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2014年2月 9日 (日)

織田軍怒涛の進撃~甲州征伐開始

 

天正十年(1582年)2月9日、武田方に属していた木曽義昌の離反を受けて、信濃に出陣する事を決意した織田信長諸将に命令を下しました・・・世に言う『甲州征伐(こうしゅうせいばつ)です。

・・・・・・・・・・・

武田勝頼(たけだかつより)織田信長徳川家康連合軍が相まみえた長篠の合戦(5月21日参照>>)から3年・・・

その長篠で多くの老将を失った勝頼は、彼が、もともと諏訪家を継ぐはずだった事にこだわったり、今は亡き父・信玄を崇拝したりする家臣たちとの間に亀裂を生じながら(4月16日参照>>)、何とか武田家を盛り上げるべく、北条の第3代当主・北条氏康(うじやす)の娘を娶って同盟を結び(3月11日参照>>)徐々に勢力をつけて来る織田、度々侵攻して来る徳川に対抗する日々を送っていたわけですが、

その同盟からわずか1年後の天正六年(1578年)、越後(新潟県)上杉謙信の急死に始まった上杉家の後継者争い=御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)の時に、北条家から養子に入っていた上杉景虎(かげとら)ではなく、上杉景勝(かげかつ)と同盟を結んだ事で、その北条との同盟も消滅・・・

しかも天正九年(1581年)3月には、隣国との境界近くにある防御の要=高天神城を家康に落とされてしまいます(3月22日参照>>)

そのため、甲斐初の本格的な城・新府城を構築し、本拠を甲府から韮崎(にらさき)へと移して防備を強化しようと試みる勝頼でしたが、この新城の建築にかかる膨大な費用の負担に不満を持ったのが勝頼の妹・真理姫の嫁ぎ先である木曽義昌(きそよしまさ)でした。

天正十年(1582年)2月1日、かねてより、義昌の説得にかかっていた遠山友忠(きとおやまともただ)から、「義昌の調略に成功した」との報告を受けた信長は、義昌の弟・木曽義豊(きそよしとよ)を人質として差し出す事を条件に、援軍を出す約束をしたのです。

この夫の行動に激怒していたのは義昌の嫁である真理姫・・・早速、兄の勝頼に「義昌謀反」の一報を届け、夫と離縁して三男の義一(よしかず)を連れて姿を隠します。

翌日の2月2日に15000ほどの軍勢を率いて新府城を出陣した勝頼は、諏訪上原(うえのはら=長野県諏訪市)へと進出して陣を構え、出撃態勢を整えます。

続く2月3日、信長は、家康をはじめ、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)飛騨(ひだ=岐阜県北部)金森長親(かなもりながちか)らに進撃を命じ、自らは息子の信忠(のぶただ)との2手に分かれて伊那(いな=長野県上伊那郡&下伊那郡)へと進攻・・・先陣を切る森長可(もりながよし)団忠直(だんただなお)木曽・岩村(岐阜県恵那市)方面へと向かいます。

その伊那への入り口にあったのが滝ガ沢砦(長野県下伊那郡)・・・武田方は、ここを守りの要として下条信氏(しもじょうのぶうじ)に守らせていましたが、この状況になって弟の下条氏長(うじなが)兄を追放して織田方に寝返り・・・まもなく、この砦には織田の軍勢が入ります。

かくして天正十年(1582年)2月9日、信長は、この合戦における11項目に渡る命令を諸将に発したのです。

  • 今回、俺と一緒に出陣するのは大和(奈良県)の軍勢…これは筒井順慶(つついじゅんけい)に率いてもらうんで準備よろしく、ただし高野山寄りの連中は残して、吉野口を警固させてね。
  • 河内連判衆烏帽子形(えぼしがた=大阪府河内長野市)高野山雑賀(さいが・さいか=和歌山県北西部)方面を警戒しといてね。
  • 和泉一国(大阪府南西部)の者は紀州(和歌山県)に警戒
  • 三好康長(みよしやすなが)くんは四国へ出陣してな。
  • 摂津(せっつ=大阪府北西部と兵庫県南東部)の国は、池田恒興(つねおき)は留守番して息子二人が出陣してや。
  • 中川清秀(なかがwきよひで)は出陣してや。
  • 多田家も出陣してや。
  • 上山城衆は、いつでも出陣できるように用意しといてね。
  • 羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は中国地方全体の警備…
  • 細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)は息子の忠興(ただおき)一色満信(いっしきみつのぶ)を出陣させて、自分は自国=丹後(たんご=京都府北部)を警固するように…
  • 明智光秀(あけちみつひで)は出陣の用意をしておいてね
  • 以上なんやけど…遠方への出兵やさかいに大軍を率いる事無く少数精鋭で、兵糧の準備も充分に…けど、少数でも大部隊とおんなじくらいの成果を発揮できるよう頑張ってな。

