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2013年12月30日 (月)

明徳の乱~山名氏清の最期

 

元中八年・明徳二年(1391年)12月30日、京都に侵入した山名氏清の手勢と、室町幕府軍との間で合戦の火ぶたが切られ、明徳の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・

室町幕府初代将軍=足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って徐々に力をつけ、山名時氏(ときうじ)の時代には近畿山陰山陽の広範囲に渡る11ヶ国もの守護となり、「六分一殿(ろくぶんのいちどの=日本全国の6分の1を持ってる)とまで、呼ばれる勢力を持った山名氏・・・

Meitokunoranyamanakeizu しかし、その時氏の死後に表面化した内部分裂を、すかさず見てとった第3代将軍=足利義満(よしみつ)は、山名氏の弱体化を画策・・・その命令によって、山名氏清(やまなうじきよ)と娘婿の満幸(みつゆき)が、時熙(ときひろ)氏之(うじゆき)兄弟(氏之は養子)を攻撃し、彼らの領地を奪い取りますが、

すぐさま手のひらを返した義満は、時熙&氏之を許して、逆に満幸を京から追放・・・かくして、不満ムンムンの満幸は謀反を決意し、娘婿に誘われた氏清も挙兵をします(くわしくは12月23日参照>>)

元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、それぞれの地を発って京に向かった氏清と満幸・・・

その噂を聞きつけ、義満についていた家臣の中からも氏清らを支持する者が現われ、彼らは続々と京を出て、氏清らの軍勢と合流していきます。

この状況を見た幕府側では、12月25日に軍議を開き、果たして「合戦に挑むべきか」、はたまた「説得して柔軟は対応をすべきか」の論議が交わされます。

しかし、かの義満はかなり強気・・・
「こうなったら、この足利と山名と、どっちが強運なんか、天に任せてみようや!」
と、決戦あるのみを主張し、幕府の姿勢は、「京に向かってくる氏清らを迎え撃つ」という事に決定します。

しかも義満は、合戦に有利な要害の地を選ぶ事無く、あえて都での市街戦を選び、そのいでたちも、伝家の鎧を着けず、簡易な防具を着用・・・
「敵なんて呼べるほどでもない単なる下僕の退治には、これで充分や!」
と意気込みます。

かくして12月29日夜から、山名勢は続々と京都に集結し、それを受けた幕府勢も、京都市内の要所々々に軍勢を配置・・・義満は内野に陣を張ります。

なので、この明徳の乱は内野合戦とも呼ばれます。

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現在の千本通押小路上がる東側にある朱雀門跡の碑…かつては、ここから北(写真奥)が内野と呼ばれた場所でした(くわしい場所は、本家HPの京都歴史散歩「平安京の遺跡を巡る」でどうぞ>>

内野(うちの)とは、平安京の宮殿のあったあたりの事で、以前書かせていただいたように(2010年10月22日参照>>)、平安時代の火災によって大極殿などが焼失し、それ以来再建される事もなく、周辺は荒れる一方で、はじめは宴の松原あたりの呼び名だった内野が、鎌倉時代頃から後は、宮城一帯が内野と呼ばれていたんですね。

そして、いよいよ元中八年・明徳二年(1391年)12月30日早朝、氏清の弟・山名義数(よしかず)らの軍勢が二条大宮より侵入・・・幕府側の大内義弘(おおうちよしひろ)(12月21日参照>>)の軍勢とぶつかり、合戦の火ぶたが切られたのです。

4時間ほどの激戦の末、山名の不利を見てとった義数は、果敢にも義満本陣への突入を試みますが、あえなく討死・・・

・・・と、その頃、丹波口から侵入して来た満幸率いる軍勢は、幕府側の細川頼之(ほそかわよりゆき)畠山基国(はたけやまもとくに)京極高詮(きょうごくたかのり)らの軍勢と衝突し、ここでも激しい戦闘が開始されます。

一方、義数の軍勢と相対していた大内勢の交代要員として控えていた赤松義則(あかまつよしのり)の軍勢は、次に北上して来た氏清勢と対決・・

やがてその戦闘の激しさから、お互いに多数の死傷者が続出・・・ここに来て、義満は自らの馬廻(うままわり)勢=親衛隊を投入し、満幸勢を市街の西へと後退させ、満幸は丹波に向けて逃亡します。

この時、渦中の一人である時熙は、義満の馬廻の中にいましたが、
「この戦いは、もともと俺らの戦い…そこへ義満さんが参戦してくれたおかげで、こうして迎え撃つ事ができてるんや!」
と、俺がやらんで誰がやる?とばかりに手勢50騎余りを引き連れて駆けだし、氏清の本陣へ突入・・・しかし、氏清勢は強く、またたく間に手勢を失い、家来たちの犠牲によって、何とか生還しました。

こうして、しばらくは強い氏清勢に悩まされる幕府側でしたが、その後、一色詮範(いっしきあきのり)斯波義重(しばよししげ)らの援軍を投入し、さらに、義満自らが、待機していた堀川の一色邸から馬に乗って戦場に向かい、いつしか形勢逆転・・・

不利な展開を察した氏清は、一旦落ち延びようとしますが、いつしか一色勢に囲まれてしまいました。

『忠義士抜書』によれば、この時、氏清のかたわらには、未だ17歳の山名小次郎丸なる武者がいたのだとか・・・

彼は、山名と名乗って一族の一人となってはいますが、実は氏清の本当の息子ではなく、ある出来事で将軍義満に反発した実父が討たれてしまったため、その後、氏清のもとで養育されていた少年・・・

