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2014年6月18日 (水)

2日連続で秀吉から出された二つの『切支丹禁止令』

 

天正十五年(1587年)6月18日、豊臣秀吉が『天正十五年六月十八日付覚』を発布しました。

・・・・・・・・・・

ご存じの豊臣秀吉による『切支丹禁止令』あるいは『バテレン追放令』というヤツですが、一般的に『切支丹禁止令』『バテレン追放令』という場合、天正十五年(1587年)6月19日に発布された『天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)の事を指しますが、以前、このブログでもお話させていただいた通り(2007年6月19日参照>>)、秀吉は、その前日=天正十五年(1587年)6月18日にも文書を発布しており、『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の中に、この6月18日に発布した『天正十五年六月十八日付覚(「御朱印師職古格」神宮文庫)内容も含まれる場合もあります。

そもそもは、江戸の昔より周知の存在だった長崎の松浦家に伝わる『松浦文書』(6月19日の分です)があった中で、昭和の初めに伊勢神宮神宮文庫から『御朱印師職古格』なる物が発見され、その中に『天正十五年六月十八日付覚』と言われる6月18日発布された11カ条の覚書があり、以来、連続で出されたとおぼしき二つの文書の関係を巡って、様々な研究がなされて来ました。

  • 秀吉の気持が短時間で寛容な対応から厳重注意に変化したため連続して出され、18日の分ではキリスト教の信仰に制限を加えるという通告をし、19日の分でそれを取り締まる事を明記したのでは?
  • 二つの文書は、18日分は上方(畿内・近畿地方)、19日分は九州と公布の対象が違っていたのではないか?(前者が伊勢、後者が長崎で発見されている)
  • 18日の分が基本法で19日の分が追加法なのではないか?
  • 18日の分は一般庶民への国内向け、19日の分はイエズス会の宣教師など外国人向けに発布したのでは?

などなど・・・もちろん、歴史研究は日々進化しますので、上記以外の見方もあるでしょう。

また、わずか1日の差で微妙に違う二つの文書・・・そこに、何があったのか?については、先の2007年6月19日のページ>>にも書かせていただきましたが、もちろん、それは仮説の域を出ない一つの説であり、他にも様々な推理が成り立ちます。

・・・で、その19日に発布された『朱印』の内容についてはその2007年6月19日のページ>>でご覧いただくとして、このページでは、18日のぶんの11カ条をご紹介・・・

  1. 伴天連門徒之儀者、共著之心次第たるべき事。 
  2. 国郡在所を御扶持ニ被遣侯を、其知行中之寺請百性(姓)以下を、心さしも無之処、押付而給人伴天連門徒ニ可成由申、理不尽ニ成侯段、曲事候事。 
  3. 其国郡知行之儀、給人ニ被下僕事ハ、当時之儀ニ候、給人は替り候といへとも、百性(姓)ハ不替者ニ候条、理不尽之儀、何かに付て於有之者、給人を曲事被仰出侯間、可成其意侯事。 
  4. 弐百町二三千貫より上之者、伴天連ニ成侯おゐてハ、奉得、公儀御意次第ニなり可申事。 
  5. 右之知行より下を取候老ハ、八宗九宗之義侠間、其主l人宛ハ心次第可成候事。 
  6. 伴天連門徒之儀ハ、一向宗よりも外ニ申合侯条、被聞召侯、一向宗其国郡ニ寺内を立、給人へ年貢を不成、 加賀国一国門徒ニ成侯而、国主之富樫を追出、一向宗之坊主もとへ令知行、共上越前迄取侯而、天下之さわりニ成侯義、無其隠之事。 
  7. 本願寺門徒、其坊主天満に寺を立させ、錐免置侯、寺内ニ如前々ニハ、不被仰付候事。 
  8. 国郡又は在所を持侯大名、其家中之者共、伴天連門徒ニ押付成候事ハ、本願寺門徒之寺内空止しよりも太不可然義侠問、天下之さわりニ可成侯粂、其分別無之老ハ 可被加御成敗侯事。 
  9. 伴天連門徒心さし次第ニ下々成侯義ハ、八宗九宗之義侯間、不苦辛。 
  10. 大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 
  11. 牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事。

