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2013年7月16日 (火)

利家を…前田家を支えた良妻賢母・芳春院まつ

 

元和三年(1617年)7月16日、加賀の戦国大名・前田利家の奥さん・まつ=後に芳春院が、この世を去りました。

・・・・・・・・

歴史として語る時は芳春院(ほうしゅんいん)さんの方が一般的なのかも知れませんが、ご存じのように、それは夫の前田利家(としいえ)が亡くなってからの号なので、本日は、このページを通して「まつ」さんと呼ばせていただきます。

Matu600 そんな、まつさんは、織田家家臣の篠原主計(しのはらかずえ)の娘として天文十六年(1547年)、尾張国(愛知県西部)に生まれますが、まもなく、母親が高島直吉と再婚したため、高島氏の娘となります。

その再婚が関係あるのかないのか?・・・とにかく、彼女が4歳になった時に、母の姉にあたる女性の家族に引き取られて、そこで養育される事になります。

その母の姉という人が、織田家の家臣で、当時、尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主だった前田利昌(としまさ=利春)の奥さんで、二人の間に生まれていたのが、後に、まつの夫となる利家・・・つまり、まつと利家は従兄弟同志で、しかも、まつが4歳の時から、同じ屋根の下に暮らす間柄という事になります。

そんな利家とまつが結婚するのは永禄元年(1558年)・・・利家:21歳、まつ:12歳の初々しい新婚生活・・・とはいかなかった(>0<)

なんせ、この頃の利家は、未だ血気盛んな「かぶき者」・・・かぶき者とは「傾く=かぶく」から来た形容詞で、世間一般には収まらない奇抜な服装をして奇抜な行動をとる、やや古いですが、いわゆる「ツッパリ」「ヤンキー」みたいな不良少年の事を指すわけで、

この血気盛んな行動のために、利家は、結婚してまもなく職を失い、路頭に迷う事に・・・(12月25日参照>>)

この事件が、まつが長女を出産した前後の事なので、乳飲み子を抱えての夫の失業は、さそかし不安だった事でしょう。

とは言え、このまつさん・・・この夫のヤンキーぶりに嫌気がさしていたかというと、そうではなく、意外に、そんなヤンチャが好みのようで・・・

それは、前田家に家宝として伝わる「おそらくまつの手縫いに間違いない」と言われている利家の陣羽織のデザインが、これまた見事な「これぞ、かぶき者!」というデザインなのだそうです。

なので、おそらく、彼女の好みは、ちょうと不良っぽい男性で、ひょっとしたら、彼女自身もヤンママだった可能性も・・・しかし、それでいてしっかりと子育てするし、家庭を守るし、利家との間には10人もの子供をもうけるラブラブぶりだったわけですから、まさに良妻賢母!!

・・・と、そんな中、彼女は、女&母としての一大決心をします。

それは、天正二年(1574年)に二人の間に生まれていた四女・豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)を、親友のおね夫婦の養女とする事・・・

ご存じのように、このおね(ねね)は、あの豊臣秀吉の奥さんですが、まつとおねは、夫が同僚同志の友人にとどまらない、幼馴染の大親友で、むしろ、この奥さん同志が仲良かったから、旦那同志も仲良くなった的な雰囲気があります。

有名なところでは、秀吉とおねが結婚する際に、利家とまつが仲人になった(8月3日参照>>)というお話ですが、実は、利家とまつが結婚する際にも、おねが応援していたという話もあり、おそらくは、尾張清州の城下で、幼い頃から「なかよし」だったのでしょう。

とは言え、いくら仲よしでも、わずか2歳のわが娘を養女に出すのは、母親として胸が痛いもの・・・おそらくは、実子のいない秀吉&おね夫婦に望まれたのでしょうが、この頃は、近江(滋賀県)長浜城主として一国一城の主となった秀吉同様に、利家も府中城主となって大名並みの身分となっており、以前のように「子供多くて食べるに困る」状況では無いだけに、彼女も迷ったかも知れません。

