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2014年5月27日 (火)

アンケート企画:「イチ推しの大坂方の武将は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケートあなたイチ推しの大坂方の武将は結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
やはり、真っ赤なアノ方が終始ダントツの快走だったわけですが、その前に、大いなる反省~~(ノ_-。)

と言うのも、このアンケートの選択肢を決めるにあたって、速水守久堀田道空などの七手組頭たち、細川興秋(細川忠興の息子)北川宣勝(伊達政宗の家臣)などのおそらく二股要員であろう他家からのヘルプ、さらに活躍の記録が残る渡辺糺(ただす)毛利勝永(吉政)・・・などなど

特に、この勝永さんは、大坂城総攻撃の日に、かの赤い人とともに徳川家康の本陣まで攻め込んだうえに、撤退の殿(しんがり)を努めた武勇を持ち、『明良洪範』では自害する淀殿介錯をしたとされる人物ですので、選択肢に入れるか入れないか、かなり迷いながらも、もともと「知る人ぞ知る」タイプの武将ですから、知ってる方なら「その他」の項目で入れてくださるだろうという安易な考えのもと、悩んだ末に「未だ、このブログには主役として登場していない」という個人的な理由で、選択肢には入れなかったのですが・・・

ところがドッコイ、フタを開けてみると「毛利勝永に一票」の意見の多い事多い事・・・

「いつの間に、そないな人気者に?w(゚o゚)w」
と驚いていたところ、どうやら最近巷でハヤっている戦国を舞台にしたオンラインゲーム戦国ixaというらしいです)にて、勝永さんが、スキルの高い万能系の武将として登場していて、大人気を博しているのだとか・・・

まっこと、うかつでありました~m(_ _)m
とは言え、ゲームでもドラマでもマンガでも、とにかく人気が出るのは良い事・・・もはや時代の流れは幸村から勝永に移行するのか?
(ならば、一刻も早くブログに主役で登場させねば!!(A;´・ω・)アセアセ)

って事で、今回は特別に、「その他」ではありますが、コメント欄に「毛利勝永」と書いて下さった方の票数を、「その他」とは別の「毛利勝永」としてランキングに加えさせていただいておりますので、その点、どうぞよろしくお願いします。

ではでは・・・とりあえずは結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
66票
真田幸村(信繁)
やはり、本陣に迫った赤い彗星…さすがのぶっち切り1位であります
2位
16票
毛利勝永(吉政)
やホンマすんませんo(_ _)oペコッ…ここまで人気者になっているとは、つゆ知らず…堂々の2位!
3位
15票
後藤又兵衛基次
僅差の3位…この方の人気はなかなかの不動ぶりです
4位
11票
木村重成
ドラマではあまりお目にかかりませんが、そのカッコ良さで堂々の4位!
5位
5票
豊臣秀頼
長宗我部盛親
失礼ながら、ともにお父さんの人気も引き継いで…の二人かな?
7位
4票
明石全登(景盛)
燃える大坂城から脱出…その後に捕縛されたり自首したりが多い中、行方不明となったミステリアスぶりが魅力?
8位
3票
塙団右衛門直之
古田織部

ここに喰い込んだか!ってなお二人…なにげに人気アリです
10位
2票
薄田隼人兼相
個人的に推したい薄田隼人…残念ながら上位には届かず(ノ_-。)
11位
1票
大野治長
秀頼の子供たち
増田長盛

