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2013年11月15日 (金)

討幕の先駆けとなって散った中山忠光

 

元治元年(1864年)11月15日、明治天皇の叔父にあたる公卿・中山忠光が下関にて暗殺されました。

・・・・・・・・・・

まさに幕末の動乱真っただ中の文久三年(1863年)・・・

上洛した第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、「来たる5月10日を以って攘夷(外国を排除)を決行する」という約束を朝廷と交わし、その攘夷決行の日に関門海峡を通る外国船に向かって砲撃を開始して(下関戦争=5月10日参照>>)、攘夷の最前線となった長州藩・・・

続く8月13日には、三条実美(さねとみ)ら攘夷派の公卿たちから、時の天皇・孝明天皇自らが大和(奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝し、攘夷親征(天皇自らが戦争する事)を誓うために大和に行幸されるとの発表がありました。

その発表を受けて、天皇の大和行幸の先駆けとして大和に乗り込もうと結成されたのが天誅組(てんちゅうぐみ)でした。

Nakayamatadamitu600a 中山忠光(ただみつ)は、この天誅組のリーダーとなった公卿・・・

彼は、権大納言中山忠能(ただやす)の七男で、孝明天皇の寵愛を受けて明治天皇を産んだ中山慶子(よしこ)の同母弟・・・長兄には、光格天皇「尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)に関わった中山愛親(なるちか)がいるという、まさに、天皇家に近い公家だったわけです。

そんな彼が天誅組のリーダー・・・と聞くと、なんとなく、血気盛んな尊攘派に担がれたお飾りお公家さんを想像してしまいますが、どうしてどうして、若い頃から久留米の志士・真木和泉守保臣(やすおみ)らと交流し、かの関戦争の時には、密かに冠位を返上して、自ら砲撃に加わっていたというくらい、バリバリの尊王攘夷派でイケイケのお公家さんだったのです。

・・・って「若い頃から…」と書きましたが、実は、この天誅組のリーダーになった時点で、まだ19歳・・・自ら公家装束の上に甲冑を着て先頭を行くような血気盛んなお年ごろだったのですね。

かくして、孝明天皇の大和行幸の一報を聞いた忠光は、同志の吉村寅太郎(虎太郎・とらたろう)らとともに、その先駆けとなって挙兵し、行幸発表の4日後の8月17日に、大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置いて、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表・・・こうして、まさに討幕の最前線となったわけですが・・・

ところが、その翌日・・・有名な八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)が起こります。

これは、朝廷内で尊王攘夷派に反対する中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)を中心とする公武合体派の公家たちが、会津(福島県)薩摩(鹿児島県)藩と組んで、攘夷派を中央政界から一掃するクーデターです。

武装した薩摩・会津・淀藩の兵によって、その日の朝に御所の門が閉ざされ、攘夷派の中心だった長州藩は御所に入れず・・・

その翌日には、長州藩の京都退去と尊皇攘夷派の公卿の洛外退去が命じられた事で、長州藩はやむなく京都を去り、三条実美ら7人の尊皇攘夷派公卿も、その長州藩を頼って京の都を去る事になってしまいます。

ここで孤立無援となってしまったのが天誅組です。

とは言え、もともと先駆けとなったのは自らの意志であって、長州や三条実美らと連携していたワケでもない彼ら・・・その三条実美だって命の危険を感じながらの都落ちでしたから、天誅組は天誅組自身で、自ら撤退をするしかありませんでした。

幕府からの討伐軍が派遣される中、なんとか、十津川郷へと逃亡し、そこで集めた兵=1000人ばかりで、対立する大和・高取城を攻めますが大敗・・・寅太郎は重症を負います。

その後、なんとか吉野郡鷲家口へと逃れるも、9月に入って、忠光に逆賊の詔(天皇の敵である事を天皇自らが発表)が正式に発せられ、さらに壊滅状態となる中、文久三年(1863年)9月27日、とうとう潜伏先を発見され、「もはや、これまで」と、自刃を決意した寅太郎が、忠光だけを逃亡させて自らは命を絶ちました(天誅組の変=9月27日参照>>)