もはや、軍勢は散り々々となり、死を悟った氏清は、未だ年若い小次郎丸を不憫に思ったのか?
「お前は残った者を連れて落ち延びろ!
合戦は、この戦いだけやないねんから、ここは命を大事にして、後に態勢を整えて10倍返しやったれ!」

と、言います。

しかし、小次郎丸は
「それはお受けできません。
皆でともに逝くほうが、心安らかに逝けますがな。
皆が大将の周りに寄り添っていれば、計略にハメられてやられたんやなと思てもらえますが、ここで僕らだけが落ちたら、臆病風に吹かれて逃げやがったと人は思うかも知れません。
卑しい身分の僕を、ここまで立派に育ててくれはった恩、ここで報いなどないしますねん。
お供してこそ本望ですわ」

と・・・

果たして、一色勢との数度のぶつかり合いの後、体中に傷を受けた小次郎丸は、「もはやこれまで!」と自害する氏清を見送った後、
「こうなったら、何のための命でもあれへん」
と、彼も見事な自害を遂げたという事です。

結局、その氏清の首を取ったのは一色詮範・・・首実検で、その首を確認した義満は
「神も許さん謀反人の成れの果てを、お前ら、よぅ見とけ」
と、その場にいる者に示したとか・・・

こうして、明徳の乱は幕府軍の勝利となったのです。

『明徳記』によれば、その戦死者は、山名方が879名、幕府方も160名以上だったとか・・・

で、この後、開けて正月4日に、戦後の事についての評定が行われるのですが、

乱に加わりながらも、戦いに積極的でなく、途中で降伏して謝りまくった山名氏家(うじいえ)因幡(いなば=鳥取県東部)こそ安堵されたものの、当然の事ながら、敗走した満幸、戦死した氏清らの領地は勝組の物となるわけで・・・

ところが、これが・・・
満幸の領地の中では伯耆(ほうき=鳥取県中西部)のみが氏之の物になっただけで、残りの隠岐(おき=島根県隠岐)出雲(いずも=島根県東部)は京極高詮の領地に、丹後(たんご=京都府北部)は一色詮範の領地として与えられました。

氏清の領地も、但馬(たじま=兵庫県北部)だけが時熙に与えられ、丹波(たんば=兵庫県北東部と京都府中部)細川頼元(ほそかわよりもと=頼之の弟で養子)山城(やましろ=京都府南部)は畠山基国に、和泉(いずみ=大阪府南西部)は大内義弘に・・・

さらに、実際には領国の紀伊(きい=和歌山県と三重県南部)を動かなかったにも関わらず、氏清からの出陣要請にOKの返事を出していたとして、氏清の弟・義理(よしただ・よしまさ)の領地を没収し、紀伊を大内義弘に、美作(みまさか=岡山県北東部)を赤松義則に与えたのです。

ちなみに、さすがに義理も黙ってはおれずに抵抗しますが、大内と赤松に攻められて敗走し、最終的に出家してます。

つまり、この合戦後に山名に残ったのは、因幡と伯耆と但馬の3ヶ国のみとなってしまったわけです。

まさに義満の作戦成功・・・見事、山名を弱体化させた事になります。

そんな山名を、再び「六分一殿」に戻すのが、時熙の息子・持豊=山名宗全(やまなそうぜん)なのですが、宗全については、そのご命日の3月18日のページでどうぞ>>
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2013年12月23日 (月)

足利義満VS山名氏清・満幸~明徳の乱への道

 

元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、山名氏清満幸らが室町幕府に対して起こした明徳の乱において、両者が京に向けて出立しました。

・・・・・・・・・・・・

今回の明徳の乱を引き起こす山名氏清(やまなうじきよ)満幸(みつゆき)山名氏は、上野(こうずけ)多胡郡山名郷(群馬県高崎市)を出身で、源氏の流れを汲む新田氏の一族でしたが、早いうちから足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)に属して、ともに鎌倉討幕(5月7日参照>>)に活躍しました。

その後、尊氏が、後醍醐(ごだいご)天皇反旗をひるがえした時(8月19日参照>>)も、そのまま尊氏に従い、北朝勢力として戦いますが、その北朝が分裂した観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)では、尊氏と対立した弟=直義(ただよし)に味方にするも、その直義が死ぬと、あっさりと帰参して後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)との八幡合戦(3月24日参照>>)にて活躍・・・

しかし、その恩賞の件で佐々木道誉(どうよ)と対立するやいなや南朝へと降り、亡き直義の養子となっていた尊氏の息子=直冬(ただふゆ)を担いで、南朝側の武将として京へと攻め昇りました(6月9日参照>>)・・・

この頃の山名氏の惣領が山名時氏(ときうじ)・・・ところが、その京への進出から10年後の正平十八年・貞治二年(1363年)に、またまた北朝=幕府へと戻ります。

実は、この時、山名と同時に周防(すおう=山口県南東部)大内弘世(おおうちひろよ)も幕府側に寝返っているのですが、この時に幕府の出した条件が所領の安堵・・・周防と長門(ながと=山口県西部)の2ヶ国を領する弘世と、因幡(いなば=鳥取県東部)伯耆(ほうき=鳥取県中西部)美作(みまさか=岡山県北東部)丹波(たんば=兵庫県北東部と京都府中部)丹後(たんご=京都府北部)の5ヶ国を領する時氏に、
「所領を安堵するから北朝=幕府に来てよ」と・・・

