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2013年7月23日 (火)

朝倉氏に仕えた盲目の剣豪・冨田勢源

 

永禄三年(1560年)7月23日、剣術・中条流の達人の冨田勢源が、斎藤義龍の命により梅津某と立ち会い、勝利しました。

・・・・・・・・・

本日の主役=冨田勢源(とだせいげん・富田勢厳)が継承する中条流平法(中條流平法)は、中条長秀を開祖とする短い太刀を使う剣術として名を馳せた流派です。

その4代めで、越前(福井県)朝倉氏の家臣だった冨田九郎左衛門長家(くろうざえもんながいえ)の次男として生まれた勢源でしたが、父の後を継いで5代めとなっていた兄が亡くなった事を受けて、6代めを継いだのです。

宮本武蔵の伝記である『二天記(にてんき)によれば、勢源は、あの佐々木小次郎(4月13日参照>>)の師匠って事になってますが、それだと、巌流島での決闘の時には、小次郎が70歳近い老人になってしまうため、カッコイイ決闘シーンをイメージしている武蔵ファンのサイドからは否定的な意見もあり・・・

Dscf1245pa1000 一乗谷朝倉氏遺跡:勢源の道場は、写真の一乗谷川を遡った朝倉氏遺跡の南端あたりに位置する神明神社の近くにあったとされます。
(朝倉氏遺跡については
2012年4月11日のページ>> でどうぞ)

とにもかくにも、当然の事ながら、勢源は小太刀の名人だったわけですが、30歳を過ぎた頃から眼病を患ってしまったために、家督と流儀を弟の景政に譲って出家・・・この時から勢源と号しました。

そんな勢源の最も有名な逸話が、永禄三年(1560年)7月23日に行われた梅津某との試合・・・

『冨田伝書』によれば・・・

この時、勢源は、主君にあたる朝倉義景(よしかげ)の叔父・朝倉成就坊(じょうじゅぼう)稲葉山城下(岐阜県岐阜市)に訪ね、しばらくの間、そのお屋敷に滞在しておりました。

当時の美濃(岐阜県)は、父・斎藤道三(どうさん)長良川で破った(4月20日参照>>)息子・斉藤義龍(よしたつ)が治める地・・・

・・・で、この勢源の滞在を知ったのが、その義龍の一族に剣術指南役として召し抱えられていた梅津某なる神道流の達人・・・

「小太刀の名人が城下にいる」
と聞けば、腕に覚えのある梅津は、その腕前を見てみたくてたまりません。

そこで、門弟を使いにやり、試合を申し込んでみたのですが、
「僕の腕前なんて、大した事おまへん…小太刀のワザを見たいんやったら、越前へ行きなはれ~
そもそも、中条流は他流試合は禁じられてますし…」

と、つれない返事。

この態度に腹を立てた梅津は、
「所詮、勢源なんか恐れるに足らんやっちゃ!
アイツの弟子かて、ワシには歯が立たんかったし…
なんせ、俺は、試合となったら、主君でも容赦せんよってになww」

との暴言を・・・

これに黙っていなかったのが、「容赦せん」と言われた国主の義龍・・・自分とこの剣士とは言え、「なんか腹立つ!!」と怒り心頭で、義龍自ら、勢源に試合を受けるよう要請するのです。

それでも、一旦は断わる勢源でしたが、結局は、「国主自らのたっての願い」いや、「命令」とあらば、受けないわけにはいかなくなってしまいました。

かくして永禄三年(1560年)7月23日、午前7時・・・場所は、検視役を務める事となった武藤淡路守の屋敷の庭先・・・

この日、梅津は、空色の小袖に木綿の袴を着用し、手には長さ三尺五寸(約1m強)の大きな木刀・・・その姿は、まるで「龍が空を飛び、虎が風に向かうよう」であったとか・・・

一方の勢源は、武藤家の屋敷に無造作に積んであった薪の中から、一尺2~3寸(約40cm)の割り木を手に取り、その持ち手の部分に皮を巻き・・・その着衣も、柳色のジミ~~な小袖に半袴。

