になります(10月16日参照>>)

まぁ、そんな道長にも、ただ一つの気がかりがあったわけですが・・・そのお話は【道長の息子・藤原顕信の出家】でどうぞ>>
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2013年6月11日 (火)

明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…

天正十年(1582年)6月11日、去る2日に本能寺の変を起こした明智光秀洞ヶ峠に着陣し、2年後の天正十二年(1584年)6月11日、長宗我部元親讃岐十河城を攻略しました。

・・・・・・・・・・

すでに、この日づけで、洞ヶ峠の話(2007年6月11日参照>>)や、光秀のチマキの話(2009年6月11日参照>>)などを書かせていただいてるのですが・・・

なんだかんだで奇しくも同じ日づけ・・・という事で、今回は、本能寺の変における明智光秀(あけちみつひで)と長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の関係について・・・

と言いましても、戦国最大の謎として様々に語られる本能寺の変ですので、
★本能寺の変関係のページ
本能寺・前夜>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>

この説も、以前から散々語られていて、皆さまご存じの事と思いますが、とりあえず・・・

そう、未だ謎とされる光秀謀反の原因が、当時、四国統一を目指して転戦中の元親にあるのではないか??という説で、もちろん、その二人の間に立つのは、光秀の重臣=斉藤利三(さいとうとしみつ・としかず)です。

Saitoutosimitu600 『改正三河後風土記』には、かつて稲葉家の家臣であった利三が、光秀に仕えた事に怒って、稲葉家へ戻して切腹するように申し渡した織田信長に対して、光秀が
「1度ならず、2度までも離反するのは、稲葉家の彼に対する処遇にも問題あるんちゃいますん?
絶対に稲葉家には渡しません!」

とキッパリ言い放ったところ、ますます怒った信長が、手に持った扇で光秀をボコボコに・・・

これを、そばで見ていた羽柴(後の豊臣)秀吉が、
「ウチの殿さんは、気ぃ荒い人やさかい、なんぼ頑張って大国を切り取って来ても、一つ、文句言うた事で命取られる事があるかも知れんよって、気ぃつけなあきまへんで…」
と言った・・・なんて事件があり、これが、謀反の原因となったと記されています。

まぁ、私個人的には、信長さんのパワハラエピソードは、ほとんど後世の噂話的創作なんじゃないかと思ってますが、少なくとも、そんな話が噂されるほど、光秀は利三という家臣を大事にしていたわけで・・・

なんせ、一説には、「利三の母は光秀の妹」(徳川実記)なんて話もあるくらいですから・・・

そんな利三の妹の嫁ぎ先が長宗我部元親・・・さらに、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の娘も、元親の長男=信親(のぶちか)の正室になっています。

かなり濃い姻戚関係・・・

・・・で、利三にとって、どうしても守りたい長宗我部の前に危機が迫っていたのが、本能寺の変の起こる天正十年(1582年)6月・・・

以前、元親の阿波平定のページで書かせていただいたように(9月21日の前半部分参照>>)、はじめは、元親の四国統一を認めていた信長が、途中からストップをかけはじめ、それに反発した元親を攻めるつもりで、信長は自らの三男=神戸信孝(かんべのぶたか)に重臣・丹羽長秀(にわながひで)をつけて四国に送り込もうとしていた・・・その準備が整い、今、まさに出陣しようとしていたのが、その6月だったのです。

『長宗我部元親記』には、「信孝の出陣直前となって元親の事を心配する利三を見て、光秀は謀反を決意した」なんて事も書かれています。

また、今回の光秀謀反の中で、利三がいかに重要人物であったかを知る手掛かりとしては・・・

たとえば、公卿=山科言経(やましなときつね)の日記では、
斉藤蔵助(利三)、今度(このたび)、謀反随一也(ずいいちなり)としていますし、

茶人=津田宗及(つだそうぎゅう)『宗及茶湯日記他会記』でも、亡き信長の弔い合戦となった山崎の戦い(6月13日参照>>)の後に、近江(滋賀県)堅田(かただ)で捕縛された利三が、京都六条河原で処刑される際、普通の斬首ではなく、車裂(くるまざき)という残虐な刑で処刑された事が書かれています。