ご存じのように、大内と山名は西国の二大巨頭・・・正平十三年・延文三年(1358年)に亡くなった父・尊氏の後を継いで室町幕府2代将軍となっていた足利義詮(よしあきら)は、彼らを味方にする事で、もうウンザリな南北朝の動乱を、とにかく終わらせたかったのです。

おかげで南朝は虫の息となり、事実上争乱は治まったわけですが・・・

しかし、この義詮の采配は、ず~っと幕府側についていた武将からは不満を買い、また、何となく「将軍が折れた」感じにも見えなくもないわけで・・・

こうして、その全盛期では、一族を合わせれば11ヶ国もの領地を持っていた山名氏・・・当時の日本全国が60ヶ国ほどであった事から「六分一殿(ろくぶんのいちどの)=つまり、全国の6分の1を持ってると言われたほどの盛隆を誇ったのです。

そんな中、応安元年(正平二十三年・1368年)に、義詮の死を受けて、わずか11歳で3代将軍となったのが、息子・足利義満(よしみつ)です。

そう、この時、将軍に就任した義満には、強大になり過ぎた守護大名を弱体化させ、自らの将軍権力を確立させなければならないという使命があったのです(12月30日参照>>)

そんなこんなの義満が目をつけたのが、決して一枚岩ではない山名一族の現状・・・

実は、かの時氏が、 建徳二年・応安四年(1371年) に亡くなっているのですが、この時、その所領は、息子たちに、ほぼ均等に分配されます。

武家の相続と聞けば、兄弟の中で能力があって、当主となる一人が継いで・・・とイメージしますが、この頃は、ちょうど、そのシステムの移行時期で、それが確立するのは、もう少し後の戦国時代。

さらに江戸時代になると能力に関係なく長男が相続・・・って事になるのですが、この時期は未だ、各家々でそれぞれ違っていたわけです。

Meitokunoranyamanakeizu ・・・で、この時の山名の場合は兄弟それぞれに分配されて丸く収まったのですが、その父の死からわずか5年後に長男の師義(もろよし)も亡くなってしまった事で、盤石だった山名一族が揺るぎはじめるのです。

そうです・・・領地は、なんだかんだで分割してでも丸く収める事はできますが、一族のトップとなる惣領というのは一人です。

この時、亡くなった師義の息子たちが、まだ年少だったため、とりあえず、弟の時義(ときよし)が中継ぎの惣領となりますが、その時義が、次期惣領に師義の次男・氏之(うじゆき)を指名したのです。

これは、長男の義幸(よしゆき)が病弱だったからなのですが、この決定に不満を抱いたのが、長兄の義幸を、代官としてサポートしていた四男の満幸・・・

彼は、その病弱な兄に代わって、その職務のほとんどを代行してうまくやっていたわけですが、それが「病弱だからダメ」と言われると、自分のやって来た事が「ダメ」と言われているに等しいわけで・・・

そんなこんなの元中六年・康応元年(1389年)、その時義が亡くなり、その所領は息子である時熙(ときひろ)と、養子となっていた氏之に分配されます。
(ちなみに、この時熙さんが、応仁の乱の西軍大将で有名な山名宗全(そうぜん=3月18日参照>>)のお父さんです)

一方の満幸も、この頃は、すでに病弱な義幸から、その所領を継承していたのですが・・・それでも、その不満は未だ解消されず・・・

Yamanauzikiyo400 ・・・で、この不穏な空気をすかさず察した義満・・・
「アイツら、なんか最近、将軍の俺をナメてるような態度とりよんねやんか・・・一発、やったってくれへんかな」
と、満幸と、その義父(娘が満幸と結婚)である氏清に、時熙と氏之の討伐を命じるのです。

果たして元中七年・康応二年(1390年)3月・・・氏清は時熙を、満幸は氏之を攻め、見事彼らに勝利したのです。

ところがドッコイ、その後、すぐに義満は、あっさりと時熙と氏之を赦免・・・二人を京に呼び戻したばかりか、今度は逆に満幸に、後円融(ごえんゆう)上皇荘園を横領した疑いをかけ、京から追放したのです。

「なんじゃ?そら!」
「何やってくれとんねん!o(゚Д゚)っ

と、満幸じゃなくとも思うはず・・・

かくして元中八年・明徳二年(1391年)12月23日、娘婿の強い求めを受けて謀反を決意した氏清が領国の和泉(大阪府南西部)を出立・・・一方の満幸も、隠れ住んでいた丹後を出立し、京へと向けて軍勢を進めたのです。

これが、世に言う明徳の乱(内野合戦とも)ですが、この続きのお話は、戦闘が開始される1週間後・・・12月30日のページでどうぞ>>m(_ _)m
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2013年12月18日 (水)

宇田川玄随と津山洋学

寛政九年(1798年)12月18日、津山洋学の牽引者として活躍した江戸時代の蘭学&医学者・宇田川玄随が死去しました。

・・・・・・・・・・

「津山洋学」という言葉をご存じでしょうか?

