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2013年11月30日 (土)

紅葉の泉涌寺別格「雲龍院」in京都

 

本日は、昨日行って来た京都の紅葉狩りのご報告です。

今や京都屈指の紅葉の名所となった東福寺から、これまた紅葉の奇麗な御殿のある泉涌寺まで・・・

と言いましても、今回のメインは、初めて訪れる雲龍院・・・

東福寺や泉涌寺は何度が参拝させていただいているので、やはり、初めての場所に期待してしまいますが、

当然、屈指の名所を素通りというわけには行かないので、もちろん、ソチラも堪能させていただきましたが・・・ただ

神の恵みの自然対して失礼ながらもワガママを言わせていただくと、今年の紅葉は、ちと残念だったかな?


大きな地図で見る

その口調から、おそらく関東からお越しの観光客の方は、東福寺にて、
「残念!もう終わってるね」
と、おっしゃってましたが、私としては、
「??(;´д`)…終わってる?というよりは…」
と・・・

確かに、完全に色あせ、葉っぱも落ちてしまっているのもあるのですが、一方で、よ~く見ると、ところどころ、まだ青い葉っぱのモミジもあり・・・つまり、色づき具合に幅があるように見えましたね。

Dscf2829a800 東福寺・通天橋

東福寺ほどの数になりますと、一斉に色づけば圧巻ですが、数が多い分、ばらつきがあるのが目立つ感じに思えました。

とは言え、それは角度でおぎなえるほど、紅葉の数は多いですので、やはりため息は出ます(*´v゚*)ゞ

それに、東福寺来迎院、さらに泉涌寺の御殿の紅葉は、そんな感じでしたが、途中の今熊野(西国15番)観音寺、初訪問の雲龍院の紅葉は、まだまだ大丈夫のようでしたヨ。

Dscf2958a800 今熊野観音寺の紅葉

Dscf2947a600 また、今熊野観音寺には、「京都で1番赤い色」と噂される1本がありますが、ご覧の通り
この1本も今や盛りの健在ぶりでした。

 .

・・・で、今回の雲龍院・・・

ここは、泉涌寺の境内から通じている道を、南へと行った高台にある、言わば、同じ敷地内にあるようなお寺で、真言宗泉涌寺派別格本山との事・・・

南北朝時代に数奇な運命となった北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)のお召しによって開かれたお寺ですが、その由緒は、おいおいご紹介させていただくとして、本日は、やはり、「すごいゾ!」と噂される紅葉を・・・

と言っても、ここ雲龍院の紅葉は、「全山を染める圧巻の…」ではなく、「建物内から眺める障子越しの…」という紅葉・・・

ワクワクドキドキではなく、しっとりと心落ち着ける紅葉なのです。

まずは『悟りの間』・・・

Dscf2908az800_2 雲龍院・悟りの間

う~~ん、この落ちつき払った感じがたまりません(≧д≦)

Dscf2877a600 また、この悟りの間には、この紅葉の窓の右側に、文字通りの『悟りの窓』という小窓があるのですが、コチラは、春に紅梅が望める窓→なのだそうで、春には、この悟りの間は、この小窓がメインとなるのでしょうね。

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さらに、建物中央の奥まったところにある『蓮華の間』・・・

コチラは「しきしの景色」と呼ばれる4枚の絵が・・・ではなく、

そう、ここは、その雪見障子から、望む庭園が、まるで4枚の絵のように見える、これまた、ホ~っと落ちつくお部屋です。

Dscf2882a800 雲龍院・蓮華の間

左から椿燈籠・・・お見事です。

それこそ、東福寺や泉涌寺の有名どころならではの賑やかさとは違う、もう一つの紅葉・・・まだ、ちょっと間はイケそうなので、また、旅の参考にしていただけるとありがたいです。

まだ、今回の雲龍院は載せてませんが、東福寺から泉涌寺までの散策は、本家HP:京都歴史散歩でモデルコースをご紹介していますので、よろしければコチラから>>(別窓で開きます)どうぞ>>
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2013年11月26日 (火)

室町幕府VS楠木正行…住吉・阿倍野の戦い

 

正平二年・貞和三年(1347年)11月26日、京へ迫ろうとする楠木正行軍と、それを撃滅すべく派遣された室町幕府軍とが戦った住吉合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

正平二年・貞和三年(1347年)9月17日の藤井寺の戦い(9月17日参照>>)の続きのお話ですが…

簡単に経緯をお話しますと・・・

建武の新政(6月6日参照>>)に反発して都を制圧した足利尊氏(あしかがたかうじ)(6月30日参照>>)北朝=室町幕府は、延元元年・建武三年(1336年)11月7日に、武家政権の樹立宣言とも言える『建武式目(けんむしきもく)を制定(11月7日参照>>)して、政権を握った事を確信・・・