つまり、これらの記述を見る限り、今回の謀反に、利三が単に家臣として従ったのではなく、むしろ積極的に関わる、あるいは、利三こそが中心となっていたのではないか?という事を想像させるわけです。

また、その後の展開としては・・・
合戦で生き残った頼辰は、この後、長宗我部に仕え、娘婿である信親とともに、信長に代わって四国を手に入れた秀吉の九州征伐=戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)で戦死しています。

さらに、処刑された利三の娘が、ご存じ春日局(かすがのつぼね=福)(10月10日参照>>)ですが、彼女も、土佐(高知県)に身を寄せるなど、多くの縁者が土佐に落ち延びた事を考えると、やはり、事前に何かしらの連絡をつけており、クーデター成功のあかつきには、元親が上洛して光秀に協力する・・・なんてダンドリになっていたのかも・・・

あくまで、一つの推測の説ですが・・・
 .

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2013年6月 9日 (日)

南朝挽回?足利直冬と山名時氏・師氏の談合

 

正平八年・文和二年(1353年)6月9日、北朝から南朝に転じた山名師氏らが京都に進入しました。

・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)京都を制圧して(6月30日参照>>)開いた室町幕府が北朝・・・(8月15日参照>>)

尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野にて開いたのが南朝・・・(12月21日参照>>)

以来、半世紀に渡る南北朝の動乱の時代ですが・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

その間、京都を制圧し続けていた北朝が、おおむね有利な展開を進めていた中、将軍・尊氏の右腕だった弟の直義(ただよし)とのトラブルにより観応の擾乱(じょうらん)(10月29日参照>>)という北朝内での動乱が勃発・・・

直義を討伐するために関東に向かった尊氏は、ほどなく直義を制圧するものの、これをチャンスと見た亡き新田義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが挙兵(2月20日参照>>) ・・・

関東にて転戦し、それらを何とか押さえる尊氏でした(2月28日参照>>)が、そんな尊氏留守の間の京都をすかさず狙って来たのが、今は亡き後醍醐天皇の後を継いでいる皇子=後村上(ごむらかみ)天皇・・・

父の留守を守っていた尊氏の息子・義詮(よしあきら)が、時間稼ぎで打診して来たかりそめの講和を逆手にとって、正平七年・文和元年(1352年)3月、完全武装で京都に乗り込みます。

これに、一旦は近江(滋賀県)へと退いた義詮でしたが、なんとか挽回・・・後村上天皇は、北朝3代の崇光(すこう)天皇をはじめとする歴代の北朝の天皇を拉致して八幡山(京都府八幡市)に籠りますが、大軍となった室町幕府軍に囲まれ、あえなく吉野へと脱出・・・(3月24日参照>>)

・・・と、八幡合戦と呼ばれるこの戦いに何とか勝利した北朝ですが、上記の通り、北朝の現役&歴代天皇全員を吉野に拉致されてしまった事で、正平七年・文和元年(1352年)8月27日、神器なし指名なしのままで後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)を即位させたのでした。

一方、幕府側には、この八幡合戦で武功を挙げた山名師氏(もろうじ)という武将がおりました。

彼は、その武功による恩賞の件を、幕府の有力者である佐々木道誉(どうよ)に頼んでいたのですが、その返事がいっこうに来ないどころか、状況を聞きにいっても「今日は連歌会だ」「明日は茶会だ」と言っては数時間も待たされて、面会すらしてもらえませんでした。

この仕打ちに
「身分は低いかも知れんけど、俺かて将軍一門のはしくれ…あまりにヒドイ扱いやないかい!」
と、怒り爆発の師氏は、領国の伯耆(ほうき=鳥取県)戻ると、父の山名時氏(ときうじ)とともに南朝方へと転身して挙兵・・・南朝軍と連合して、ともに京都に向かって進攻を開始しました。

