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2014年7月 3日 (木)

島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運

 

天正十三年(1585年)7月3日、戦国期の九州にて、阿蘇氏の軍師的存在として活躍した甲斐宗運こと甲斐親直が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

肥後(ひご=熊本県)阿蘇氏の家臣の子として生まれた甲斐親直(かいちかなお)・・・出家後の宗運(そううん)の名号が有名なので、本日は宗運さんと呼ばせていただきますが、没年に関しては天正十一年(1583年)ありますのでご注意を・・・

で、そんな宗運が仕えていた阿蘇氏は、その名でお察しの通り、熊本の阿蘇地方を治める豪族で、代々、阿蘇神社大宮司(だいぐうじ)を務める家柄・・・そのご先祖は神代の昔にさかのぼる事もできるという由緒正しきにもほどがある家系だったのです。

ところが、戦国という時代になって、ご存じの通り、九州には、豊後(ぶんご=大分県)大友(2月10日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)龍造寺(8月20日参照>>)薩摩(さつま=鹿児島県)島津(6月23日参照>>)といった戦国大名が力をつけはじめ、やがて、この三者による三つ巴の様相を呈するに至って、名門の阿蘇家も、その中での生き残りを図らねばならないわけで・・・

そこで活きて来るのは、巧みな交渉術と策略・・・そう、おそらくは、神代からの名門のプライドが許さないようなセコイ(イイ意味で)策略を、主君に代わってやってのけたのが、今回の宗運というワケです。

もちろん、名門のプライドだけでは生き残っていけない戦国の世を感じていた当時の阿蘇家の当主=阿蘇惟将(あそこれまさ)も、そんな宗運の素質を見抜いて、彼を重用する事になりますが、

そんなこんなの天文十年(1541年)、阿蘇家と敵対した御船房行(みふねふさゆき)を討伐した功績により、御船城(みふねじょう=熊本県上益城郡御船町)を与えられ、おそらく、この頃から、主君=惟将より阿蘇家の外交面を一手に任されるようになったとおぼしき宗運・・・

迷わず豊後の大友宗麟(おおともそうりん=義鎮)同盟を結んで、より近づくため、大友の重臣たちとも親しく交流します。

しかし、そんな宗麟が天正六年(1578年)、耳川の戦い(11月12日参照>>)で島津に大敗してしまいます。

それでも、しばらくの間は、大友との同盟を重視し、耳川の戦い後に大友から離反する勢力を抑え込んでいたりしたのですが、やはり、坂道を転げ落ちるがごとき大友の衰退を見るに見かねたのか?天正九年(1581年)の春に、大友との断交を決意・・・今度は肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に接近し、人質と一族連盟の起請文を差し出して、龍造寺家と同盟を結びました。

これを知った島津は、すぐさま、傘下に入ったばかりの相良義陽(さがらよしひ・よしはる)に、宗運の御船城を攻略するよう命じますが、両者が相対した天正九年(1581年)の12月2日、戦場となった響ヶ原(ひびきがはら=熊本県宇城市)にて義陽は討死とあいなります。

というのも、上記の通り、義陽は島津の傘下となったばかり・・・実はそれまでは、阿蘇家と同じく大友と同盟を結んでいたために、その天正九年(1581年)に島津からの侵攻を受けて、やむなく領地の一部を差し出して降伏・・・

つまり、それまでの義陽が親しくしていたのは、大友であり阿蘇家であり宗運だったわけで・・・当然の事ながら、そんな宗運の城を攻める事には、はなから乗り気じゃなかったのです。

そこを突いた宗運・・・本陣だけを一点集中で一気に突入し、アッと言う間に攻め勝ったのでした。

この頃から「阿蘇にその人あり」と九州全土にその名を轟かせる宗運ですが、一方では、先の同盟を結ぶ際に龍造寺家に差し出した人質が、彼の手かせ足かせとなって苦しむ事になります。

そう、おそらく宗運には、すでにこの先の龍造寺家の行く末が見えていたでしょう。

・・・なので、本来なら、ここらあたりでアッサリと龍造寺家を見限って島津家へ・・・と行きたいところですが、龍造寺へ人質を送っているという事実が、彼の決断を鈍らせるのです。

