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2014年2月 4日 (火)

足利VS山名~南北朝・神南合戦

 

正平十年・文和四年(1355年)2月4日、北朝=幕府軍を率いる足利尊氏と、その息子の直冬を担ぐ南朝側の山名時氏がぶつかった神南(こうなん)合戦がありました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)ものの、その後に後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して京都へ攻め寄せた足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都に開いた室町幕府=北朝(8月15日参照>>)・・・

一方、京都を追われた後醍醐天皇が大和(奈良)吉野にて朝廷を開く=南朝(12月21日参照>>)・・・こうして始まった南北朝の動乱・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が亡くなった(8月16日参照>>)後も、京都を制圧し続けていた北朝でしたが、尊氏の右腕だった弟の直義(ただよし)が正平五年・観応元年(1350年)に敵対し、観応の擾乱(じょうらん)(10月29日参照>>)という内輪モメに発展・・・まもなく、直義の死を以って何とか収まるのですが、

これをチャンスと見た、今は亡き新田義貞(にったよしさだ)の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)義宗(よしむね=義貞の三男)脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが関東で挙兵し(2月20日参照>>)、尊氏がその鎮圧のために留守にしている間に、畿内では、後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇が挙兵して八幡山(京都府八幡市)にたて籠り、いち時は優勢となりますが、留守を預かる尊氏の息子=義詮(よしあきら)が何とか挽回・・・(3月24日参照>>)

しかし、この八幡の合戦で活躍したにも関わらず、佐々木道誉(どうよ)のが上層部にとりついでくれず、思うように恩賞が貰えなかった山名師氏(もろうじ)が、正平八年・文和二年(1353年)、不満モンモンのまま、父=時氏(ときうじ)とともに南朝方へと転身して挙兵しました。

しかも、ここに来て、尊氏の次男でありながらもソリが合わず、亡き直義の養子となっていた足利直冬(ただふゆ)を味方に引き入れる事に成功したばかりか、かの後村上天皇の「尊氏&義詮追討」の勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を得たのでした(6月9日参照>>)

かくして正平九年・文和三年(1354年)12月13日、直冬を総司令官に掲げた時氏・師氏父子は、5000余騎の兵を率いて伯耆(ほうき=鳥取県中西部)を出立したのです。

この時の北朝側・・・尊氏は在京していましたが、自らの手勢を義詮に託して播磨(はりま=兵庫県南西部)へと出陣させており、ほぼ無防衛な状態・・・京都での市街戦は不利と判断し、北朝の天皇である後光厳(ごこうごん)天皇(1月29日参照>>)を連れて、一旦近江(滋賀県)へと退きます。

明けて正月13日・・・直冬&山名勢は、尊氏勢がいなくなった京へと入りました。

すると、そこに越前(福井県)の守護=斯波高経(しばたかつね)が3000騎を引き連れて、「加勢しまっせ!」と合流・・・と、この高経さん、以前、瓜生兄弟のところ(1月12日参照>>)で出て来た人ですが、この時に金崎城(福井県)を攻撃していた事でもお解りのように、それまでは室町幕府側の重鎮で、あの運命の遭遇戦で新田義貞の首を挙げた(7月21日参照>>)人物です。

それが、ここに来ての、いきなりの寝返り・・・

実は彼・・・その義貞を討った時に、討ち取った人物が持っていた伝来の名刀=「鬼丸」「鬼切」という2本の刀によって、その首が義貞である事を確認するわけで、当然の事ながら、その2本の名刀は、その時点から高経の物となっていたのですが・・・

この「鬼丸」は、北条時政(ほうじょうときまさ)(1月6日参照>>)が所持していて「小鬼の災いを斬った」という伝説の刀で、以来、北条嫡流に伝わっていたのを、鎌倉討幕のおりに義貞が手に入れた物。

「鬼切」はさらに古く、源氏のカリスマである源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)(12月8日参照>>)の愛刀とされる物で、どちらも、お宝と呼ぶにふさわしい名刀でした。

・・・で、源平代々の重宝となれば、これまた当然の事ながら、尊氏も欲しい・・・そんなわけで、尊氏は、何度も何度も、高経に「ソレ、欲しい~の」「チョーダイ」と懇願していたのですが、

そんな中で、毎度々々の懇願がうっとぉしくなったのか?はたまた、断わり切れなかったのか?高経はとうとう、その名刀を尊氏に献上するのですが、実はそれがニセモノだったわけで・・・

しかし、そればすぐにバレ、ニセモノをつかまされた尊氏が激怒し、報復として恩賞の大幅削減という措置を取られていた、まさに、その真っ最中だった高経は、尊氏から離反し、南朝に寝返ったというワケです。

かくして、高経という強い味方を得た直冬&山名勢・・・一方、近江へと退いた尊氏も、また、播磨にいた義詮も、それぞれが戦闘準備をして連絡を取り、同時に行動を開始します。

それぞれの大将のところに北朝勢力が集まったのを確認した正平十年・文和四年(1355年)2月4日尊氏は30000余騎を率いて東坂本(滋賀県大津市)に到着・・・義詮は7000余騎を率いて山崎の西=神南(こうなん=高槻市神南:下記地図の上牧駅の北西の山です)の北の峯に陣取ります。