一方、幕府の幽閉から逃れた第96代後醍醐(ごだいご)天皇が、吉野にて南朝(12月21日参照>>)を開き・・・と、ここから始まる南北朝時代・・・

しかし、後醍醐天皇軍の主力として、ともに鎌倉幕府を倒した楠木正成(くすのきまさしげ)は、とうに亡く(2007年5月25日参照>>)、延元三年・建武五年(1338年)5月には、東北から駆けつけた北畠顕家(きたばたけあきいえ)(5月22日参照>>)、続く7月には、正成とともに初期から活躍していた新田義貞(にったよしさだ)(7月2日参照>>)と、南朝が不利な展開になる中、北朝の尊氏は、その8月に征夷大将軍に就任(8月11日参照>>)・・・

しかも、ここ来て南朝方の軍事を一手に担う形となっていた亡き義貞の弟=脇屋義助(わきやよしすけ)もが、四国にて病死してしまい・・・

Kusunokimasatura2500 と、そこに南朝の一縷の望みの如く活躍するのが、湊川の戦いに向かう父=楠木正成と涙ながらの決別=桜井の別れ(5月16日参照>>)をした、あの息子=楠木正行(くすのきまさつら)でした。

ここのところ、配下の軍勢を従えて、度々、住吉天王寺の方面に撃って出る正行の動きを警戒した室町幕府は、総勢3000余騎の軍を、河内(大阪府南部)へと差し向け、正平二年・貞和三年(1347年)9月17日、両者は藤井寺にて合戦に及びますが、この戦いに南朝=楠木軍は見事勝利!(9月17日参照>>)・・・勢いに乗って、そのまま、京都周辺へ進出しようとします。

・・・と、ここまで
※さらにくわしい経緯は『足利尊氏と南北朝の年表』でどうぞ>>

・‥…━━━☆

この楠木軍の動きに対して、何らかの作戦を練らねばならない幕府軍でしたが、11月に入ってから、この冬の寒さ厳しく、行軍中に手がかじかんで動かなくなる兵士が続出・・・

とは言え、何もせずにはいられない状況の幕府軍は、11月23日、軍議を開いて、山名時氏(やまなときうじ)細川顕氏(ほそかわあきうじ)を軍司令官とする6000余騎の追討軍を編成し、住吉・天王寺方面に向けて派遣したのです。

なんせ、その顕氏は、先日の藤井寺の戦いで敗戦を喫しており、以来、同僚からは散々にコケにされた、この2ヶ月余り・・・

今回の合戦への思いはハンパなく、遠く四国からも新たな兵をかき集めて来ていたのです。

「今度も、前みたいなカッコ悪い事になったら、どんだけ笑われるかワカランぞ!
皆、気ひきしめて…絶対に雪辱を果たすからな!」

とゲキを飛ばせば、

配下の者は、すぐさま500騎ごとの3隊のグループに分かれて、それぞれが旗を掲げて、「この戦いは生きて帰るな!」とばかりに決死の思いを秘め、水盃を交しての行軍開始・・・やがて、大手の山名軍は住吉へと着陣し、搦手(からめて)の細川軍は天王寺に陣を構えます。

この幕府軍の動きを知った正行・・・

「このまま、天王寺に城でも構えられたら、神仏に弓を引く事になるかも知れん」
との不安を抱き、

今のうちに搦手の住吉の軍に攻撃を仕掛けて追い払えば、天王寺の敵は戦わずに退くはず・・・とばかりに、正平二年・貞和三年(1347年)11月26日正行は500余騎の手勢とともに屋敷を出立したのでした。

まずは住吉の敵を潰すべく、石津(いしづ=堺市堺区)の民家に火を放つ一方で、瓜生野(うりゅうの=大阪市東住吉区瓜破)の北から、5隊に分けた部隊で以って一気に敵陣に押し寄せます。

急襲して来た小勢の楠木軍の様子を見ていた本隊の山名時氏は、楠木軍を取り囲むように4方向に手勢を配置すべく、800余騎を住吉浦の南に出して浜辺を防御し、3000余騎を阿倍野の東西に陣取らせます。

本隊のこの動きに対し、搦手の顕氏は、あえて前へ出ず、先駆けの交代要員として天王寺で控えます。

やがて、時氏自ら率いる本隊が、まさに馬煙をあげながら、猛烈な勢いで瓜生野の東を駆け抜けると、その馬煙の様子で、敵が4方向から囲んでいる事を見抜いた正行・・・すばやく、先ほど5手に分けた軍勢を再び1手にまとめて、1点集中で全面突破する作戦に切り替え、瓜生野に撃って出ました。

このあたりは広い野原で妨げになる物が何も無い事から、両者は全面からぶつかって、矢が、鬨(とき)の声が縦横無尽に飛び交う死闘となります。

そんな中、楠木軍からは、若武者の和田源秀(わだげんしゅう)と、法師武者の阿間了願(あまのりょうがん)敵陣に躍り出て大暴れ・・・源秀が小脇に抱えた長刀を鼻歌まじりに降り下ろせば、了願が長さ一丈(約3.3m)にも見える槍をブンブンと振り回し、見ている間に36騎ほどをメッタ撃ち・・・

