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2014年3月28日 (金)

家康×秀頼~二条城の会見で家康が感じた事

 

慶長十六年(1611年)3月28日、徳川家康豊臣秀頼の、二条城での会見が行われました。

・・・・・・前置きです

4年前の2008年の今日も、この二条城の会見のお話を書かせていただきましたが(2008年3月28日を見る>>)、その時は、この出来事がブログの初出という事もあり、ごくごく一般的な内容であり、話の中で登場した毒饅頭もあくまでウワサの域を出ない物・・・

以来、様々な出来事の合い間合い間で、何度か会見の話が登場するも、「ちゃんと書いた事なかったなぁ」と、改めて本日書かせていただく事にしますが、上記の通り、これまで何度か出て来ていますので、内容が少々かぶり気味になる事を、ご理解くださいませm(_ _)m

・‥…━━━☆本題です

・・・で、今回の徳川家康豊臣秀頼二条城の会見・・・

出来事の流れとしては・・・

秀吉亡き後に勃発した、あの関ヶ原の合戦が慶長五年(1600年)。
くわしくは【関ヶ原の戦いの年表】で>>

今回の会見場所となる二条城を、家康が構築し出すのがその2年後の慶長七年(1602年)(5月1日参照>>)

家康が征夷大将軍の宣旨を受けるのが慶長八年(1603年)2月(2月12日参照>>)で、その5ヶ月後の7月28日には秀吉の息子=秀頼と、家康の孫=千姫との婚儀がとり行われます(7月28日参照>>)

慶長十年(1605年)の4月には、家康は、征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り(4月16日参照>>)ますが、その直後の5月10日に、家康が秀頼に上洛を求めるも、大坂城の秀頼は拒否・・・(5月10日参照>>)

と、一般的には、これらの流れから、この頃に、関ヶ原で勝利して天下を手中に収めた家康が、将軍となって江戸に幕府を開き、さらに将軍の座を息子に譲った事で、それが徳川家で世襲される事をアピールしたとされ・・・だからこそ、天下分け目の関ヶ原と呼ばれます。

が、私としては、先の5月10日のページに書かせていただきましたように、それは後世の徳川幕府による故意的なミスリードの賜物で、実際には大坂の陣で滅亡する直前まで、天下は豊臣家にあったと考えております。

その主な理由としては、

  • 家康の征夷大将軍就任は、生前の秀吉が決めていたであった事、
  • 関ヶ原後の豊臣家が摂津・河内・和泉65万石の一大名だったという話は、大坂の陣から200年後の幕府の記録に初めて登場する事、
  • 慶長十七年(1612年)に備中(岡山県)など、関ヶ原後も畿内から中国地方にかけての広い範囲の領地配分を秀頼が行っていた事、(以上の3つは5月10日に書きました)
  • 秀吉が構築した武家の家格システムが機能していたであろう事、
  • 慶長十九年(1614年)の正月の時点でも、こぞって公家が大坂城に年始挨拶に行っていた(上記の2つは7月15日参照>>)
  • 不肖・私めが大阪城のすぐそばで生まれ育ったために豊臣贔屓である事(*´v゚*)ゞ

などなど・・・

ただし、秀吉が、家康の事を最も警戒していた事も確かでしょう。

そもそも、伏見城を建築する際に整備した京街道=文禄堤・・・その構築は毛利島津などの西国大名のみに作業をさせたわけですが、それは、「いざという時、枚方以北の堤防を切り、淀川を決壊させ、土地が低い現在の東大阪市のあたり一帯を水没させ、東からの大坂への進入を防ぐ」つもりだったから(8月10日参照>>)と言われます=つまり「敵は東から来る」と想定していたわけですね。

なので秀吉は、自分の死後は、淀殿と結婚する形で家康を豊臣家に取り込み、二人で秀頼を盛り立ててくれるよう望んでおり、その結婚の日取りも決まっていました・・・残念ながら、この件は、直前に淀殿が家康との結婚を拒否って大野治長(はるなが)と逃げたために、実現しませんでしたが・・・(12月16日参照>>)

また、自分の死後は、淀殿と秀頼に大坂城に入るように、五大老の筆頭である家康には伏見城に入るように遺言で指示する一方で、東国の大名を大坂城下に、西国の大名を伏見城下に住まわせていました・・・つまり、見張っとけ」って事だったたんじゃないか?と・・・

ただし、あの関ヶ原後に家康が大坂城の二の丸に入ったので、島津家を残して他の大名が皆、大坂に引っ越してますが・・・(3月7日参照>>)

Dscn2897a900 二条城

と、まぁ、前置きが長くなりましたが(←まだ前置きやったんかい!!!(゚ロ゚屮)屮)、とにもかくにも、息子の秀忠に将軍職を譲って、自らは大御所となって、慶長十二年(1607年)には駿府城を天下普請で構築する(2月17日参照>>)など、徐々に力をつける家康・・・

この間、あくまで豊臣配下のポーズをとりながらも、家康は、再三に渡って、秀頼に上洛を求めていたわけです。

しかし、秀頼以下大坂方から見れば、
「なんで主君のこっちが行かなあかんねん!お前が来いや」
てのが当然です。

・・・で、そんな中で、ようやく重い腰をあげて実現したのが、慶長十六年(1611年)3月28日二条城の会見・・・って事になるのですが、かと言って、一般的に言われているように、これで豊臣家が徳川に屈したわけではありません。

なんせ、天皇が行幸する場合もあるのですから、「訪問した=配下となった」わけでは無いのです。

なので、以前も書かせていただいたように、家康は、やって来た秀頼を自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案しますが、秀頼の方が、家康が年長である事、冠位が上である事、嫁(千姫)の祖父である事などを理由に、上座を譲るという形で会見が成されたのです。

ちなみに、この会見の後、家康は、諸大名に、将軍に忠誠を誓う内容の誓紙に連署をさせていますが、その中に秀頼の名前はありません(つまり秀頼は別格です)

とは言え、この会見にあたっては、大坂方もかなり警戒していたようです。

『徳川実記』『翁物語』などによれば・・・

会見の際、秀頼に同行していた加藤清正(かとうきよまさ)浅野幸長(あさのよしなが)に対し、家康は、褒美として刀を与えますが、その時、刀を拝領した清正は、何やら空の1点を見つめて、しばらく動かない・・・

その方角をよく見ると、愛宕山(あたごやま)の方角・・・どうやら、愛宕権現(1月24日参照>>)に何事か祈願しているように見えました。

気になった家康が、その後、配下の者に色々と調べさせると、案の定、会見前の17日に、護摩を焚き、「秀頼公に災難無き事」を祈願していたとの事・・・

また、会見の当日、福島正則(ふくしままさのり)は、「病気になった」と称して大坂城に留まっていましたが、実は、万が一、二条城にて秀頼に何かあった際、清正と幸長はその場にて末代まで名を残すべく命賭けて働く一方で、残った正則が、大坂城にいる淀殿が敵の手に落ちる事が無いように、自らが手にかけた後、大坂城に火を放って、自身も、その場で切腹するというのが、3人の約束だった・・・そのために正則は仮病を使ったという事がわかったのだとか・・・

これらの事を知った家康は
「秀吉さんの、有能な人間を見極めて家臣にする能力ってスゴイよな」
と感心しきりだったのだそうです。

とにもかくにも、秀頼さん無事で何より・・・

とは言え、ご存じのように、大坂の陣は起こりますが・・・
くわしくは【大坂の陣の年表】でどうぞ>>
 .