佐野道可

1票だったのは残念無念…今後の知名度上昇に期待です
15位
0票
大野治胤(道賢・道犬)
堀内氏久
堀内さんはともかく、『葉隠』絶賛の治胤さんが0だったのは、我ながらちょっと寂しい…もっとスポット当てたげて~~
その他 5票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 毛利勝永数少ない豊臣譜代だし、大阪の陣での武功も立派。それなのにマイナー。これだけ応援したくなる要素があるんですよ。ほんとお願いします。(40歳代/男性/千葉)
「これまでは、私もマイナー武将だと思ってたんですが、今回の結果の通り、人気が出て来ているようですヨ!期待大ですね
木村重成 落日の豊臣方に咲いた一輪の華の如き若武者に、一票♪戦の徒花だとしても、その姿はさぞや勇壮で美しかったであろうと…。(40歳代/女性/神奈川)
「源平時代の貴公子のようです(゚▽゚*)」
真田幸村 やはり真田でしょう(60歳代/男性/千葉)
「日本一の兵ですからね」
豊臣秀頼 やはり大阪といえば豊臣(30歳代/男性/和歌山)
「総大将ですから…豊臣万歳!」
その他 「かかれ対馬、逃げ大炊、どっちかずの雅楽頭」と思えば、やはり大野治房でしょう。(40歳代/男性/【海外】)
「それもアリですね~兄貴のサポートしつつ国松を守って脱出!!
真田幸村 秀頼を神輿に担いで、幸村が全兵力を操ってユッタリと茶臼山に兵を進めたら…乱世が続いたでしょうね?!(40歳代/男性/埼玉)
「IFを考え出すと妄想は尽きませんね(*^.^*)
後藤又兵衛 今年の大河ドラマに便乗させて貰います(笑)ドラマでは想像出来ない長政との確執を乗り越えて(笑)負け戦と分かっていても最後まで武士の意地を貫いて華々しく散った事に感服します。(30歳代/男性/兵庫)
「散り方もカッコイイですしね~
その他 個人的には団右衛門が一番好きなのですが、あの毛利勝永が選択肢に無いのは寂しいので彼に一票!(20歳代/男性/大阪)
「アチャ…選択肢に入れなかった事、反省しておりますです」
その他 毛利勝永公です。選択肢になかったのが不思議でならないくらいです!(20歳代/男性/東京)
「同じく、反省しておりますm(_ _)m」
その他 毛利勝永(40歳代/男性/兵庫)
「やっぱり…ですね(;д;)」
木村重成 赤いお方は言うまでもなくですが 木村重成を思うと なんとも 潔く 清々しく また 胸が詰まり…(50歳代/女性/大阪)
「男前ですね~
塙団右衛門 樫井は地元!! 塙は格好良すぎます。(40歳代/男性/大阪)
「豪快さが際立ってますね~地元推し、大いにアリです」
真田幸村 有名だし、カッコいい。(50歳代/男性/静岡)
「再来年の大河が楽しみです」
後藤又兵衛 死に方がかっこいいので(20歳代/男性/滋賀)
「遅れた兵を待ちながらの善戦はさすがです」
真田幸村 …真っ赤なあの方に一票!なんといっても日本一の兵ですもの(40歳代/女性/宮城)
「ですね。。。やはりダントツ」
真田幸村 毛利勝永か幸村ですね。
「勝永さんが選択肢になく申し訳なかったです」
その他 毛利勝永大坂方にあって最後まで戦線を維持したのは勝永唯一人であった(50歳代/男性/岡山)
「同じように家康本陣に突っ込みながら幸村は討死となりましたからね~見事な撤退戦もカッコイイ」
木村重成 小学生のとき、木村重成の紙芝居を作った?記憶があります。筋書を思い出せないのですが、最後は燃える大阪城を望み、泣く重成にしたと思います。(60歳代/男性/東京)
「小学生の時にですか?スゴイですね~私は、たぶん小学生時代には重成さんを知らなかったかも(*´v゚*)ゞ」
その他 個人的には先祖が属した古田織部や、オイラもその血を受け継ぐ近江木村氏の出とされる重成を木村繋がりで押したいところだが、一人選べと云われたら。やっぱ『毛利勝永』しかいないよね。(50歳代/男性/静岡)
「やはり勝永さんですか~~」
その他 毛利勝永がいないのはおかしい(30歳代/男性/東京)
「やっぱおかしいですか~ホンマすんませんm(_ _)m
真田幸村 月並みですが。源義経や沖田総司なみにかっこよいから。
「あの活躍は、絵になりそうですよね~」
真田幸村 多分、ダントツと思うのですが、やはり幸村に投票せずにはいれない、カッコよさです。ちなみに家康は幸村に討たれた説、何気に信じてます。( ´艸`)(30歳代/男性/福岡)
「負組の豊臣ファンとしては、いつか勝組の言い分の崩れる日が来る事を願って」
塙団右衛門 男性ばかりですが、淀殿も女武将だったのでは?(50歳代/女性/神奈川)
「総大将の生母として、見事な采配をふるっておられたのではないか?と…」
真田幸村 木村重成と迷ったんですが、僅差で信繁さんにしました。とにかくかっこいい。名言とか散り際とか。とにかくかっこよい!戦は勝たなきゃ意味ないけど、この人には例え負け戦でもついていきたくなる。
「ハイ、カッコイイですヽ(´▽`)/」
その他 「片桐且元」 山岡荘八の小説で「家康」での中で桐の片桐という場面があります。方広寺鐘銘事件で家康との交渉がむなしく手切れとなって大坂の陣へとなりますが、賤ヶ岳七本槍の一人。小説とはいえ忘れられません。(60歳代/女性/石川)
「且元さんも選択肢に入れるかどうか迷ったんですよね~あの交渉は大変だったと思います」
真田幸村 いつも楽しく拝見しております。これからもよろしくお願いします!(40歳代/男性/福井)
「うれしいお言葉…ありがとうございますm(_ _)m
真田幸村 やはり。ですね。(50歳代/男性/神奈川)
「ですね~( ̄ー ̄)ニヤリ」
長宗我部盛親 大阪に馳せた「一領具足」のシンボルとして一票・・・。それにしても、花を咲かせてやりたかった盛親です。(60歳代/男性/長野)
「今も高知では山内より長宗我部が人気?だったり…」
真田幸村 順当に(40歳代/男性/兵庫)
「人気ですからね~
真田幸村 我が故郷の英雄さ。(60歳代/男性/大阪)
「信州ですか??」
真田幸村 豊臣方の作戦面は、このお方にすべてを任せておけばよかったのに・・(40歳代/男性/大阪)
「初めの勢いがそのまま続いていたら…と残念ですね~
後藤又兵衛 玉手山(30歳代/男性/兵庫)
「小さい頃に遊園地に遊びに行ってた時は、あそこに慰霊碑がある事も知りませんでした
長宗我部盛親 やっぱり地元贔屓で(*^^*)いつか姫ワコ元親含め、どこかの局でドラマ化して欲しいものです♪(40歳代/女性/高知)
「私も…父子2代のドラマはオモシロイと思います」
その他 小笠原権之丞です。家康の落胤といわれている彼が大坂方に参加して天王寺の戦いで戦死。初めて知ったときは、結構衝撃でした。親子で敵味方で対決だよなと思いました。(40歳代/男性/兵庫)