一方の幕府・・・未だ尊氏は鎌倉にあり、義詮の守る京都は手薄でした。

やむなく義詮は、後光厳天皇を東坂本(滋賀県)に避難させ、少数ながらも防戦体制に入ります。

かくして正平八年・文和二年(1353年)6月9日、陽が昇ったばかりの早朝6時・・・互いに呼応した南朝軍と山名軍が京都に進入して来ます。

何とか奮戦するものの、やはり多勢に無勢・・・しかも、誘導作戦に引っ掛かり、多大な損失を出してしまった幕府軍・・・

やむなく義詮は自らも東坂本に退却し、更なる安全のために、後光厳天皇を美濃(岐阜県)垂井(たるい)まで逃走させます。

こうして、京都を制圧した南朝&山名連合軍ではありましたが、ほどなく、「美濃に落ちた幕府軍のもとに続々と援軍が集まっている」との噂が入って来ます。

しかも、自軍の兵士たちが次々と減って・・・実は、彼らの兵士は、ほとんど伯耆から連れて来た兵士で、長期に渡る遠征に疲れて脱落する者があとを絶たなかったのです。

向こうには続々と援軍が・・・コチラは兵士が激減・・・

この状況に、師氏らは、やむなく京都を後にし、伯耆に戻って態勢をを立て直す事に・・・

しかし、その後、まもなく・・・山名が去った京都に、あの尊氏が戻ってきます。

早速、尊氏は、息子=義詮に山名討伐を命じ、播磨(はりま=兵庫県西部)へと向かわせました。

この情報を聞きつけた山名軍・・・

Yamanatokiuzi600 父の時氏が
「敵に対抗するためには、コチラにも、誰か名のある武将を迎え入れ、その人物を大将として立てなければ、これ以上の援軍は望めない」
と提案・・・

その白羽の矢が立ったのが、尊氏の次男=足利直冬(ただふゆ)でした。

実は、先ほどから京都を守っている義詮は尊氏の三男なので直冬のほうがお兄さん・・・しかし、生まれた時から、なぜか尊氏は、正室の子では無い彼を息子として認知せず、いち時は飢え死にするほどの困窮だったのを、見るに見かねた尊氏の弟の直義が、彼を養子として迎え入れたという経緯がありました。

先に書いた通り、この直義は観応の擾乱で死に追いやられたわけで・・・その時も、直冬が上洛しようとするのを、尊氏側の武将に阻止されてしまっていましたし、育った経緯から見ても、実父の尊氏とうまくいって無かった事は、誰の目にも明らか・・・

そんな直冬が、九州にて勢力をのばし始めると、それも、尊氏側についた武将に攻められ、ここのところ安芸(あき=広島県)周防(すおう=山口県)のあたりを転々としていたのでした。

Asikagatadafuyu600 これは絶好の旗印となります。

密かに直冬に連絡をつける時氏・・・

しかし、直冬が尊氏と敵対する事になれば、子が父に背く罪を犯す事になり、後光厳天皇に弓引けば、臣下が主君に刃向かう罪になる・・・

そこで、直冬は、南朝の後村上天皇に連絡をつけ
「尊氏&義詮以下、反逆した臣下の者を退治せよ」
との勅書
(ちょくしょ=天皇の命令書)を求めたのです。

それがあれば、天の怒りも民の非難もない、堂々たる戦いとなります。

直冬の
「ただただ天皇のお心を安らかにしてさしあげたいのです」
の言い分に、当然の事ながら、速やかに、その申請通りの命令書を下す後村上天皇・・・

さぁ、再び、南朝の挽回があるのか???

この戦いが開始されるのは正平十年・文和四年(1355年)正月の事・・・続きお話は、2月4日【足利VS山名~南北朝・神南合戦】でどうぞ>>
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2013年6月 6日 (木)

条約改正に尽力した「電気通信の父」…寺島宗則

明治二十六年(1893年)6月6日、「電気通信の父」と呼ばれる薩摩藩出身の政治家・寺島宗則が死去しました。

・・・・・・・・

天保三年(1832年)に薩摩(鹿児島県西部)の郷士・長野成宗の次男として生まれた寺島宗則(てらしまむねのり)は、後継ぎがいなかった父の兄=松木宗保の養子となり、その後を継ぐ事になりますが、その叔父さん=宗保が医者だった事で、弘化二年(1845年)に江戸へ出て、蘭方医の戸塚静海(せいかい)蘭方を、古賀勤堂(きんどう)儒学を、伊東玄朴(げんぼく)蘭学を・・・などなど、幅広い学問を学ぶチャンスに恵まれます。

Terasimamunenori350 特に蘭学では医学に留まらず、兵学・天文学・化学・物理学・造船技術など、幼い頃から優秀の誉れ高かった宗則は、どんどん吸収していきます。