ちょっと長くてややこしいですが・・・
要するに、加賀で起こった一向一揆(2010年7月26日参照>>)を例にあげ、キリシタン大名が強制的に改宗を迫ったり、理不尽な事をするのさえ無ければ、下層の武士や一般庶民がキリスト教を信仰する事は「心次第たるべき」=思い通りにしてイイヨ、というのが1~9までに書いてある・・・

なんせ、秀吉が自身で言ってるように、自分も京都に大仏建立の計画を立てたり(2011年7月26日参照>>)、本願寺に土地を寄進したり(1月19日参照>>)するような人ですから、それらの神道や仏教への信仰と一緒に、キリスト教の信仰も統合してしまおうという考えなので、限度をわきまえて信仰するならOK!というのがこの『天正十五年六月十八日付覚』の主旨だと思われます。

しかし、先にも書いた通り、翌・19日に発布される『松浦文書』では、一転、キリスト教排除へと転換するのです。

そんな中で、今回のこのページで注目したいのは、19日の分には一切登場しない、『天正十五年六月十八日付覚』の10条と11条・・・

実は、この天正十五年(1587年)の春、秀吉が、当時、日本イエズス会の副管区長をやっていた宣教師=ガルパス・コエリヨに会見した際に、複数の質問を投げかけている事が、イエズス会の記録やルイス・フロイス『日本史』に見えます。

  • なんで?ポルトガル人は大勢の日本人を買い、奴隷として連れて行くのか? 
  • 牛馬は、人間の力仕事を手伝うてくれる有意義な動物やのに、それを食べよっていうのがワカランわ~

まさに、この10条&11条の内容です。

まぁ、11条に関しては、食文化の違いですし、すでに食べちゃってる平成の私たちには、単なる習慣&価値観の違いによる物としか言いようがありませんが、肝心なのは10条・・・そう、人身売買です。

これに対するコエリヨの返答は、
「日本人が売るから買うんです。
僕ら宣教師は、この事を大いに悲しんでて、何とか防止しよ思てるんですが、力不足で…
殿下
(秀吉の事)がお望みでしたら、各地の大名に、売る事を禁止して、違反した者に重い刑を科したらよろしいねん。
ほたら、誰も売りませんし、売る者がいてなければ買いもしませんがな」

と・・・(なんか「物も言いよう」てな返答のような気がしないでもない)

ずいぶん前に書かせていただきましたが、天正九年(1581年)に織田信長に謁見したヴァリアーノ神父が黒人奴隷を連れていて、その彼を気に入った信長が、その黒人さんをもらいうけ、弥介という名で従者の一人に加えて、ずいぶんと可愛がっていたというお話・・・(2月23日参照>>)

この時代、宣教師と言えど、奴隷を連れている事は珍しくない時代で・・・実は、1454年当時のローマ教皇=ニコラス5世が自ら
「この状態(奴隷になった状態)神の恩恵である」
的な発言をしているとか・・・

つまり、「異教徒ある彼らが、奴隷として長期に渡ってキリスト教の国に住む事で、いずれキリスト教信者になれば、それは彼らにとって良い事なのだ」てな事らしいです(10月12日参照>>)

これは、同時期にヨーロッパへと派遣された天正遣欧少年使節(6月20日参照>>)の彼らも、日本人が奴隷として海外に売られる事に関して、同じような事を言っているので、やはり、それが、この時代のキリスト教側の考え方で、キリシタン大名たちの多くも、そのような考えていたのかも知れません。

Toyotomihideyoshi600 しかし、秀吉には許せなかった・・・
いや、けっこう怒ってはります。

かの『日本史』によれば、この時、秀吉は
「これまでに外国へ売られた日本人を、君らが連れ戻してくれへんやろか?
もし、それが、距離的に難しい事やねんやったら、せめて、今現在ポルトガル人が購入した日本人奴隷をすぐに釈放してくれ。
商人が彼らを購入した費用は、全部、俺が出すさかいに…」

と言ったのだとか・・・

しかし、それに対する宣教師の返答も
「いや、せやから、僕らも心痛めてますねん。
幸いな事に、この状況は未だ九州のみで、畿内や関東まで広がってません。
根本的な解決は、やはり、殿下が、大名たちに禁止を勧告する以外に無いと思います」

という先の回答と似たり寄ったりな物・・・

実は、秀吉が平定する以前は、島津大友に代表される武将たちによる戦乱に明け暮れた九州地方では、いわゆる「乱取り」という名の略奪行為が行われ、捕虜として確保された一般領民たちが、その後に海外に売られて行く・・・という現状がありました。

