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2014年7月28日 (月)

アンケート企画:戦国最高の2代目は?

さて、今回はアンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「あなたが思う、戦国最高の2代目は?」という事で、アンケート募集したいと思います。

ただし、この「2代目」の定義は、お遊び的なゆる~~い感じでお願いします。

たとえば・・・
今回の選択肢に武田勝頼を入れさせていただいてますが、ご存じのように武田信玄の武田氏には、平安の昔からの歴史がありますし、戦国に限ったとしても、信玄のお父ちゃんもお爺ちゃんも知ってる人は知ってる歴史人物なわけで、信玄=初代では無いばかりか、逆に父ちゃん=信虎さんのファンの皆さまにとっては「信玄こそが2代目ちゃうん?」とのご意見もありましょう・・・

とは言え、歴史好きでなくともその名を知るほどの有名人(これも個人差ありますが…(*´v゚*)ゞ)になったのは、やっぱり信玄なわけで、その『1代で名を挙げたカリスマ性を含むビッグな父ちゃん』『後を継ぐ』という意味の『2代目』という事で・・・そこンところは、暗黙の了解&阿吽の呼吸にてご理解いただき、清き一票をよろしくお願いしますm(_ _)m

もちろん、「なら、この人も2代目ちゃうん?」とか「この人忘れちゃダメでしょ!」てな、その他のご意見も、もちろんお待ちしております。

  1. 細川勝元の嫡男
    細川政元
    「明応の政変」で戦国の幕を開けた乱世の梟雄…(参照ページ>>)
  2. 北条早雲の嫡男
    北条氏綱
    父ちゃんの残した地盤をしっかり固めた2代目…(参照ページ>>)
  3. 真田幸隆の三男
    真田昌幸
    無勢の中で徳川に2度勝った知将…(参照ページ>>)
  4. 斎藤道三の嫡男
    斎藤義龍
    マムシの父から国を盗った息子…(参照ページ>>)
  5. 武田信玄の四男
    武田勝頼
    実は戦国最強?…(参照ページ>>)
  6. 上杉謙信の養子
    上杉景勝
    なんだかんだで家を残したし…(参照ページ>>)
  7. 今川義元の嫡男
    今川氏真
    父ちゃんの急死で準備が整わなかっただけ?…(参照ページ>>)
  8. 徳川家康の三男で第2代将軍
    徳川秀忠
    江戸時代の基礎を造った生真面目息子…(参照ページ>>)
  9. 織田信長の嫡男
    織田信忠
    あの本能寺さえなければ…(参照ページ>>)
  10. 蜂須賀小六(正勝)の嫡男
    蜂須賀家政
    駆け引きで生き残った阿波の古狸…(参照ページ>>)
  11. 前田利家の長男
    前田利長
    家康の魔の手から加賀百万石を守る…(参照ページ>>)
  12. 池田恒興の次男
    池田輝政
    絶妙な世渡りで世界遺産・姫路城を改築…(参照ページ>>)
  13. 豊臣秀吉の甥で次の関白
    豊臣(三好)秀次
    運命に翻弄された悲劇の名将…(参照ページ>>)
  14. 細川幽斎(藤孝)の嫡男
    細川忠興
    武功に長けたガラシャのダンナ…(参照ページ>>)
  15. 黒田如水(官兵衛孝高)の嫡男
    黒田長政
    父ちゃんに怒られながらも関ヶ原で奔走…(参照ページ>>)
  16. 宇喜多直家の次男
    宇喜多秀家
    備前の梟雄が残した秀吉の秘蔵っ子…(参照ページ>>)
  17. 長宗我部元親の四男
    長宗我盛親
    2度も家康に背く反骨武将…(参照ページ>>)
  18. 高橋紹運の長男で立花道雪の娘婿
    立花宗茂
    嫁の誾千代>>と迷ったですが、やっぱこっち~…(参照ページ>>)
  19. その他
    「そりゃ、この人でしょう」っていう項目がありましたらお知らせください
      

勝手ながら、コチラのアンケートは8月11日に締め切りとさせていただきました。

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラのページ>>でどうぞm(_ _)m

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2014年7月21日 (月)

兄弟・父子の連携で乱世を生き抜いた島津義弘

 

元和五年(1619年)7月21日、戦国時代から安土桃山時代にかけて、薩摩の島津氏を率いた武将・島津義弘が加治木屋敷にて85歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

ご存じ、九州は薩摩に君臨した島津四兄弟の一人の島津義弘(しまづよしひろ)・・・すでに、それぞれの場面で、何度もこのブログに登場しているお人ではありますが、本日はご命日という事で、その生涯をたどってみたいと思います。

