« 起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い | トップページ | アンケート企画:「イチ推しの大坂方の武将は?」の結果発表 »

2014年5月20日 (火)

謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代

 

推古天皇三十四年(626年) 5月20日、大臣として4代の天皇に仕えた飛鳥時代の政治家=蘇我馬子が推定74歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

教科書はもちろん、このブログでも、すでに度々登場している飛鳥時代を代表する有名人蘇我馬子(そがのうまこ)・・・しかし、実は謎だらけ・・・

そもそもは、
河内(大阪府)の豪族橿原(奈良県)の豪族、あるいは天皇家から分かれた支族、はたまた、大陸からの渡来人の子孫・・・と、そのルーツが曖昧な蘇我氏ですが、徐々に頭角を現し、馬子の父=稲目(いなめ)(3月30日参照>>)が宣化天皇元年(536年)に大臣となる大出世を果たし、その娘たちを天皇家に嫁がせて、さらに力を盤石な物にしたところで、息子の馬子にバトンタッチする中、

第31代・用明(ようめい)天皇の後継者争いに乗じて、最大のライバルであった物部(もののべ)氏を滅ぼした馬子(6月7日参照>>)、更なる実権を握って、自らの思い通りになるであろう第32代・崇峻(すしゅん)天皇を擁立・・・

しかし、その崇峻天皇との関係がギクシャクしはじめると、速やかに天皇を暗殺し、今度は、用明天皇の妹であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ=豐御食炊屋姫)を第33代・推古(すいこ)天皇として擁立し、まさに蘇我政権の全盛期を迎えるのです。

この間、渡来人を重用して先進的な技術や学問を導入し、日本における仏教の発展にも尽力・・・日本初の僧寺=法興寺(または元興寺=現在の飛鳥寺)を建立しています。

推古天皇十一年(604年)には冠位十二階十七条憲法の制定され(4月3日参照>>)、推古天皇二十八年(620年)には『天皇記』『国記』などの歴史書の編さん、国費で遣唐使を派遣して大陸の最先端の政治や学問を若者に学ばせるなど・・・

馬子が実権を握っていた時代は、それまで豪族の集合体政権だった大和朝廷が、中央集権的律令国家=日本へと変貌する時代であったわけです。

とまぁ、まさにキングメーカー馬子の華麗なる功績なわけですが・・・実は、馬子という人物についてのこれらの事は『日本書紀』の記述に由来する事が多い・・・

そう、ご存じの通り、その『日本書紀』を編さんしたのは、馬子の蘇我氏を滅ぼした藤原氏なわけで、どこまで本当の事なのか?が微妙・・・て事になります。

なんせ、上記の馬子が編さんしたであろう歴史書である『天皇記』や『国記』は、かの乙巳(いっし)の変(6月12日参照>>)での蘇我氏滅亡のゴタゴタで行方不明となり・・・いや、むしろ、変の首謀者である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)によって、わざと末梢された・・・なんて噂もあるくらいです。

政変でそれまでの歴史書が無くなり、政変を起こした人物の子孫が新たな歴史書を・・・って時点で、なんとなく疑いたくなるのは人の常。

もちろん、以前も書かせていただいたように(3月17日参照>>)、すべてが作り話というわけでも無いでしょうが、やっぱり納得の行かない部分も多々あるわけで・・・今回の馬子で言えば、たとえば、先ほどの崇俊天皇の暗殺事件(11月3日参照>>)・・・

『日本書紀』では、そもそもは、馬子自身が擁立したはずの崇峻天皇を、
「…十一月(しもつき)癸卯(みずのとのう)の朔乙巳(ついたちきのとのみのひ)に…東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)をして、弑(し)せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵(くらはしのをかのみささぎ)に葬りまつる…」
つまり、
「11月3日に…東漢直駒なる人物を差し向けて暗殺して、この日のうちに天皇を倉梯岡陵に埋葬しました」
と堂々と書いてある・・・

なのに、馬子は、その後も普通に朝廷内の中心人物として居座り続けているわけで・・・

「国家元首を臣下の者が暗殺しといてお咎め無し」なんて事があるのでしょうか?

まぁ、それだけ権力を握っていて、「悪事を働いても誰も罰する事ができない=馬子の独裁政権だった」的な事を、『日本書紀』は言いたいのかも知れませんが、それって、もしかしたら、馬子が王だったて事になるんじゃないの?