てな感じです。

Odanobutada これを受けた息子の信忠が先発して2月14日に岩村に着陣すると、信長は、滝川一益(たきがわかずます)池尻秀隆(いけじりひでたか)らを派遣・・・

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すると、その様子を察した信州松尾(長野県飯田市)の城主・小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)が、「お味方しまっせ!」と声をかけて来たので、森長可と団忠直が先陣として妻籠(つまご=長野県木曽郡)方面から晴南寺(長野県下伊那郡)へと進撃し、さらに木曽峠から梨子野峠(なしのとうげ=下伊那郡)へ軍を走らせると、信嶺も合流して、あちこちに火の手が上がります。

これを受けた武田方・・・「もはや守りきれぬ」とみた飯田城(飯田市)坂西織部(ばんざいおりべ)保科正直(ほしなまさなお)は、城を出て退却しました。

2月16日には、それを追撃する森長可と迎え撃つ武田方が、鳥居峠(木曽郡~塩尻市)にてぶつかりますが、この戦いで武田方に多数の死者が出てしまいます。

さらに、そこに木曽方面から織田長益(ながます=信長の弟で後の有楽斉)らの軍勢が駆けつけ、またたく間に鳥居峠を占拠・・・この間に、信忠は飯田に陣を移動させました。

この時、その先となる武田方の大島(下伊那郡松川町)の城では、城主の日向宗秀(ひゅうがむねひで)が強固な守りを固めていましたが、信忠が攻めの姿勢を見せると、夜の闇にまぎれて逃走・・・こうして、織田方は大島城も占拠してしまったのです。

「開城→追撃→逃走→追撃→」と、何やら、武田方が、どんどん一方的に後退してる感が拭えませんが、やはり、2月はじめに妹婿の木曽義昌が離反した時点で、もはや、勝頼と諸将の亀裂はピークに達し、キッカケさえあれば怒涛のごとく崩れる態勢に陥っていたのでしょうね。

それは武将だけでなく、領民たちも同じでした。

信忠に先陣を命じられた森長可らが、さらに先の飯島(上伊那郡飯島町)まで進撃すると、前方から、、農民たちが自らの家々に火を放って、コチラに向かって来るのが見えます。

新城建設のために、重い税をかけられたり、労働力として駆り出されたり、はたまた、周囲に多くの関所を設けていたり・・・と、ここ最近の勝頼の領国運営に、庶民たちも不満をつのらせ、「加勢しまっせ!」とばかりに協力の申し出たのでした。

こうして始まった甲州征伐・・・もはや、織田方に吹く風は止まりませんでした。

このあと、2月20日には、別働隊で動いていた徳川家康が田中城を開城させ(2月20日参照>>)3月1日には、一族の穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)までもが武田を裏切る(3月1日参照>>)事になるのですが、そのお話は、それぞれのページで、、、

また、今回の主役である信忠隊がこの先向かう高遠城の戦いについては3月2【勝頼の唯一の味方・高遠城の仁科盛信】でどうぞ>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

もう勝頼゚(゚´ω`゚)゚。ピーですね

どこで間違えたんでしょうか?
近年では長篠敗戦はまだ致命的ではなく、高天神落城の頃にはがっちり包囲網が出来上がっていたというのが主な見方のようですので、やはり御館の乱での外交ミスが最大の原因なんでしょうか?