・‥…━━━☆

Simaduyosihiro600a 悲願だった鹿児島奪回を果たして、薩摩大隅日向三州の統一を目指す薩摩(鹿児島県)の戦国武将・島津貴久(たかひさ)(5月23日参照>>)の次男として生まれた義弘は、はじめは、その父の後を継いだ兄=義久(よしひさ)を助けて各地を転戦する闘将&軍師のような役割で活躍します。

中でも有名なのは、天正六年(1578年)11月の耳川の戦い(11月11日参照>>)・・・豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)の手勢に包囲された高城を救うべく、奇襲をしかけたり、軍配者的軍師=川田義朗(かわだよしあき)(7月24日参照>>)の進言による作戦=『釣り野伏(のぶせ)で敵を翻弄したり(11月22日参照>>)の見事な活躍ぶり・・・

しかし、その後・・・
ここで負けた宗麟が、豊臣(羽柴)秀吉に救援を要請した(4月6日参照>>)事で、ご存じの九州征伐が始まります。

天正十五年(1587年)4月、圧倒的な兵力で攻める秀吉軍に、高城・根白坂の戦い(4月17日参照>>)で敗れた島津は、降伏を申し出、その後は、九州北部&中部を没収され、豊臣政権下での生き残りとなるのですが、個人的には、秀吉に降伏した後の島津兄弟の立ち位置が見事だと思っています。

実は、この時の降伏に積極的だったのは当主の義久で、次男の義弘と三男の歳久(としひさ)は最後まで反対していたとか・・・そこを、当主=兄である義久が押し切って降伏に持って行ったのですが、実際に秀吉側に降伏の話し合いをしに行ったのは四男の家久(いえひさ)

その家久が、秀吉の陣から戻ってまもなく体調を崩して亡くなってしまった事から、「毒殺された!」との不信感を抱いた三男の歳久は、以後、反豊臣的な態勢をとります。

一方、降伏に積極的だったものの、その後の義久は一歩退いた状態で、豊臣政権への協力は極力最小限で収めようとし、次男の義弘は、逆に、「豊臣政権に積極的に協力しなければ島津の存続はありえない」とばかりに奮闘するのです。

そう、見事な三人三様の立ち位置・・・おそらくは、この先の豊臣政権のあり様を見極めて、後々、誰を中心に据えて島津という船を漕いでいくかを模索してたんじゃぁないか?と・・・(個人の感想です)

なんせ、結局は実現しなかったものの、この頃の島津が、「僕らと手組んで、秀吉を倒してみぃひんか?」という提案をして来たという話が中国の『請計處倭酋疏(こうけいそわしゅうそ)という史料に書かれているとか・・・

そこには
「義久不得巳而佯為降順、其心未嘗一日忘秀吉也」
つまり
義久は、仕方なく秀吉に従ってるだけで、弟を殺された恨みは一日だって忘れた事無い」
てな事も・・・

これが本当なら、まさしく、機会を見計らって豊臣政権を倒すつもりでいた事になりますが、結局は、中国との交渉は、未だ実現しないまま、かの朝鮮出兵へ突入・・・この時、勃発したのが、例の梅北の乱(梅北一揆)(6月15日参照>>)

乱そのものは、わずかの期間で鎮圧されたものの、その責任を負って、義久は弟=歳久の首を秀吉に差し出さねばならず、島津の朝鮮出兵も大幅に遅れる事に・・・

ここで、目の前の情勢を読んだのか?義久は、当主の座を義弘に譲り(諸説あり)その義弘が、その朝鮮で八面六臂の活躍をする事で、何とか豊臣政権下での島津の立場を維持するのです。

その活躍ぶりは、それこそ、中国側の史料で「鬼石曼子(おにしまづ)と恐れられるほどでした。

やがて訪れた関ヶ原の戦いでは、徳川家康の依頼により、伏見城に入城して城将の鳥居元忠(もとただ)(8月1日参照>>)とともに伏見城を守るはずだった義弘・・・ところが、なぜか、元忠から入城を拒否られたために、なりゆきで西軍として参戦し、しかも、前日に義弘が提案した奇襲作戦を石田三成(いしだみつなり)に一蹴されて、もはや戦う気ゼロの状態での合戦突入。

西軍の敗色が濃くなって、死を覚悟する義弘でしたが、甥の島津豊久(とよひさ)や家老の長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)(9月15日参照>>)らの犠牲の上に何とか戦場脱出に成功したのでした(9月16日参照>>)

とは言え、西軍として参戦した事で、負け組となってしまった島津・・・しかし、ここでまたまた、兄弟&一族による連携プレーが!!!