「ひょっとして彼も二股要員なのでは?(結城秀康の家臣も大坂方にいるので…)と妄想させてくれる人物…今度じっくり調べたいです
真田幸村 ブログ、いつも楽しませていただいております ありがとうございます(50歳代/女性/神奈川)
「ありがとうございますm(_ _)m励みになります」
真田幸村 家康の首に一番近かった武将であり、「真田十勇士」で身じかに感じられるこの方で。(50歳代/女性/埼玉)
「大河に十勇士出ますかね?楽しみです♪
後藤又兵衛 TVで見ましたが、武士としての最期の活躍場所として参戦した…とか今、大河で可愛らしく官兵衛様に可愛がってもらっていますが、此れから長政と反発し合っていくのですね。(50歳代/女性/熊本)
「私は黒田家の二股要員ともみてるんですが、大河ではどのように描かれるのでしょうね~楽しみです」
後藤又兵衛 司馬先生の軍師二人を読んで,大ファンになりました。無骨な男の生き様が素敵ですな。(30歳代/男性/香川)
「無骨…まさに戦国武将の褒め言葉ですね~」
その他 毛利勝永 かな? 何か凄く退却戦(撤退戦)の戦巧者のイメージがある。勿論普通に戦上手ですが・・・戦術家としての能力は一流と思っています。(40歳代/男性/埼玉)
「やはり…これから上昇する人気に期待ですね~」 
長宗我部盛親 四国出身の友人が熱く語ってくれて以来のファンです。幕末が好きで、裏話等々いつも楽しく拝見しています。(40歳代/女性/千葉)
「四国統一を果たした男の息子ですからね~もっと注目されても良いのでは?」
真田幸村 真田十勇士として有名だから。(10歳代/女性/大阪)
「十勇士を主役に据えた新しいドラマも見てみたいですね~」
真田幸村 官兵衛のドラマの影響を受けて、又兵衛も気になりますが、やはり幸村を外せないですね。生まれ育ちは、摂津の国です。(50歳代/男性/滋賀)
「摂津…今まさに、大河ドラマの中心地ですね~」
その他 毛利勝永を押します!彼なしではあんなに華々しく散る最期は無かったのではないでしょうか!(20歳代/男性/神奈川)
「やはり、人気なのですね~」
古田織部 地元が近いので…笑
「ウラで画策してた感がハンパ無いです」
その他 秀頼の介錯をした毛利勝永。もっと知名度/人気が上がってもいいと思うのですが。。(40歳代/女性/兵庫)
「氏家行広(荻野道喜)・速水守久とともに介錯人の一人であった事は確か…やはり今後の人気上昇ぶりに期待ですね」
明石全登 幸村さんは別格とすれば、この人かな。(50歳代/男性/高知)
「行方不明はキリシタンなればこそのワザかも知れません」
明石全登 個人的には毛利勝永だが先祖が明石とともに戦ったから。
「おぉ、ご先祖様ですか~それは推しますな」
真田幸村 赤備えの人がどれくらいの得票率をとるか楽しみです。次は結果を予想するのが難しいアンケートをお願いします。(60歳代/男性/神奈川)
「予想が難しいアンケートを作るのが難しい…いやいや、次も考えますよo(*^▽^*)o」
その他 毛利勝永。一番豊臣家の為に戦った武将だと思う。(30歳代/男性/沖縄)
「やっぱり…ですね」
その他 やっぱ淀君でしょう:)茶々さま、ご自分を忘れてはいけません(笑)茶々さまの説私もあってると思います♪30万人を巻き込んだ失恋の成り果てのゴタゴタだったんですね? 大阪の陣...(20歳代/男性/千葉)
「おぉ、そうであったな(笑)ただ、わらわは戦場には出ておらぬゆえ~て、そうなると秀頼も出ておらぬな…と、ちょっと乗っかってみました(゚▽゚*)」
その他 毛利勝永を入れとかないと歴史オタが騒ぐのでは…(40歳代/男性/東京)
「ハイ、時代の波に乗り切れていなかったです(*´v゚*)ゞ」
真田幸村 唯一活躍した武将
「やはり有名かつ人気ありますから…」
真田幸村 どうしたってこの人以外にいない。(60歳代/男性/東京)
「今回も序盤から快走でした(゚▽゚*)」
真田幸村 一推し二推し。。三、四が無くて、全部無いから負けたのでござるよ。涙(50歳代/女性/奈良)
「時代を超えて、その名は残ったでござる」
その他 毛利勝永
「やっぱり…」
その他 毛利勝永…ないのね(40歳代/男性/広島)
「反省しきりでおます(ノ_-。)」
真田幸村 毛利勝永
「やっぱり選択肢に無いと投票し難いですか?すんません」
木村重成 毛利勝永は?(10歳代/男性/宮城)
「やはりコチラもそうですねm(_ _)m」
薄田隼人 おれんじー
「だいだい~ヽ(´▽`)/って隼人君は見かけ倒しじゃないっすよね?」
木村重成 まっすぐな生き方が大好きです!もっと評価されてもおかしくない武将だと思います。(30歳代/男性/新潟)
「戦果の記録が少ないからでしょうか…もっと評価してほしいですね」
秀頼の子供 生き残っていたなんて!それだけでヒーロー!(30歳代/女性/岐阜)
「イロイロと妄想させられますね~
その他 毛利勝永(30歳代/男性/京都)
「やはり…ですね」
大野治長 色々な噂か流れる中、頑張った人じゃないかなあと。(女性/千葉)
「おっしゃる通り、イロイロ頑張ってはります」
木村重成 又兵衛さんと迷いましたが、青年武将に一票。戦国最後を飾る人として赤い人と同じくらい有名になってもいいのではと思う方です。若いけど、誇りや志は老練な武将と同等に持ち合わせていた人です。茶々さんのブログで初めて知りました。有難うございます!(10歳代/女性/千葉)
「先ほど、戦果の記録が少ないと書きましたが、よくよく考えれば幸村も少ないんですけどね~やっぱり重成さんを評価してほしい!」
真田幸村 家康が恐れた戦国武将!(40歳代/女性/兵庫)
「ビビリまくりでしたからね~」
真田幸村 九度山に道の駅が出来て(エエとこですよ)、大河ドラマも決まったらしいので(堺雅人さん?)この方で(^▽^)(40歳代/男性/大阪)
「おぉ、ご当地も準備万端整えはじめていらっしゃるようで…楽しみ~
真田幸村 後藤又兵衛基次と言いたい所ですが、大坂の陣といえばやはり、真田信繁に一票になってしまいますね。(40歳代/男性/群馬)
「1番の…と言えば、やはり真田ですかねぇ
その他 真田大助(幸昌)。お父さんの方が有名だけど、息子の事も忘れないで下さい?!(40歳代/女性/兵庫)
「再来年の大河では脚光を浴びる事でしょうね~
豊臣秀頼 究極の「ぼんぼん」で人柄も良さそう…(40歳代/女性/大阪)
「身長が2m近い巨漢だったとのお話もあるので、意外にマッチョなぼんぼんかも…
真田幸村 彼しかいない!!(40歳代/女性/愛知)
「いないですねぇ~(*^-^)
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
真田幸村 (エアバスA381さん)
佐野道可 (圭さんさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2014年5月20日 (火)

謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代

 

推古天皇三十四年(626年) 5月20日、大臣として4代の天皇に仕えた飛鳥時代の政治家=蘇我馬子が推定74歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

教科書はもちろん、このブログでも、すでに度々登場している飛鳥時代を代表する有名人蘇我馬子(そがのうまこ)・・・しかし、実は謎だらけ・・・

そもそもは、
河内(大阪府)の豪族橿原(奈良県)の豪族、あるいは天皇家から分かれた支族、はたまた、大陸からの渡来人の子孫・・・と、そのルーツが曖昧な蘇我氏ですが、徐々に頭角を現し、馬子の父=稲目(いなめ)(3月30日参照>>)が宣化天皇元年(536年)に大臣となる大出世を果たし、その娘たちを天皇家に嫁がせて、さらに力を盤石な物にしたところで、息子の馬子にバトンタッチする中、

第31代・用明(ようめい)天皇の後継者争いに乗じて、最大のライバルであった物部(もののべ)氏を滅ぼした馬子(6月7日参照>>)、更なる実権を握って、自らの思い通りになるであろう第32代・崇峻(すしゅん)天皇を擁立・・・

しかし、その崇峻天皇との関係がギクシャクしはじめると、速やかに天皇を暗殺し、今度は、用明天皇の妹であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=豐御食炊屋姫)を第33代・推古(すいこ)天皇として擁立し、まさに蘇我政権の全盛期を迎えるのです。

この間、渡来人を重用して先進的な技術や学問を導入し、日本における仏教の発展にも尽力・・・日本初の僧寺=法興寺(または元興寺=現在の飛鳥寺)を建立しています。

推古天皇十一年(604年)には冠位十二階十七条憲法の制定され(4月3日参照>>)、推古天皇二十八年(620年)には『天皇記』『国記』などの歴史書の編さん、国費で遣唐使を派遣して大陸の最先端の政治や学問を若者に学ばせるなど・・・