やがて帰郷し、松木弘安(こうあん=弘庵)の名で医師として活動しますが、嘉永四年(1851年)に、島津斉彬(しまづなりあきら)が第11代の薩摩藩主になると、宗則の才能を高く評価していた斉彬は、彼を主治医とするだけでなく、自らが推進している集成館事業(しゅうせいかんじぎょう=様式産業を推進する事業)の一員に加えて、製鉄や造船をはじめ、大砲製造から洋式帆船の建造、食品製造やガス灯の実験など、様々な試作品の研究に当たらせるのです。

特に、斉彬が興味を示したのが電信・・・以前、その日づけで書かせていただきました通り(2月24日参照>>)、これは、あのペリーが2度目に来日した安政元年(1854年)に、その手土産として持って来た有線電信機の実験を行ったのが日本で最初なわけですが、

斉彬は、早くも、その2年後の安政三年(1856年)には、江戸の薩摩藩邸で実験を行い、翌年には、参勤交代で帰国した薩摩でも、城の本丸と二の丸の間に約500mの電線を引いての実験に成功しています。

この実験に宗則が関わったという記録はありませんが、当時は上記の通り、藩主の命により集成館事業の研究に当たっていたわけですから、おそらく、何かしらの役どころをこなしていた事でしょう。

また、語学も堪能だった宗則は、文久二年(1862年)に派遣された文久遣欧使節(1月22日参照>>)にも、医師兼通訳として同行・・・「外国をその目で直接見る」というチャンスにも恵まれました。

しかし、翌文久三年(1863年)に勃発した薩英戦争(7月2日参照>>)では、残念ながら、捕まって敵の捕虜に・・・と言いたいところですが・・・

なんか、ここまで見て来た限り・・・
たまたま後継ぎがいなかった叔父さんが医者で、思う存分蘭学などを学べた事、
勉学を修めて故郷に戻ったところで、革新的な斉彬が藩主になる事・・・などなど、

何やら宗則さんは強運に恵まれてる感満載なのですが、やはりここでも・・・

そう、敵に捕まって捕虜になった事で、「様式の軍隊がいかなるものか」を直で見る事ができ、それを見事に吸収したのです。

戦後には、薩摩藩がイギリスに派遣した薩摩藩遣英使節団(さつまはんけんえいしせつだん)の一人にも選ばれ、またまた、ナマのヨーロッパを見る機会を与えられたばかりでなく、そこでの経験が、帰国後に厚くなる、薩摩とイギリスの友好関係を促進した事は言うまでもありません。

そんなこんなで迎えた明治維新・・・

明治元年(1868年)に、神奈川県知事となっていた宗則は、「国営か?民営か?」はたまた「外国を参入させるのか?させないのか?」と意見が分かれていた電信事業に対し
「公共性と国益を重視し、東京⇔横浜間に国営で電信を敷設すべき」の建議書を提出し、それを認めさせました。

なんせ、この頃の横浜は、国際貿易都市として日々発展している場所でありましたから・・・

明治四年(1671年)には、長崎⇔上海間と長崎⇔ウラジオストック間の海底線が開通して、外国との電信業務が始まりますが、この時に、関連する外国の電信会社との交渉を、日本が有利な形で結実させたのも、すでにこの時には、外務大輔(がいむだゆう=現在の外務次官)となっていた宗則でした。

なので「電気通信の父」と呼ばれます。

一方、その電気通信事業とともに尽力していたのが、あの不平等条約の改正です。

明治六年(1873年)には参議兼外務大臣となった宗則は、外国人との様々な交渉を通訳無しでやってのけますが、アメリカとの交渉はなかなか良好だったものの、イギリスなど、ヨーロッパとの交渉はなかなか進まず・・・

なんせ、この頃は、「大臣=政治家」「駐在外交官=官僚」に明確な区別がなく、宗則とともに幕末維新の動乱を駆け抜けた同僚が駐在大使を務めていた事もあって、大臣である宗則の意見に、外交官が度々反発するという事が起こっていたのです。

結局、最後には、志半ばで大臣の職を去る事になった宗則ですが、その思いは、あの陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)(8月24日参照>>)に引き継がれる事になります。