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2014年3月24日 (月)

「世直し大明神」佐野政言の田沼意知・刃傷事件

 

天明四年(1784年)3月24日、佐野政言が殿中において若年寄・田沼意知に斬りつけて重傷を負わせました。

・・・・・・・・・・・

『徳川実記』によれば・・・
この日、勤務が終わって帰宅しようと部屋を出た若年寄(わかどしより=旗本や御家人の管理支配役)田沼意知(たぬまおきとも)が、中ノ間から桔梗の間へ差しかかった時、いきなり走り出て来た新番士(警備隊)佐野政言(さのまさこと)なる者に斬りかかられ、脇差を抜いて応戦するも防ぎきれず、桔梗の間へ逃げ込んで倒れ込みます。

そばには、何人かの若者がいましたが、突然の出来事に動く事もできず・・・すると、遠くの方から大目付松平忠郷(まつだいらたださと)が駆け寄って来て、何とか政言をくみ伏せて押さえこみました。

周囲の若者が何もできずにいるところを齢70になる忠郷が取り押さえたのはアッパレなれど、とにもかくにも重傷を負った意知を父の田沼意次(たぬまおきつぐ)の屋敷に送り、治療に専念するよう命じて、この日は終了となりました。

しかし、その意知は8日後の4月2日に死亡・・・そのため、翌3日に、政言は切腹を命じられ、獄中にて詰問を受けるも、ついに「狂気の致すところ」という事で、そのまま獄中にて切腹したのです。

・‥…━━━☆

とまぁ、上記の通り、公式記録では「政言の乱心による刃傷事件」となっていますので、それ以上の事は、あくまで、憶測を含む噂の話・・・という事になるのですが・・・

そもそも、本日の主役である佐野政言の佐野家は、上野甘楽郡(かんらぐん=群馬県)に400石の領地を持つ三河以来の徳川家の家臣で、大番(旗本で編制した常備兵力)や新番など、代々番士を勤める名門・・・政言は、その5代め=政豊(まさとよ)の大事な大事な一人息子でした。

しかも、この佐野家・・・実は、あの「いざ鎌倉!」でお馴染の鎌倉幕府第5代執権の北条時頼(ときより)の逸話『鉢の木』(3月23日参照>>)に登場する佐野常世(つねよ)の子孫であるとも・・・

世が世なら、今回、刃傷沙汰となった足軽あがりの田沼家なんてメじゃない家柄だったわけですが、もはや世は江戸時代・・・しかも、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの田沼一家・・・

そう・・・今回、被害者となった田沼意知は、ご存じの田沼意次の嫡男で、その田沼家は、意次の父である意行(おきゆき)が、病弱だった父(意次にとって祖父)に代わって養育してくれた紀州藩士の娘婿となって、それまでの足軽身分から藩士になった頃に、これまた、未だうだつの上がらない部屋住み(家を継がない次男以下の男子=くわしくは10月26日の冒頭部分参照>>ニート時代だった紀州藩主の暴れん坊な息子=徳川吉宗(よしむね)に気に入られて側近に・・・

で、ご存じのように、その吉宗が、やがて紀州藩主となって、さらに第8代将軍にまでなっちゃう(8月13日参照>>)ので、当然の事ながら、紀州藩の側近組織は、そのまま江戸幕府の組織に組み入れられる・・・って事で、吉宗お気に入りの意行も、小姓から小納戸頭取(こなんどとうどり=奥向きの仕切り役)にまで大出世したわけで・・・

その後、第10代将軍の徳川家治(いえはる)の治世では、老中にまで出世した息子=意次の権勢は、もはや幕閣の中でも別格で、さらに、その息子である意知への七光り度もハンパない光り具合だったわけで・・・

なんせ、この事件の前年の天明三年(1783年)に、意知は若年寄に就任していますが、この時の意知は未だ世子(後継ぎ予定)・・・つまり、まだ家督は継いでない状態で若年寄に就任わけで、かなりの異例です。

しかも、そこには廩米(りんまい):5000俵がついていたと・・・

廩米とは、所領を持たない旗本や御家人に、幕府の米蔵から支払われる給料の事で、所領を持たない廩米取りの者が若年寄になるなんて事は、制度発足以来、初めての事だったのだとか・・・意次の権力がいかにスゴかったかがわかりますね~

・・・で、そんな田沼家を頼りにしたのが、名門なれど、江戸時代では、ただの旗本となってしまっていた佐野政言・・・

一説には、田沼はもともと佐野家の家来筋であったとも言われ、その縁を頼りに複数回に渡って賄賂を贈り、このままでは大した立身出世を見込めない自らを売り込んだわけです。

さらに
「なんなら、佐野家の系図にひと筆加えて、田沼家を由緒正しき家柄に…」と意次・意知父子に持ちかけます。

確かに、いくら権勢を誇っても、それにふさわしい家柄がついて来るチャンスはそうそう無いわけで・・・

で、この話に乗った意次父子・・・言葉巧みに、その佐野家の系図を借り受けますが、待てど暮らせど、出世に関する返事は無く、系図も返してもらえない日々・・・

しかも、この間・・・
将軍・家治の鷹狩りの席において、政言は1羽の雁を仕留めますが、なぜか意知が
「お前が射止めたんちゃうやろ!」
と言い張り、褒美が帳消しになったり・・・

つまり、賄賂や系図を受け取っておきながら、見返りを提示しないでほったらかしどころか、嫌がらせ的な事までやり始めたと・・・

かくして、数々の田沼の仕打ちにブチ切れた天明四年(1784年)3月24日佐野政言が殿中での刃傷に及んだというわけです。

また、上記の『徳川実記』では、意知の抵抗空しく・・・となってますが、実際には、ほぼ無抵抗のヤラれっぱなしだったのを、「それでは武士として恥ずかしい」と、名誉のために、抵抗した事にしたとか、

政言を取り押さえた松平忠郷も、彼が本懐を遂げるまで=つまり、政言が何度も斬っているのを止めずにしばらく見ていて、致命傷を与えてから「もう、ええか?」という感じで取り押さえたなんて噂もあります。

そこには、権勢を誇る一方で、囁かれる意次の評判・・・という微妙な、田沼と幕府との関係がうかがえるのです。

そう、この事件の前年に噴火した浅間山(7月6日参照>>)に、その噴火の影響で起こった天明の大飢饉(12月16日参照>>)・・・不安にかられた民衆に襲いかかる打ち壊しの嵐・・・