馬子が実権を握っていた時代は、それまで豪族の集合体政権だった大和朝廷が、中央集権的律令国家=日本へと変貌する時代であったわけです。

とまぁ、まさにキングメーカー馬子の華麗なる功績なわけですが・・・実は、馬子という人物についてのこれらの事は『日本書紀』の記述に由来する事が多い・・・

そう、ご存じの通り、その『日本書紀』を編さんしたのは、馬子の蘇我氏を滅ぼした藤原氏なわけで、どこまで本当の事なのか?が微妙・・・て事になります。

なんせ、上記の馬子が編さんしたであろう歴史書である『天皇記』や『国記』は、かの乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)での蘇我氏滅亡のゴタゴタで行方不明となり・・・いや、むしろ、変の首謀者である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)によって、わざと末梢された・・・なんて噂もあるくらいです。

政変でそれまでの歴史書が無くなり、政変を起こした人物の子孫が新たな歴史書を・・・って時点で、なんとなく疑いたくなるのは人の常。

もちろん、以前も書かせていただいたように(3月17日参照>>)、すべてが作り話というわけでも無いでしょうが、やっぱり納得の行かない部分も多々あるわけで・・・今回の馬子で言えば、たとえば、先ほどの崇俊天皇の暗殺事件(11月3日参照>>)・・・

『日本書紀』では、そもそもは、馬子自身が擁立したはずの崇峻天皇を、
「…十一月(しもつき)癸卯(みずのとのう)の朔乙巳(ついたちきのとのみのひ)に…東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、弑(し)せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵(くらはしのをかのみささぎ)に葬りまつる…」
つまり、
「11月3日に…東漢直駒なる人物を差し向けて暗殺して、この日のうちに天皇を倉梯岡陵に埋葬しました」
と堂々と書いてある・・・

なのに、馬子は、その後も普通に朝廷内の中心人物として居座り続けているわけで・・・

「国家元首を臣下の者が暗殺しといてお咎め無し」なんて事があるのでしょうか?

まぁ、それだけ権力を握っていて、「悪事を働いても誰も罰する事ができない=馬子の独裁政権だった」的な事を、『日本書紀』は言いたいのかも知れませんが、それって、もしかしたら、馬子が王だったて事になるんじゃないの?

一方、この馬子が実権を握っていたであろう時代にあった良い出来事=例の冠位十二階や十七条憲法の制定や、かの『天皇記』や『国記』などの歴史書の編さんや、遣唐使の派遣など・・『日本書紀』では、こんな良い事を行った事が書いてある時に、必ず、馬子とセットで登場するのが、ご存じ厩戸皇子(うまやどのおうじ)聖徳太子の名前です。

Tennoukeizu0520umako 聖徳太子は、蘇我氏の血脈を受け継いではいますが、用明天皇の皇子・・・しかも、そのまた皇子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が亡くなって血筋が途絶えてしまう家系・・・

そうです。
政変を起こして新しく歴史書を編さんする側にとっては、倒した相手=敵は悪でなくてはならないわけで、良い事をやってくれては困る・・・

そんな中で、好都合な事に、「ここに、すでに血筋の絶えてしまった天皇家の人がいてるやん!ラッキー!」と、

馬子の全盛期にあった良い事をやった人=皇太子であり推古天皇の摂政として活躍する厩戸皇子=聖徳太子を登場させたわけです。

最近よく言われる「聖徳太子=架空の人物説」ですが、どちらかと言えば、架空というよりは、蘇我氏のやった事を代わりにやった事にした人という事で、私としては「聖徳太子=蘇我三代(馬子・蝦夷・入鹿)説」だと思っております・・・まぁ、あくまで(仮)ですが

Dscn1587a800b 馬子の墓と言われる石舞台古墳(奈良県明日香村)

ところで、この馬子の墓ではないか?と言われている奈良の明日香村にある有名な石舞台古墳・・・・

以前書かせていただいたページ(11月8日参照>>)と重複する内容で恐縮なのですが、私も、やはり、「おそらく、この石舞台古墳は馬子の墓であろう」と思っております。

なんせ、その古墳の大きさがデカイ・・・もはや古墳時代も終わろうかという時代に、同時代の天皇家の墳墓よりも大きな古墳でありながら、わずかの間に古墳とはわからないほどに崩壊し、露出した石室が「謎の巨石」と扱われるようになるのは、まさに、敗者の古墳であったからではないか?と思うのです。

今のところは藤原氏の作った歴史書に頼るしかないこの時代の歴史探究・・・遺跡の発掘によって、更なる研究が進むことを期待したいですね。
 .