明治二十一年(1888年)には、憲法草案を審議する枢密院の副議長に就任し、今度は海外ではなく、国民のために、国民を無視する政府に対して「民の情況に応じて政策を進めるべき」との意見を発表し、その実現に向かって 奔走しますが、この頃から持病の肺病が悪化・・・

しかし、それでも、病床から、かの条約改正問題について、国民のための政治について、の意見書を提出していたと言いますが、明治二十六年(1893年)6月6日、肺病とともに結核にも冒され、61歳の生涯を閉じたのです。

幕末維新の功労者には、生まれた藩、その立ち位置によって、自らの手腕を思う存分に発揮する事なく散っていった方々が、数多くいます。

先にも書きましたが、そんな人たちと比べると宗則さんはラッキーだったかも・・・いや、そのラッキーチャンスをモノにして成功を収めた人でしょう。

しかし、そんな彼であっても志半ば・・・長き人生を、信念を以って歩き続ける難しさを感じます。
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2013年6月 4日 (火)

徳川に2度勝った男…智将・真田昌幸

 

慶長十六年(1611年)6月4日、上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られる戦国時代の智将・真田昌幸が65年の生涯を終えました。

・・・・・・・・・・・

真田昌幸(さなだまさゆき)・・・最近は、あの真田幸村(ゆきむら=信繁)のお父さんと言ったほうが良いのでしょうか?

ゲームやら何やらで、その幸村があまりにも有名になった事で、ここのところのドラマなどでは、九度山を脱出して豊臣方として大坂の陣に参戦する幸村を、「スゴイ奴が味方になってくれた」的な雰囲気で、無双のヒーローのごとく迎え入れる感じがありますが、

実際には、その頃の幸村は、ずっと山に籠っていたままで、未だ実戦経験はほとんど無く、もし、豊臣方に大喜びで迎え入れられるとしたら、それはひとえに、このお父さんの七光・・・

「お父さんがスゴイから、きっと息子もスゴイんだろう」という期待感による物だった事でしょう。

Sanadamasayuki500 そんな昌幸さんの真田家は、その父である真田幸隆(ゆきたか=幸綱)が事実上の初代(5月19日参照>>)・・・その先の事は、諸説が入り乱れてはっきりしません。

一般的には、信濃(長野県)小県(ちいさがた)を発祥の地とする信濃の豪族・滋野(しげの)の一族で、関東管領被官だった海野(うんの)の末裔という事になってます。

しかし、周辺武将との戦いに敗れて、その海野氏とともに、信濃を追われて上野(こうずけ=群馬県)に亡命・・・そこで、関東管領の上杉を見限った幸隆は、甲斐(山梨県)武田信玄へと主君を変え、信玄のもとで活躍し(2月14日参照>>)て徐々に重用され、最後には武田二十四将の一人に数えられるほど、幸隆は出世するわけですが・・・

その時の主従関係の証である人質として信玄に差し出されたのが、幸隆の三男だった昌幸(当時は源五郎)・・・

この時、昌幸はわずか7歳だった言いますが、あの信玄には、すでにその才能が見えていたのでしょうか??まもなく、彼を小姓に抜擢します。

戦国屈指の武将である信玄の近臣として様々な事を学び経験する昌幸は、あの第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)で初陣を飾りますが、

なんと、その後、信玄の母の実家である大井氏の一族である武藤家の養子となります。

他国から来た人質に、平安時代からその地に根づく有力国衆の後を継がせる・・・信玄が、いかに昌幸に期待していたかがうかがえます。

その期待に応えるがのごとく、三方ヶ原(12月22日参照>>)など、複数の合戦に出陣して活躍し、信玄亡き後は、その後を継いだ武田勝頼(かつより)のもとで補佐的役割を果たす昌幸でしたが、ご存じ天正三年(1575年)の、あの長篠の戦い(5月21日参照>>)で、猛将の誉れ高い長兄=真田信綱(のぶつな)と次兄=真田昌輝(まさてる)同時に失っていまいます。

こうして、両兄を失くした事で武藤家を出て、真田家を継ぐ事になったものの、その後も、勝頼を支えて、敵対する北条氏と向き合い、天正八年(1580年)には北条方に属する沼田城(ぬまたじょう=群馬県沼田市)を奪い取りますが、残念ながら天正十年(1582年)3月、肝心の武田が滅亡してしまいます(3月11日参照>>)

この時には、北条氏からも
「ウチにけぇへんか??」
というお誘いを受けたようですが、昌幸は、今後、滅亡で宙に浮いた武田の領地を制するのは織田信長に違いないと考え、織田家の傘下となります。

ところがドッコイ!!