もはや、一騎撃ちは不可能と後ずさりする幕府兵に、
大将・時氏が
(大勢で)囲め!囲め!」
と声をかければ、
正行が
「和田を討たすな!続け!」
と命じます。

太刀(たち)の鍔(つば)音が天に響けば、
汗馬
(かんば)の足音が地に響く・・・

お互いに退く者もない激戦となりますが、やがて、圧され気味の幕府軍には、入れ替えの兵も到着せず、疲れが見え出した頃、歩兵たちが、後陣の天王寺の兵を合流すべく、天王寺方面へと退きはじめます。

これを見た楠木軍は活気づき、追うように攻めたて、その混乱の中で、大将・時氏が重傷を負うという事態に・・・

やむなく、約300騎が、第2陣として阿倍野の南に駆けだして、しばらくは防戦しますが、やがて、これも破られ、この陣も天王寺へと退きあげました。

こうして、1陣&2陣が敗れると、浜辺の防御についていた住吉浦隊、天王寺で待機していた細川隊もヤバイ・・・

なんせ、住吉浦は文字通り後ろは海だし、この頃は、かの天王寺も後ろは川だらけ・・・(当時の大阪は川だらけの湿地帯でした【信長VS本願寺の「天王寺合戦」の図・参照(別窓で開きます)>>】戦国時代でもこんなです)

「敵に橋を落とされたら、生きては帰れん!
まずは、橋を警固せよ!」

とのゲキが幕府軍に飛び交いますが、お察しの通り・・・

その勢いで細い橋の上に差し掛かった大軍は、退いてんだか押してんだか解らぬ状態で大混乱・・・さらに、重傷を負っていた大将の時氏は、ここで馬も斬られて万事休す・・・

「もはや、これまで!」
と、時氏は橋の際で切腹しようと決意しますが、河村山城守なる武将が、たた1騎で返して防戦する中、安田弾正にうながされて、何とか橋を渡りますが、その間にも、橋から落ちて溺れる者多数・・・

もはや父子の安否、主従の安否もわからない混乱のまま、幕府軍は真夜中の道をひた走り、京へと戻るのです。

こうして、住吉合戦は、南朝=楠木正行軍の大勝利となりました。

ちなみに・・・この時、極寒の淀川に落ち込んだ幕府軍の兵士の幾人かを、正行らが救いだし、敵味方の区別なく手厚く治療した事から、このあと、正行軍に身を投じる者も少なく無かったのだとか・・・カッコイイなぁ~正行さんo(*^▽^*)o

まぁ、今回のお話は『太平記』のお話なので、話半分という気構えも必要ですが・・・

とは言え、強大な室町幕府・・・このままであるはずがありません。

この後、満を持して、総大将に任命されるのは、あの幕府最強執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)師泰(もろやす)兄弟・・・なのですが、そのお話は1月5日の「四条畷の戦い」でどうぞ>>
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2013年11月21日 (木)

アンケート企画:あなたが信じたい生存説は?

 

さて、本日は恒例のアンケート企画です!

今回のテーマは・・・
「あなたが信じたい生存説は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

歴史上には様々な生存説があります。

もちろん、そのほとんど・・・いや、ひょっとしたら全部が、あくまでウワサの域を出ない都市伝説的な物で、信憑性が疑わしい物なのでしょうが、
(信長なんか生きてりゃ絶対にもっかい出てきますから…ww)

それこそ、その歴史人物が好きで、好きなればこそ「生きていてほしい」という希望的観測も相まって、伝説として受け継がれて来た物だと思いますので、

今回は、その信憑性は棚の上に上げておいていただいて、好きなればこその希望も含めて「この人の生存説を信じたい!」「この人物は生きていてほしい!」と思う人に、清き1票を入れていただければ…と思います。

ただし、今回のくくりとしては、信憑性が無いとは言え、あくまで、「遺体が見つからない」あるいは「確認が困難」で生存説が囁かれている人物という事で、確実に亡くなっているとおぼしき方や、蘇我入鹿平将門のように、「首が飛んだ」とかってのは(首が飛ぶ=死んでるので)無しでお願いしたいです。

いつものように、個人的に「この人は?」と思う選択肢を16個用意させていただきました・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 生きて日本にやって来た?
    楊貴妃(参照ページ:11月9日>>)
  2. 一矢報いるまで死ねない?
    以仁王(参照ページ:5月26日>>)
  3. 海を越えて琉球へ?
    源為朝(参照ページ:3月6日>>)
  4. 身投げしたのは別人?
    安徳天皇(参照ページ:3月24日>>)
  5. 北海道から大陸に渡ってジンギスカンに?
    源義経(参照ページ:12月30日>>)
  6. 嫡流がひっそりと?
    平維盛(参照ページ:3月28日>>)
  7. 本能寺の地下から脱出?
    織田信長(参照ページ:2009年6月2日>>)
  8. 20年を経て天海となって登場?
    明智光秀(参照ページ:10月2日>>)
  9. 燃える大坂城から脱出?
    淀殿(参照ページ:2009年5月8日>>)
  10. 花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて?
    豊臣秀頼&真田幸村(参照:2007年5月8日>>)
  11. その伝説は各地に?
    後藤又兵衛基次(参照:2008年5月6日>>)
  12. 自らに奇跡を起こす?
    天草四郎(参照ページ:2月28日>>)
  13. 英雄は死なない?
    大塩平八郎(参照ページ:3月27日>>)
  14. 西南戦争後も人気は衰えず?
    西郷隆盛(参照ページ:12月18日>>)
  15. 新撰組の生き残りは大陸へ?
    原田佐之助(参照ページ:5月17日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」あるいは「こんな人の生存説もありますよ」っていう方がありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