津山というのは、旧美作国=現在の岡山県にある、あの津山ですが、恥ずかしながら私・・・その津山には何度か行った事があるにも関わらず、けっこう長い間、この言葉を知らずにおりました(*´v゚*)

Dscn2710a800 津山城(鶴山公園=岡山県津山市)

・・・で、洋学というのは、文字通り西洋学=西洋諸国の学問という事です。

最近は、江戸時代の日本は、交流する国を制限していただけで、国を閉ざしていたわけではないので鎖国という言葉は適切でない」なんて事も言われますが、その通りで、鎖国中にも、オランダを通じて、様々な西洋の知識が入って来ていたわけで・・・

ただ、やはり、その多くはオランダの学問でしたから、有名な蘭学(オランダの学問)という言葉がよく使われますが、同時に、広く西洋全般の・・・という意味で、洋学という言葉もあったわけです。

・・・で、当時の津山藩が藩医として登用していたのが宇田川家・・・宇田川玄随(うだがわげんずい)は、この津山藩の江戸詰め藩医を勤める家系に生まれます。

もともとは、代々受け継ぐ漢方医だった玄随でしたが、幕府奥医師だった桂川甫周(かつらがわほしゅう)や、『ターヘル・アナトミア』=『解体新書』(3月4日参照>>)で有名な杉田玄白(げんぱく)前野良沢(りょうたく)らと交流するうち、その影響を受けて蘭学を学び始めたと言います。

間もなく、その才能はメキメキと開花し、やがて、宇田川家蘭学の初代として、養子の宇田川玄真(げんしん)をはじめとする宇田川一門を引っ張って行く存在となるのです。

そんな中で、玄随は、オランダ医師・ホルテルの内科書の翻訳に着手・・・『西説内科撰要(せいせつないかせんよう)を刊行します。

上記の通り、外科の医学書は『解体新書』として翻訳されていましたが、未だ内科の医学書の翻訳はなされておらず、玄随のこれが日本初という事になります。

ただ、最初に翻訳した物は、訳すのが難しい部分をオランダ語を音訳して切り抜けたせいで、かなり読みづらい・・・納得いかない玄随は、改訂版を企画します。

しかし残念ながら、未だ、その改訂版の完成を見ない寛政九年(1798年)12月18日、志し半ばの43歳で、この世を去ってしまうのです。

しかし、それは玄随が敷いた後進の道へと、しっかりと受け継がれます。

江戸で始まったその作業は、玄随亡き後、弟子たちの手で版元を大坂に移して続けられ、玄随の死から2年後の文化七年(1810年)、全18巻が完結・・・文政五年(1822年)に刊行されました。

もちろん、この仕事の完結だけではなく、その後にも、玄随のまいた種は次々と花開き、冒頭に書いた「津山洋学」という言葉が生まれるほど、この津山藩での洋学は時代の最先端を走り、最新情報をいち早く取り入れては研究し、広く民に発するという役目を担う事になるのです。

そこには、ここ津山藩の第8代藩主となった松平斉民(まつだいらなりたみ)の存在もありました。

子だくさんで有名な第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)(1月7日参照>>)の十四男として生まれた斉民は、第7代津山藩主の松平斉孝(なりたか)の養子となり、天保二年(1831年)に15歳で藩主を継ぎますが、藩の財政再建にも力を注ぎ、その誠実さから将軍家からもいちもく置かれていたと言われる名君・・・

そんな彼が、山に囲まれ、資源の少ないこの津山という場所においては、「人材こそが宝である」と称して、教育に、そして人材育成に力を注ぐように指導したのです。

それは、現在で言うところの奨学金制度を設けたり、優秀な人材には、幕府の研究職への登用の道も開かれていたと言います。

このように、玄随が道を開き、斉民が応援した津山洋学・・・

ところで、玄随の後を継いだ玄真は、亡き養父の遺作の改訂作業のかたわら、文化二年(1805年)に、解剖生理学書である『医範堤綱(いはんていこう=和蘭内景医範堤綱)なる書物を出版していますが、実は、この本、当時は、あの『解体新書』よりも、はるかにベストセラーとなった医学書なのです。

『解体新書』よりも、わかりやすく読みやすい『医範堤綱』が、江戸時代の庶民にはウケたのでしょうね。

おかげで、彼らの津山洋学から発生した言葉は、医学用語だけにとどまらず、幅広く用いられる日本語となります。

そう、先にリンクした『解体新書』のページ(再びですが…3月4日参照>>)でも書かせていただいたように、オランダ語の医学書を翻訳するに当たっては、同じ意味の日本語が存在しないため、彼ら翻訳者たちは、それに見合う新たな日本語を作ったわけですが(『解体新書』では「神経」や「処女膜」etc)

彼ら宇田川一門も、同じように造語を作っています。

「細胞」「気管」「尿道」やら・・・

しかも、『解体新書』では、「厚腸(こうちょう)となっていた器官を「大腸」「薄腸(はくちょう)となっていた器官を「小腸」と、津山洋学では言い換えているのですが・・・

そうです、現在も使われているのは、津山洋学の彼らが作った造語の方なのですよ。

他にも、「酸素」「水素」「窒素」「炭酸」「硫酸」「酸化」「還元」、果ては「繊維」「金属」も・・・

さらに、音を漢字表記した「瓦斯(ガス)「珈琲(コーヒー)・・・などなど

もはや、津山洋学生まれの言葉失くしては、日常会話ができないんじゃないか?と思えるくらいですよね。

こうして、玄随に始まった津山洋学は、彼を引き継いだ宇田川一門と、同じく津山藩医に登用されていた箕作(みつくり)一門を中心に、医学のみならず、文化や外交にも多大な業績を残す中で、後進への教育にも尽力・・・

それは、やがて幕末の動乱を迎え、開国から維新へと向かう日本の若者に多大な影響を与えたと言われています。

ちなにみ、適塾種痘を行った事で有名な、あの緒方洪庵(おがたこうあん)(6月10日参照>>)も、宇田川玄真の門下生の一人だという事です。
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2013年12月11日 (水)