Tanumaokitugucc で、結局、事件から3年後の天明七年(1787年)、将軍・家治の死去を受けた形で、田沼意次は政治家の座を追われる事なるのですが、以前、「意次さんの汚名を晴らしたい」と題してご紹介させていただいた(10月2日参照>>)ように、彼の後を引き継いで『寛政の改革』を行う松平定信(まつだいらさだのぶ)(6月19日参照>>)は、自らの清廉潔白さを際立たせるために、田沼政治の悪口言いまくり・・・

天変地異や政治批判に晒された田沼意次の評判はガタ落ちとなったわけですが、そんな意次の息子を斬って、結果的に意次失脚の口火を切ったとも言える今回の刃傷事件・・・

おかげで、西浅草徳本寺(東京都台東区)に建立された政言のお墓には多くの参拝が訪れ、人々は「世直し大明神」として崇めたのだとか・・・

まぁ、そんな定信の政治もまもなく行き詰まり
♪白河の 清き流れに 住みかねて
 もとの田沼の にごり恋しき ♪

(定信は白河藩主)
なんて狂歌が詠まれる事になるのですが・・・
 .

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2014年3月17日 (月)

戦乱の世に笑顔を…落語の元祖・安楽庵策伝

 

寛永五年(1628年)3月17日、戦国末期の僧・安楽庵策伝が、京都所司代の板倉重宗に「醒睡笑」を提出しました。

・・・・・・・・・

以前、「落語の元祖」という事で、戦国時代に豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう・殿さまの相談相手)として活躍した曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)をご紹介させていただきましたが(11月19日参照>>)、実は、もう一人、「落語の元祖」と称される人物がいます。

Sakuden600a2 それが、戦国末期に京都の誓願寺(せいがんじ=京都市中京区新京極)の法主を務めた僧侶=安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)です。

策伝は美濃(みの=岐阜県岐阜市)の武将・金森定近の息子だったとして、あの飛騨高山高山城を築いて、その町を小京都と呼ばれるほどの城下町にした金森長近(かなもりながちか)(8月20日参照>>)の弟だとされます。

7歳の時に浄音寺(じょうおんじ=岐阜県)にて出家して浄土宗の僧となった後、永禄七年(1564年)の11歳の時に京都に出て東山の禅林寺(永観堂=京都市左京区)にて修行・・・

その後、畿内だけに留まらず、中国地方四国地方でも布教活動を行った後、46歳で一旦、故郷の浄音寺に戻りますが、慶長十八年(1613年)、60歳にして京都の大本山誓願寺55世住職となったのです。

Dscf3003a800 京都の繁華街にある誓願寺(京都市中京区新京極)

そんな策伝上人が得意としたのが「お説教」・・・

「お説教」とは、ご存じの通り、もともとはお坊さんが、檀家さんや信徒に、仏の教えを説いてみせる法話の事ですが、現在でも、お父さん&お母さんや先生などから「叱られる」事が「お説教」と言い換えられるように、その話の内容は、庶民には難解で堅苦しく、小難しい物・・・

そこを、おもしろおかしく笑い話を交えながら、親しみやすく、そして、わかりやすく皆に説いてみせようと試みたのが策伝上人なのです。

上記の通り、策伝上人の生きた時代は、長きに渡った戦乱の世の真っただ中・・・

貴族など、身分の高い一部の特権階級のみに開かれていたそれまでの仏教の門を、庶民にも大きく開いて、浄土宗の開祖となった鎌倉時代の法然上人(2月18日参照>>)の教えそのままに、策伝は、明日をも知れぬ戦乱の世に、傷つき、荒んだ庶民の心を仏の教えによって救おうとしたのです。

それは、難しい仏教の話の前に、聞いてる人が思わず「クスッ」と笑うようなオチのある短い笑い話を持って来て、聞く人の心を和ませておいて、肝心な部分に入って行く・・・という手法・・・

このオモシロイ導入部分は「落とし言葉」あるいは「落とし話」と呼ばれ、それは、まさに「落語」・・・

ちなみに、策伝上人が、お寺の堂内に置いた一段高い台に乗ってお説教をしていた場所が、そう、「高座」ですね。

例としてあげると・・・
「隣の家に囲いができたんやて」
「へ~~
(塀)
とか、
「あっちから坊さんが歩いてくるで」
「そう
(僧)か?」
みたいな・・・皆様も聞かれた事があるんじゃないでしょうか?

・・・で、そんな策伝の説教は、またたく間に評判となり、庶民にバカ受け!

となると、庶民だけではなく、武士や貴族やら、身分の高い人たちまでが、「何とか策伝のお説教を聞きたい」と思うわけで・・・

そんな中の一人が、当時、京都所司代だった板倉重宗(いたくらしげむね)・・・

元和元年(1615年)、重宗から
「君のオモロイ話をまとめてみてぇな」
と頼まれた策伝・・・

これまでに話て来た落とし話に加え、自ら見聞きした体験談や教訓などを、風刺を交えてオモシロおかしくまとめて本にしたのです。

それが、寛永五年(1628年)3月17日に重宗に提出した(注:日づけについては諸説あります)、8巻からなる『醒睡笑(せいすいしょう)でした。

命名の由来は、書き終えた策伝が、その出来栄えを計るごとく、もう一度読み直してみたところ、
「我ながら、眠気も醒めるくらいオモロイやないかい!」
と思って、そう名づけたのだとか・・・

その『醒睡笑』には、先ほど例にあげた短い物だけではなく様々なオモローな話が収められており、現在の落語の演目のもととなったお話も多くあるわけで・・・

有名なところでは『平林(ひらばやし)というお話・・・

これは、あるお店の丁稚が、旦那さんから、平林(ひらばやし)という医者のところに手紙を届けるように言い使って店を出るのですが、途中で宛名の読み方を忘れてしまい、周囲のかしこそうな通行人に尋ねて回るのですが、聞く人聞く人によって言う事が違う・・・

ある人は「これはタイラバヤシと読むんや」と言い、
ある人はヒラリンや」と・・・

さらに、
「これは、漢字をバラバラにしてイチハチジュウノモクモクと読まなあかん」
と言う人や
「バラすのんは合うてるけど、ヒトツトヤッツトトッキッキって読むねんで」
という人まで・・・

しかたなく丁稚は
「タイラバヤシヒラリンか、イチハチジュウノモクモク、ヒトツトヤッツトトッキッキ~」
と大きな声で呼びながら歩いて行くと、どんどん人が集まって来て・・・

てなお話・・・オチの部分は、それぞれの落語家さんの演目によって様々あり、丁稚が探しまわる場所や彼の名前が特定されている物、スピンオフ的なお話がプラスされている物もあるようですが、いずれもおもしろいですよね~

策伝さんの教えとしては・・・
人は、つい「学もないのに知ったかぶりをする」事が多いけれど、それを周囲で見てるとなんとこっけいな事か!…「だから知ったかぶりせずに、日頃から学問に励みなさい」という事ですね。
(↑これは耳が痛い!)