まことに勝手ながら、このアンケートは12月5日締め切りとさせていただきました。

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラのページでどうぞ>>

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2013年11月15日 (金)

討幕の先駆けとなって散った中山忠光

 

元治元年(1864年)11月15日、明治天皇の叔父にあたる公卿・中山忠光が下関にて暗殺されました。

・・・・・・・・・・

まさに幕末の動乱真っただ中の文久三年(1863年)・・・

上洛した第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が、「来たる5月10日を以って攘夷(外国を排除)を決行する」という約束を朝廷と交わし、その攘夷決行の日に関門海峡を通る外国船に向かって砲撃を開始して(下関戦争=5月10日参照>>)、攘夷の最前線となった長州藩・・・

続く8月13日には、三条実美(さねとみ)ら攘夷派の公卿たちから、時の天皇・孝明天皇自らが大和(奈良)にある初代・神武天皇の陵に参拝し、攘夷親征(天皇自らが戦争する事)を誓うために大和に行幸されるとの発表がありました。

その発表を受けて、天皇の大和行幸の先駆けとして大和に乗り込もうと結成されたのが天誅組(てんちゅうぐみ)でした。

Nakayamatadamitu600a 中山忠光(ただみつ)は、この天誅組のリーダーとなった公卿・・・

彼は、権大納言中山忠能(ただやす)の七男で、孝明天皇の寵愛を受けて明治天皇を産んだ中山慶子(よしこ)の同母弟・・・長兄には、光格天皇「尊号一件(そんごういっけん)(7月6日参照>>)に関わった中山愛親(なるちか)がいるという、まさに、天皇家に近い公家だったわけです。

そんな彼が天誅組のリーダー・・・と聞くと、なんとなく、血気盛んな尊攘派に担がれたお飾りお公家さんを想像してしまいますが、どうしてどうして、若い頃から久留米の志士・真木和泉守保臣(やすおみ)らと交流し、かの関戦争の時には、密かに冠位を返上して、自ら砲撃に加わっていたというくらい、バリバリの尊王攘夷派でイケイケのお公家さんだったのです。

・・・って「若い頃から…」と書きましたが、実は、この天誅組のリーダーになった時点で、まだ19歳・・・自ら公家装束の上に甲冑を着て先頭を行くような血気盛んなお年ごろだったのですね。

かくして、孝明天皇の大和行幸の一報を聞いた忠光は、同志の吉村寅太郎(虎太郎・とらたろう)らとともに、その先駆けとなって挙兵し、行幸発表の4日後の8月17日に、大和国五条代官所を襲撃して代官・鈴木源内以下5名を殺害し、その勢いのまま桜井寺に本陣を置いて、代官支配の土地を天皇直轄の領地とする事を発表・・・こうして、まさに討幕の最前線となったわけですが・・・

ところが、その翌日・・・有名な八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)が起こります。

これは、朝廷内で尊王攘夷派に反対する中川宮(青蓮院宮)朝彦親王(2009年8月18日参照>>)を中心とする公武合体派の公家たちが、会津(福島県)薩摩(鹿児島県)藩と組んで、攘夷派を中央政界から一掃するクーデターです。

武装した薩摩・会津・淀藩の兵によって、その日の朝に御所の門が閉ざされ、攘夷派の中心だった長州藩は御所に入れず・・・

その翌日には、長州藩の京都退去と尊皇攘夷派の公卿の洛外退去が命じられた事で、長州藩はやむなく京都を去り、三条実美ら7人の尊皇攘夷派公卿も、その長州藩を頼って京の都を去る事になってしまいます。

ここで孤立無援となってしまったのが天誅組です。

とは言え、もともと先駆けとなったのは自らの意志であって、長州や三条実美らと連携していたワケでもない彼ら・・・その三条実美だって命の危険を感じながらの都落ちでしたから、天誅組は天誅組自身で、自ら撤退をするしかありませんでした。

幕府からの討伐軍が派遣される中、なんとか、十津川郷へと逃亡し、そこで集めた兵=1000人ばかりで、対立する大和・高取城を攻めますが大敗・・・寅太郎は重症を負います。

その後、なんとか吉野郡鷲家口へと逃れるも、9月に入って、忠光に逆賊の詔(天皇の敵である事を天皇自らが発表)が正式に発せられ、さらに壊滅状態となる中、文久三年(1863年)9月27日、とうとう潜伏先を発見され、「もはや、これまで」と、自刃を決意した寅太郎が、忠光だけを逃亡させて自らは命を絶ちました(天誅組の変=9月27日参照>>)