ご存じのように、その3ヶ月後に信長は本能寺の変でお亡くなりに(6月2日参照>>)・・・しかも、信長傘下になった時に昌幸の直属の上司となった滝川一益(たきがわかずます)が、すぐ後の神流川の戦い(6月18日参照>>)で北条に敗れる・・・

本来なら、このゴタゴタの間に、真田の本拠地を以って独立したい昌幸ではありましたが、信長の死でこれまた宙に浮いた武田の旧領地を三河(愛知県東部)徳川家康相模(神奈川県)北条氏直越後(新潟県)上杉景勝らが狙う狙う・・・

さすがに、今の真田に、この三大名を3人とも相手にする事は不可能・・・で、やむなく、一旦、北条の傘下となって生き残りを計る昌幸は、その北条に命により、川中島へ進攻・・・

当然、それを防ぐべく上杉が登場すると、そこに、北条と抗戦中の家康が介入・・・

家康が、真田の本領である小県と沼田の安堵とともにプラスαの好条件を提示した事や、弟の真田信尹(のぶただ)が以前から徳川方についていた事などから、わずか2ヶ月後に、今度は徳川方に参入する昌幸・・・

そうと決めたら行動が素早い昌幸は、早速、家康と抗戦中の北条勢が陣取る碓氷(うすい)を攻撃して孤立させます。

おかげで、北条はやむなく、家康と和睦して撤退・・・この功により、沼田城岩櫃城(いわびつじょう群馬県吾妻郡東吾妻町)戸石城(といしじょう=砥石城・長野県上田市上野)を得たうえに、もともとの小県や真田郷をも維持でき、何とか小大名として生き残る事に成功しました。

その後、天正十一年(1583年)の春ごろからは、後に真田を代表する城となる上田城の築城にとりかかる昌幸・・・

しかしここで、北条と和睦を結んだ家康が、
「昔、北条から奪った君の領地、返したってぇな」
と迫って来る・・・

「そんなんイヤじゃ」
と拒否する昌幸は、息子の弁丸=幸村を上杉の人質に差し出して協力を要請・・・これにブチ切れた家康が、未完成の上田城に攻撃を仕掛けたのが、第1次上田合戦=神川の戦い(8月2日参照>>)です。

ここで籠城作戦に出て家康を翻弄しているうちに、徳川の重臣・石川数正(いしかわかずまさ)が出奔して豊臣秀吉側に走った事で、結局、家康は上田城を落とす事無く撤退・・・

これをキッカケに、昌幸は、息子・幸村を上杉から秀吉の人質へと変更して、秀吉の傘下となり、その厚遇を得て、所領を守り抜いたのです。

・・・で、ご存じのように、この時のゴタゴタが尾を引いて、昌幸傘下の名胡桃城(なぐるみじょう)を北条側が攻撃した(10月23日参照>>)事により、あの小田原征伐(4月2日参照>>)が始まる事になるのですが・・・

・・・と、まぁ、ここまで、あっちに着いたりこっちに着いたり・・・めまぐるしく主君を変える昌幸ですが、これもひとえに、大物に睨まれた弱小大名が生き残らんがための策・・・

あっちこっち揺れるのも、ポリシーが無いからなのではなく、ただ一つ「真田の残すため」という一つのポリシーのためなのですから、結果を見れば大成功なわけで、そこが、昌幸が智将・謀将と言われる所以なのです。

こうして、秀吉傘下となった昌幸は、先の小田原征伐をはじめ、朝鮮出兵においても九州の名護屋城(なごやじょう=佐賀県)まで出陣し、伏見城の構築にも普請役として腕をふるいました。

そんな昌幸の最後の戦いとなったのが第2次上田合戦・・・ご存じ、あの関ヶ原の戦いの時の合戦です。

この時、家康の会津征伐に従軍しようとしていた昌幸は、途中で石田三成(いしだみつなり)からの書状を受け取り、協議の末、自分と、次男の幸村が西軍に、長男の信幸(のぶゆき=信之)が東軍につく事を決定し、親兄弟で袂を分かつ事になります(7月21日参照>>)