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2014年5月15日 (木)

起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い

 

元弘三年(1333年)5月15日、鎌倉討幕戦における分倍河原の戦において幕府軍が勝利・・・討幕側の新田義貞が一時窮地に立たされるも、翌16日に挽回しました。

・・・・・・・・・・

元弘元年(1331年)に笠置山にて挙兵するも(9月28日参照>>)、失敗に終わった後醍醐(ごだいご)天皇が、翌元弘二年(1332年)隠岐に流された(3月7日参照>>)事で、小休止となった鎌倉討幕への戦い・・・

しかし、元弘三年(1333年)に入って間もなく、新たなる展開を見せるのです。

1月には笠置山から脱出した護良(もりよし・もりなが=後醍醐天皇の皇子)親王天王寺の戦いにて六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)

閏2月5日には、先の戦いで落されていた千早城を奪回して立て籠もった楠木正成(くすのきまさしげ)を、大量の幕府軍が囲んでの千早城の戦い(2月5日参照>>)が開始されると、同2月24日には、隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山(せんじょうざん=鳥取県)籠ります(2月24日参照>>)

この天皇の戦闘態勢を受けて、播磨(はりま=兵庫県南西部)赤松則村(あかまつのりむら・円心)が、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を拠点に、三月十二日合戦(3月12日参照>>)山崎合戦(3月15日参照>>)四月三日合戦(4月3日参照>>)と立て続けに京都を脅かし、さらに4月8日には、市街地での京合戦(4月8日参照>>)となります。

そんなこんなの4月16日に、鎌倉幕府の命を受けて、この一連の京都での合戦鎮圧のために上洛した足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)(4月16日参照>>)でしたが、翌5月7日、その高氏が、いきなり討幕派に転じて六波羅探題を攻撃した事で(5月7日参照>>)、京を追われた北条仲時(なかとき)が自刃し、六波羅探題が消滅(5月9日参照>>)・・・となります。

Nittayosisada600b と、ここらあたりは京都=都周辺での合戦・・・しかし、ご存じの通り、幕府の拠点は鎌倉ですから、討幕となれば当然・・・で、ここに登場するのが新田義貞(にったよしさだ)です。

義貞は、はじめ、幕府の一員として、あの正成が籠る千早城を攻撃する役目だったわけですが、長引く籠城戦の中で、密かに後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の命令を記した公文書)得た事で、病気と称して勝手に関東へと戻って戦闘準備・・・5月11日、意気揚々と挙兵し、小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)にてぶつかった幕府軍を蹴散らしました(5月11日参照>>)

小手指原に続いて、翌12日に行われた久米川での戦闘にも敗れた幕府軍は、その日のうちに分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで撤退し、一方の新田軍は、その久米川畔に陣を敷きます。

この日の幕府軍の負傷者は相当な数に上り、もはや息も絶え絶え状態・・・おそらく義貞も、この勢いのままの完全勝利を描いていた事でしょうが、

そこは、さすがの幕府・・・この戦況を、鎌倉にて聞きつけた北条高時(ほうじょうたかとき=第14代執権)は、自らの弟=北条泰家(やすいえ)10万余騎(←『太平記』の数字です)の兵をつけて援軍として派遣する事に・・・

なんせ、この分倍河原は甲州街道をはじめとする複数の街道が行き交い、かつては武蔵の国府も置かれた要所・・・幕府にとって、ここは死守せねばならない場所だったのです。

こうして、大軍を率いた泰家は、15日の真夜中に、密かに現地=分倍河原へ到着・・・一方、幕府が要所と考えるこの地は、当然、義貞にとっても重要な場所であります。

しかし、この時の新田軍は、まさか、知らぬうちに10万もの援軍が合流しているとは気づかないまま、元弘三年(1333年)5月15日夜明け前に幕府軍の陣取る分倍河原へと押し寄せたのです。

夜のうちに10万の援軍・・・それを知らずに攻撃・・・
この経緯でお察しの通り、新田軍はたちまち窮地に追い込まれ、逆に新手の大軍に攻め立てられる形となり敗退・・・

と、以前も書かせていただきましたが『太平記』では、
「是ぞ平家の運命の尽きぬる処ところ)のしるし也(なり)
と記していて、ここで、もしかしたら討ち果たす事ができたかも知れない義貞を追撃せずに、すんなり撤退させてしまった事が幕府最大の失態=北条(平家)滅亡の兆しとしています。

それほど、この5月15日の分倍河原の戦いでの敗戦は義貞にとってピンチだったわけで、それこそ、命助かったものの、この後の戦いをどうすべきか、彼も悩みに悩んでいたわけですが、

そんなこんなの15日の夕方、今度は義貞のもとに救世主登場・・・相模(さがみ=神奈川県)から6000の兵を率いて駆け付けた三浦一族大多和義勝(おおたわよしかつ)でした。

しかも、
「さっき、こっそりと敵陣の様子をさぐらせたところ、幕府軍はこの勝利に安心して油断しきってるみたいですわ。
明日の合戦には、新手の僕が一方の先陣を引きうけて、敵を攻め立てて、必ず勝って見せますよってに…」

と心強い言葉・・・

かくして翌16日の朝4時・・・未だ鎮まる幕府軍に奇襲攻撃を仕掛けた三浦勢・・・さらに、そこに、義貞以下の軍勢が時間差攻撃の如く、三方から鬨(とき)の声を挙げて一気に攻め立てたため、幕府軍は大混乱・・・