こうして、何とか脱出して大坂へと逃れ、その後、海路で長州へと向かった忠光・・・

以前、あの下関戦争に参戦していた事もあって、逃げて来た忠光を保護する事になった長州藩は、彼の身柄を支藩の長府藩に預けました。

はじめは、延行村(のぶゆきむら=下関市川中)の小さな家に住まい、警固の武士もついたお公家さんらしい環境だったと言いますが、やがて、その生活が一変します。

そう、翌・元治元年(1864年)7月19日の禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)です。

この争乱で朝敵(ちょうてき=国家の敵)となって窮地に立たされた長州藩は、藩の存続のために、藩内の攘夷派を排除して幕府への恭順姿勢をとる事になり、
(井上聞多・襲撃:9月25日参照>>)
(周布政之助が自殺:9月26日参照>>)

そうなると、すでに「逆賊の詔」が出ている忠光を保護している事も問題となって来ます。

やむなく、その所在が知れぬよう、長府藩によって、日本海側の辺鄙な村への移転をさせられる忠光・・・

そんなこんなの11月12日・・・長州藩は禁門の変に関与した福原越後(ふくはらえちご)(2009年11月12日参照>>)益田右衛門介兼施(うえもんのすけかねのぶ)国司親相(くにしちかすけ・信濃)(2011年11月12日参照>>)、の三家老の首を差し出す事で幕府からの攻撃=第一次長州征伐を回避しようとしました。

この時、各所を転々としたあげく、最終的に田耕村(たすきむら=下関市豊浦町)という場所に落ちついていた忠光でしたが、それからまもなくの元治元年(1864年)11月15日の深夜、中山忠光は20歳という若さでこの世を去ったのです。

長府藩の公式発表では、「酒に溺れた末の病死」とされましたが、その後の関係者の証言などから、今では「暗殺であった」事が明らかとなっています。

命令を受けた田耕村の庄屋の山田幸八なる人物が、「ここも危なくなって来たんで、次の場所へ移転します」と言って忠光を外に連れ出した後、途中の山道で待ち構えていた刺客=5名が囲んで絞殺・・・

その後、上からの指令通りに、長府城下へと遺体を運ぼうとしますが、綾羅木(あやらぎ=下関市川中)の海岸で夜が明けてしまったので、慌てて砂浜に遺体を埋めて立ち去ったのだそうです。

現在は、その場所に中山神社が建立され、その境内に、彼のお墓が静かにたたずんでいるのだとか・・・

♪思ひきや 野田の案山子(かかし)の 梓弓(あずさゆみ)
 引きも放たで 朽ちはつるとは ♪
「この弓を引く事無く終わってしまうなんて、思てもみんかったわ」

彼が詠んだ歌には、案山子のままで何もできずに散って行く、そのくやしさがひしひしと感じられます。

そう、この後、保守派が牛耳る事になった長州藩を、再び攘夷派に戻すべく、あの高杉晋作(たかすぎしんさく)奇兵隊を率いて挙兵するのは、彼の死から、わずか1ヶ月後の事(12月16日参照>>)・・・まことに惜しまれる最期でした。

ちなみに・・・余談ではありますが、
その後、保守派を一掃した(5月28日参照>>)高杉らによって、城下で軟禁状態にあった恩地登美(おんちとみ・富子)なる女性が保護されますが、彼女は、忠光の侍女で、忠光が最後の住みかを出るまで一緒にいた女性・・・後に忠光暗殺の証言をした一人でもある彼女は、実は、すでに忠光の子供を身ごもっていました。

ほどなく産まれた女の子は南加(なか・仲子)と名づけられ、時代が変わるとともに成長し、やがて維新が成った後、嵯峨公勝(さがきんとう)という侯爵(こうしゃく)と結婚し、その二人の間に生まれた実勝(さねとう)の娘さんが、後に、愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)と結婚する嵯峨浩(さがひろ)さん・・・つまり、浩さんは忠光の曾孫にあたるのだとか・・・。

わずか20年ながら、血気盛んに波乱の人生を送った忠光のDNAが、時を越えて、再び波乱の大陸へと飛ぶ・・・

流転の日々を送りながらも、心を強く持ち続けた浩さんの生き方は、この曽祖父の血を受け継いでいるからなのかも知れませんね。
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2013年11月 7日 (木)

室町幕府の誕生?「建武式目」の制定

 

延元元年・建武三年(1336年)11月7日、室町幕府の施政方針を示した建武式目が制定されました。

・・・・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月19日参照>>)湊川の戦い(5月25日参照>>)に勝利した後に京都を制圧(6月30日参照>>)したのが延元元年・建武三年(1336年)6月末・・・

続く8月には、かつて院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を発して(4月26日参照>>)尊氏側の正当性確保に一役かってくれた光厳(こうごん)上皇の弟・豊仁親王光明(こうみょう)天皇として即位させ(8月15日参照>>)、光厳上皇の院政を開始しました。

もちろん、院政と言っても、もはや政治の実権は尊氏の手の中にあったわけですが・・・

一方の後醍醐天皇側は、主力の一人である新田義貞(にったよしさだ)が後醍醐天皇の皇子たちを連れて10月11日に北国落ち(10月13日参照>>)、11月2日には、その後醍醐天皇自身が三種の神器を光明天皇に渡して(11月2日参照>>)事実上の降伏・・・

