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2013年12月18日 (水)

宇田川玄随と津山洋学

寛政九年(1798年)12月18日、津山洋学の牽引者として活躍した江戸時代の蘭学&医学者・宇田川玄随が死去しました。

・・・・・・・・・・

「津山洋学」という言葉をご存じでしょうか?

津山というのは、旧美作国=現在の岡山県にある、あの津山ですが、恥ずかしながら私・・・その津山には何度か行った事があるにも関わらず、けっこう長い間、この言葉を知らずにおりました(*´v゚*)

Dscn2710a800 津山城(鶴山公園=岡山県津山市)

・・・で、洋学というのは、文字通り西洋学=西洋諸国の学問という事です。

最近は、江戸時代の日本は、交流する国を制限していただけで、国を閉ざしていたわけではないので鎖国という言葉は適切でない」なんて事も言われますが、その通りで、鎖国中にも、オランダを通じて、様々な西洋の知識が入って来ていたわけで・・・

ただ、やはり、その多くはオランダの学問でしたから、有名な蘭学(オランダの学問)という言葉がよく使われますが、同時に、広く西洋全般の・・・という意味で、洋学という言葉もあったわけです。

・・・で、当時の津山藩が藩医として登用していたのが宇田川家・・・宇田川玄随(うだがわげんずい)は、この津山藩の江戸詰め藩医を勤める家系に生まれます。

もともとは、代々受け継ぐ漢方医だった玄随でしたが、幕府奥医師だった桂川甫周(かつらがわほしゅう)や、『ターヘル・アナトミア』=『解体新書』(3月4日参照>>)で有名な杉田玄白(げんぱく)前野良沢(りょうたく)らと交流するうち、その影響を受けて蘭学を学び始めたと言います。

間もなく、その才能はメキメキと開花し、やがて、宇田川家蘭学の初代として、養子の宇田川玄真(げんしん)をはじめとする宇田川一門を引っ張って行く存在となるのです。

そんな中で、玄随は、オランダ医師・ホルテルの内科書の翻訳に着手・・・『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)を刊行します。

上記の通り、外科の医学書は『解体新書』として翻訳されていましたが、未だ内科の医学書の翻訳はなされておらず、玄随のこれが日本初という事になります。

ただ、最初に翻訳した物は、訳すのが難しい部分をオランダ語を音訳して切り抜けたせいで、かなり読みづらい・・・納得いかない玄随は、改訂版を企画します。

しかし残念ながら、未だ、その改訂版の完成を見ない寛政九年(1798年)12月18日、志し半ばの43歳で、この世を去ってしまうのです。

しかし、それは玄随が敷いた後進の道へと、しっかりと受け継がれます。

江戸で始まったその作業は、玄随亡き後、弟子たちの手で版元を大坂に移して続けられ、玄随の死から2年後の文化七年(1810年)、全18巻が完結・・・文政五年(1822年)に刊行されました。

もちろん、この仕事の完結だけではなく、その後にも、玄随のまいた種は次々と花開き、冒頭に書いた「津山洋学」という言葉が生まれるほど、この津山藩での洋学は時代の最先端を走り、最新情報をいち早く取り入れては研究し、広く民に発するという役目を担う事になるのです。

そこには、ここ津山藩の第8代藩主となった松平斉民(まつだいらなりたみ)の存在もありました。

子だくさんで有名な第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)(1月7日参照>>)の十四男として生まれた斉民は、第7代津山藩主の松平斉孝(なりたか)の養子となり、天保二年(1831年)に15歳で藩主を継ぎますが、藩の財政再建にも力を注ぎ、その誠実さから将軍家からもいちもく置かれていたと言われる名君・・・

そんな彼が、山に囲まれ、資源の少ないこの津山という場所においては、「人材こそが宝である」と称して、教育に、そして人材育成に力を注ぐように指導したのです。

それは、現在で言うところの奨学金制度を設けたり、優秀な人材には、幕府の研究職への登用の道も開かれていたと言います。

このように、玄随が道を開き、斉民が応援した津山洋学・・・

ところで、玄随の後を継いだ玄真は、亡き養父の遺作の改訂作業のかたわら、文化二年(1805年)に、解剖生理学書である『医範堤綱(いはんていこう=和蘭内景医範堤綱)なる書物を出版していますが、実は、この本、当時は、あの『解体新書』よりも、はるかにベストセラーとなった医学書なのです。