その後、中山道を西へとやってきた家康の三男=徳川秀忠を相手に籠城戦を展開(2010年9月7日参照>>)・・・東軍で最も多くの兵を率いていた秀忠が、肝心の関ヶ原に間に合わないという状況に追い込んだのです(2011年9月7日参照>>)

が、しかし・・・本チャンの関ヶ原で西軍が負けてしまった以上、昌幸も敗者・・・東軍についた信幸の必死の嘆願のおかげで死刑は免れたものの、次男=幸村とともに、紀州(和歌山県)高野山への追放という処分になってしまいます。

もちろん、昌幸としては、そのまま城を開け渡す気など毛頭なく、上田城に籠城して家康と一戦構える覚悟だったようですが、自らの領地がソックリそのまま東軍についた息子=信幸に引き継がれる事を知って、素直に処分を受ける事になったと言います。

やがて、高野山から九度山に移りますが、そこでの生活は、ほとんど信幸からの仕送りに頼りっぱなし・・・金銭面では苦労が絶えない生活となっていました。

以前、高野山への配流となった日づけでのページにも書かせていただいたように(12月13日参照>>)、いつか許されて普通の生活ができる事を夢見ながらも、晩年は、どんどん気弱になっていった昌幸・・・ 慶長十六年(1611年)6月4日、配流の身として17年間過ごした九度山にて、65年の生涯を閉じたのです。

徳川に2度勝った男=昌幸・・・ここで父を看取った幸村が、3度目の徳川撃退を夢見て九度山を脱出するのは、昌幸の死から3年後の慶長十九年(1614年)の事でした(10月9日参照>>)
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2013年6月 2日 (日)

明治新政府のモデルとなった藩政改革…津田出

 

明治三十八年(1905年)6月2日、幕末の紀州藩にて藩政改革に尽力し、明治新政府にも影響を与えた津田出が74歳で死去しました。

・・・・・・・・・

南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)(’5月25日参照>>)の三男=楠木正儀(まさのり)の末裔とされる津田家は、もともと北河内(大阪府北部)津田城を居城としていましたが、戦国の動乱で紀州に移り、その後、ご存じのように、徳川家康の十男の徳川頼宣(よりのぶ)紀州に入って、いわゆる御三家の一つとなるにつれ、津田家も、地元武士として紀州藩に仕えるようになったと言います。

Dscn4449a900 津田城跡(大阪府枚方市)

本日の主役=津田出(つだいずる)が誕生するのは、天保三年(1832年)・・・20歳を過ぎた頃に江戸に出て蘭学を学び、帰郷してからは、藩士たちに蘭学を教える立場となります。

その後、安政四年(1858年)に第14代藩主に就任した徳川茂承(もちつぐ)が、早くから彼の才覚を見抜いていた事から、何かと重用されるのですが、この頃から病気がちになり、家督を弟に譲って、第1線からは離れました。

Tudaizuru200 しかし、時代が彼を呼び戻します。

慶応二年(1866年)7月、35歳になっていた出は、お留守となった藩主に代わって、領国の政務を任される事になるのです。

そうです・・・この年の6月から、あの第2次長州征伐四境戦争が始まっていて(6月8日参照>>)、藩主の茂承はその先鋒総督に任命されて出陣・・・しかも、そこで、戦場を駆け巡る奇兵隊などの姿を目の当たりにしていたのです。

ご存じのように、この第2次長州征伐では、奇兵隊などの農民兵による、動きやすい軽装の軍服に最新鋭の銃を装備したゲリラ的戦い方に、幕府側の紀州藩は痛い目に遭っていた(7月15日参照>>)わけで・・・

結果的には、第14代将軍=徳川家茂(いえもち)の死を以って幕引き(7月20日参照>>)となる長州征伐ですが、戦況としては完全に敗北の雰囲気だったわけで・・・

翌年、紀州へと帰国した茂承は、早速、出を国政改革制度取調総裁に任命し、かねてより出が考えていた改革に賛同し、それを推し進めるよう、方向転換させたのです。

その出の考えていた改革というのが、武士の制度を廃止して、全員を百姓にしてしまい、彼らに洋式訓練をさせて、領国の防衛にあたらせるという、まるでヨーロッパの国を思わせるほどの革命的なもの・・・