いや、九州だけでなく、乱取りは日本各地であった行為でした(10月2日の後半部分参照>>)

なんせ、殿様クラスの武将なら、合戦で領地を増やして、それを自分のモノにする・・・という勝利後のお得がありますが、下っ端の足軽や、まして、普段は農業やってる百姓兵なんで、乱取りでもしないと、命がけの合戦に出ても、何も得る物が無いのが戦国の現実ですから・・・

しかし、秀吉の考えは少し違っていました。

戦いに勝利して奪い取った土地が、たび重なる合戦によって荒れ果てているにも関わらず、その土地に住む者まで略奪して売り飛ばしたら、誰がコメを作るんだ?
てな事です。

まさに、武士では無い秀吉ならではの考え・・・なので、上記の人身売買への秀吉の怒りも、純粋に人道的な観点からの中に、商人的な損得勘定がプラスされた物なのかも知れませんが、とにもかくにも、秀吉にとっては、合戦に勝利したあかつきには、そこに住む領民もろとも自分のトコに来てもらう・・・っていうのがベストだったわけです。

で無いと、マトモに年貢を徴収する事ができませんから・・・

この後、秀吉は、天正十六年(1588年)の8月に、肥後国(ひご=熊本県)の北と南を与えた加藤清正(かとうきよまさ)小西行長(こにしゆきなが)に向けて、
「豊後(ぶんご=大分県)の百姓や女子供が肥後に売られて行ったてな話を聞いたけど、見つけたら、すぐに連れ戻す事…(買い手による)拒否は許さんし、金も払わん。
買うた者は買い損やという事を知らせとけ」

という内容の書状を送っていますが、悲しいかな、禁止したらすぐに無くなるという物では無いというのも現状・・・

とは言え、秀吉の『切支丹禁止令』『バテレン追放令』の発布の理由の一つには、ポルトガルやスペインによる日本占領の危機とともに、この人身売買禁止の一件もあったという事が、この6月18日付けの覚書によってわかるのです。

そして、18日と19日の間に「何か」があり、秀吉の気持が、統合から排除へと変わった・・・
 .

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コメント

こんばんは。私が人身売買していたキリシタン大名として知ってるのは、有馬晴信、大友宗麟、あと高山右近なんですが、間違ってますでしょうか?他にもやってたキリシタン大名いるのかな~?

投稿: | 2014年6月18日 (水) 23時18分

こんばんは~

高山右近と大友宗麟と大村純忠が、フロイスから「三本柱」と呼ばれていたらしいですが、この天正十五年の発布は宗麟と純忠が亡くなった後なので、研究者の中には、この条文は、キリシタン大名のトップとなった右近に向けた物では?と考えている方もおられるようです。

ただ、この時代はキリシタン大名に限らず、たとえば、先の合戦で大友に勝利した島津が、豊後から大量の領民を拉致して薩摩に連れ帰るので「道が混んで進めない」というような事を島津の家臣が日記に書いていたりするのですが、フロイスの『日本史』によれば、どうやら、その乱取りされた領民たちは肥後から長崎や島原に転売されて海外へ行ったようなので、何とも…

世は戦国ですから…致し方無いのかも知れません。

だからこそ、この九州の現状に驚いた秀吉が禁止令を出したのだと…ちょっと豊臣贔屓ですが(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2014年6月19日 (木) 02時22分

茶々さま、こんばんは:)

下総の若造でございます♪

22世紀のドラえもんの時代から今の21世紀の私たちの時代をタイム テレビで見られてたら、「会社員」って呼ばれる人たちが数多く登場して、ロボットがする様なお仕事を朝から晩まで嫌々させられてて、しかも過労死や労災等まであるなんて何て可哀想なんでしょう? しかも、これってうちらのおじいちゃんたちの時代なんだよね? って思われてしまうかも知れませんが、だからと言って急に会社員たちが「リストラ」されたら住宅ローンや子供たちの進学や明日からの生活はどうなるの〜? って困ってしまう人が沢山出てきてしまいます...