一方、この馬子が実権を握っていたであろう時代にあった良い出来事=例の冠位十二階や十七条憲法の制定や、かの『天皇記』や『国記』などの歴史書の編さんや、遣唐使の派遣など・・『日本書紀』では、こんな良い事を行った事が書いてある時に、必ず、馬子とセットで登場するのが、ご存じ厩戸皇子(うまやどのおうじ)聖徳太子の名前です。

Tennoukeizu0520umako 聖徳太子は、蘇我氏の血脈を受け継いではいますが、用明天皇の皇子・・・しかも、そのまた皇子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が亡くなって血筋が途絶えてしまう家系・・・

そうです。
政変を起こして新しく歴史書を編さんする側にとっては、倒した相手=敵は悪でなくてはならないわけで、良い事をやってくれては困る・・・

そんな中で、好都合な事に、「ここに、すでに血筋の絶えてしまった天皇家の人がいてるやん!ラッキー!」と、

馬子の全盛期にあった良い事をやった人=皇太子であり推古天皇の摂政として活躍する厩戸皇子=聖徳太子を登場させたわけです。

最近よく言われる「聖徳太子=架空の人物説」ですが、どちらかと言えば、架空というよりは、蘇我氏のやった事を代わりにやった事にした人という事で、私としては「聖徳太子=蘇我三代(馬子・蝦夷・入鹿)説」だと思っております・・・まぁ、あくまで(仮)ですが

Dscn1587a800b 馬子の墓と言われる石舞台古墳(奈良県明日香村)

ところで、この馬子の墓ではないか?と言われている奈良の明日香村にある有名な石舞台古墳・・・・

以前書かせていただいたページ(11月8日参照>>)と重複する内容で恐縮なのですが、私も、やはり、「おそらく、この石舞台古墳は馬子の墓であろう」と思っております。

なんせ、その古墳の大きさがデカイ・・・もはや古墳時代も終わろうかという時代に、同時代の天皇家の墳墓よりも大きな古墳でありながら、わずかの間に古墳とはわからないほどに崩壊し、露出した石室が「謎の巨石」と扱われるようになるのは、まさに、敗者の古墳であったからではないか?と思うのです。

今のところは藤原氏の作った歴史書に頼るしかないこの時代の歴史探究・・・遺跡の発掘によって、更なる研究が進むことを期待したいですね。
 .

内容が「よかった」と思っていただけましたら
右サイドバーsoonにあります【拍手!!】を・・・
ブログ内の人気ページとしてランキングされます(゚ー゚)
あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



 

 


|

« 起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い | トップページ | アンケート企画:「イチ推しの大坂方の武将は?」の結果発表 »

飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんにちは。

確かに蘇我氏は悪く言われ過ぎですね。
逆に聖徳太子のあの万能ぶりは、あまりにも作り過ぎと言う気がするので、勝者の歴史資料の記述は疑わないといけないですね。

投稿: エアバスA381 | 2014年5月20日 (火) 12時18分

エアバスA381さん、こんばんは~

ホント…史料が少ないのが残念です。

投稿: 茶々 | 2014年5月20日 (火) 18時26分

茶々さん、こんばんは♪

聖徳太子=蘇我馬子説は、確か高3の時かな?!本で読んだことがあります。かれこれ27年前の話です。(歳がバレる(苦笑))蝦夷と入鹿もひっくるめるのですか?!成る程。
石舞台古墳も小学生の時読んだ、世界中の遺跡を紹介する本に、イースター島のモアイやナスカの地上絵等と一緒に紹介されていました。その本でも馬子の墓説を唱えてましたね。この記事で、なんだか昔を思い出しました(笑)

投稿: 圭さん | 2014年5月20日 (火) 18時55分

圭さん、こんばんは~

そうですね。
言い古されたお話ではありますが、未だに教科書では「蘇我=悪」なイメージがつきまとっている感が拭えませんね。

投稿: 茶々 | 2014年5月20日 (火) 19時24分

茶々様

馬子 ⇒ ええっ、馬の子?
蝦夷 ⇒ 北方の「蛮族」…?
入鹿 ⇒ ええっ、イルカ?