この『醒睡笑』を書き終えた頃の策伝上人は、すでに誓願寺の塔頭(たっちゅう=大きな寺院に付属する寺院)安楽庵という茶室を建てて、そこで隠居に身となっていましたが、もともと、出身の金森家が茶道の名家であった事や、当代きっての文化人である小堀遠州(こぼり えんしゅう)(2月6日参照>>)松花堂昭乗(しょうじょう)(4月2日参照>>)とも交流が深かった事から、超一流の文化人としての注目度もスゴかったのだとか・・・

寛永十九年(1642年)、策伝上人は89歳でこの世を去りますが、『醒睡笑』に残した落とし話は永遠に残り、やがて落語として花開きます。

今でも京都の誓願寺では毎年10月の「策伝忌」にて、奉納落語会が行われているのだとか・・・戦乱の世に、悲しむ人々を笑顔にしたいと願った策伝上人のお話は、この平成の世の人々にも笑顔を届けてくれているのですね。
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2014年3月13日 (木)

南北朝・東寺合戦(京軍)の終結

 

正平十年・文和四年(1355年)3月13日、南北朝の動乱の東寺合戦にて幕府軍に補給路を断たれた足利直冬が、全軍に撤退命令を発しました。

・・・・・・・・

後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都に開いた室町幕府=北朝(8月15日参照>>)と、その後醍醐天皇が、逃れた吉野にて開いた南朝(12月21日参照>>)・・・と、こうして始まった南北朝の動乱ですが、

これまでの経緯は【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして、本日は、2月4日に書かせていただいた神南(こうなん)合戦(2月4日参照>>)の続きのお話です。

・‥…━━━☆

父・尊氏と不仲であった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担いだ南朝側の山名時氏(やまなときうじ)師氏(もろうじ)父子は、後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇からの「尊氏&義詮追討」の勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)を得た(6月9日参照>>)うえに、ここに来て、あの新田義貞を討ち取った(7月21日参照>>)越前(福井県)守護の斯波高経(しばたかつね)という強い味方も加わった事で、意気揚々を京へと攻め上り、正平十年・文和四年(1355年)2月4日に山崎の西=神南(こうなん=高槻市神南)にて激戦となりますが、惜しくも敗れ、全軍撤退となりました。

神南合戦にて「幕府軍勝利!」の知らせを聞いた尊氏ですが、勝ったとは言え、未だ京都を制圧しているのは、東寺に陣取る南朝軍・・・・なので、自らは、比叡山を降りて東山に陣を構え、仁木頼章(にっきよりあきら)嵐山に配置したほか、西山山崎などに、それぞれ諸将を配置・・・

そう、現時点では、京都市街から南は八幡(京都府八幡市)あたりまでを制圧している南朝軍を囲むように自軍を配置したのです。

さらに、次なる市街戦を想定して、撃って出て来る敵が見渡しやすいように、戦場区域となる場所にある神社仏閣を破壊して民家を焼き払いました。

Hosokawakiyouzi こうして準備万端整えた2月8日(と言っても先の神南から4日後ですが…)、尊氏の息子=義詮(よしあきら=後の2代将軍)についていた細川清氏(ほそかわきようじ)が、幕府軍の先頭を切って京都市街へ突入・・・

四条大宮付近で南朝軍との激しい戦闘なりました。

この戦闘を皮切りに、幕府軍と南朝軍の京都市街での戦闘は約1ヶ月に渡って繰り広げられる事になるので、今回の一連の戦いは東寺合戦(とうじかっせん)、あるいは京軍(きょういくさ)と呼ばれます。

2月15日には、「東山から出た幕府軍が上京あたりで兵糧を集めている」との情報を聞きつけた南朝軍の苦桃(にがもも)大輔が500騎余りの軍勢を率いて東寺を撃って出て一条から二条に兵を展開し、迎え撃つ清氏勢と六条東洞院から烏丸あたりで7度8度のぶつかり合い・・・しかし、この日も勝負がつく事なく、ともに、自らの陣地へと・・・

そんな小競り合いが何度か続く中の正平十年文和四年(1355年)3月13日・・・徐々にその制圧範囲を広げて来ていた幕府軍が、7000騎の大軍を率いて押し寄せ、転戦の末、いよいよ東寺の目前にまで迫りまって来ます。

とは言え、未だ京での市街戦はあくまで互角・・・しかし、これらの一連の戦いの間に、幕府軍は、先の仁木頼章によって山陰道を押さえ、義詮の配下によって山陽道を封鎖しており、東は、もともと尊氏が東山に陣取っており・・・と、つまりは南朝軍は、幕府軍によって完全に補給路を断たれた孤立状態になってしまっていたのです。

たとえ市街戦が互角でも・・・
「これでは、もはや支えきれない」
と判断した直冬は、東寺を放棄して、とりあえずは八幡まで撤退する事に・・・

入れ替わりに東寺に侵入して占拠しのは、かの清氏・・・まもなく、尊氏・義詮父子も東寺へと入ります。

そうなれば、付き従う山名父子にも、
「もはや播磨に戻る時が来たみたいな」
てな空気が流れたその夜、直冬は全軍への撤退命令を発したのでした。

『太平記』によれば、この時、八幡まで撤退した直冬に八幡様の神託(しんたく=神のお告げ)があったと・・・
♪たらちねの 親を守りの 神なれば
 この手向
(たむけ)をば うくるものかは ♪
「源氏の守護神である八幡宮は、源氏の棟梁=尊氏(親)の守り神やよって、親を討つつもりの子=直冬の願いを叶える事はできひんねん」
との神歌だったとか・・・

こうして京都での市街戦となった戦いが終わりを告げた事で、この後、しばらくの間、都には平穏な日々が戻り、戦いから2年後の延文二年・正平十二年(1357年)には、後村上天皇による先の八幡合戦(3月24日参照>>)のゴタゴタで南朝側に幽閉されていた光厳(こうごん=北朝1代天皇)(7月7日参照>>)光明(こうみょう=北朝2代天皇)(8月15日参照>>)崇光(すうこう=北朝3代天皇)(1月13日参照>>)の3上皇と皇太子の直仁(なおひと)親王が解放されて都に戻っています。

とは言え、元弘三年(1333年)の鎌倉幕府の滅亡(5月22日参照>>)・・・いや、厳密には討幕の戦いはそれ以前に始まってるので、もう少し早い時期ですが、その頃に始まってから、鎌倉幕府の残党による戦い(7月28日参照>>)に向かった尊氏が反旗をひるがえしての南北朝の動乱に突入・・・ですから、もはや20年以上に渡って戦いにあけくれる日々が続いていたわけで・・・