しかし、それこそ、気心知れた大親友に預けるのです。

しかも、世は、明日をも知れぬ戦国・・・彼女は、母としての思いを持つ一方で、戦国乱世に家を守る奥方として、大いなる決心をし、豪姫を養女に出したのでしょう。

この一大決心は、後に、前田家の行く道を左右します・・・それがあの賤ヶ岳の戦い

ご存じのように、この戦いは、信長亡き後の織田家内での覇権を巡って、家臣筆頭で、信長の妹(もしくは姪)お市の方を妻とする柴田勝家と、天王山で主君の仇討ち(6月13日参照>>)をした秀吉が戦った合戦・・・(3月9日参照>>)

この時、はじめ、勝家側として参戦した利家は、秀吉が、あの中国大返しを彷彿とさせるスピードで美濃(岐阜県)から戻ってきた(4月20日参照>>)と同時に戦線離脱・・・結局、何もしないまま府中城に戻ってしまいます(4月23日参照>>)

これは、秀吉との連携があったとも無かったとも言われる撤退で、微妙ではありますが、この時点では、利家は、あくまで中立・・・どちらの味方をする事もなく、居城に戻った事になりますが、

『川角太閤記』によれば・・・
この後、柴田軍を追撃すべく、越前(福井県)北ノ庄城に向かう秀吉が、利家の府中城に立ち寄った際、鉄砲の攻撃を避けるべく自軍を退かせて、秀吉ただ一人で馬に乗り大手門を通過・・・それと知った利家&利長父子が、出迎えると、それを振り切って奥へと向かい、台所にて「まつ殿に会いたい!」と叫び、まつが登場すると、
「こないだも姫路から知らせが来ましたんやけど、養女にいただいた豪姫は、すくすくと元気に育ってまっさかいに…」
と、まず、豪姫の近況を、まつに伝えたと言います。

さらに、秀吉が
「今回の合戦で思う存分戦えたんも、利家くんのおかげやし…ついては、ちょいと旦那を借りるけど、息子は、まつ殿のそばにいさせといたたらええわ。
とにかく、急ぐんでバタバタするけど、
(越前での)戦いに勝った帰り道に、またゆっくりさしてもらうよって…」

と言うと、まつは、すぐに、息子=利長を呼び寄せ
「あんたも早く仕度をして、すぐに行きなさい」
と、秀吉が、そばに置いておいても良いと言った息子を出陣させるのです。

このまつの意見に同調した利家も、息子に
「そや、秀吉の先手衆よりも先に行くんや」
と父子で出陣・・・そう、ここで、利家とまつは、人質とも言える息子を秀吉のもとに行かせる事で、中立から秀吉側となる事を、瞬時に決定し、この決定が、この後の前田家の行く末をも決めた事は、皆様ご承知の通りです。

そんなこんなで、前田家が岐路に立った時、ことごとく、そのビッグマミーぶりを発揮する彼女ですが、その最後の一大決心となったのが、あの関ヶ原直前の江戸下向(5月17日参照>>)です。

秀吉も利家も亡き後、息子・利長が継いだ前田家に謀反の疑いがかかり、「このままやったら征伐に向かうぞ!」と言う徳川家康に対して、人質、あるいは証人とも言える形で、まつは江戸に向かう事になるのですが、そのページにも書かせていただいたように、この下向の旅に、豊臣家を挙げてのサポートがあった事から、まつが、前田家の代表なのか?豊臣政権の代表なのかが微妙なところなのですが、

とにもかくにも、ここでまつが江戸へと向かい、利長が、北陸の関ヶ原と言われる浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)で徳川方=東軍についた事から、戦後は、中立あるいは西軍寄りの立場だった次男=前田利政(としまさ)の領地は没収されたものの、その領地は、そっくりそのまま利長の領地となって前田家は生き残る事となります。