アンケート企画「あなたが信じたい生存説は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「あなたが信じたい生存説は結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
ふふ~~ん( ̄ー ̄)ニヤリ
予想通り、アノ方とアノ方の2大巨頭対決でしたね~~

まぁ、今回は0票の項目が無かった事も、考えた側としてはウレシイ…
って事で、とりあえずは、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
31票
源義経
最終段階での2位の追い上げをかわし堂々の1位…やはり、生存説自体の知名度かな?
2位
27票
明智光秀
追い上げ間に合わず…しかし、コチラも生存説に+αつきで堂々の2位!
3位
15票
織田信長
やはり戦国の人気スターは強い!!
4位
11票
安徳天皇
周囲に翻弄された人生…最後は安らかにと願いたい
5位
8票
豊臣秀頼&真田幸村
♪鬼のようなる♪のハヤリ歌からセットにしてみましたが、個別に…という希望もいただきました(*_ _)人ゴメンナサイ
6位
6票
原田佐之助
やはり新撰組ファンからの推しが!
7位
5票
源為朝
意外に喰い込みました~男のロマンですかね~
8位
3票
西郷隆盛
もう少し上位に喰い込むのでは?と思ってましたが…
9位
2票
以仁王
平維盛
後藤又兵衛

又兵衛さんはともかく、以仁王と維盛さんは、知名度のワリにはなかなかの健闘では?
12位
1票
楊貴妃
淀殿
天草四郎
大塩平八郎

1票でも賛同していただいてホッとひと安心…淀殿は秀頼とセットの方が良かったかしらん?
その他 14票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 豊臣秀頼は生存、幸村は茶臼山で死亡!詳細は下のコメント欄で(桃色熊軍曹さん)
「投票パーツのコメント欄で収まりきれないコメントは、募集ページのコメント欄でどうぞ>>(*^-^)」
明智光秀 日光に地名もありますし・・・半ば信じてます^^;(50歳代/男性/埼玉)
「やはり、状況証拠的な物が…ですね」
秀頼&幸村 もしも、、と思うと楽しい(50歳代/女性/茨城)
「そのシーンを思い浮かべるとドラマチックです(*^.^*)」
安徳天皇 一番‘ありえない事はない’と思えるから。(50歳代/女性/東京)
「高貴なお方ですからね~」
その他 イエス・キリスト 青森にキリストの墓があります(40歳代/男性/青森)
「十和田湖の近くに、昔は戸来(ヘライ=ヘブライ?)村という村もあったとか…以前、学研ムーで見ました!」
源義経 まったく関係はありませんが、実家の家紋が丸無し笹竜胆なので。遠い遠いご先祖さまの親戚のお兄さんだったかもと思うと生存説を信じたいですね。(50歳代/女性/埼玉)
「繋がりがあると感じると思い入れも強くなりますね~
源義経 判官びいきです。(50歳代/男性/岡山)
「私もです(*^.^*)
明智光秀 謀反の事実の信憑性?(50歳代/男性/神奈川)
「明智さんですからね~」
安徳天皇 四国の奥山に逃れられたと伝えられ、高知県東部にも平家の末裔を名乗る家が多くあるようです。(60歳代/男性/東京)
「四国には平家の落人伝説が多く残ってますね」
明智光秀 明智光秀が天海和尚へ・・・というのは実に楽しい。その後の家康の天海さんや明智関係者登用を客観的に見ると、2人の間に密約があったのでは?と思わせます。(50歳代/男性/兵庫)
「ホント、妄想を膨らませたくなる、その後の行動ですよね~」
その他 アドルフ・ヒトラー(40歳代/男性/静岡)
「確かに…死にまつわる疑惑がイロイロと囁かれてますね
その他 北条時輔。あの大河ドラマが結構好きだったので。(20歳代/女性/岐阜)
「あの大河、良かったですね~渡部さん、カッコよかった(*´ェ`*)」
明智光秀 やっぱり謎が多すぎる。天海も含めて絶対光秀??(20歳代/男性/奈良)
「謀反も謎なら死に方も謎…オマケに天海も謎」
明智光秀 天海と同一人物と信じたい。(40歳代/女性/宮城)
「…ですよね~妄想は膨らみます」
天草四郎 15歳の若さで30000人を率い、幕府に反抗。彼が生きていたら、日本の民主化はずっと早く進展していただろうに。(50歳代/男性/埼玉)
「数々の奇跡を起こした天草四郎ですから」
明智光秀 天海の行った事は光秀が生きていたらそうゆう事をしたのではないかと思うので「明智光秀」に一票入れました。(40歳代/男性/神奈川)
「日光東照宮の家紋も謎ですもんね~」
明智光秀 確実!天海=明智
「やっぱり…そうですよね~」
源為朝 ロマンがある(10歳代/男性/岐阜)
「戦国を思わせる武将のカッコ良さですよね~」
源義経 判官贔屓では無いですが
「大陸へ…の妄想も捨て難い(*´v゚*)ゞ」
安徳天皇 自ら死ぬにはあまりに幼いのであわれ・・・という心情ですね。(40歳代/女性/愛知)
「願望として、生きていていただきたいという感じですね
秀頼&幸村 信繁ではなく幸昌(大助)もしくは大野治房がいいです。
「そうですね~それもアリかな?」
明智光秀 とってもいい城主だった!と先日もTVで。今も所縁のあった地域で大切に祀られているそうな。生き延びていて欲しいよね^^(40歳代/女性/山口)
「福知山には由良川の氾濫を防いだ明智薮が残ってます!」
源義経 あまりにも悲哀過ぎます(60歳代/男性/長野)
「お兄ちゃんのために一所懸命に平家をやっつけただけなのに(ノ_-。)」
原田佐之助 はじめまして。いつも楽しく拝見させています。新撰組ファンとしては、左之に入れるのが筋でしょう(笑)でも土方歳三にもロシアでの生存説があるんですよね。では、また。(40歳代/男性/広島)
「ありましたね~函館を脱出してロシアへ…ですね」
安徳天皇 なぜなら、うちの旦那のご先祖がこの方の流れを汲んでいると、先代のばー様が言ってたそうです。なんだかなー。(50歳代/女性/千葉)
「おぉ!ご先祖様がw(゚o゚)wて事は旦那様も…」
織田信長 願望です・・・。(60歳代/男性/大阪)
「なんせ、着物の燃え残りがあるのに遺体は見つかってませんから…」
源為朝 昔、伊豆諸島に住んでいたことがあるので(40歳代/男性/千葉)
「伊豆諸島から脱出!!ですね」
安徳天皇 そもそも船には乗らず忠実で温かい人達に預けられて、どこかの田舎で幸せに人生を送られたと思いたいです。(20歳代/女性/奈良)
「平穏な日々を送ってていただきたいです」
楊貴妃 命が助かり日本に逃げたのではなく、日本から熱田明神が楊貴妃となって唐に渡った伝説が地元に残っているので、こちらの伝説を支持します(40歳代/女性/愛知)
「そんな伝説がw(゚o゚)wって事は、亡くなったのは中国で…って事になるのでしょうか?