これらの戦乱で、都にあった皇居をはじめ院の御所や公家たちの屋敷も大半は焼失していて、もはや残っているのは2~3割ほどだったところに、今回の市街戦となった事で、ほぼ壊滅状態・・・

白河あたりにチョロッと武士の屋敷が残る程度で、一般市民の家は1軒たりとも残っておらず、あたりは見渡す限りの焼け野原になってしまい、都の面影など、どこにも無い状態だったのだとか・・・

そのため、宮廷の職員や女官の中には、もはや生きる気力を失って、桂川に身を投げる者も現われ、生き残った者も、つてを頼って僻地に逃げたり、世捨て人のような侘びしい生活を送ったりで、都には、朝の炊事の煙もたたなくなり、餓死者があふれたとの事・・・

以前、『ある公家の悲しい都落ち』のお話(10月27日参照>>)を書かせていただきましたが、このお話が『太平記』に登場するのが、この33巻の東寺合戦のあと・・・

そして、その次の項に続く足利尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開へと進むのですが、

そのお話は、
新田義貞の次男=新田義興(にったよしおき)の死(10月10日参照>>)
尊氏の死から10年後に第3代将軍となる足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)
九州で奮戦する懐良(かねよし・かねなが)親王(3月27日参照>>)
などなどのページでどうぞm(_ _)m
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2014年3月 6日 (木)

小牧長久手の戦いへ…織田信雄の重臣殺害事件

 

天正十二年(1584年)3月6日、伊勢長島城にいた織田信雄が、秀吉に内通した疑いにより、自らの重臣3名を殺害しました。

・・・・・・・・・・

織田信長亡き後、驚異の中国大返し(6月6日参照>>)で畿内へと戻り、信長の三男=神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)を大将に据えた山崎の合戦(6月13日参照>>)で、主君・信長の仇である明智光秀(あけちみつひで)を葬り去った羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、その後の清州会議(6月27日参照>>)では、信長とともに亡くなった嫡男=信忠(のぶただ)の忘れ形見である三法師(さんほうし=後の秀信)織田家の後継者に推す事に成功し、織田家内での発言権を高めていました。

・・・と、ここで一つ・・・注意せねばならないのは、この清州会議で決まった後継者というのは、あくまで織田家の後継者という事で、信長が天下取り目前であったうんぬんという話とは別物・・・

ブログにも書かせていただいている通り、次男の信雄(のぶお・のぶかつ)北畠(11月25日参照>>)、三男の信孝は神戸を、それぞれ継いでいる中で、天正三年(1575年)の時点で、信長は嫡男の信忠に織田家の家督を譲っています(11月28日参照>>)から、その信忠が亡くなれば、嫡子の三法師が織田家の後継者になる事はごくごく自然な事で、問題と言えば年齢が幼い事くらいですから、その後見人に信孝がなる事で、その幼さはカバーでき、おそらく、会議直後の時点では、周囲の皆が納得していたはず・・・

一方、もう一つの天下取りのほう・・・コチラは、朝廷やら将軍やら周囲の大名やらを巻き込みつつの、あくまで信長の野望であり、信長亡き後に織田家を継いだ者が、そのまま引き継ぐ物ではありません。

・・・で、そこのところの狙いを露わにしたのが、その会議から4ヶ月後に行われた信長の葬儀が秀吉主導だった事・・・(10月15日参照>>)

もちろん、それまでにも、清州会議での領地配分を有利に進めたり、7月に近江(滋賀県)にて初の検地を行ったり(7月8日参照>>)なんぞして、秀吉は、主君・信長の天下取りの方の後継者をもくろんでいたと思われるわけですが・・・

そんな秀吉に違和感を覚えたのが、三男の信孝と、本当なら彼を後継者にしたかった織田家重臣の柴田勝家(しばたかついえ)・・・

・・・で、翌天正十一年(1583年)、その勝家を賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)で破った秀吉は、その勢いのまま勝家を滅ぼします(4月24日参照>>)が、この時に、一方の信孝を攻撃したのが、誰あろう、信長の次男の信雄でした(5月2日参照>>)

Odanobukatu600 そう、そのページにも書かせていただきましたが、この頃の信雄は、父・信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)というハンコを使用していたばかりか、信長の弟や、自分の妹の徳姫など、織田一族を庇護下に置いており、おそらく、彼もまた、織田家の後継とともに、天下取りの野望も抱いていた物と思われ、この時は、その野望実現のために、敵の敵は味方とばかりに、秀吉の思惑通りの行動に出たという事でしょう。

なんせ、いくらなんでも秀吉自身が、主君・信長の息子である信孝を死に追い込むわけにないきませんのでね・・・

とは言え、上記の信長の葬儀を見ても解る通り、信長の天下取りを引き継ぎたいのは秀吉自身な事はバレバレなわけで・・・

・・・で、徐々にその事に気づく信雄が頼ったのが、これまで、甲斐(かい=山梨県)信濃(しなの=長野県)の大半を領する大大名でありながら、一連の流れを「畿内の事」と、遠目に様子見ぃしていた徳川家康でした。

家康とて、秀吉があまりに力をつけ過ぎる事は避けたいわけで・・・で、これまた敵の敵は味方とばかりに両者がくっつき、信雄+家康VS秀吉の合戦となったのが、ご存じ、小牧長久手の戦いなのですが・・・

その戦いのキッカケとなったのが、天正十二年(1584年)3月6日の、織田信雄による三家老の殺害事件なのです。

正史としては、「秀吉に内通した疑いにより、信雄が自らの重臣3名を殺害した」という事なのですが、実際には、本当に内通していたのかどうか?・・・信雄の勘違い?あるいは秀吉の策略にハメられた?・・・など、いくつかの説があるのですが、本日のところは『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)に沿って、そのお話をご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

まずは、秀吉が、信雄の重臣であった津川義冬(つがわよしふゆ)岡田重孝(おかだしげたか)浅井長時(あざいながとき=浅井田宮丸とも)滝川雄利(たきがわかつとし)の4名を呼びつけ、手厚くもてなした後、
「君らで、信雄くんに自害を勧めてくれへんかな?恩賞はタップリ用意してるで~」
と切り出します。

その場の雰囲気は空気が張り詰め、とてもじゃないが断われるような雰囲気でもなく、しかも、秀吉自らが、
「俺は、この約束に対して神文を書いて誓うさかいに、君らも神文を書きたまえ~」と・・・

この時代の神や仏に対する気持ちはハンパ無いですから「神文を書く」=「神に誓う」という事は、その約束を違えた場合には、神罰が下る事を覚悟するという事で、実に重い事だったわけで、やむなく、呼ばれた重臣4名も「承知しました」と起請文を書いたのです。