しかし、それでも、まつの江戸滞在が許される事はなく、それは15年の長きに渡って続きました。

なので、まつさんは、この後、江戸の幕藩体制で確立される、藩主の妻子が江戸で居住し、藩主が江戸と領国を行き来する、あの体制の第1号と言われています。

この間、まつは、そのほとんどを辰の口(大手町付近)前田邸で過ごし、領地を没収されて浪人の身となっていいる利政の復権に向けて奔走したりしますが、年齢が重なるにつれて病気がちになり、徳川将軍家も、「有馬温泉に湯治に行ったら?」「伊勢参りに行ってみたら?」と何かと気をつかっていたようですが、

まつ自身は
♪すく(過ご)しこし むそぢあまりの 春の夢
 さめてのゝちは あらしふくなり ♪

と、「春の夢のような昔に比べて、今は嵐が吹くようだ」と、嘆くような歌を詠んだりしていますが・・・

とは言え、さすが、元ヤンママのビッグマミー・・・嘆いてばかりではなく、一方の娘の手紙には
「利政の事について、家康さんは、はじめは調子のええ返事をしてはったんやけど、今はそうでもなく、こればっかりは、はたが頑張ってもどうもならん事やろね~
最近は、口を開けば遺言みたいに、自分が死んだ後の事ばっかり・・・
秀吉さんが、あれだけ周囲に誓紙を出さして五大老のみんなにもイロイロ頼んだ事を、全部無しにしたんは自分のくせに・・・ホンマ、おかしな話やで。
私は、ここのところ、ノドが痛かったり、胸が痛かったりするけど、食欲はあるさかいに心配せんといてね」

と、なかなかの発言をしてくれています。

結局・・・
まつが金沢へ帰国できるのは、慶長十九年(1614年)に息子=利長が亡くなった(5月20日参照>>)後の事・・・

その後、豊臣滅亡の翌ゝ年の元和三年(1617年)には、念願の上洛を果たし、嵯峨野にて隠居生活をしている利政に会ったり、高台寺で過ごしていたおねに会ったり・・・おそらく、息子やその孫、そして幼い頃からの親友と、お互いに、積りに積もりまくった思いを伝え合った事と思いますが、それで、張っていた緊張の糸がほどけたのでしょうか?

その旅から戻ってまもなくの元和三年(1617年)7月16日金沢にて71歳の生涯を閉じたのでした。

ドン底の新婚生活から、華やかな政権の中枢に・・・
いつの時も、夫と子供たちと前田家のために・・・

しかし、その歩いた道に悔いは無く、いつ、どんな状況でも誇りは失わなかった事でしょう。

加賀百万石の祖は利家ですが、そこには、彼を助けて余りある、まつの頑張りがあったのです。
 .

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コメント

茶々様

豊臣滅亡の翌ゝ年の元和三年に,「ねね(おね)」さんと「まつ」さんは,お会いになって,お話をされているのですね。

実は恥ずかしながら,このこと知りませんでした。どんな話をされたのか…。

何か記録が残っているのでしょうか?

録音テープがあれば…。

戦国武将の妻と言えば,山内一豊の妻を思い出しますが,NHK大河ドラマの「利家とまつ」を見ましたけれども,「まつさん」もすごいですね。もちろん,「おねさん」もです…。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年7月17日 (水) 09時27分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

私も、くわしくは知らないのですが、その晩年の上洛の際に、高台院と面会した事は史実とされているようです。

>録音テープがあれば…

ホントですね。
空白の時を埋めるような再会だったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2013年7月17日 (水) 13時55分

ヤンママ∵ゞ(≧ε≦o)ぶっ

でも、納得。

投稿: ことかね | 2013年7月18日 (木) 11時54分

今日の内容に全く関係ないことで…


2013年4月18日 (木)
祝!900万アクセス…新たな気持ちで今後に向けて


これから、わずか三ヶ月で少々で、もうじき「一千万アクセス!」


一千万アクセスに、遭遇した場合、ど~なるんじゃ


大阪城天守閣で「一千万アクセス!記念パーティー」

なんてね…

ブログ内容より、アクセスカウンターが
気になる 今日この頃…

投稿: 夏原の爺い | 2013年7月18日 (木) 12時17分

ことかねさん、こんにちは~

でしょ?でしょ?
ウフフ( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: 茶々 | 2013年7月18日 (木) 14時47分