『解体新書』よりも、わかりやすく読みやすい『医範堤綱』が、江戸時代の庶民にはウケたのでしょうね。

おかげで、彼らの津山洋学から発生した言葉は、医学用語だけにとどまらず、幅広く用いられる日本語となります。

そう、先にリンクした『解体新書』のページ(再びですが…3月4日参照>>)でも書かせていただいたように、オランダ語の医学書を翻訳するに当たっては、同じ意味の日本語が存在しないため、彼ら翻訳者たちは、それに見合う新たな日本語を作ったわけですが(『解体新書』では「神経」や「処女膜」etc)

彼ら宇田川一門も、同じように造語を作っています。

「細胞」「気管」「尿道」やら・・・

しかも、『解体新書』では、「厚腸(こうちょう)となっていた器官を「大腸」「薄腸(はくちょう)となっていた器官を「小腸」と、津山洋学では言い換えているのですが・・・

そうです、現在も使われているのは、津山洋学の彼らが作った造語の方なのですよ。

他にも、「酸素」「水素」「窒素」「炭酸」「硫酸」「酸化」「還元」、果ては「繊維」「金属」も・・・

さらに、音を漢字表記した「瓦斯(ガス)「珈琲(コーヒー)・・・などなど

もはや、津山洋学生まれの言葉失くしては、日常会話ができないんじゃないか?と思えるくらいですよね。

こうして、玄随に始まった津山洋学は、彼を引き継いだ宇田川一門と、同じく津山藩医に登用されていた箕作(みつくり)一門を中心に、医学のみならず、文化や外交にも多大な業績を残す中で、後進への教育にも尽力・・・

それは、やがて幕末の動乱を迎え、開国から維新へと向かう日本の若者に多大な影響を与えたと言われています。

ちなにみ、適塾種痘を行った事で有名な、あの緒方洪庵(おがたこうあん)(6月10日参照>>)も、宇田川玄真の門下生の一人だという事です。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

『津山洋学』、初めて知りました。
>内科書の翻訳に着手
そういえば、外科は(漢方)医学の外(そと)という意味だと聞いた覚えがあります。なので、蘭方内科の看板を上げた医者に圧力がかかって、看板を下ろしたとも。
津山洋学の事だったのかもしれませんね。

ところで、
>交流する国を制限していただけで、~
違和感ありますねぇ~。主と従が逆転していますよ。
大丈夫なのか?最近の歴史学者。
これでは「幕末の騒ぎは何だったの?」と言いたくなりますね。
一学説とはいえ、なんだか不安になってきます。

投稿: ことかね | 2013年12月18日 (水) 15時16分

ことかねさん、こんばんは~

>医者に圧力がかかって、看板を下ろしたとも…

そんな事があったのですか?
知りませんでした。

>違和感ありますねぇ~

何か文章がおかしかったですか?
私の書き方が悪いのかも…

投稿: 茶々 | 2013年12月19日 (木) 18時05分

>何か文章がおかしかったですか?
言葉足らずだったようですね。失礼しました。

違和感を感じたのは、交流する国を制限していた『だけで』、『鎖国という言葉は適切でない』というところです。
私の認識では、交流する国を制限していた『から』、『鎖国』というのですが。

投稿: ことかね | 2013年12月20日 (金) 13時48分

ことかねさん、こんにちは~

ご返答ありがとうございます。

>交流する国を制限していた『から』、『鎖国』

確かに、そうも言えますね。
ただ、聞くところによると、『鎖国』と言うと、その言葉の印象からか、「まったく交流していなかった」とイメージする人が多いのだそうです。

もともと、『鎖国』という言葉も、開国を支持する幕末の武士が、江戸幕府の外交姿勢を批判するために造った少々キツイ意味を含んだ言葉だという事で、「制限」とか「縮小」と言った方が良いのでは?という意見があるらしいです。

投稿: 茶々 | 2013年12月20日 (金) 16時10分

ご説明ありがとうございます。

>「まったく交流していなかった」とイメージする人が多いのだそうです。
そうなんですか?学校で習うはずなのに...

>江戸幕府の外交姿勢を批判するために
コレもまたややこしい話ですね。
もともと幕府と攘夷派の争いだったはずなのに。(笑)

投稿: ことかね | 2013年12月20日 (金) 17時33分

ことかねさん、こんばんは~

あちゃ~、コチラも言葉足らずでしたね。

幕末と言っても、ペリーがやって来るちょっと前の「外国船打ち払い令」を出すの出さないのの時期に、ケンベルの書いた『日本誌』を翻訳した蘭学者の志筑忠雄という人物が、その表題を『鎖国論』としたらしいです。

幕府と攘夷派の争いになるのは、もう少し先ですね。
すみませんでした。

投稿: 茶々 | 2013年12月20日 (金) 18時28分

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