これで、尊氏の擁立する光明天皇が正式な天皇となり、まさに、尊氏の世となったわけです。

かくして、この状況を受けた尊氏が、延元元年・建武三年(1336年)11月7日、当面の施政方針を明らかにする『建武式目(けんむしきもく)という2項17ヶ条からなる式目(箇条書き形式の制定法)を制定したのです。

ちなみに、鎌倉幕府や江戸幕府と同様に「何を以って開幕とするか?」には諸説ありますが、尊氏の室町幕府の場合は、この「建武式目の制定」か、もしくは2年後の「尊氏の征夷大将軍就任」(8月11日参照>>)かを室町幕府の成立とする事が多いようです。

まぁ、「武家政権の樹立」という観点から見れば、将軍就任より、今回の式目制定の方が、ちと有力かも知れませんが・・・

・・・で、その内容は、幕府の所在地についての検討と、当面の施策17ヶ条を、中原章賢(なかはらののりかた=是円)8人の有識者の意見という形で制定された物ですが、どちらかと言えば、「これからの基本方針」みたいな感じで、現実にすぐさま実施できる具体的な項目は少ないようです。

まぁ、現代でもよくある「○○に就任直後の所信表明演説」てなところで、あくまで「こんな感じでやって行きたいと思います」ってな事でしょうか?

なので、あまり拘束力が無かったとも言われますが、一方では、あの『御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)と並んで、この後の戦国武将たちの分国法などにも、少なからずの影響を与えている存在でもあります。

・‥…━━━☆

第一項(幕府の所在地を鎌倉にするか否か)

  • 鎌倉は、あの頼朝さんが拠点を置いたとこやし、引き継いだ北条が承久の乱に勝利した縁起のええ土地やけど、その北条も、結局はおごり高ぶって滅亡してしもたさかいに、要は、拠点がどこにあるかや無くて、その場所で行う政治のよしあしが大事やねん。
    まぁ、鎌倉から移りたいって言う人が、よーけおるんやったら、移してもええんちゃいますか。

第二項(政道の事)

  • これについては、時代に適した法律制度を造らなアカンね。
    日本にも中国にも様々な法があって、どれがええんか悩むところやけど、武家政治の全盛期(鎌倉幕府の時代)の事を踏まえて、そこから改善せなアカンところは改善して行く事になるけど、幸いな事に、鎌倉時代の人がまだまだ健在やよって、情報は得やすいやん。
    昔から「徳はこれ嘉政、政は民を安んずるにあり(徳とは良い政治の事、政治の基本は民の安定)って言うさかいに、早いこと全国民の悲しみが無くなるよう、早急に処置せなアカンね。
    ほな、その大雑把な要点について、以下に書いときますわ。
  1. 倹約を行はるべき事
    最近、「婆佐羅(ばさら)とかなんとか言うて、ハデハデな贅沢三昧すんのがハヤっとるみたいやが、そんなんしてたら世の中がすたれる一方やで・・・厳しく取り締まるさかいにな
  2. 群飲佚遊(いつゆう)を制せらるべき事
    大勢が集まっての酒盛りでも、「どうやねん」って思うのに、最近では、そこで多額のギャンブルをしとるっちゅーやないかい、嘆かわしいのぉ~
  3. 狼藉を鎮めらるべき事
    強盗殺人とかひったくりとかが多発してるらしいから警戒を強めんと
  4. 私宅の点定(てんじょう)を止めらるべき事
    民家の差し押さえをやめよう。
  5. 京中の空地、本主に返さるべき事
    京都市中の空き地は、ちゃんと捜査して、元の持ち主に返還せなあかんな。
  6. 無尽銭(むじんせん)・土倉(どそう)を興行せらるべき事
    質屋の営業を盛んにして景気回復せなね。
  7. 諸国の守護人、ことに政務の器用を択ばるべき事
    今は、武功で役職が決まったりするけど、合戦の恩賞は荘園とか与える事にして、守護職には政治力のある者を登用しましょ。
  8. 権貴ならびに女姓・禅律僧の口入を止めらるべき事
    特権階級の人や女性&僧の口出しや干渉は止めてね。
  9. 公人の緩怠を誡めらるべし。
    政治家や貴族が怠けるのは許さへんで。
  10. 固く賄貨を止めらるべき事
    ワイロはあかんで~
  11. 殿中内外に付き諸方の進物を返さるべき事
    上の者がすると、必ず下の者もするさかいに、プレゼントのやりとりはひかえましょうね。
  12. 近習の者を選ばるべき事
    部下の態度見たら、だいたい、その上司もどんな人物かわかる・・・って言うさかいに、部下を雇う時は気ぃつけてな。
  13. 礼節を専らにすべき事
    礼節は重んじなアカンで~上下関係をしっかり!
  14. 廉義(れんぎ)の名誉あらば、ことに優賞(ゆうじょう)せらるべき事
    ええ事した時は褒めてあげましょ…もちろん、悪い時は諌めなアカンけどね。
  15. 貧弱の輩の訴訟を聞(きこ)し食(め)さるべき事
    弱者の訴えをちゃんと聞こな…裁判は公正に
  16. 寺社の訴訟、事によつて用捨あるべき事
    寺社の訴えは、時には突っぱねてもええ…権威を振りかざす場合もあるし
  17. 御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事
    怠けて遅なってもいかんし、早すぎて、徹底調査できひんかってもアカンさかいに、裁判の日時は ちゃんと決めよな。