夏原の爺いさん、こんにちは~

気にとめていただいて、ありがとうございますm(_ _)m
大台に乗ったら、また、新たな気持ちで…

投稿: 茶々 | 2013年7月18日 (木) 14時49分

>奥さん同志が仲良かったから、旦那同志も仲良くなった的な雰囲気があります。

私も全く同感です
なのにTVドラマなどではなぜか正反対(だんな同士が仲良しだつたから嫁も仲良くなった)敵な演出をされることが多いのがとても残念

秀吉の言行録をみると、むしろ利家よりもまつの方を非常に高く評価していたよう節が伺えますね
いくら妻の親友とはいえ天下人の大掛かりな茶の湯の席に他人の正室を~番目という形で正式に招くなど、ちょっと普通では有り得ない事だと思いますが、逆にいえばそれだけ秀吉がまつを特別に認めていたからこその証明ともいえます

大げさでなく利家の出世は秀吉がまつを特別に認めていたおかげといってもけっして過言ではないと思います
それがなければいくら親しい付き合いがあるとはいえ、せいぜい一国、30万石~50万石程度で終わっていたことでしょう

まつ、何者ぞ!?
というか、まつとねね、何者ぞ?
歴史好きな人にとってはあれこれ想像を膨らませられるという点で相当興味深いネタですね

投稿: お惣菜 | 2017年2月 6日 (月) 18時00分

ちなみに私は「おね」ではなく「ねね」派です
ねねの方が呼び方としては一般的に浸透しているし「ねねの道」や「ねね橋」といったて観光名所も存在しているのに、途中で野暮なこと言い出して無用に混乱させなくてもいいじゃないかと

まぁ蔑称の意味を含むという事で×淀君〇淀殿というのはまだ理解できるのですが・・・
ゲームやアニメなんかでもNHKの主張する「おね」ではなく可愛らしい印象を受ける「ねね」の方になってますからね
芸能人なんかでも名前を「ねね」呼びにしている方はいますが「おね」呼びにされてる方は一人もいませんよね

結局のところ「寧」と署名されたものしか資料としてはなく秀吉の正室の正確な名前や呼び方はなにも分かっていない訳ですから、ならば一般的に浸透していて可愛らしい印象を与える「ねね」のままでいいじゃないかと、私はそう思っています

投稿: お惣菜 | 2017年2月 6日 (月) 18時15分

お惣菜さん、こんにちは~

歴史上の人物の名前の読み方に関しては、専門家の方たちが「1番有力」とされる読み方にする事が多いみたいですが、史料などの新発見により、その「1番有力」が時々変わりますね。

浅井長政も「あさい」だったり「あざい」だったりと、何度も有力が入れ換わってますね。
ドラマの役名だったり、単なるおしゃべりで話すぶんには良いのでしょうが、やはり専門家の方が書籍の中で、あるいは講演会などで、「歴史学」としてお話される場合は、現段階で「1番有力」な名前にしないと…って事じゃないかと思います。

で、専門家の方がそう呼び始めると、「そう呼ぶのがカッコイイ」と思う方が、歴史好きの中には一定数おられ、だんだん、そう呼ばないといけないような雰囲気に??
私は大雑把なので、大丈夫ですが、気になさる方はものすごく気になさるみたいですね。
このブログでも、とある歴史人物名で、以前からの有名な読み方のままにしていると「間違っているので正すように…」とお叱りのコメントをいただいた事があります(*´v゚*)ゞ

ちなみに、以前、ねねさん関連のページでクイズに出したんですが、ねねさんの正式な本名は…コレ>>なんですよ。
(すでに見ていただいてたらゴメンナサイ)

投稿: 茶々 | 2017年2月 7日 (火) 08時44分

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