一方の直冬は、自らが高経以下7000余騎を率いて東寺に詰め、その兵は七条から九条を護り固めます。

大きな地図で見る

南朝軍のもう一手=山名父子は、5000余騎を率いて、神南とは淀川を挟んで対岸となる淀・鳥羽あたりに陣取り、そこから南へと続く八幡山(京都府八幡市)の山すそあたりまでは、援軍として駆けつけた南朝側の兵士・約3000騎が広がります。

やがて動きを見せはじめる戦場・・・義詮は、コチラが山に布陣しているとは言え、木々が生い茂っている険しい状態では敵の動向がつかめず、どこから攻めて来られるかわからないため、西の峯南の峯北の峯の三方に分れて陣を固めていたところ、まさに対岸にいた援軍の3000騎が一気に鬨(とき)の声を挙げて西の峯へと駆け上がって来ました。

もう一方の南の峯では、「さすがに、この険しい谷を登っては来れまい」と油断している北朝軍に向かって、山名父子率いる2000余騎が攻め上り、またたく間に西の峯と南の峯が破られます。

この勢いに乗って、さらに攻める山名軍に対し、押される北朝勢は総崩れ・・・逃走者が続出して、いつしか義詮の周囲は、わずかに100騎ほどになってしまいます。

無勢となった本陣・・・
「もはや、これまでか!」
と、義詮が自刃を覚悟した、その時・・・あの佐々木道誉が登場・・・

「大将、急ぎなはんな!自刃するんやったら、俺らが討死してからにしなはれ!」

・・・と、そこに迫る山名軍が見たのは、護衛の数も少なくなった大将の本陣と、そのかたわらにはためく四目結(よつめゆい)の家紋が描かれた軍旗・・・

「あの四目結紋は佐々木の家紋や!あそこに道誉がおるゾ!
そもそもは、アイツのせいで俺らは南朝に寝返ったわけやねんから、誰か、はよ、あの首取って、俺に見せてくれや!」

この言葉に奮起する山名軍でしたが、まさに、義詮まで二町(一町=約109m)ほどに迫った時、今度は赤松則祐(そくゆう・のりすけ)が、
「天下はこの戦いにかかってるんや!命惜しむな!名将の前でかっこええ散り際見せて、名を残さんかい!」
とゲキを飛ばします。

険しい谷を登る側と防ぐ側・・・ともに奮起すれば、残念ながら上に居る方が有利・・・さすがの山名軍でも敵に押されると、その気持ちはあれど、疲れ切った兵士は次から次へと谷になだれ落ちてしまいました。

「行け~~~!!」と声をかけながらも、ふと周囲を見渡した山名父子は、もはやその数の少なさにどうしようもなく・・・残念ながら山崎を目指して軍を退く事にしました。

しかし、そうなると勝ちに乗じて、退く山名軍に追い撃ちをかける北朝軍・・・このドサクサで師氏は左目を射られるという重傷を負ってしまいました。

Yodogawayuuhi4a 対岸の八幡・橋本側から淀川越しに神南方面を望む  

こうして、主力であった山名軍が敗北した南朝軍は全軍撤退を余儀なくされますが、未だ京都を制圧中・・・戦いそのものは、まだ終わりません。

このあと、尊氏VS直冬の、父子対決となる市街戦へと突入した東寺合戦(京軍)が終結する3月13日のページでどうぞ>>
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様

おはようございます。

今日のテーマは難しかったです。わたしにとって…。

さて、日本の皇室は、血脈からいけば「北朝」の流れをくんでしますよね。でも、万世一系と言って、天皇の代数を言ったりするときは「南朝」で確か数えますよね。

明治時代にある代議士が国会で教科書が「両党」(北朝・南朝)があるのは、「万世一系」と矛盾しているじゃないかとの質問をする予定だったのですが、政府はその代議士(名前忘れちゃいました。)を籠絡して、結局質問を取り下げさせた…という歴史があったようです。

現在の皇室は「北朝」の流れ、「万世一系」では「南朝」の流れ…。なんで、こんなことになっているんでしたっけ?

投稿: 鹿児島のタク | 2014年2月 5日 (水) 06時33分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

帝国議会に質問状を提出したのは藤沢元造議員で明治四十四年(1911年)の事ですね。

その時の様々な議論(教科書にどう載せるか?という問題も含め)の末に、北朝五代の天皇の尊号や御陵や御祭典などは現状のままという条件をつけて、内閣の上奏通りに南朝を正位とする事に明治天皇自身が「聖栽」されて以来、たぶん、そのままの状態を維持して現在に至る…だと思います。

このご質問は、もはや歴史では無く政治の分野ですので、政治が苦手な私には、ちょっと無理かな(笑)(^-^;
たぶん、ものスンゴイ枚数のレポート用紙を以ってしても語りつくせないような気が…スンマセン

投稿: 茶々 | 2014年2月 5日 (水) 12時11分

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