一般的には、こうして内応を促する場合、相手を一人だけ呼んで内密に・・・てのが定番ですが、こうして4名同時に呼んだのには、実は秀吉の思惑が・・・

お互いに内応を誓わされている事を知っているので、「誰かが裏切るんじゃないか?」と、それぞれが疑心暗鬼になって、お互いの腹を探り合うため、全員が話し合って裏切りに同意する確率が少ない事・・・

また、もしも、この中で誰か一人だけが裏切って、信雄にこの一件を告げた場合、必ず、その者が他の3人を成敗す事になるであろう事・・・などなど、周到に考えた策略だったのです。

案の定、その秀吉の思惑通り、裏切り者が出ます・・・それは、滝川雄利。

雄利からこの話を聞いた信雄は、「すぐに3人を殺せ!」とばかりに、岡田重孝には飯田半兵衛なる武将を、津川義冬には土方雄久(ひじかたかつひさ)を、浅井長時には森源三郎を、それぞて討手として派遣する事にします。

が、しかし、この決定を聞いた土方雄久・・・「ぜひ、僕に岡田重孝を討たせて下さい!」と言います。

「もう、決まった事やから…」
と信雄に言われても、「どうしても…」と譲らなかった事から、
「ほな、重孝はお前が討て、けど、武功は飯田くんの物やで」
と・・・

実は、それこそ、主君=信雄の前では、そんな事言えませんが、以前、重孝が、
「ウチの殿さんは、他人の言う事を軽々しく信じてしもて、どーもならん!
それを注意すると疎まれるし…いつか、戯言を信じた殿に、俺は討たれるかも知れん」

と、雄久に対して嘆いていた事があったのです。

「そんなアホな事ありませんよ~岡田さんの勘違いでっしゃろ」
と雄久が答えると、
「ほな、その時は、お前が俺を斬りに来いや。。。まぁ、そんな簡単に殺られる俺や無いから、覚悟しとけよ」
と、冗談まじりの会話・・・

しかし、それをしっかりと覚えていた雄久は、「重孝さんの相手は僕しかない!」と、心に決めての願い出だったのです。

かくして天正十二年(1584年)3月6日(常山紀談では3月3日)信雄から、伊勢長島城に呼び出された彼ら3名・・・

ごくごく普通の拝謁のつもりでやって来た3人・・・まずは重孝相手に、配下の者に新しく造らせた鉄砲を見せながら、ごくごく普通に話しかける信雄・・・

「…で、この鉄砲なんやけどな…、ここのこの穴って、何のための穴やと思う?」
と・・・

「はて??」
と、少し進み出て、その穴を、重孝が覗きこもうとしてうつ向いたところを雄久がガジッと組み付きます。

「俺をか?」
と、すべてを察して、すかさず腰に刺したままにしていた脇差を抜こうとする重孝でしたが、強い力に阻まれて抜けず、そのまま、雄久との揉み合いになっていたところ、
「土方、放せ!俺が斬ったる」
と信雄・・・

しかし、雄久は
「離れません!それなら、僕、もろとも斬ってください!」

「ええぃ、お前が離れへんかったら、いつまでも斬られへんやないかい!」
とジタバタする信雄・・・

ひょとして、雄久は信雄の気が変わるのを最後の最後まで待ってた???(←これは茶々の希望的観測です)とも思える雄久の行動ですが、なんだかんだで、もはや主君の命令に逆らいきれる物でもなく・・・

やむなく重孝を突き飛ばした雄久は、すぐさま自らの脇差を抜いて重孝を貫き、それを見た信雄がすかさず刀を振り下ろし、重孝を討ち取ったのです。

騒ぎを聞きつけて廊下を走って来た津川義冬は、刀を持った信雄と出くわし、慌てて自分も刀を抜いて斬りかかりますが、たまたま刀の先が長押(なげし=柱を水平方向につなぐため壁に沿って取り付けられる板)にひっかかってしまっているところを、雄久と交代した飯田半兵衛に斬られました。

もう一人の浅井長時も、予定通り、森源三郎に討たれます。

こうして、自らの重臣を殺害してしまった信雄・・・

先に書いた通り、その公式の理由は「秀吉への内通」ですから、その理由で自らの家老に成敗を下した以上、その先にあるのは、秀吉との対決・・・という事になります。

かくして勃発する小牧長久手の戦いについては・・・
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
の、それぞれのページでどうぞm(_ _)m
 .

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2014年3月 1日 (土)

アンケート企画:「あなたが推す、戦国1番の名軍師は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケートあなたが推す、戦国1番の名軍師は結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
やはり、大河の主役のアノ方と、軍師と言えばのアノ方のトップ争いと思いきや、そこに、ドラマなどでシブイ位置にいる方々が絡み・・・てな感じでしたね~~

それにしても、今回も0票の項目が無かった事は、考えた側としてはウレシイ…
って事で、とりあえずは、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
32票
竹中半兵衛(重治)
やはり流星のごとく駆け抜けた感プラス智略に優れたイメージで堂々の1位ですね~
2位
23票
黒田官兵衛(孝高・如水)
やはり大河は強い!もともと、その知名度もハンパないですし…堂々の2位!
3位
14票
太原雪斎(崇孚)
これはスゴイ!!ドラマ等で主役になった事が無いにも関わらず堂々の3位は、いかに優れてるかですね~
4位
13票
山本勘助(晴幸・道鬼)
ドラマや小説の「風林火山」が有名ですし、ここは順当な感じです…もうチョイ上でも良かったかな?
5位
11票
山中鹿介(幸盛)
片倉小十郎(景綱)
主君を支えたジブイ二人…今年の大河でも活躍するのか?
7位
9票
豊臣秀長
よくぞ、あの兄にこの弟がいてくれたもんだ!もう少し長生きしてほしかった!
8位
4票
南光坊天海
ここに喰い込んだか!謎の天海…なにげに光秀効果アリなのか?
9位
3票
平手政秀
安国寺恵瓊
ドラマではチョコッとという感じでありながら重要な部分に登場のお二人です。
11位
2票
駒井高白斎
謝名利山
知名度のワリには2票獲得!駒井さんはドラマに出ないし、琉球が舞台になる事も少ないですしね。
13位
1票
宇佐美定満
施薬院全宗
金地院(以心)崇伝
施薬院さんは知名度がアレなのでナンですが…他のお二人は、もう少し上位に喰い込むかと思っていましたです。
その他 10票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