合戦の時には薩摩に留まっていた兄=義久が、義弘の現地での行動を叱責するとともに、すぐさま蟄居(ちっきょ=謹慎処分)させ、自らが先頭に立って、家康との交渉をのらりくらりと交わしつつ、最終的に、義弘の息子=忠恒(ただつね・後の家久)を上洛させて家康と謁見させ、その忠恒を次の当主とする事で、見事、本領安堵を勝ち取るのです(4月11日参照>>)

その後の義弘は、大隅(鹿児島県東部)加治木に隠居して静かな余生を送り、元和五年(1619年)7月21日85歳で亡くなりますが、一説には、かの家康が「自分の遺体を西に向けて葬るように…」という遺言を残したと言われるほど、徳川が警戒していた島津・・・

ご存じのように、250年に渡る徳川の時代に引導を渡すのは、この義弘の後を継いだ息子=忠恒さんの子孫という事になります。
 .

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2014年7月14日 (月)

前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…

 

寛永十年(1633年)7月14日、加賀百万石で知られる前田利家の次男・前田利政が、京都にて55歳で亡くなりました。

・・・・・・・

前田利政(まえだ としまさ)は、あの前田利家(としいえ)まつさんの間に生まれた次男・・・つまり、前田利長(としなが)くんですね。

ご存じのように、親友として、天下人=豊臣秀吉をサポートし、その豊臣政権下では最も信頼されていた父=利家のおかげもあって、文禄二年(1593年)に能登国七尾城の城主となり、その後、慶長四年(1599年)には、父の隠居にともなって能登の所領を分与され、大名として七尾小丸山城に入りました。

しかし・・・これまたご存じのように、慶長三年(1598年)8月に亡くなった秀吉(8月9日参照>>)の後を追うように、その翌年、父=利家も、この世を去ってしまいます(3月3日参照>>)

その時、利家は、「利政は利長を父と思い、利長は利政を子と思って導いて、兄弟仲良くするんやぞ」との遺言を残したとか・・・

しかし、事態は急変・・・その日の夜に、あの石田三成(いしだみつなり)が襲撃され(3月4日参照>>)豊臣家内の内部分裂が表面化・・・利長は、この争いから一歩退いた状態で、どうやら前田家を中立の立場に置いときたかったようで、

後から思えば、完全に徳川家康の策略と言えるのですが、つい、その勧めに乗っかって、金沢へと帰国してしまうのです。

それこそ、利家の遺言では「3年間は大坂を離れるな」と言われてしたし、そもそも利長は、父の後を継いだ豊臣秀頼(秀吉の息子)傅役(もりやく)なのですから、本来なら大坂を離れるべきでは無かったのですが・・・

案の定、大坂を留守にしている間に、「家康暗殺計画」の首謀者との疑いをかけられてしまった利長・・・同じく、首謀者の一人とされた五奉行の浅野長政(あさのながまさ)は、即座に嫡男=幸長(よしなが)に家督を譲って、自らは、あえて家康の領国である武蔵に隠居して身の潔白を証明します。

「加賀を討伐する!」とイキまく家康に、やむなく利長も重臣の横山長知(よこやまながちか)を家康の基に派遣して弁明させ、結果的に、母のまつ=芳春院(ほうしゅんいん)を江戸に送る事で(5月17日参照>>)何とか謀反の疑いを晴らしたのでした。

そんなこんなで関ヶ原・・・

かねてより上洛を拒否し続けていた上杉景勝(うえすぎかげかつ)(4月1日参照>>)「謀反」として会津攻めを決意した家康は、出陣に先だって、利長にも東北への出陣を要請・・・また、越前丸岡城(福井県坂井市)青山宗勝(あおやまむねかつ)小松城(石川県小松市)丹羽長重(にわながしげ)、に上杉の旧領である越後(新潟県)の警固を命じますが、結果的に、3人が3人とも、この命には従いませんでした。

そう、あの大谷吉継(よしつぐ)の根回しにより、宗勝&長重の二人とも・・・いや、利長と府中城(福井県越前市)堀尾吉晴(よしはる)以外のほとんどの越前(福井県)の武将を、吉継が西軍に引き入れたのです(7月14日参照>>)

そうなると、越前に隣接する加賀がヤバイ・・・東北に行ってる場合じゃない!って事で、利長は目の前の敵に挑む事としますが、それならば、1番の大物である長重の小松城を攻めたいところですが、小松城は難攻不落の攻め難さ。

なので、まずは、山口宗永(むねなが・正弘)大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)へ・・・って、ここで、忘れかけてた本日の主役=利政さんですが、ちゃんと、兄に従って出陣してます。