上杉家が出したお金に目が眩んだとか、北条家が公然と敵には回らないと思った程、知略の低い勝頼とは思えませんので、個人的には景勝側がこの時、何か交渉の席上で上手く嘘をついた(景虎の偽物を同席させて、和議がなって三家は味方同士になったので、遠路の費用を負担しますからお帰り下さいとか云々)んじゃないかと考えています。

投稿: | 2014年2月11日 (火) 09時40分

こんにちは~

>もう勝頼゚(゚´ω`゚)゚。ピーですね

ホントですね~
私も、合戦については、ひょっとしたら、信玄より勝頼の方が強かったんじゃないか?なんて事も考えますが、外交やら部下の掌握やらでウマく立ちまわれなかったように感じています。

投稿: 茶々 | 2014年2月11日 (火) 15時56分

茶々様、こんにちは。

>外交やら部下の掌握やらでウマく立ちまわれなかったように感じています。

そうですね。領土は信玄のときより拡大しています。もっと万能型なら、と思えますね。

投稿: いんちき | 2014年2月13日 (木) 10時29分

いんちきさん、こんにちは~

カリスマ的な父へのプレッシャーもあったのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2014年2月13日 (木) 13時14分

茶々さま。

いつもこっそり楽しんでいます。
ありがとうございます。

この「甲州征伐」のところも含めてお仕事でよくお話する部分です。(どちらかというと「武田の衰亡史」という形でお話するかな)
現地でお話すると話している方も気持ちが入ってしまって、お客様にはドン引きされかねない感じですが、
勝頼はどう思って事の成り行きを見ていたんだろうと、お話するたびに胸が詰まります。

カリスマ父ちゃんの息子はどうあっても臣下の目には頼りなく映ったでしょうし、他の家臣たちも自分や自分の家がかかっているとおもったら、悠長に構えてなんていられなかったでしょうから。

人が織りなすドラマが歴史になるんですね。
なんて、わかったような口をきいてみたりして。

これからも楽しみにしています。

投稿: さとな。 | 2014年2月14日 (金) 16時26分

さとなさん、こんにちは~

勝頼もなかなかの武将だと思うんですけどね。。。
やはりカリスマ父ちゃんの影響で、後世の私たちも、つい、武田を滅亡に導いた人の印象になっちゃいますね。

投稿: 茶々 | 2014年2月14日 (金) 17時11分

茶々様初めまして♪某事柄を検索している中で目にはいり、興味引かれました。奈良や京都の近くにお住まいとか!夕暮れ時の風景など、古き日本へタイムスリップする感覚でしょうね〜今の時勢ほど、日本を意識せざるを得ない状況は無いと思います。そういう意味でも、これから読ませて頂きますね!ネットに感謝!茶々様に感謝です。お体ご自愛しつつ長くつづけてくださいませ。

投稿: マリーゴールド | 2014年2月23日 (日) 21時21分

マリーゴールドさん、はじめまして…

コメントありがとうございます。
これからの、時々、遊びに来てくださいませo(_ _)oペコッ

投稿: 茶々 | 2014年2月24日 (月) 13時33分

織田信忠を総大将として実施された、甲州征伐についてですが、武田勝頼と決別した小山田信茂が、家族や譜代の家臣たちとともに、信忠の元に出頭したにも関わらず、斬首にされたというエピソードがあります。どうやら信茂は、岩殿城主としての立場上、領民を危険にさらすわけにはいかなかったとして、勝頼を見捨てたらしいです。しかし、信忠は、信茂に対して信用できないと思って、信茂を処刑したのかもしれません。もしかしたら、信忠は、父親の織田信長のような苛酷な一面があったような気がします。

投稿: トト | 2016年3月 9日 (水) 10時34分

トトさん、こんにちは~

>武田勝頼と決別した小山田信茂が…

そのお話は3月11日>>の日付けで、ブログに書かせていただいております。

今年の大河ドラマ『真田丸』では、「織田からの調略によって寝返った穴山梅雪>>に対して、自ら主君を見限った小山田は、ただの裏切り者」として処刑されてましたね。
その話を聞いた家康に対して、「徳川には、そんな裏切り者はおりません」と高らかに宣言する石川数正がオモシロかったです。

投稿: 茶々 | 2016年3月 9日 (水) 16時55分

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