しかし、それは、ほどなく、藩内の保守派の抵抗に遭い、逆に、出はその地位を追われ、蟄居(ちっきょ=自宅謹慎)処分となってしまいます。

とは言え、そんな保守派の抵抗が長く続かない事は、皆さまもご存じの通り・・・

鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)に始まって江戸城無血開城(3月14日参照>>)から北越&東北へと移行した戊辰戦争がほぼ終結(9月22日参照>>)、慶応四年(1868年)から明治元年に改元された11月・・・出は、茂承から藩政改革の全権を任される形で復帰し、「今度こそ!」とばかりに、改革を断行するのです。

まずは藩主&藩士の家録(給料)の大幅削減にはじまり、そのために仕事を失くした藩士の農業・商業・工業への転職の推進・・・

しかし、一方で、藩の最高機関として「政治府」を置き、逆に、そこには能力次第では、充分に手腕を発揮できる道も用意しました。

領国各地には、郡ごとに民政局」を置き、中央(いわゆる県庁所在地)との連絡を密接に取りつつ細かな事にも対応・・・さらに、学校の制度も整えます。

また、「開物局」という通商に関する機関を置き、洋式の技術や洋式の機械を導入する事によって皮革業などの新しい産業を展開しました。

軍制度に関しては、『交代兵取立之制』という、「武士や農民を問わず、20歳に達した青年たちから選抜した者を交代制で」という志願兵に似た形で採用する物・・・

さらに、明治二年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)で、和歌山藩大参事となった出は、プロセイン王国から下士官のカール・ケッペンを招いて、ドイツ式の軍制改革を行いますが、そこでは、陸軍と海軍にわけた軍隊に、傷病兵士のための病院を設置・・・軍務局を頂点にした階級制度も、しっかり決められました。

さらに、先の『交代兵取立之制』を廃止し、『兵賦略則(へいふりゃくそく)を布告しますが、これこそ、後に明治新政府が実施する、四民平等・国民皆兵の徴兵制でした。

やがて訪れた明治四年(1871年)の廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)の後、出は、中央政府に呼び出され、大蔵省輔に抜擢されるのです。

彼を呼び出したのは、あの西郷隆盛(さいごうたかもり)・・・和歌山県の見事な改革を耳にした隆盛が、「我々は津田先生のあとについて行きます」とまで言って呼び寄せたのです。

つまり、明治新政府は、これからの進む道、政府の青写真を描ける人物が欲しかったのですね。

なんせ、その軍制改革は徴兵制のお手本となり、藩政改革は、その廃藩置県のお手本となったのですから・・・

こうして、大蔵省会計監督局から陸軍に移り、少将となった出ですが・・・そのワリには、(失礼ながら)津田出さんというお名前、あまり聞きませんよね?

実は、これほどの才能を持ちながら、この後は、その手腕を思う存分発揮できる役職につけなかったのです。

それには、中央政府にて活躍している紀州藩の出身者が、あの陸奥宗光(むつむねみつ・伊達小次郎)(8月24日参照>>)くらいしかいなかった事・・・結局、その陸軍でもデスクワークばかりで、どこかの司令官に任命される事もありませんでした。

明治二十三年(1890年)には貴族院議員にもなりましたが、やはり薩長藩閥政府の中ではその力を振るうことは難しかったのでしょう。

「このまま、彼の才能を埋もれさせてはならぬ!」と中央へ引っ張ってくれた西郷隆盛が、あの西南戦争で散ってしまった(9月24日参照>>)事も大きかった・・・

途中、明治十八年(1885年)には、日本初の乳牛ホルスタイン種を導入して千葉と茨城にまたがる広大な土地でアメリカ式の農法を試みますが、それも、政界では発揮できない自らの才能を発揮する場所を求めていたのかも知れません。

明治三十八年(1905年)6月2日74歳でこの世を去る津田出・・・そんなこんなで、あまり知られてはいませんが、実はスゴイ人なのです。

彼がいなければ、新政府による廃藩置県や国民皆兵が、もう何年か遅れ、見事な文明開化とは行かなかったかも知れないのですから・・・
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