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2013年8月18日 (日)

名門・最上を消滅させた最上騒動

 

元和八年(1622年)8月18日、「最上騒動」と呼ばれる出羽山形藩のお家騒動により、最上家が改易となりました。

・・・・・・・・・・・・

事の発端は、出羽山形藩の藩祖・最上義光(もがみよしあき)の時代に、すでにくすぶりはじめます。

天下分け目と言われた関ヶ原の戦いの時、同時進行となった上杉との長谷堂の戦い(9月16日参照>>)を終え、徳川家康についた事で勝ち組となった義光は、その家康との関係を重視して、長男・義康ではなく、家康のもとへ差し出していた次男・家親(いえちか)家督を譲ったのです。

しかも、ナイスなタイミングで、かの長男が変死するという、臭いまくりの継承劇・・・

その後、病気がちとなった義光は、慶長十九年(1614年)に69歳の生涯を閉じる(1月18日参照>>)のですが、そのわずか6年後、第2代藩主を譲られた家親も、37歳の若さで急死するのです。

さらに、これも疑惑ありまくりの死・・・

『徳川実記』では、
「猿楽を見ている途中に頓死し、皆が怪しんだ」
とあり、

『羽陽軍記』では、
「加藤惣内の娘・おひさによって湯殿で刺殺された」
となっています。

この加藤惣内という人は、かつて、家親が、大坂の陣の時のドサクサで、弟の義親(よしちか)を討った時に、ともに亡くなった家臣・・・その時の恨みというワケですね。

そんなこんなの疑惑ありまくりとは言え、藩主が死んでしまった以上、当然、後継者を決めなくちゃぁならない・・・

そこで、家親の一人息子だった最上義俊(よしとし)が第3代・山形藩主となりますが、この義俊が、未だ12歳という若さ・・・当然ですが、周りの重臣たちから見れば、頼りない事この上無いわけで・・・

そのため、一部の家臣からは、義俊を失脚させて、亡き家親の弟(義光の五男)である山野辺義忠(やまのべよしただ)を推す動きが出て来るのです。

そもそもの話・・・実は、亡くなった家親さんという人が、国許の家臣とはあまりうまくいっていなかったのですね。

冒頭に書いた通り、もともと、藩祖の義光が、徳川家との関係のために、幼い頃から、その家親を差し出していて、彼はずっと、2代将軍の徳川秀忠に仕えていたわけで、つまりは江戸暮らし・・・領民や地元の家臣とは、ほとんど接触が無かったのです。

なので、実は、その家親さんの疑惑の死の中には、家臣の楯岡光直(たておかみつなお)鮭延秀綱(さけのべひでつな)(6月21日参照>>)共謀して殺害したというウワサもあったのです。

やがて両者の対立が深まる中、義俊を支持する松根光広(まつねみつひろ・あきひろ=義光の甥)は、元和八年(1622年)、たまりかねて、敵対する彼らの事を幕府老中・酒井忠世(さかいただよ)本多正純(ほんだまさずみ)に訴えたのです。

「義俊を酒に溺れさせて、失脚させようとしている」
と・・・しかも、「先の藩主の家親の殺害もやってるんじゃないか?」って事もつけ加えて・・・

こうして、幕府による詮義が行われますが、結局、確固たる証拠が見つかる事はなく、大騒ぎした光広は、筑後(福岡県)柳川藩の立花氏へ預かりの処分としました。

そうしておいて、一方の山野辺義忠擁立派を納得させるため、幕府は、島田利正(としまさ)米津田政(よねきつただまさ・みちまさ)現地に派遣して説得交渉に当たらせました。

その条件は・・・
「ひとまず、藩の領地を幕府が預かり、代わりに、新たな6万石を与えるので、現在の重臣たちは、皆、力を合わせて現藩主の義俊を盛りたてて補佐し、義俊が成長したあかつきに本領を返す」
というもの・・・

しかし山野辺義忠や鮭延秀綱らは、これに猛反発・・・「絶対に譲れない!」として、その態度は悪化するばかり・・・

そうなると、幕府も強い姿勢に・・・

かくして元和八年(1622年)8月18日、義俊も幼く、そこに家臣が協力する気が無い事を理由に、出羽山形藩の改易を申し渡したのです。

これが、世に言う最上騒動・・・

山野辺義忠は備前岡山藩に追放となり、鮭延秀綱は下総(千葉県北部)佐倉藩主・土井利勝(どいとしかつ)の預かり、楯岡光直も豊前(大分県北部)細川家に預かりとなりましたが、義俊だけは、近江(滋賀県)大森に1万石の所領を与えられ、なんとか、最上家の家名だけは存続が許される事に・・・

とは言え、清和源氏の流れを汲み、東北に勢力を誇った大名としての最上は、ここで消滅する事となったのです。
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コメント

茶々様こんばんは

ドロドロですね。
御家騒動起きると、こうなっちゃうんですね。

投稿: エアバスA381 | 2013年8月18日 (日) 22時07分

エアバスA381さん、こんばんは~

どうしても、お家騒動はねぇ…

投稿: 茶々 | 2013年8月18日 (日) 23時19分

こんにちは。

長男が急死してから、父親と弟が相次いで亡くなり、その後の混乱で改易。これは祟りでしょ(^-^;

冗談はさておき、私が印象に残っているのは、数年前のNHK大河「独眼竜正宗」で、最上家改易後仙台の伊達家に身を寄せた義姫が、息子の正宗に、実家を救ってくれなかった事に対して恨み節を云う場面ですね。
実際のところは、どうだったのでしょう?

投稿: 高来郡司 | 2013年8月20日 (火) 19時33分

高来郡司さん、こんばんは~

どうだったんでしょうね~
一般的には、弟の方に家督を継がせたくて、兄・政宗に毒を盛ったとされるお母さんですからね~

でも、別の説では、その事件後も政宗は頻繁に義姫と手紙のやりとりをしていたという話もありますから…
今の間隔でいくと、なんだかんだで、実家より息子の方が大事だったんじゃないか?と、思いたいですが、世は戦国ですから、女性の気持ちも今とは違っているのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2013年8月21日 (水) 02時07分

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