それは、まるで「牡丹の花の下に眠る猫のよう」だったとか・・・

両者相対した雰囲気は、どう見ても、梅津の勝利・・・

しかも、おもむろに縁側から庭へと降りた勢源は、割木の小太刀を提げて構え、どうやら、相手の事がよく見えていない様子・・・そう、実は、この時の勢源は、もう、ほとんど失明の状態だったのです。

しかし・・・
仕掛けたのは、その勢源の方でした。

・・・と同時に声を挙げ、受けて立つ梅津・・・が、勝負は一瞬で決まりました。

互いに交わっただけに見えた両者でしたが、その一瞬のうちに梅津は顔の側面と二の腕を強打されて出血・・・

とは言え、梅津も達人・・・慌てて握り直した木刀で以って、勢源に打ちかかります。

それをヒラリとかわした勢源は、今度は右腕をスッコ~ンと・・・

たまらず前に倒れる梅津の手から木刀が転げ落ちると、勢源は、すかさず、その木刀を足で踏みつけで真っ二つにへし折りました。

それでもあきらめきれない梅津は、懐から脇差を抜いて斬りかかりますが、それをも、割木の小太刀で打ち据えた勢源・・・ここで、勝負あった!!

その後、真っ二つとなった梅津の木刀を手に、義龍の前に参上した武藤が、試合の様子をつぶさに伝えると、義龍は
「末代までの語り草にするゾ!」
と大喜び・・・

その褒美として、勢源に『鵝眼萬疋(ががんまんびき)』と『小袖一重(こそでひとかさね)』を与えると言います。

『鵝眼』とは現金の事で、『萬疋』とは「好きなだけ」・・・つまり、無制限の賞金を与えるって事だったのですが、当の勢源は、その申し出を丁重にお断りし、さっさと一乗谷に戻っていったのだとか・・・

カッコイイなぁ~~(* ̄ー ̄*)勢源さん・・・

まぁ、こういった剣豪の逸話は、どこまで本当の事か怪しい部分もあり、梅津某さんにとっては、「名誉棄損で訴えてやる!」的なお話なのかも知れませんが、今日のところは、そのカッコ良さにウットリしておく事にしましょう。
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんばんは。

まあ、剣豪同士は、宮本武蔵でも、勝負に諸説ありますから、茶々様のおっしゃる通りだと、思います。
一つのお話として、楽しみます。
ちなみに、最近の某歴史雑誌にも、この話はありました。
細部が違ってますけど。

投稿: エアバスA381 | 2013年7月23日 (火) 21時31分

エアバスA381さん、こんばんは~

剣豪の勝利話は、話半分という事で…

投稿: 茶々 | 2013年7月23日 (火) 23時12分

茶々さん、こんばんは。

先日は、三年も前のブログのコメントに
コメント頂ありがとうございました。
しかし、新発田重家なんて地域限定で
マイナーな武将を取り上げて頂き、
ありがとう御座いました。

剣豪と言えば、茶々さんはご存知かと思いますが、大分前にNHKテレビの宮本武蔵の番組で佐々木小次郎は豊前佐々木氏の一族ではないかと、言っていましたが越後佐々木氏の新発田重家とは親戚なんですね、驚きました。

富田勢源と関係のないコメントですみません。

投稿: 新発田重家 | 2013年7月24日 (水) 22時31分

新発田重家さん、こんばんは~

小次郎さんは、謎の多い人ですから…
以前の佐々木小次郎のページ>>でも書かせていただいてますが、六角義堅のご落胤説もありますからね~

正体不明なところが、また妄想をかきたてられる感じがします、

投稿: 茶々 | 2013年7月24日 (水) 23時53分

一千万アクセス おめでとう!

やったね!

投稿: 夏原の爺い | 2013年7月28日 (日) 02時53分

茶々さん、おはようございます。

アクセス数 一千万突破 おめでとうございます。

しかし、凄いですね!

先日、新発田重家を検索していて、茶々さんのブログを発見して、見させていただいていますが、今後もがんばって更新を続けてください。

投稿: 新発田重家 | 2013年7月28日 (日) 06時22分

夏原の爺いさん、ありがとうございますm(_ _)m

これからも、遊びに来てくださいませ。

投稿: 茶々 | 2013年7月28日 (日) 15時11分

新発田重家さん、ありがとうございますm(_ _)m

今後ともよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2013年7月28日 (日) 15時12分

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