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2013年6月11日 (火)

明智光秀と斉藤利三と長宗我部元親と…

天正十年(1582年)6月11日、去る2日に本能寺の変を起こした明智光秀洞ヶ峠に着陣し、2年後の天正十二年(1584年)6月11日、長宗我部元親讃岐十河城を攻略しました。

・・・・・・・・・・

すでに、この日づけで、洞ヶ峠の話(2007年6月11日参照>>)や、光秀のチマキの話(2009年6月11日参照>>)などを書かせていただいてるのですが・・・

なんだかんだで奇しくも同じ日づけ・・・という事で、今回は、本能寺の変における明智光秀(あけちみつひで)と長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の関係について・・・

と言いましても、戦国最大の謎として様々に語られる本能寺の変ですので、
★本能寺の変関係のページ
本能寺・前夜>>
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>

この説も、以前から散々語られていて、皆さまご存じの事と思いますが、とりあえず・・・

そう、未だ謎とされる光秀謀反の原因が、当時、四国統一を目指して転戦中の元親にあるのではないか??という説で、もちろん、その二人の間に立つのは、光秀の重臣=斉藤利三(さいとうとしみつ・としかず)です。

Saitoutosimitu600 『改正三河後風土記』には、かつて稲葉家の家臣であった利三が、光秀に仕えた事に怒って、稲葉家へ戻して切腹するように申し渡した織田信長に対して、光秀が
「1度ならず、2度までも離反するのは、稲葉家の彼に対する処遇にも問題あるんちゃいますん?
絶対に稲葉家には渡しません!」

とキッパリ言い放ったところ、ますます怒った信長が、手に持った扇で光秀をボコボコに・・・

これを、そばで見ていた羽柴(後の豊臣)秀吉が、
「ウチの殿さんは、気ぃ荒い人やさかい、なんぼ頑張って大国を切り取って来ても、一つ、文句言うた事で命取られる事があるかも知れんよって、気ぃつけなあきまへんで…」
と言った・・・なんて事件があり、これが、謀反の原因となったと記されています。

まぁ、私個人的には、信長さんのパワハラエピソードは、ほとんど後世の噂話的創作なんじゃないかと思ってますが、少なくとも、そんな話が噂されるほど、光秀は利三という家臣を大事にしていたわけで・・・

なんせ、一説には、「利三の母は光秀の妹」(徳川実記)なんて話もあるくらいですから・・・

そんな利三の妹の嫁ぎ先が長宗我部元親・・・さらに、利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の娘も、元親の長男=信親(のぶちか)の正室になっています。

かなり濃い姻戚関係・・・

・・・で、利三にとって、どうしても守りたい長宗我部の前に危機が迫っていたのが、本能寺の変の起こる天正十年(1582年)6月・・・

以前、元親の阿波平定のページで書かせていただいたように(9月21日の前半部分参照>>)、はじめは、元親の四国統一を認めていた信長が、途中からストップをかけはじめ、それに反発した元親を攻めるつもりで、信長は自らの三男=神戸信孝(かんべのぶたか)に重臣・丹羽長秀(にわながひで)をつけて四国に送り込もうとしていた・・・その準備が整い、今、まさに出陣しようとしていたのが、その6月だったのです。

『長宗我部元親記』には、「信孝の出陣直前となって元親の事を心配する利三を見て、光秀は謀反を決意した」なんて事も書かれています。

また、今回の光秀謀反の中で、利三がいかに重要人物であったかを知る手掛かりとしては・・・

たとえば、公卿=山科言経(やましなときつね)の日記では、
斉藤蔵助(利三)、今度(このたび)、謀反随一也(ずいいちなり)としていますし、

茶人=津田宗及(つだそうぎゅう)『宗及茶湯日記他会記』でも、亡き信長の弔い合戦となった山崎の戦い(6月13日参照>>)の後に、近江(滋賀県)堅田(かただ)で捕縛された利三が、京都六条河原で処刑される際、普通の斬首ではなく、車裂(くるまざき)という残虐な刑で処刑された事が書かれています。

つまり、これらの記述を見る限り、今回の謀反に、利三が単に家臣として従ったのではなく、むしろ積極的に関わる、あるいは、利三こそが中心となっていたのではないか?という事を想像させるわけです。

また、その後の展開としては・・・
合戦で生き残った頼辰は、この後、長宗我部に仕え、娘婿である信親とともに、信長に代わって四国を手に入れた秀吉の九州征伐=戸次川(へつぎがわ)の戦い(11月25日参照>>)で戦死しています。

さらに、処刑された利三の娘が、ご存じ春日局(かすがのつぼね=福)(10月10日参照>>)ですが、彼女も、土佐(高知県)に身を寄せるなど、多くの縁者が土佐に落ち延びた事を考えると、やはり、事前に何かしらの連絡をつけており、クーデター成功のあかつきには、元親が上洛して光秀に協力する・・・なんてダンドリになっていたのかも・・・

あくまで、一つの推測の説ですが・・・
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

一番好きな説です。
妄想ごころを刺激します。(*゚∀゚)=3 ムッハー!!
ただ、うまく妄想に嵌らないというか、何か足りないような気がするんですよね。
信長と利三を天秤に掛ける理由(母を犠牲にしてるのにいまさら?>「利三の母は光秀の妹」)とか、変後の行動とか。
もう少しネタがほしい。(熱望)

変前のおみくじとかは、けっこう嵌るんだけどなぁ。

>元親が上洛して光秀に協力する・・・なんてダンドリになっていたのかも・・・
実際のところ、内容はともかくとして、変のあとに元親と連絡を取っていたりするのでしょうか?

投稿: ことかね | 2013年6月13日 (木) 13時25分

ことかねさん、こんにちは~

>変のあとに元親と連絡を取っていたりするのでしょうか?

う~ん??
今のところ、そのような内容の書状なりを見た事が無いですね~
後世に書かれた憶測を含んだ内容の読み物では無く、まさにその時に連絡をとっていた的な書状が見つかれば、それこそ追い風となるのでしょうが…

投稿: 茶々 | 2013年6月13日 (木) 13時54分

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