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2014年4月16日 (水)

茶器図録を残した敏腕老中・松平乗邑

 

延享三年(1746年)4月16日、第8代江戸幕府将軍・徳川吉宗の時代に活躍した松平乗邑が死去しました。

・・・・・・・

松平乗邑(まつだいらのりさと)は、名門・松平家の出身・・・元禄三年に肥前(ひぜん=佐賀県&長崎県)唐津藩主だった父・乗春(のりはる)の死を受けて幼くして家督を相続した後、享保七年(1722年)に37歳にして大坂城代となり、翌・享保八年には老中に就任し、当時の将軍だった第8代・徳川吉宗(よしむね)享保の改革(6月18日参照>>)を推進しました。

今となっては賛否両論ある享保の改革ではありますが、現在進行形で改革を行っていた乗邑にとっては、まさに全身全霊を込めた仕事であったわけで、その性格は、とにかく仕事一途でマジメで頑張るタイプでした。

松浦静山(まつらせいざん)の残した『甲子夜話(かっしやわ)(6月29日参照>>)には、そんな乗邑さんの逸話がいくつか残されていますが、そこにも
「乗邑は剛毅(ごうき=意志が堅くて強くてくじけない)の資質なり」
とありますから、かなりのやり手だったのでしょう。

己にも厳しく他人にも厳しい・・・
「俺がマジメにこんだけやってんやから、君もやってくれな困るがな」
てな性格は、敵も多くつくりますが、それこそ、吉宗の改革を推進するためには、多少の誹謗中傷や反発は、あって当たり前・・・覚悟の上でそこを貫いてこそ!というガンバリ屋であったのです。

ただし、この方・・・「笑癖」というおもしろいクセも持っていたようで・・・

Tokugawayoshimune600 上記の通り、乗邑はエライさんですから、将軍・吉宗に何かを取り継いでもらう時や、何かの書類の確認をしてもらうために、彼の部屋には部下たちが訪れる事が度々あったのですが、例の「己にも厳しく他人にも厳しい」性格を知ってる部下たちは、なかなか怖くて声をかけられない・・・

「あのぅ…」
と声をかえても
「今、忙しいねん!」
と突っぱねられる事山の如し・・・

ところが、ご機嫌の良い時は、声を出して高笑いをする乗邑さん・・・なので、部下たちは、乗邑に声をかける前に、まず、側にいる坊主に
「今日は例の高笑いはあったか?」
と訪ね、
「まだです」
と聞けば、すごすごと退散し、あれば思い切って部屋に入る・・・なんて事もあったのだとか・・・

また、ある時、吉宗が日光東照宮にお参りした際、途中の宿で休憩をとるのですが、その後、吉宗が出発しようと思ったものの、部下がなかなか揃わない・・・

で、吉宗が、そばにいた乗邑に
「なんで、皆揃てないん?」
と聞くと、
「ちょっと、見廻りして来ますわ」
と馬に乗って周囲を一周・・・

乗邑が一声かけると、たちまちにして部下が勢ぞろいし、すぐに出立する事ができたと・・・つまり、仕事はデキるものの、部下たちから見れば、ビビリまくりの怖~い上司だったんですね~彼は・・・

そんな彼の1番の趣味が茶の湯・・・

ある時、乗邑の側近の順阿弥なる茶坊主が、彼の茶会に招かれた時、会席にて柚子味噌が出された事があったのですが、後日、乗邑に会った際に、
「こないだの柚子味噌…お庭の柚子で取れ立てやったからメッチャおいしかったですわ~」
と言うと
「なんで、庭の柚子やって解ったんや?」
と乗邑・・・
「いや、茶室へ入った時と、出た時では庭にあった柚子の数が減ってましたさかいに…」
「ふ~~ん、お前って油断できひんヤツなんやなぁ」
と、その場は、それで終わったのですが、

後日、幕府の集まりがあった際に、茶会の話が出た時、順阿弥は良かれと思って、先日の柚子の一件を皆に話すのですが、それに乗邑が激怒・・・
「お前、みんなの前で…無礼やゾ!」
と一喝すると、

以来、怖くなった順阿弥は出社拒否に・・・

しかし4~5日経って、
「順阿弥の姿を見ぃひんけどどないしたん?」
と心配した乗邑が、順阿弥の同僚に聞いて
「病気で休んでるみたいです」
と、答えると
「そうなん?はよ治って出て来たらええのになぁ」
と、