昔の奴隷って今の会社員たちと全く同じなんじゃあ無いかな〜? って思います☆

そりゃあ、朝から晩まで働くよりは南の島でバカンスを楽しむ方が良いさ、可能ならね? でも、その前に会社員(奴隷)と言う身分じゃあ無くなったら明日からどうやって行きてくんだよ? 住むとこは? 家族は? って感じで:)

因みに昔は戦争に負けました→奴隷になれません=死んで下さいって事なので、奴隷制度って当時考え得る限りの最大限の人道的措置だったと思うし、セーフティ ネットだったと思います♪

しかも、ちゃんとそこから抜け出す方法もちゃんとあって、現在では脱サラ、当時は解放奴隷と呼ばれていましたが、解放奴隷出身で社会的成功を収めた人たちが結構いましたので、いつの時代であっても人生って本人のやる気次第なんですよね☆

まあ、聖書が書かれた時代(古代、農業時代)には奴隷制度は人道的且つセーフティ ネットだったと思うのですが、今(現代、情報時代初期)は勿論、秀吉の時代(近世、産業時代初期)ぐらいから生産性が上がり、経済も発達して来たので奴隷制度が揺らいで来た(存在意義を失いつつあった)のかも知れないですね? :)

投稿: Matthias | 2014年6月19日 (木) 02時53分

Matthiasさん、こんばんは~

それは一理あるかも知れません。
奈良時代には、奴婢は税金を払わなくて良いので、飢饉に陥った農民の中には、自ら進んで奴婢になった人が沢山いたらしいですから…

よくわからない古代はともかく、その奈良時代くらいから後は、日本では拉致による人身売買は禁止になってますが、飢饉の時には、貧困による人身売買(基本、親が子供を売ります)は、家族全員(本人含む)の餓死を回避するために、合法(許可が要りますが…)とされた事もありましたからね。

この戦国時代の頃の外国の記録にも「日本人奴隷には年季がある」事が書かれていて、おっしゃる通り、年季明けで自由の身となった後に現地で出世した人もいたようです。

ある程度安定した収入が得られる現代と違って、明日が見えない戦国ですから、その価値観もまったく違うのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年6月19日 (木) 03時46分

こんにちは!

最近良く見させていただいてます。
今後も期待しています!

コメントを見ていて奴隷=現代の会社員のような発言があったので、色々考えながらコメント欄も楽しく読ませて頂きました。

なるほど、誰かの為に属したくも無い場所へ行き、やりたくもない仕事をする
それがよく似てると思われるのですよね。

確かに、そのような会社が多いのが事実

しかし、そもそも仕事は人から必要とされているから存在し、報酬を頂きます。
また、その報酬額は支払われる側が決定して、その金額に納得した上で、サービスや商品を買います。

働いてる側次第で楽しく、そして豊かな生活を実現できます。

しかし、それができるのは平和という条件があっての事

この時代の平和は現代と比較すると比べ物にならない位、荒れている時代です。
自分達の力ではどうしようも無かったと感じます。

今、まさに平和であり、自分達の行動次第で時代を代える事もできます。
仕事で、働く人や世の中を豊かにすることが出来るのでは無いか?

そう感じながら、会社を経営しています

投稿: まいど〜 | 2014年6月23日 (月) 14時15分

まいど〜さん、こんばんは~

そうですね。
なかなか難しいです。

所変われば…で、現代でも場所によって価値観は違いますし、まして時代が変われば…

それこそ、その世界に入ってみないとわからない事だらけですが、希望はいつの時代も存在していて欲しいです。

投稿: 茶々 | 2014年6月24日 (火) 01時43分

信者としてお恥ずかしい限りです…(泣)。事実、南米でインカ帝国など文明を滅ぼしていますから…。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 9日 (土) 21時53分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

時代によって宗教の役割も、それに対する考え方も違いますからね。

投稿: 茶々 | 2015年5月10日 (日) 02時31分

コエリヨさん心を痛めているなら売る方も買う方にも、奴隷売買はあかん!と説いて廻るのが坊さんの仕事でしょうに・・・
まあ、カソリック教会事態奴隷の使役に頼ってますから、その辺り秀吉に見透かされたのかも。
「この生臭坊主め!」って(笑

投稿: udauda | 2016年7月30日 (土) 20時09分

udaudaさん、こんばんは~

この時代、「全知全能の神が唯一」という国と「八百万の神がいる」国では、他の宗教の信者に対する考え方も違っていたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年7月31日 (日) 03時02分

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