こうして、何とか脱出して大坂へと逃れ、その後、海路で長州へと向かった忠光・・・

以前、あの下関戦争に参戦していた事もあって、逃げて来た忠光を保護する事になった長州藩は、彼の身柄を支藩の長府藩に預けました。

はじめは、延行村(のぶゆきむら=下関市川中)の小さな家に住まい、警固の武士もついたお公家さんらしい環境だったと言いますが、やがて、その生活が一変します。

そう、翌・元治元年(1864年)7月19日の禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)です。

この争乱で朝敵(ちょうてき=国家の敵)となって窮地に立たされた長州藩は、藩の存続のために、藩内の攘夷派を排除して幕府への恭順姿勢をとる事になり、
(井上聞多・襲撃:9月25日参照>>)
(周布政之助が自殺:9月26日参照>>)

そうなると、すでに「逆賊の詔」が出ている忠光を保護している事も問題となって来ます。

やむなく、その所在が知れぬよう、長府藩によって、日本海側の辺鄙な村への移転をさせられる忠光・・・

そんなこんなの11月12日・・・長州藩は禁門の変に関与した福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)(2011年11月12日参照>>)、の三家老の首を差し出す事で幕府からの攻撃=第一次長州征伐を回避しようとしました。

この時、各所を転々としたあげく、最終的に田耕村(たすきむら=下関市豊浦町)という場所に落ちついていた忠光でしたが、それからまもなくの元治元年(1864年)11月15日の深夜、中山忠光は20歳という若さでこの世を去ったのです。

長府藩の公式発表では、「酒に溺れた末の病死」とされましたが、その後の関係者の証言などから、今では「暗殺であった」事が明らかとなっています。

命令を受けた田耕村の庄屋の山田幸八なる人物が、「ここも危なくなって来たんで、次の場所へ移転します」と言って忠光を外に連れ出した後、途中の山道で待ち構えていた刺客=5名が囲んで絞殺・・・

その後、上からの指令通りに、長府城下へと遺体を運ぼうとしますが、綾羅木(あやらぎ=下関市川中)の海岸で夜が明けてしまったので、慌てて砂浜に遺体を埋めて立ち去ったのだそうです。

現在は、その場所に中山神社が建立され、その境内に、彼のお墓が静かにたたずんでいるのだとか・・・

♪思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ)
 引きも放たで 朽ちはつるとは ♪
「この弓を引く事無く終わってしまうなんて、思てもみんかったわ」

彼が詠んだ歌には、案山子のままで何もできずに散って行く、そのくやしさがひしひしと感じられます。

そう、この後、保守派が牛耳る事になった長州藩を、再び攘夷派に戻すべく、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)奇兵隊を率いて挙兵するのは、彼の死から、わずか1ヶ月後の事(12月16日参照>>)・・・まことに惜しまれる最期でした。

ちなみに・・・余談ではありますが、
その後、保守派を一掃した(5月28日参照>>)高杉らによって、城下で軟禁状態にあった恩地登美(おんちとみ・富子)なる女性が保護されますが、彼女は、忠光の侍女で、忠光が最後の住みかを出るまで一緒にいた女性・・・後に忠光暗殺の証言をした一人でもある彼女は、実は、すでに忠光の子供を身ごもっていました。

ほどなく産まれた女の子は南加(なか・仲子)と名づけられ、時代が変わるとともに成長し、やがて維新が成った後、嵯峨公勝(さがきんとう)という侯爵(こうしゃく)と結婚し、その二人の間に生まれた実勝(さねとう)の娘さんが、後に、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と結婚する嵯峨浩(さがひろ)さん・・・つまり、浩さんは忠光の曾孫にあたるのだとか・・・。

わずか20年ながら、血気盛んに波乱の人生を送った忠光のDNAが、時を越えて、再び波乱の大陸へと飛ぶ・・・

流転の日々を送りながらも、心を強く持ち続けた浩さんの生き方は、この曽祖父の血を受け継いでいるからなのかも知れませんね。
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コメント

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」語られない幕末秘史、中山忠光卿20歳の若さで暗殺される波瀾万丈の生涯にスポットを当てられ勉強になりました。私、響灘敬太郎のブログ「忠光卿」暗殺事件投稿の参考にしたく思っております。ご了承下さい。

投稿: ブログナーム響灘敬太郎 | 2015年10月 9日 (金) 15時36分

ブログナーム響灘敬太郎さん、こんにちは~

コメントありがとうございます。
使っていただいて結構ですヨ。
その近くに、リンクとかクレジットとか入れておいていただけるとありがたいですm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2015年10月 9日 (金) 17時28分

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