以上の17ヶ条、だいたいこんな感じとピックアップさせていただきましたけど、私=是円は、法律家の家の出身ではありますが、今は単なる一般人・・・とは言え、今回は、恐れ多くも、政治についての意見を聞かれたので、昔からの教訓なんかを踏まえて、まとめてみました。

未だ、戦乱は治まって無い世の中ですさかいに、政治には気を引き締めて当たらんといけません。

古くは延喜・天暦の時代、最近では北条義時&泰時父子の治世をお手本にして、国民皆が従い仰ぐような政治を行う事が、ひいては国に平和をもたらす事になるんやろと思い、以上の事を申し上げました。

Kenmusikimoku700aa 建武式目の冒頭部分(前田育徳会蔵)

・‥…━━━☆

以上、恐れ多くも単なる一般人の茶々が、とりあえずは要約してみましたが、途中でしんどくなって来たので、おそらく間違ってる箇所もあるかと思いますから、受験生の皆さまは、今一度、調べ直してくださいね。

で、文中の最後にお手本として出て来た北条義時(ほうじょうよしとき)ですが、彼は、あの北条政子(7月11日参照>>)の弟で鎌倉幕府の第2代執権泰時(やすとき)はその息子で3代執権ですが、ともに、鎌倉幕府の初期の頃の人です。

ご存じのように、源氏の流れを汲む足利家なので、未だ、源氏の色濃い鎌倉幕府の初期の頃を手本にしたいという事ですね。

また、一方で、「延喜・天暦の時代」を並べていますが、これは、世に『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)と賞賛される醍醐・村上両天皇の治世時代の事で、実は、かの後醍醐天皇が建武の新政の時に目指していた物・・・

つまりは、未だ鎌倉幕府の要人が生き残ってる中で、源氏である足利家が鎌倉幕府を継承する事を主張する一方で、「延喜・天暦の時代」を出して、後醍醐天皇の派閥も取り込んでしまおうという戦略のような気がしますね。

とにもかくにも、こうして室町幕府は発足したワケですが、ご存じのように、後醍醐天皇の降伏は、いち時しのぎのポーズだったわけで・・・

この日から、わずか2ヶ月足らずの12月21日幽閉先から脱出した後醍醐天皇が吉野にて朝廷を開き、あの南北朝へと突入する事になるのですが、続きのお話は2012年12月21日【後醍醐天皇が吉野へ…南朝の誕生】でどうぞ>>
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2013年11月 1日 (金)

庄内転封騒動~天保義民事件となった三方領地替

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天保十一年(1840年)11月1日、江戸幕府より、庄内藩主・酒井忠器のもとに、越後長岡藩への転封命令が発せられました。

・・・・・・・・・

徳川幕府が江戸時代を通じて、何度か行った『三方領地替(さんぽうりょうちがえ=三方領知替え)という手法があります。

Aという藩をBという領地に、そこにいたB藩をCの領地に、最後のC藩を最初のAの領地に・・・三つ巴のテレコテレコで転封させるという物。

ちなみに、4つの藩がからむ『四方領地替』というのもあります。

いずれも、幕府が有利なように、複数の藩に同時に国替えを命令するのですが、幕府にとっては、それぞれの藩が、引っ越しのための財力を使うので、その藩の財政を削ぐ事ができるとか、領主と領民が親密な場合には、その関係を引き離す事ができるなどというメリットがあったわけです。

そんな中での今回の天保十一年(1840年)の三方領地替・・・

武蔵国(埼玉県)川越藩主の松平斉典(なりつね)出羽国(山形県・秋田県)庄内へ、庄内藩主の酒井忠器(ただかた)越後国(新潟県)長岡へ、長岡藩主の牧野忠雅(ただまさ)を、先の川越へ転封しようとしたもので、三方領地替の中では最も有名な一件で、この時の三方領地替は『庄内転封騒動』と呼ばれています。

そもそもの発端は、川越藩主の松平斉典・・・

この時の川越藩は大変な財政難に陥っていたのです。

実は、先に書いたように幕府にいくつかのメリットのある三方領地替ですが、もう一方では、財政難に陥った藩が裕福な領地への転封を願い出るという藩の方からアプローチをかける国替えもあったわけで・・・今回の庄内転封騒動の場合は、コチラだったのですね。

・・・で、文政八年(1825年)に、貧乏藩からの脱出を決意した川越藩主の松平斉典は、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の51番目の子である紀五郎斉省(なりやす)を養子に迎えたり、その斉省の生母である以登(いと)の方や老中・水野忠邦(ただくに)に、せっせと金品を贈って根回しを始めます。

