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2014年6月 6日 (金)

母里太兵衛友信~これぞ真の黒田武士

 

元和元年(1615年)6月6日、黒田官兵衛・長政父子に仕え、黒田二十四騎黒田八虎随一の豪傑とうたわれた母里太兵衛友信が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

母里友信(もりとものぶ・ぼりとものぶ)・・・通称を太兵衛(たへい・たひょうえ)と言います。

そう、今年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」で、イケメンもこみち君がやってる役ですが、実は、この通称の太兵衛は彼の意志を継ぐ2代目からの通称で、友信本人は生涯・多兵衛の表記だったなんて話もありますが、太兵衛が有名で、ドラマでも太兵衛なので、本日は太兵衛さんと呼ばせていただきます。

Moritaei600 ちなみに、徳川秀忠から彼に宛てた手紙に「毛利友信へ」と誤記されていた事から、将軍に気を使って一時だけ毛利姓にした事もあるので、毛利太兵衛と呼ばれる事もあります。

とにもかくにも、この太兵衛さん・・・その身長は六尺半(197cmくらい)を超す大男で、ヒゲが濃く、その風貌まんまの勇猛で頑固で激しい気性だったと言われますが、そもそもは、播磨国御着城(ごちゃくじょう=兵庫県姫路市御国野町御着)の城主だった小寺政職(こでらまさもと)に仕えた妻鹿の国人=曽我一信(そが かずのぶ)の次男として生まれました。

その後、14歳頃に同じく政職に仕えていた黒田官兵衛孝高(かんべえよしたか=後の如水)(3月20日参照>>)のもとに出仕する事になりますが、時を同じくして、黒田家の側近だった尼子氏末裔の母里一族24名が青山の戦いで討死してしまった事から、太兵衛は母里家の名跡を継ぐ事になり、以後、母里太兵衛となります。

ただ、腕はたつけど、あまりに無鉄砲な太兵衛・・・その性格を心配した官兵衛が、重臣である栗山利安(くりやまとしやす=善助)義兄弟の契りを結ばせて、「何事も善助に従うように…」なんて場面もありましたが、官兵衛が、荒木村重(あらきむらしげ)有岡城に幽閉された一件(10月16日参照>>)の時には、善助らとともに、黒田家に忠誠を誓う起請文にも名を連ね、ともに危機を乗り越えました。

その後、官兵衛が心配した気性の激しさは良い方向に発揮され、中国(6月4日参照>>)&四国(7月26日参照>>)の平定でも常に先陣を切って大活躍・・・九州攻め(4月16日参照>>)では、豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)宇留津(うるつ)攻めにて一番乗りの功名を挙げ、戦後、官兵衛に豊前を与えられた時には、太兵衛も6,000石を拝領し、黒田家の家老に就任しました。

そんな太兵衛の豪快さを大いに気に入った豊臣(羽柴)秀吉から、「直参の家来にしたい」とのラブコールを受けながらも断り続け、あの朝鮮出兵の時には、その秀吉から15本もの槍を拝領したのだとか・・・

その期待に応えるがの如く、文禄&慶長の役でも、官兵衛から家督を譲られた息子の長政(ながまさ)に従い、戦いでは先手を努めて大活躍を果たしたのです。

やがて、秀吉亡き後に勃発した関ヶ原の戦いの時には、太兵衛は官兵衛と行動をともにし、九州の関ヶ原と呼ばれる大友義統(よしむね)との石垣原の戦い(9月13日参照>>)へ・・・

その後、慶長八年(1603年)に、長政が筑前(ちくぜん=福岡県西部)52万石に加増された事に伴い、太兵衛は鷹取城代となって1万8,000石を領した後、元和元年(1615年)6月6日に、おそらく60歳前後(生年がはっきりしない)で、その生涯を終えたのです。

と、ここまで、太兵衛さんの生涯を追って参りましたが、母里太兵衛と言えば、やっぱり、あの逸話です。

そう、
♪酒は飲め飲め~飲むならば~♪でおなじみの民謡・黒田節の基となった福島正則(ふくしままさのり)との酒飲み対決!!!

時は文禄&慶長の役の小休止の頃・・・京都の伏見城に滞在していた正則のもとへ、黒田家からの使者として向かった太兵衛・・・

ご存じの通り、正則はあの『賤ヶ岳の七本槍』(4月21日参照>>)にも数えられた豪傑で、その豪快さゆえに、酒の量もハンパない酒豪ぶりだったわけですが、実は太兵衛も、かなりの酒豪・・・

その噂を耳にしていた正則は、その酒豪ぶりを確認してみたかったのか?訪れた太兵衛に、大きな盃を渡して、
「これで、一杯飲めや!」
と、お酒をすすめます。

「いや、今日は主君の使者として訪問させていただんで…」
と、断る太兵衛に対して、すでに酔っぱらっていた正則は、その勢いで
「なんや!黒田のヤツは皆、腰抜けか?この盃を飲み干したら、何でも、好きな物やるのにな~」
と、つい・・・言っちゃった。

「黒田は腰抜け」と言われちゃぁ、太兵衛も黙ってられません。

「ならば…」
と、またたく間に、その大盃を飲み干し、見事、望み通りの『日本号』という名槍を正則からせしめるのです。

この時、酔いに任せて
「武士に二言は無い」
として、望む槍を太兵衛に与えたものの、しらふになった正則は、後日、慌てて
「返して~~」
と泣きつきます。

なんせ、この『日本号』は、正則が秀吉から拝領した福島家の家宝ですから・・・が、時、すでに遅し・・・太兵衛はガンとして返さなかったのだとか・・・

♪これぞ、まことの黒田武士♪
と、後の藩士たちに、今様風のメロディに乗せて語り継がれていたのが、現在の黒田節になったとの事・・・

いやぁ、見事、呑み取りました~
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コメント

茶々様、こんにちは。

いやあ、有名な話ですね。
自分は歌から入りましたけど。
由来を知ったのはかなり後ですね。

投稿: エアバスA381 | 2014年6月 6日 (金) 12時22分

エアバスA381さん、こんにちは~

私も、歌からですね~
なんせ、歌は「気がついた時には知ってた」くらい有名ですもんね~

投稿: 茶々 | 2014年6月 6日 (金) 13時55分

「黒田八虎」では官兵衛の身内である実弟を除くと、ほとんどが官兵衛の代からの家来ですね。「黒田二十四騎」の顔ぶれは長政の家来と言う位置づけですが、「八虎」の中にいる家臣を含めて、官兵衛の代からの家臣はどれくらいいるんでしょう?
今日の「スタジオパークからこんにちわ」で松坂桃李くんが出る予定ですが、番組の放送は大丈夫かな?昨日・今日の関東はエライ天気です。そちらは今どうですか?

投稿: えびすこ | 2014年6月25日 (水) 11時46分

えびすこさん、こんにちは~

いよいよ本編にも松坂桃李くんが登場しましたね。
さっきまで、皆と一緒に遊んでた子がいきなり大きくなりましたが…

大阪は、ここ2~3日は雨は降ってませんね~
今日はメッチャ晴れてます。

投稿: 茶々 | 2014年6月25日 (水) 16時14分

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