それを聞いた順阿弥は、早速、翌日から出社したようですが、やっぱり、趣味の世界でも、怖い上司だったんですね~

とは言え、そのクソまじめさが趣味のうえで、功を奏する事もありました。

趣味の一環として彼が残した茶器図録『三冊名物記』は、それはもう、彼の几帳面さ、仕事の完璧さを見せつける見事な物だそうで・・・

それまで、利休門下の茶人をはじめとする様々な人が名物茶道具を紹介する本を書いていますが、いずれも名前と所蔵先に、簡単な姿形を紹介する程度の物・・・

しかし、彼の『三冊名物記』は、名称所蔵先のほか、(図録に載せるための借物の場合)その持ち主が購入した年月日に道具そのものの細かな図面をつけ、同時に寸法も記載・・・さらに、それを調査した年月日に加え、付属品のある無しなど、まさに完璧と言える茶器の百科事典のような物で、この後に発表される名物記録は、皆、彼の手法を手本にするほどの出来栄えだそうな。。。

まぁ、そんな仕事一途で怖い上司の乗邑さんですが、だからこそ、部下が持って来た様々な用件に、この乗邑が承知するか、苦言を呈するかで、その先の成り行きが読めたと言います。

乗邑が承知した案件を、将軍・吉宗に持って行けば、必ず
「よきにはからえ~~」
と、すんなりと1発OKで一件落着になったのだとか・・・まぁ、それだけ吉宗の信頼も厚く、吉宗も乗邑に目をかけていたという事なのでしょう。

ところが、そんな仕事一途でまじめ一徹が、一方では要領の悪さを生んでしまいます。

将軍の後継ぎ問題で、乗邑は、吉宗の次男である宗武(むねたけ)を推しますが、長男相続を曲げなかった吉宗によって、結局、第9代の将軍は長男の家重(いえしげ)に決まってしまい、それがもとで老中を解任され、1万石を没収のうえ、隠居の身となります。

松平家の家督は次男が相続し、かろうじて生き残りますが、出羽(でわ)山形へ転封となり、その将軍問題から、わずか1年後延享三年(1746年)4月16日、寂しい晩年となった乗邑は61歳でこの世を去りました。

あれだけ、吉宗とツーカーだった乗邑が、最後の最後に吉宗の心を読めなかった・・・いや、ひょっとしたら、心は読めていたけど、その仕事一途さが、無理を承知の宗武推しを貫かせたのかも・・・

なんせ、一説には、家重より宗武の方が優秀だったと言われていますから・・・

マジメな彼には、そこを譲る事ができなかったのかも知れませんね~あくまで想像ですが・・・
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。

>あれだけ、吉宗とツーカーだった乗邑が、最後の最後に吉宗の心を読めなかった・・・いや、ひょっとしたら、心は読めていたけど、その仕事一途さが、無理を承知の宗武推しを貫かせたのかも・・・

家重は暗君だったというイメージがあるので、納得できますね。

ところで、

>備前(びぜん=佐賀県&長崎県)唐津藩

誤変換?佐賀&長崎なら「肥前」ですよ。

投稿: 高来郡司 | 2014年4月16日 (水) 23時09分

高来郡司さん、こんばんは~

わぉ!ホントだ~
「hizen」を「bizen」て打ち込んで変換しちゃってましたね。
早速訂正させていただきますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2014年4月17日 (木) 01時23分

こんばんは(^-^)

松平乗邑のことをググってみましたが、公事方御定書編纂の責任者だったようですね。公事方御定書全文をみた訳ではありませんが、興味深いものが紹介されていました。15歳以下の者が殺し、付け火など大罪を犯した場合、15歳までは親類に預け、16歳で遠島に処するそうです。死罪に処さないのは、更正する可能性があるからということでしょうね。残念ながら、今も昔も老若男女問わずろくでもない者はいますが、人の可能性を信じる精神、僕は好きですね。

投稿: 圭さん | 2014年4月17日 (木) 21時00分

圭さん、こんばんは~

そうですね。
乗邑さん、かなり仕事のデキる人だった事は確かですね。
「大岡越前」のように、ドラマになってもイイかも…

投稿: 茶々 | 2014年4月18日 (金) 01時55分

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