山中鹿介 鹿之介一択。 この男は凄いぞ!!
「鹿之介さんのファンの方は一途な方が多いです!
片倉小十郎 とりあえず地元の武将で(50歳代/男性/宮城)
「地元ですか?それはアリますね~茶々も豊臣推し(*´v゚*)ゞ」
太原雪斎 雪斎禅師が長生きしてたら織田家は滅亡してたかも。(40歳代/男性/東京)
「今川のカナメですからね~」
山本勘助 実在が確認されたようですし、TVで描かれるイメージで1票(50歳代/男性/東京)
「やはり『風林火山』はカッコイイです」
謝名利山 軍師といえば、必ず竹中半兵衛ですね...(40歳代/男性/海外)
「でも、謝名利山もシブイですよね~
太原雪斎 三国同盟や河東の乱の手腕は戦国随一だと思います(10歳代/男性/大阪)
「交渉力はバツグンですね…あ、それ以外もですが(*^.^*)
片倉小十郎 やっぱ、公私共に信頼されているでしょう!(40歳代/男性/海外)
「殿のために…ですね
竹中半兵衛 もう少し生きててもらいたかった。(60歳代/男性/京都)
「そうですね~惜しまれます~」
豊臣秀長 もう少し長生きしていれば、豊臣時代が何代か続いていたのでは、と思います。(60歳代/男性/東京)
「それは絶対です!」
片倉小十郎 時には、暴走しかねない主君を影 日向、それこそ右目となり支えた忠臣(40歳代/男性/宮城)
「ホント、影に日向に支えた感じです」
その他 島津家の川田義朗。恩賞が軍師の引く「くじ」で決定それが公平な時代、とこのブログで知り名を覚えていましたので。兵士から見たら名軍師。(50歳代/女性/埼玉)
「このブログを見て…ありがとうございますm(_ _)m
その他 板部岡江雪齋
「そう言えば、北条氏の軍師が選択肢にいなかったですね~この方の外交術もなかなかの物です」
平手政秀 実家が政秀邸跡の近くで、自宅は末盛城址の近く。中学時代の自由研究で政秀寺を訪ねるなど平手政秀を身近に感じています。彼がいなければ信長は「うつけ者」のままだったかも…(40歳代/女性/愛知)
「そうですよね~この方がいればこそ、後の信長が…」
黒田官兵衛 司馬遼太郎の播磨灘物語で好きになりました(20歳代/男性/滋賀)
「今年の主役ですしね」
竹中半兵衛 若くして去ってしまった。残念!!(50歳代/男性/神奈川)
「ホント、残念です」
太原雪斎 歴史のifを楽しむならこの人ですね。桶狭間に雪斎がいたら・・・(30歳代/男性/海外)
「桶狭間に…まさにそうですね~」
竹中半兵衛 秀長も好きですが、やはり知的なイメージの半兵衛ですか・・・(60歳代/男性/長野)
「知的なイメージは1番ですね~ドラマでも、毎回穏やかな感じの俳優さんが演じられます」
山中鹿介 しかのすけしかおらんやろ、と自分は思うとるで。 やが、他の回答の軍師も切れ者ばかりやな。(50歳代/男性/兵庫)
「やはり、一途な人が多いヽ(´▽`)/」
黒田官兵衛 如水はモーガン・フリーマン並みに喰えない爺のような気がするので!^m^(40歳代/男性/埼玉)
「喰えない爺…というのは、同意です。ドラマの主役の場合は爽やかイメージになるのかも知れませんが…」
その他 鬼道雪こと戸次鑑連で(30歳代/男性/東京)
「大友氏を支えた名将ですから…
その他 今川元康
「今川時代の…って事ですか?入れ代わり説多き家康ですから、元信・元康・家康が全部別人だったりして…」
山本勘助 これぞ・・・啄木鳥戦法・・・(20歳代/男性/香川)
「対する車がかりの戦法…カッコイイですね~」
片倉小十郎 好きなんですよ。この人の「腹くくってる」感じが。漢気があって私は好きです。官兵衛も、勘助も好きなんですけどね。(30歳代/女性/東京)
「良き兄貴であったでしょうね~」
黒田官兵衛 茶々さんの官兵衛を読ませていただいてすごい!と。(60歳代/女性/埼玉)
「うれしいお言葉…ありがとうございますm(_ _)m」
平手政秀 平手さん、なぜかずっと、中条静夫さんのイメージです。笑 今なら宇津井健さんもいいかな?
「落ちついたステキな初老ってイメージですね」
片倉小十郎 小十郎なくして、政宗は語れないでしょう(40歳代/女性/宮城)
「…ですね!まさに『独眼竜の在るところ片倉小十郎あり』です」
黒田官兵衛 九州愛で…すみません、嘘つきました。官兵衛様以外の他の方 竹中さんしか知りませんので。(50歳代/女性/熊本)
「やはり有名ですからね~」
黒田官兵衛 清廉さと無比の知略の半兵衛は孔明を連想させます。自己顕示欲を捨てきれないが、民衆のための安定した統治に重きを置いた官兵衛。男の理想としては半兵衛ですが、民衆として、官兵衛の抑えきれない人間臭さに1票!(40歳代/男性/大阪)
「人間臭さに…解ります」
竹中半兵衛 軍師=諸葛亮孔明のイメージなので、戦国時代だと、竹中半兵衛になりますね。惜しむらくは若くして亡くなってしまったことですね。秀吉の晩年の所業にどんな意見をしたでしょうか。(30歳代/男性/愛知)
「確かに…ホントのところで言う『(孔明のような)軍師』は日本にはないんですよね~
山本勘助 軍師といえば、勘助というイメージがあります。(40歳代/男性/福岡)
「ドラマも良かったですしね」
黒田官兵衛 人物的には竹中半兵衛、戦国最強を育てたとも言える宇佐美定満も捨てがたいが、家内の実家が奥さんの出だった黒田官兵衛に1票です。やはり何はさておき身内関係優先です。(50歳代/男性/兵庫)
「身内優先…アリです
その他 三河人としては家康に「友」と呼ばれた本多正信を推したいです!武功派からは散々な嫌われようですが、泰平の世は彼が居たからこそ築く事ができたと思います。(10歳代/男性/愛知)
「本田正信…そうですね。。。確かに…
黒田官兵衛 大河ドラマの影響力は、計り知れない(^_^)/(40歳代/男性/神奈川)
「やはり、大河の主役ですからね」
太原雪斎 彼が健在だった時期に、今川氏が将軍職を目指すなり補佐するなり志を明らかにして行動していたら、後の歴史は全く違うものになっていたかもしれませんね。(50歳代/男性/静岡)
「もし…という妄想をかきたてられる人物です
太原雪斎 桶狭間の戦い迄、生きていたら歴史が変わったかも?後7年位長生きしてたなら・・・でも享年60ですからこの時代では長生きの方かな?(40歳代/男性/埼玉)
「やはり、妄想のタネになる人物ですね~」
山本勘助 夜明けの八幡原で上杉軍を目の当たりにした彼の気持ちを思うと…(想像しただけで怖すぎ)。そして壮絶な討ち死に…。やはり軍師の中では激烈人生No.1! 「ヤマカン」という言葉も学生時代よく使っていましたの(40歳代/女性/埼玉)
「♪暁に見る千兵の大牙を擁するを♪ですね~(*^-^)」