やむなく、泰家率いる幕府軍は、鎌倉へと敗走する事に・・・

しかし、命からがら鎌倉に戻った兵たちに待っていたのは、「京都の六波羅が落ちた」との知らせ・・・彼らは、しばしの間呆然とするしか無かったのだとか・・・

そしていよいよ・・・この分倍河原での逆転勝利に勢いづいた義貞が、幕府の本拠地=鎌倉を目指すのは、この2日後の事ですが、そのお話は、5月21日の【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】でどうぞ>>
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2014年5月 8日 (木)

アンケート企画:大坂の陣400年記念「大坂方のイチ推し武将は?」

 

慶長二十年(1615年)5月8日、大坂夏の陣において、徳川方に包囲された大坂城が落城しました。

・・・・・・・・・・・

・・・と言っても、このブログでは散々書かせていただいておりますので、くわしくは【大坂の陣の年表】>>からご覧いただければ、ありがたき幸せヽ(´▽`)/

てな事ですが、あらためて西暦年号を見ていただければ一目瞭然の通り、今年&来年は、その大坂の陣から400年の記念の年!!という事で、大阪城天守閣や激戦場となった天王寺界隈では、かなりの盛り上がりを見せているようです。

まぁ、いくらブラックユーモアを解する大阪人でも、さすがに『落城400年記念』とは言い難いのか、『大坂の陣400年』と銘打ってのプロジェクトも立ち上がっております。
「400年プロジェクト」のページ>>(←別窓で開きます)

て事で、今回は、それに乗っかってのアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたがイチ推しの大坂方の武将は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

とは言え、なんとなく真っ赤なアノ人がダントツな気がしないでも無いですが、それはそれでオモシロイのではないか?と・・・

とにかく、今回も、イロイロと選択肢を悩みつつ、おっぱじめたいと思いますので、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢に清き1票を・・・

  1. なんだかんだで総大将
    豊臣秀頼(参照ページ>>)
  2. なんだかんだで主将格
    大野治長(参照ページ>>)
  3. カッコ良過ぎのイケメン武将
    木村重成(参照ページ>>)
  4. 日本一の兵
    真田幸村(信繁)(参照ページ>>)
  5. 実は黒田家の?伝説の男
    後藤又兵衛基次(参照ページ>>)
  6. 道明寺に華と散る
    薄田隼人兼相(参照ページ>>)
  7. 父に誓った復活の陣
    長宗我部盛親(参照ページ>>)
  8. 樫井に散った無双の豪傑
    塙団右衛門直之(参照ページ>>)
  9. ただ一人脱出した?
    明石全登(景盛)(参照ページ>>)
  10. 毛利の密命を受けて…
    佐野道可(内藤元盛)(参照ページ>>)
  11. 壮絶な最期を遂げた
    大野治胤(道賢・道犬)(参照ページ>>)
  12. 父の血を継ぐ熱血男児
    秀頼の子供たち(国松・求厭)(参照ページ>>)
  13. もしかしてこの人も?
    増田長盛(参照ページ>>)
  14. 徳川の言い分が正しいならこの人も?
    古田織部(6月11日参照>>)
  15. 千姫を救い徳川の旗本として生き残った
    堀内氏久(参照ページ>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がおられましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
すでにブログでご紹介させていただいている方15名に絞ってみましたが、もちろんその他のご意見もお待ちしております。

勝手ながら、5月22日締め切りとさせていただきました。

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>
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2014年5月 3日 (土)

近代日本の教育者…伊沢修二

 

大正六年(1917年)5月3日、明治から大正にかけて教育者として活躍した伊沢修二が、67歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

嘉永四年(1851年)に信州(長野県)の高遠藩士の家に生まれた伊沢修二(いさわしゅうじ)ですが、家は20俵2人扶持の下級武士・・・しかし、そんな下級武士の彼らにも勉学の機会が与えられ、頑張りようによっては、その才能を以って世に出る事ができる土壌があったのが、夢多き幕末維新の頃・・・

Izawasyuuzi400 そんな幕末に、江戸や京都に出て蘭学を学んだ修二は、維新後の新政府にて文部省の出仕して文教官僚となり、明治七年(1874年)に愛知師範学校(後の愛知教育大学)校長となります。

翌・明治八年(1875年)には、「その目で先進国を見て来い」とばかりに、3年間のアメリカ留学の機会を与えられますが、これが、帰国後の修二の生き方を大きく左右する転機となりました。

後の彼に大きな影響を与える事になる二人の人物に出会うのです。

一人は、電話の発明で有名なアレキサンダ・グラハム・ベル・・・ずいぶん前にチョコッとだけ書かせていただきましたが、その電話が完成して間もなくの頃、「日本語でも通じるのか?」という疑問を抱いて研究室を訪問した日本人留学生の一人が、彼=修二だったのです(12月16日参照>>)

伝記などでご存じの方も多いかと思いますが、ベルは、お母さんが聴覚障害を持っていて、母の苦悩を少しでも和らげようと様々な事を学び、電話の発明も、「母に音の波長を見せたかったから」なんて事も言われますね。