それをカバーするがの如く、ここらあたりで、強くなる一方の島津に対する様々な駆け引きを試みる宗運・・・

腰を思いっきり低くして降伏を申し出たと思えば、急に上から目線になって和睦交渉を決裂させたり、和睦してないのに、「同盟を結んでくれてありがとう」と、お礼の贈答品を使者に持って行かせたり・・・

もちろん、この頃の島津が、対・龍造寺との合戦に主力を置いていて、阿蘇まで手が伸びない事を見越しての生き残り駆け引きだったわけで、事実、島津は、この宗運の作戦に翻弄され、彼が健在の間は、阿蘇に手を出す事はできなかったわけで・・・

しかし、その最期はいきなり訪れます。

冒頭に書いた通り、その死亡の時期は、天正十一年(1583年)と天正十三年(1585年)とあるのですが、もし前者の天正十一年なら、島津が龍造寺に勝利する沖田畷(おきたなわて)(3月24日参照>>)の1年前という事になり、後者の天正十三年なら、やはり沖田畷の戦いの1年後となるわけですが・・・

天正十三年(1585年・もしくは天正十一年)7月3日、突然訪れた宗運の死は、一説には毒殺だったと・・・それも、息子の嫁による毒殺・・・

実は、宗運は、阿蘇家を守るためなら、身内同族をも、ちゅうちょする事なく抹殺するという一面もあったのです。

もちろん、宗運から言わせれば、それは戦国を生き残るための手段・・・上記の通り、周辺の大勢が変わる度に、その姿勢を変化させて生き抜く宗運に、保守的な考えの者が「ついて行けない」と離反すれば、それは謀反となるわけで、当然の事ながら、謀反を起こした者をそのままにしておけば、残った者の士気が乱れます。

たとえば、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)と同調して謀反を起こそうとした二男・親正、三男・宣成、四男・直武の3人の息子を、宗運自ら成敗しています。

また、嫡男・親英(ちかひで)の舅である黒仁田豊後守(くろにたぶんごのかみ)や一族の甲斐守昌(かいもりまさ)なども・・・

それは、父の行動におそれおののいた嫡男の親英が、宗運の殺害計画を練るほど・・・事前に発覚したこの計画は未遂に終わり、宗運は、その嫡男をも抹殺しようとしますが、この時は、家臣たちが間に入って、なんとか収めたものの、結局は、「いつか夫が殺されるかも知れない」と不安にかられた親英の嫁によって毒を盛られたとの事・・・

と言っても、毒殺はあくまで噂で、一般的には病死と言われていますが、宗運の死を天正十三年(1585年)とする『上井覚兼日記』では、その死はわずか10日後に島津の知るところとなり、すぐさま、島津は戦いの準備をはじめたのだとか・・・

しかし、そうとは知らぬ嫡男・親英・・・亡き父に代わって家老となるが早いか、島津との直接対決を避けていた父・宗運の思いとはうらはらに、島津傘下の花の山城(はなのやまじょう=熊本県宇城市)を攻撃します。

が・・・反撃されて、あえなく降伏・・・親英は捕縛され、当時、わずか2歳だった当主の阿蘇惟光(これみつ=惟将の甥)は逃亡・・・

この惟光は、後に、九州を平定した豊臣秀吉の保護を受ける(梅北の乱にて斬首=6月15日参照>>)事になりますが戦国大名としての阿蘇家は、ここに滅亡する事となります。

一説には、宗運の理想形は・・・
「コチラから島津を攻める事なく、もちろん潰される事も無く、距離を置いて耐え続け、いつか天下を取る者が現れた時に、その者に従う・・・というのが、阿蘇家の生き残りの方法」
だったらしいのですが、果たして、その理想通りには事が運ばないのも世の常であります。
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コメント

甲斐親英は娘婿。嫡男は甲斐親秀なようです。

投稿: 通りすがり | 2015年6月12日 (金) 14時58分

通りすがりさん、こんにちは~

新人物往来社の『戦国人名事典』には
【かいちかひで 甲斐親英…(親秀・入道名宗立)】
とあり、他の複数の事典等にも
【甲斐親英(親秀とも)】
とありますので「(宗運の息子である)親英と親秀は同一人物で、どちらかというと親英の名前の方が有名」という認識でしたので、本文には親英の名前しか書きませんでしたが、親英と親秀は別人なのですか?

それは、どの史料に登場するのでしょうか?
よろしければ、お教えいただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2015年6月12日 (金) 15時29分

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