この三人の名前は後世の人(史料)がつけたのでしょうか。

投稿: 鹿児島のタク | 2014年5月21日 (水) 11時15分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

>三人の名前は後世の人(史料)がつけた…

そうですね。
そう言われていますが、これまた史料が無いので、「そう言われている」しか言いようが無い感じですね。

後の和気清麻呂が、流罪になった時に別部穢麻呂に改名させられるところなんか見ると、ますます、そう思いますが…

投稿: 茶々 | 2014年5月21日 (水) 11時40分

茶々さん、こんばんは♪

蘇我親子の名に付いて少し調べて考えてみたのですが、馬子の馬は家畜=財産で特に蔑称だとは思えません。
蝦夷に関しては、日本書紀に蝦夷を饗応したという記述があり、ただ単に異民族という意味合いで使っていたのではないかと思います。「えみしを一人百な人(蝦夷は一人、百人力)」と歌う古歌もあることから、彼らの強さにあやかる意味合いで付けた名ではと思います。他にも天武天皇の家臣で壬申の乱で功績があった鴨蝦夷、奈良時代の朝臣で佐伯今毛人(さえきのいまえみし)という人物がいます。この人の初名は若子、747年に今毛人に改名、763年に藤原仲麻呂の乱で失脚、翌年復権。最終的に正三位・参議にまで出世します。改名の年から考えて、失脚した彼を貶める為に改名させられたわけではありません。
入鹿に関しては、鹿は角が生えた力強い動物で、あやかろうと付けた名ではないかと思います。この考え、どうでしょうか?!

投稿: 圭さん | 2014年5月21日 (水) 22時39分

この時代の蘇我氏の勢力は凄いですね。

以前、飛鳥寺を見てきましたが、
入鹿の首塚がぱっと見で気がつかないくらい
小さくて敗者には容赦ないなと思いました。

投稿: Onitsuka | 2014年5月21日 (水) 23時05分

圭さん、こんばんは~

もちろん、それもアリだと思います。
なんせ、言葉の意味&印象は時代によって変化しますから…

たとえば「鬼」は、平安時代は得体のしれない怖いものでしたが、戦国時代には強い武士への褒め言葉になり、その後、冷血な人を「鬼のような」と表現するように、悪の権化となりながら、ここ最近は「鬼ヤバイ」とか「鬼ウマイ」とか「スゴイ」っていう意味で、またまた褒め言葉になってます。

なので、今では?な名前も、時代が変わればカッコイイ名前である可能性も大いにありますね。

投稿: 茶々 | 2014年5月22日 (木) 02時44分

Onitsukaさん、こんばんは~

そうですね。
何年か前に行った時には、飛鳥寺から道のような物がついていて、わかりやすくなっていましたが、もっと大昔に行った時には、草ボーボーの荒れ放題で悲惨でした。

勝てば官軍ですから…おっしゃる通り、容赦ないですね~

投稿: 茶々 | 2014年5月22日 (木) 02時49分

石舞台古墳!!
主人がどうしても行きたいと言い出し車を走らせ一路高速で明日香まで~。
懐かしく拝見しつつ、また、その時代の実に謎多きことに今更ながら驚愕^^;
蘇我氏と物部氏の争い?!今の世でようやく和解された…と。
そして聖徳太子!!実在していたなら(実在の人物であると信じたい私ですが)
今の世に再来賜りたいお方です^^!
大阪や京都・奈良にある古刹からは切っても切り離せない人物なので、密かに私も!?茶々さまの仮説に1票!!
馬、厩戸皇子…、なんだかやっぱりイエスキリストと被ってしまう…と考えるのは私だけ?!

投稿: tonton | 2014年5月22日 (木) 21時59分

tontonさん、こんにちは~

>なんだかやっぱりイエスキリストと…

おっしゃる通り、被ってますね~
実際に、名もなき皇子がいらしたのかも知れませんが、たぶん、その方は聖徳太子のような方では無かったと想像します。

投稿: 茶々 | 2014年5月23日 (金) 13時36分

茶々さんお久しぶりです
(^O^)
蘇我馬子さんの記事、興味深く読ませて頂きました。
私も、かれこれ20数年前に自転車で明日香村を回り遺跡巡りをする中で、石舞台古墳を見てきましたo(^-^)o

本当にあの辺は、不思議な石が沢山ありますね。
個人的には、亀石が可愛くて好きです。
蘇我蝦夷、入鹿の家があったとされる甘樫丘にも行きました。
あの辺りは、敗れた蘇我氏の歴史が至るところにあり興味深いですね。