明智光秀 ほんとだったら良いですね。(30歳代/男性/岐阜)
「ですよね~(*^.^*)」
明智光秀 黒幕が誰なのか、だれか教えて(40歳代/男性/広島)
「光秀が生きて天海となったのなら、家康でしょうね~
淀殿 同じ女性として尊敬できる存在であり、憧れの女性。最後まで豊臣の為戦った女性。 生きててほしいと願ってしまいます。(30歳代/女性/京都)
「悲しい生存説ではなく、穏やかな老後を過ごしていただきたいです
明智光秀 逃げ延びて成し得たことの大きさと,もっともらしさに1票(40歳代/男性/愛知)
「生存説はあっても、その後は音沙汰なしがほとんどですからね~」
原田佐之助 愛媛で昔語りをしていたという説があるので…信じたいです!(10歳代/女性/愛媛)
「昔語りというのが佐之助さんらしい気がします
源義経 子供の頃、最初に知った武士のヒーロー(アイドル)です。肖像画を見たときはイメージとの違いに戸惑った思いでがあります。(50歳代/男性/神奈川)
「私も、最初に知った武士のアイドルかも(*´v゚*)ゞ」
明智光秀 優秀な方だっただけに、そうであったらいいのに。(40歳代/女性/愛知)
「信長に是非に及ばずと言わせた人ですからね~」
西郷隆盛 西郷どん大好きでごわす(40歳代/男性/千葉)
「西郷さんの人気は衰えませんね~」
安徳天皇 ラジオで「安徳天皇は竜宮ではなく琉球へ逃れたのだ」と聞いたことがある(30歳代/男性/東京)
「海の下にも都が…では無く、海の向こうにも都が…ですね」
源義経 生存にまつわる伝説の多さからいってもこの方以外考えられません。(40歳代/女性/埼玉)
「東北から北海道~モンゴルまで、逃げたとされる道筋に伝説がありますからね~」 
その他 いつも楽しく拝見致しております。私は男装の麗人、川島芳子に一票です。今後の新証拠発見に期待しています。(10歳代/男性/兵庫)
「直後から替え玉説が囁かれていますね」
源義経 義経生存説は結構信じてるかも。そうそう、信長が生きてたら、色んな人が真っ青でしょうね(笑)(30歳代/男性/福岡)
「信長が生きていたら…報復が恐ろしい」(;´Д`A ```
西郷隆盛 郷里が鹿児島だから(40歳代/男性/鹿児島)
「やはり鹿児島では西郷さんですね~」
その他 軍神の血脈を読んだので楠木正成(30歳代/男性/東京)
「そう言えば、鎌倉幕府との戦いの時に、1度死んだと噂されるも生きてましたからね~」
織田信長 信長の代で買った恨みを死んだと見せかけて清算して後継が天下を治め易くしたかった、とかありえないけど信長ファンとしては妄想してみたい笑(10歳代/男性/大阪)
「生きて何かをやっていていただきたい!」
織田信長 やっぱり信長さん!でも…生きていたら秀吉さんの天下を黙って見てるとは思えないから、もしかしたらとはホントには思えないのが悲しい。(40歳代/女性/千葉)
「何年か前のファンタジー戦国モノで江が信長に見えた時みたいに、秀吉がひれ伏すかも…」
源義経 ジンギスカンの大陸での戦い 義経そのものの戦法です。、(40歳代/男性/大阪)
「誰も考えつかないような奇襲戦!」
源義経 数百年に渡り生存説を伝えてきた人の思いが強く感じます!!生きていて欲しい。そう思わせた人物だったのだろうと思います。(30歳代/男性/滋賀)
「判官贔屓は日本人のDNAに刻まれてます!」
その他 土方歳三(20歳代/男性/神奈川)
「やはりロシアへ…ですか?」
後藤又兵衛 単に後藤又兵衛が好きだから。というか、一本芯の通った豪傑って感じだから。(60歳代/男性/兵庫)
「豪傑って言葉が似合いますもんね~」
源義経 義経が、生きていたら鎌倉幕府は源氏の時代がもう少し続いたと思う。(50歳代/女性/北海道)
「頼朝さんには兄弟仲良くしていただきたいです」
秀頼&幸村 秀頼はともかく、幸村のために歴史研究やってますから。秀頼は遺体不明ですし、その後出てきませんからね。淀殿も同列でお願いしたかったです。(60歳代/男性/愛知)
「徳川の末梢した文書がいつか見つかりますように( ̄人 ̄)」
その他 蘇我入鹿 クーデター失敗してたら今の日本はどうなってるんだろう。(40歳代/男性/愛知)
「う~ん…首が飛んでますからね~でも、歴史のifを妄想するには1級の題材です」
源為朝 幼いころよんだ弓張月での活躍が忘れられません(30歳代/男性)
「幼いころに弓張月を…すばらしいです(゚▽゚*)」
その他 外国人でも構わないのならエルビス・プレスリーですね。死後35年以上経過してますが、米国では「実は生きている」と言うウワサがあります。(30歳代/男性/千葉)
「ありますね~それだけファンの方が多いという事でしょうね」
原田佐之助 最近読んだ小説「ごろんぼ佐之助」でも生存説が採用されていました(30歳代/男性/岐阜)
「小説でも生存説だったのですね~」
豊頼&幸村 秀頼さんは生きていてほしいなあ(10歳代/男性/大阪)
「大阪在住豊臣ファンとしては生きていていただきたいです~」
安徳天皇 高知ですから(^.^)高知には武田勝頼生存説もありますよ♪(40歳代/女性/高知)
「生存説があるんですね~名前を変えて生き延びて、けっこう活躍したと…ロマンですね~」
明智光秀 天海になったと信じてます。(40歳代/男性/千葉)
「私も、信じたいです(*゚ー゚*)」
織田信長 やはり織田信長ですね、もし生きていたら、その後の日本史も大きく違っていたんでしょうね。(50歳代/男性/新潟)
「意外と弥助に守られて…と妄想してます」
源義経 ロマンがあるので義経様で!w(20歳代/女性/神奈川)
「遥か大陸までGo!!!です」
明智光秀 天海に重なる部分が散見されると信じてみたくなります。笑。
「やはり状況証拠が…(*゚ー゚*)」
明智光秀 光秀=天海説は知っていましたが、ここまで物的証拠が多いと錯覚してしまいますね。(30歳代/男性/愛知)
「ひょっとしてひょっとするかも…」
その他 お市の方 喉仏が残っている(40歳代/女性)
「お市の方も生存説ありますね~忍者に救出されたとか…」
その他 武田勝頼(40歳代/男性/東京)
「やはり…高知では有名な伝説なのですね」
原田佐之助 同郷なので…そうであればよいなと。(30歳代/女性/大阪)
「同郷…だとそう思いますね~」
その他 明石全登(大和大納言秀長さん)
「投票パーツのコメント欄で収まりきれないコメントは、募集ページのコメント欄でどうぞ>>(*^-^)」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
その他 平家盛(高来郡司さん)
明智光秀 (hana-mieさん)
その他 坂本龍馬(やぶひびさん)
明智光秀 (伊集院みちこさん)
明智光秀 (たぬさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2013年12月 5日 (木)