宇佐美定満 大河ドラマ風林火山の緒方拳さんの演技が印象的だった(30歳代/女性/北海道)
「私も、あの緒方拳さんが良かったです」
片倉小十郎 政宗が幼い頃から守役として、家督相続後は外交面等で支え続けた小十郎が一番「師」らしいと思う。(40歳代/男性/埼玉)
「やはり、『支え続けた』というのがありますね」
黒田官兵衛 竹中半兵衛が早死にしなかったら是非推したいのですが、残念ながら早く亡くなったので、次と言えば、同じぐらい知謀の人は、やはり黒田官兵衛この人でしょう!なんてたって秀吉天下取りの影の立役者ですから。(60歳代/男性/兵庫)
「確かに、戦国における命の長さは重要です。家康の長生きがなければ江戸時代は無かったですから」 
山本勘助 大河ドラマが好きだったので。(20歳代/男性/滋賀)
「アレは良かったですね~最近はホームドラマ色が濃くなった気が…」
その他 甲斐宗運(かいそううん 1515-1585)親直、戦国時代肥後大宮司である阿蘇氏の家宰。最強爺であり、島津、大友、竜造寺を翻弄し、生涯六十余度の合戦に不敗の最強坊主軍略家。ゲーム「○○の野望」でも強いです。(50歳代/男性/熊本)
「そう言えば、まだブログに書いてませんね~なるほど、ゲームでも強いのですね」
竹中半兵衛 いつも大変楽しく拝見しています。これからもご自分のペースで頑張ってください。(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますm(_ _)m励みになります」
安国寺恵瓊 産経新聞本郷和人の日本史ナナメ読み(47)戦国時代に「軍師」はいたか? 黒田官兵衛の仕事これを読んだら、軍師とは何ぞや…?良く判らん…(60歳代/男性/海外)
「日本では、言うならば『軍配者』が1番近いですが、軍配者も軍略家より占い師寄りですからね~」
太原雪斎 雪斎が生きていたら桶狭間も織田の天下布武も無かった(40歳代/男性/千葉)
「義元は天下目前でしたからね~」
竹中半兵衛 筒井道隆さんの半兵衛を拝見した時に、「こんなイメージの方だったのかな?」と、思いました。今も、変わりません。
「涼やかで爽やかなイメージです」
黒田官兵衛 姫路にゆかりがあるので官兵衛にしました!(10歳代/男性/兵庫)
「地元推しはアリです!」
竹中半兵衛 現代の軍師のイメージに一番近い気がして…短い生涯で名を刻んでいるところも、余程、惜しい人だったのではないかと、想像してしまいます。(30歳代/女性/岐阜)
「確かに、現代の私たちが描く軍師のイメージに近いかも…です」
黒田官兵衛 岡田准一 君 が男前 永遠のゼロの宮部兵曹長役もよかった。(40歳代/男性/大阪)
「『永遠の0』も良かったデスヽ(´▽`)/枚方バンザイ」
安国寺恵瓊 地元ですので恵瓊和尚に投じますが、個人的には毛利の軍師は小早川隆景公を推したいですね。(40歳代/男性/広島)
「隆景さんも…そうですね。」
竹中半兵衛 地元ですので投票しました。稲葉山城乗っ取り事件はすごいですね。私なら岐阜城に登るだけで力尽きます。(30歳代/男性/岐阜)
「昔の方々は、現代人には考えられないフットワークの軽さですよね~」
黒田官兵衛 今年はこの方でしょう!乱世を生きた軍師として一番でしょう!(40歳代/男性/兵庫)
「岡田君もカッコイイですし」
その他 平時は豊臣秀長 乱世は竹中半兵衛 平定は黒田官兵衛(40歳代/男性/兵庫)
「う~ん…そこを何とか一人にo(_ _)o」
黒田官兵衛 迷いましたが、やっぱり地元なので。(10歳代/男性/兵庫)
「地元は盛り上がってるんでしょうねぇ(゚▽゚*)」
竹中半兵衛 両兵衛あっての秀吉だと思うので、今回は半兵衛にしてみました。(40歳代/男性/千葉)
「甲乙つけ難いです」
竹中半兵衛 「軍師」といえば黒田かもしれないが、逸話だとしても「参謀」の呼び名は伊達じゃない。(20歳代/女性/北海道)
「作戦参謀としては半兵衛さんですかね?」
太原雪斎 雪斎しかいないだろw秀長とか内政官とか補佐役に近いし小十郎は内政官とか補佐役でも無いしww『軍師』と呼べるのはあんまりいない(10歳代/男性/奈良)
「外交交渉は見事です!」
豊臣秀長 秀長公がいなければ豊臣政権の誕生は無かったと思います。公が家康より長生きしていれば徳川幕府も無かったのではと思います。(40歳代/男性/兵庫)
「破天荒な兄貴の支えになった人ですから…」
黒田官兵衛 くわんひょうえ殿にかかれば天下も手中にしたも同然じゃー(30歳代/女性/愛知)
「もう少し関ヶ原が長引いていたら!!!」
竹中半兵衛 官兵衛と半兵衛のただならぬ縁が好きなのでどちらにも投票したいですが、個人的に好きな方で半兵衛!(30歳代/男性/神奈川)
「何となく、官兵衛さんは人生を全うした感がありますが、半兵衛さんは志半ば感がありますね」
豊臣秀長 ある補佐役の生涯?という本を読んで感じました(40歳代/男性/神奈川)
「補佐役としては満点ですね!」
その他 名人久太郎こと堀秀政なんてどうでしょう(20歳代/男性/広島)
「堀秀政…イイです!映画の『清須会議』の松ケンがなぜにあないにチョイ役だったのか?」
その他 角隈石宗さんに1票です!ちゃんと話を聞く主君に仕えていたら…(女性)
「おぉ、ブログで推してるのに、選択肢に入れて無かったですね~」
山中鹿介 鹿やん一択や。 超武闘派の軍師やで。(岡山)
「やっぱり一途…鹿之助さんが一途だからでしょうね、きっと」
駒井高白斎 茶々さんの記事を読んですごく好きになりました!賢いだけじゃなく努力家な感じがしていいですね。(10歳代/女性/東京)
「ありがとうございますm(_ _)mあまり有名では無いですが選択肢に入れてしまいました」
その他 池田恒興に1票。ある意味「織田信長の片腕」とも言える人なので。(30歳代/男性/千葉)
「乳兄弟ですもんね~酸いも甘いも噛み分けた関係」
豊臣秀長 秀吉が官兵衛に与えた書状からも秀長への信頼が伝わってきます。謙虚に兄を支え続けた大好きな武将です。兄弟のコンビネーションは戦国一だと思います。(20歳代/女性/東京)
「おっしゃる通り
(*^-^)コンビネーションは戦国一です」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧ください…投票は一人1票ですが、そこは性善説という事でm(_ _)m)
豊臣秀長 (ティッキーさん)
竹中半兵衛 (ティッキーさんお母様)
黒田官兵衛 (ティッキーさんお父様)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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