茶々さんの聖徳太子=蘇我三代説を初めて知り、
わくわくしました(^O^)/
私も、今まで蘇我氏というと聖徳太子と対立し、邪魔ばかりする腹黒い一族というイメージを持っていましたが、それは勝者である藤原氏が作ったイメージなのかもしれませんね(>_<)

まだまだ歴史の真実から程遠いかもしれませんが、発掘などによる発見で少しでも敗者の歴史が明らかになると良いですね!
馬子さんが編纂したとされる歴史書、ぜひ見てみたかったですo(^-^)o

ところで、千葉県にある「蘇我」という地名は、 蘇我氏と関係があるのでしょうか?もし、何かご存じでしたら教えて頂けたら幸いですm(__)m

投稿: 伊集院みちこ | 2014年5月24日 (土) 19時12分

大化の改新で、蘇我氏は滅亡しますね。
はたして専横政治を行っていたのでしょうか?
石舞台と飛鳥寺に行った事があります。


投稿: やぶひび | 2014年5月24日 (土) 22時17分

伊集院みちこさん、こんばんは~

千葉の蘇我の地名の由来とされる蘇我比咩神社の由緒によると、日本武尊が東征した際に、軍船の行方を阻んだ嵐を鎮めるために入水する弟橘姫に従って入水した姫たちのうちの一人であった蘇我氏の娘が、この地に流れ着いたので、そこに神社を建立して祀ったとされているらしいです。

って事は、その娘さんは、馬子さんたちのご先祖って事になるのでしょうか?
メッチャ、関係アリですね。。。

投稿: 茶々 | 2014年5月25日 (日) 02時10分

やぶひびさん、こんばんは~

明日香に残る邸宅跡の大きさを見ても、かなりの権力を持っていたようですが、それが悪政だったかどうかは微妙ですよね~

ひょっとしたら大化の改新以降より善政をしいてた可能性もあります。

投稿: 茶々 | 2014年5月25日 (日) 02時13分

茶々さん、教えて頂き本当にありがとうございましたm(__)m
疑問が解けてスッキリしました(^O^)
神話が、地名となっていたのですね。

いつも、不思議に思うのですが日本書紀や古事記は、どこまでが神話で、どこからが歴史なのでしょうね(^O^)/

投稿: 伊集院みちこ | 2014年5月25日 (日) 15時50分

伊集院みちこさん、こんにちは~

そうですよね。
記紀神話に登場する地名が、今も現役の地名である場所もあります。

しかも、もし、記紀の編さんが、天皇家&藤原氏を賛美&正統化するだけのための物だったら書かなくても良いような敵対勢力の話も多く含まれているわけで…だからこそ、すべてが創作とは言えなくなって来て、何が本当なのか??
そこがややこしいんですよね~

あくまで、何の根拠もない私個人の妄想ですが、
もはや現代には、ほとんど残されていない風土記のような地方の歴史書が、記紀編さんの時代には、まだまだ残っていたんじゃないか?って思うんです。

なので、その時代には、あからさまに末梢する事が不可能だった様々な地方の言い伝えをを踏まえつつ、天皇家を正統化する話に持っていったのが、記紀の話なんじゃないかと…

投稿: 茶々 | 2014年5月25日 (日) 16時23分

推定74歳だと聖徳太子が摂政になった時が40代前半で、推古天皇即位の時点ですでに重鎮ですね。
蘇我蝦夷は「蘇我毛人」(「日出所の天子」ではこの字です。)とも書くみたいです。「毛人」は毛深い人の意味ですが、蘇我毛人の場合は違うと思います。
千葉県の蘇我駅は京葉線の終点です。

投稿: えびすこ | 2014年6月15日 (日) 11時08分

えびすこさん、こんにちは~

「毛人」と書いて「えみし」と読み、東国の人たちを指す言葉と言われますが、一方で、あの小野妹子の息子も小野毛人ですから、そこンところは、実際にどのような意味があったのか?無かったのか?…謎ですね。

投稿: 茶々 | 2014年6月15日 (日) 13時18分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/47570/56224080

この記事へのトラックバック一覧です: 謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代:

« 起死回生…新田義貞、分倍河原の戦い | トップページ | アンケート企画:「イチ推しの大坂方の武将は?」の結果発表 »