この時、斉典が狙っていたのは、以前に領地とした事もある姫路(兵庫県)だったと言われていますが、残念ながら、まったく効果なし・・・

1年経ち、2年経ち・・・何の音沙汰もなく・・・もはや、あきらめていた天保十一年(1840年)10月、すでに将軍は12代の徳川家慶(いえよし)が就任していましたが、かねてからのアプローチがやっと効いたのかどうなのか?、突然、出羽庄内藩への転封の内命を受けたのです。

そして翌・天保十一年(1840年)11月1日正式に庄内藩への転封命令が申し渡されたのです。

もちろん、先に書いた通り、庄内藩だけではなく、3藩が絡んだ三方領地替命令です。

もともとの言いだしっぺである川越藩主の松平斉典にとっての庄内藩は、希望していた姫路に勝るとも劣らない期待以上の藩でした。

なんせ、ここは、第7代藩主の酒井忠徳(ただあり)によって行われた藩政改革が見事に成功していた藩で、その後を継いだ息子の現藩主・酒井忠器も評判の善政をしいていて、まれに見る豊かな領地だったのです。

んん??・・・って事は??

そうです。
いきなり転封を命令された現在順調の庄内藩にとっては、晴天の霹靂!!藩主も家臣も衝撃です。

なんせ、当時の庄内藩は14万石と言われる中、一方、転封先の長岡藩は、当時7万石ほど・・・しかも、上記の通りの改革の成功のおかげで、実質20万石ほどまで増やす事に成功と言われていましたから、とてもじゃないが納得いかない・・・

とは言え、命令が出ちゃった限りは、従わねば謀反・・・って事になるわけで・・・

ところが、黙っていなかったのは庄内の農民たちでした。

藩主が善政をしいている=農民たちも、現在の状況に満足しているわけですが、そこへ、いきなり、貧乏な藩からの藩主がやって来る・・・

ウソかマコトか
「今度の藩主=松平斉典の税の取り立ては激烈を極める」
なんていうウワサも飛び交い、早くも、この正式発表から半月後の11月15日、農民たちによる転封阻止運動が開始され、翌年の1月20日には、その農民の代表者が江戸を訪れ、大老の井伊直亮(なおあき)や老中の水野忠邦に嘆願書を提出する事態に・・・

当然ですが、直訴はご法度・・・嘆願書を手にした彼らは、もちろん、死罪を覚悟しての提出だったのですが、これが意外にも寛大に受け止められます。

そう、実は、大名たちの間にも、引退しながらも未だに権力を持ち続ける先代=家斉の大御所政治に不満を持っていた者が少なからずいたわけで、何の落ち度も無い今回の庄内藩の長岡への転封には同情的だったようなのです。

そんなこんなの天保十二年(1841年)閏1月7日、その大御所・家斉が亡くなり(1月7日参照>>)、不満は一気に表面化して来ます。

特に外様大名からは、今回の国替えの理由を幕閣に追及したり・・・中には、今回の転封命令は撤回すべきとの意見を、ハッキリと述べる大名まで出て来ます。

そうなると、庄内の農民たちの士気はますます上昇・・・各地で開く集会は、開くたびにその参加人数が増え、反対運動はどんどんと大きくなり、この閏1月の中旬に、藩主の忠器が江戸に向かうと知るや、それを阻止すべく、『百姓と雖(いえど)も二君に仕えず』のムシロ旗を掲げての大集会にまで発展します。

この一連の反対運動は、『天保義民事件(てんぽうぎみんじけん)と呼ばれ、これがあった事で、この天保十一年(1840年)の三方領地替は、江戸時代を通じての三方領地替の中で、実際に領地替えが行われなかったにも関わらず、最も有名な三方領地替となっているのです。

・・・と、今、結果を言っちゃいましたが・・・そう、結局、今回の三方領地替は実現されなかったのです。

今回の農民たちの運動は、もはや全国に知れ渡る出来事となりましたが、さすがに、「幕府が決定した以上、くつがえる事はないだろう」というのが、皆の思うところでしたが、なんと!将軍・家慶は、騒動勃発から半年後の7月6日、三方領地替の中止を発表したのです。

Mizunotadakuni400 ところが、その決定に「待った!」をかけたのが、老中の水野忠邦・・・

続く10日に、
「流言等御採用は御座あるまじく…」
=ウワサにまどわされたらあきまへん!

といった内容の建白書を提出し、転封命令の中止は、一旦、延期されてしまいます。

しかし、家慶は、事の次第=反対運動が本当に流言(ウワサだけ)なのかを自ら調査する事を決意・・・直属の密偵:2名を現地に派遣したのです。

約1ヶ月後に、彼ら密偵から提出された報告書を読んだ家慶は、天保十二年(1841年)7月正式に、三方領地替の中止と川越藩(斉典)への2万石の加増を決定したのです。

かくして、この騒動・・・
幕府の決定を農民運動がくつがえすという大騒動でありながら、訴えた農民側にも何の処分もなく、無理くりで推し進めようとした忠邦も処分されず、何となく玉虫色的な結果になった気がしますが、この頃、同時進行で行われていたのが、有名な天保の改革(3月1日参照>>)・・・

四方丸く収まった感のあるこの決定は、なかなかうまく進まない改革に対する不満を避ける意味もあった?のかも知れませんね。
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