映画『清須会議』の感想(ネタバレ少々あり)

 

先日、映画『清須会議』を見て来ました~

僭越ながら、本日は、その感想など・・・

とは言え、あくまで個人の感想である事とともに、お話するにあたっては少々のネタバレがある事をお覚悟のうえ、お聞きいただければありがたいです。

・・・まずは、ひと言で感想を言わせていただくならば・・・「期待通り」でした。

なので、オモシロイです。

ただ、私の場合、もともと三谷作品が好きなので、いつの間にか期待以上の物を期待していたわけで、そういう意味では、「期待通り」だったけど「期待以上では無かった」というのがホンネです。

なので、あの『のぼうの城』(11月9日参照>>)のような興奮&ワクワク感はなかったわけですが、随所に見られる小ネタの入れ具合は、さすがのウマさを感じ、クスリとする場面もあり・・・

三谷作品ファンの私としては、ドラマ『古畑任三郎』に見るような小気味いい心理戦を期待していたわけですが、そもそも、歴史上の出来事として、そのおおまかな流れを知ってしまっているものですから、「こうしてああしてこうなるんだろうな」と予想していたら、その通り「こうしてああしてこうなる」わけで、そこに、アッと驚くようなサプライズを盛り込む事には、はなから限度があるわけです。
(そこを、三谷さんだから…と期待していた事も確かですが(*´v゚*)ゞ)

すでに、いくつかのページで書かせていただいているように、家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀反=本能寺の変(2008年6月2日参照>>)にて織田信長が死亡し、家督を譲られていた嫡男・信忠(のぶただ)も亡くなってしまった事で、織田家の後継者を決める事になるのが、今回の『清州(清須)会議』ですが、

11人か12人いた信長の息子の中で、なんだかんだで上から順番という事で、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)と三男の信孝(のぶたか)との後継者争いになるわけですが、ここは、映画でもあったように、ほぼ同時期に生まれている二人なれど、信雄の母が生駒の方(生駒吉乃)(9月13日参照>>)なのに対し信孝の母の身分が低かったために、信長自ら、ちょっとだけ後に生まれた信雄を次男とし、逆に、先に生まれた信孝を三男としています。