なのでベルは、手話視話法(口の開き方など見た目からの発音の指導法)もマスターしており、そのような障害を持つ人たちへの教育方法についても研究していたのです。

後に東京盲唖学校(後の筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長になった時には、その時ベルから教わった視話法を日本の教育現場に取り入れる事になります。

そして、もう一人・・・ルーサー・メーソンという人物です。

アメリカ留学中にはハーバード大学にて理化学を学んだり地質研究などもこなしていた修二ですが、同時に、そのメーソンから音楽教育も学んでおりました。

留学を終えて帰国した翌年の明治十二年(1879年)、修二は東京師範学校(後の筑波大学)の校長になりますが、その時感じたのが、日本における音楽教育の遅れ・・・

なんせ、当時は、教えるべき教材もなければ、教える事のできる先生さえいない・・・なので修二は、それらの問題を指摘し、文部省に音楽教育機関の設置をかけあったのです。

進言が聞き入れられて、文部省内に立ちあげられた音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)に任命された修二は、早速、音楽の恩師であるメーソンをお雇い外国人として日本に招きます。

そして、彼らが最初に行った仕事が『唱歌集』の編集でした。

「唱歌」という言葉自体は、平安の昔から雅楽の世界で使われており、室町時代にも歌の歌詞の事を「唱歌」と称する事もあったようですが、ここで言う『唱歌』は、いわゆる「学校の音楽で習う歌」という意味の唱歌・・・

いや、むしろ、ここで言う「学校で習う唱歌」が、この後、あまりにも一般的になってしまった事で、現在では「唱歌と言えば学校で習う物」という認識が強く、いわゆる英語で言うところの「song」「歌曲」「楽曲」などと呼ばれ、古来使われていた雅楽の譜面を声に出す意味の唱歌も、逆に「譜唱」などと言われるほどに、唱歌=学校のイメージがついちゃうわけですが・・・

それは、言いかえれば、そんだけ「学校で習う唱歌がスゴかった」という事なんです。

そう、これまでの日本人のほとんどが接する事が無かった洋楽というモノ・・・そんな洋楽、あるいは洋楽風の曲を、それも、子供でも覚えやすい短い曲に仕上げ、そこに、見事にマッチした日本語の美しい歌詞を付け、初等・中等の学校で一斉に教える・・・

今の今まで、これだけ独自の文化を育んで来た国民が、この唱歌のおかげで、短期間に、かつ一斉にして他民族が造り上げた音階やリズムに親しみを持ち、吸収する事になったわけで・・・こんな事って、世界広しと言えど、なかなか無いのでは?

皆様よくご存じの「蝶々」スペイン民謡
「蛍の光」スコットランド民謡
「霞か雲か」ドイツ民謡・・・『唱歌集・初編』に掲載されたこれらの歌は、今でも、歌われます。

もちろん、日本の伝統的な音楽を引き継いでいく事も重要ですが、明治維新を迎えて、世界に広く目を向け、近代的な文化を身につけねばならない頃のやり方としては、なかなかの物じゃないでしょうか?

アホみたいな例えですが、ひと昔前のアニメソングに似てる気が…(*゚ー゚*)

あくまで、個人的な考えですが・・・今では、アーチストやアイドルのヒット曲の一つのようになってしまってるアニソンですが、ひと昔前は、小さな子供が世界の音楽に触れる機会であったように思います。

イタリアの少年が南米を旅する「母を訪ねて三千里」のテーマ曲は、その頃には、未だ一般的には馴染みの薄かったケーナの伴奏によるフォルクローレ風の曲で、しかも、南米特有の途中で曲調が変わるフーガの形式を取り入れたような曲でした。

アメリカの農村が舞台だった「あらいぐまラスカル」は、バンジョーを使ったカントリー調、ご存じの「アルプスの少女ハイジ」に至っては、ホルンはもちろん、スイスで録音した本物のヨーデルのコーラスから始まる・・・といった具合。

それは「世界名作劇場」やからやないかい!とお思いかも知れませんが、いえいえ、当時の子供たちは、あの「妖怪人間ベム」ジャズっぽいテーマ曲に、怪しげな夜の大人の世界を感じた物です~。

・・・とまぁ、話が脱線してしまいましたが、そんな感じで、テレビもCDもYouTubeも無い時代に、子供たちを世界の音楽に触れさせ、それを楽しむ機会を与えてくれたのが、修二たちの作った『唱歌』だったという事なのです。

その後も、教科書検定制度を実施たり、台湾総督府学務部長になって台湾に行ったり、貴族院議員として学制改革に力を入れたり・・・と、とにかく教育改革に奔走した修二・・・

何でもやってのける行動力があるぶん、感情のままに突っ走るところがあり、これだけ教育に力を入れながら、結局のところ、文部大臣にさえなれなかったと言われる彼ですが、大臣の椅子に座るより、立って行動する方が、彼の性分には合っていたのかも知れませんね。
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