ただし、これも映画であったように、武将として優れていたのは信孝の方だったと言われ(と言っても、信雄さんもあそこまでバカ殿ではないでしょうが←あのキャラ設定は、それこそ三谷作品のギャグという事で…)、そこに、後継者はどっちにする??って問題が起き、家臣の筆頭である柴田勝家(しばたかついえ)信孝を推し羽柴(後の豊臣)秀吉信雄を推すという構図になるわけです。

Toyotomihideyoshi600 ・・・で、どっちもどっちの両者の中で、最後の方になって秀吉が、信長とともに死んだ信忠の嫡男・三法師(さんほうし)を引っ張り出して、三法師を後継者に推す・・・

そうです。
先にもお話しましたように、すでに信長は信忠に家督を譲り、後継者と定めていたのですから、その嫡男である三法師が継ぐのは、むしろ妥当な線で、問題は、その年齢が幼い事くらい・・・で、その三法師の後見人に信孝を据える事で、四方丸く収まる・・・

この後の展開を知っている後世の人間から見れば、秀吉が口火を切った三法師が後継者となる事で、何やら、会議の勝利者が秀吉のように思ってしまいますが、この時点では、むしろ、勝家の勝利とも言える形だったというのがホントのところでしょう。

ただ、以前の清州会議のページ(6月27日参照>>)で追記させていただいたように、この会議決定の後に、幼い三法師を手なづけた秀吉が、その三法師を抱きかかえて、家臣たちの前に登場し、「織田家の当主となった三法師様である!頭が高い!」と言ってのけ、波いる家臣たちが、秀吉(に抱かれた三法師)の前にひれ伏す・・・というのがあって、なんだか勝利宣言のような印象・・・

このシーンは映画でも見せ場となってましたが、それが本当にあったかどうかはともかく、ここは歴史好きがやって欲しい名場面ですので、そういう意味でも「期待通り」という事になります。

また、映画では、この三法師の母が、武田信玄(たけだしんげん)の娘・松姫(12月18日の真ん中あたり参照>>)となっています。

私的には、三法師の生母は、別の人のように思っていて、信忠と松姫は1度も会った事が無いんじゃないか?なんて考えてますが、実際に、未だ母親は特定されておらず、生母が松姫だとする説もある(西山家文言覚書秘伝録)ようですので、そこのところは、松姫にする方が映画としてはオモシロイ・・・

映画の中で、三法師が後継者に決定した事を聞いた松姫が、
「これで武田の血を引いた者が天下人となる」
と不敵な笑みを浮かべるシーンは、あまたの歴史好きが「松姫が母なら、こうなるだろう」と妄想するシーンにピッタシカンカンで、これまた「期待通り」の場面を見せてくれるわけです。

なので、冒頭に書かせていただいた感想=「期待通り」だったけど「期待以上じゃ無かった」という事になるわけですが、歴史好きではなく、これらの清州会議の流れを知らない方にとっては、信雄VS信孝だったところに三法師を引っ張り出してどんでん返し、三法師を担いで高らかに笑みを浮かべる秀吉に、ほくそえむ松姫・・・となるのが、それこそ、小気味いい三谷ワールドとなるかも知れません。

ただ、残念なのは、あくまで清州会議が主であるため、そこに至る本能寺の変や山崎の合戦などのシーンがほんのわずかしかなく、ナレーションも無いため、予備知識無く、映画を見た場合に、「なぜに清州会議となったのか?」が、見ている側に理解できるのかどうかがいささか不安・・・

造り手側としては「そこは、これまで、ドラマや映画で何度も描かれているので、もうイイでしょ?」てな事なのかも知れませんが、ここまですっ飛ばしてしまうと、あまりにも人間関係が解り難い気がしました。
(この人誰、という人物名のテロップも出ないので)

つまり、歴史を知ってる人にとっては、歴史の通りに話が流れるだけだし、歴史を知らない人にとっては、会議の展開は楽しめても、周辺の状況がわからないのでは??と・・・
ちょうどええ感じのターゲットが少なすぎる気が(゚ー゚;

ただ、そこかしこに織り込まれるギャグは楽しめます。

(黒人の弥助(2月23日参照>>)がいるので、おそらく)天正九年(1581年)のお馬揃え(2月28日参照>>)に秀吉が出席しているのは計算ずくのツッコミ待ち?としても、

会議に遅れそうな滝川一益(たきがわかずます)(6月18日参照>>)が、供も無しに馬にも乗らずにたった一人で走り続けたり、そこに、あの『金縛り』の更科六兵衛(さらしなろくべえ)さんが出てきたり、

はたまた、堂々と中庭を走って暗殺に失敗する頼りない刺客や、信雄くんのバカ殿っぷりも・・・

とにかく、豪華でスゴイ役者さんたちの、リキ入れまくりの演技は、充分に見ごたえあり・・・長い上映時間にも関わらず、その長さを感じなかったですから、「期待通り」で「期待以上では無い」とは言え、私的には「オモシロかった」「見てよかった」という事になると思います。

PS:映画では、この後に、賤ヶ岳の戦い(4月20日参照>>)がある事を匂わせて終わってましたが、私としては、その賤ヶ岳の前に秀吉主導の信長の葬儀(10月15日参照>>)がある事も推したい(*^-^)
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