・・・で、8月3日に大聖寺城を見事落した前田勢(8月3日参照>>)ですが、なぜか(一説には吉継が加賀を攻めるというニセ情報を流したとも)、この後、8月5日に金沢へとUターン・・・その撤退を見逃さなかった長重と相対したのが、北陸の関ヶ原と呼ばれる加賀浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)です。

この戦いの後、何とか金沢に戻った利長に、例の小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)で、会津征伐を中止して西へと戻る家康から、本チャンの関ヶ原への出陣要請・・・

当然、その要請を弟の利政にも伝えられますが、本チャン関ヶ原にへの出陣は拒否する利政・・・その理由については、『前田出雲覚書』によれば、当時、三成によって利政の妻子が大坂城にて人質状態にあった事で、「妻子を見捨てては末代までの恥になる」と言って、東西両軍のどちらにも味方しない姿勢を貫いたとされていますが、

一方では、関ヶ原で徳川方が負けた場合の保険という見方もあります。

Zuiryuuzip 不肖私・・・ずいぶん前に、利長の菩提寺である瑞龍寺(ずいりゅうじ=富山県高岡市)を参拝した事がありますが、その時のお寺さんのお話では「兄は東軍、弟は西軍について前田家を存続させるナイスな作戦」
的な事をおっしゃっていたので、お寺にはそのように伝わっているのでしょうか?

 .

結局、長重との戦いや利政の説得に手間取った利長は、9月11日に金沢を出陣しますが、本チャンの関ヶ原(9月15日参照>>)には間に合いませんでした。

で、結果はご存じの通りの東軍勝利・・・

出陣しなかった利政は改易となり、その後は、奥さんとともに京都にて隠遁生活・・・一方の利長は、本チャンには間に合わなかったものの、北陸で西軍大名と戦った功績により、所領が安堵されたうえ、利政の領地も利長のもとに・・・

ただし、その後も利政は、利長や母の芳春院とも密に連絡を取り合い、当然の事ながら利長は、水面下で利政の生活を応援し続けます。

さらに大坂の陣が勃発した時には、家康からの再三の誘いを断り続けて中立を貫いた利政・・・それでいて、金沢城との連絡を怠らず、利長の後を継いだ弟の利常(としつね)(10月12日参照>>)とも、何度も手紙のやりとりをしていたとか・・・

すべてが落ち着いた元和三年(1617年)に、芳春院は、家族ぐるみで親しかった高台院(秀吉の奥さん=おね)(9月6日参照>>)を京都に訪ねますが、この時は、利政も母に面会し、ともに語り合ったとの事・・・

こうして寛永十年(1633年)7月14日・・・利政は、静かに、その生涯を終えました。

よく、「秀吉と利家は、あんなに親しかったのに、なぜ、前田家は東軍に???」てな疑問を耳にしますが、上記の通り、東軍についたのは利長であって、弟の利政は中立もしくは西軍だったのです。

私個人的には、これはやはり、東軍×西軍、どちらが勝っても良いように、保険をかけたのだと思っています。

この関ヶ原にしろ、後の大坂の陣にしろ、どちらが勝っても良いように保険をかけたとおぼしき戦国大名は多数います。

ただ、当然の事ながら、堂々と「保険かけました!」とは記録に残せないので、記録としては「兄弟または父子が、もともと仲が悪かった」とか、「意見が食い違った」とか、「嫁が○○家だから」「娘が○○家に嫁いでる」とか、もちろん上記の前田家のように「妻子が人質」とかって書き残すわけですので、あくまで、個人的な推理以外の何物でも無いのですが・・・

そこで、思うのは、「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事・・・

確か、何週間か前の大河ドラマ『軍師 官兵衛』でも、官兵衛の奥さん=(てる・みつ)の兄が敵となっている事に苦悩した光が、涙ながらに兄を説得に行くシーンがありましたし、それ以前も、やはり光の姉の嫁ぎ先を官兵衛が攻める事に涙したりするシーンがありました。

もちろん、ドラマは文字通りドラマ・・・それを視聴するのは現代人の私たちなのですから、現代人の価値観に即した造りで共感を得なければならないので、ドラマの場合はそれもアリなのですが、おそらくは、実際に戦国に生きた人たちにとって、何よりも重要な事は、「家を残す&血筋を残す」という事であったと思います。

たとえば、織田信長の命を受けて福知山を平定した明智光秀(あけちみつひで)・・・以前、福知山の猪崎(いざき)城跡へ行った時のお話をしたページで少し書かせていただいたのですが(2010年7月22日参照>>)、光秀が平定する以前の福知山周辺は塩見氏が統治しており、当時は、当主の塩見頼勝(しおみよりかつ)が、福知山城の前身である横山城に本拠を構えていましたが、「織田の配下の光秀がやってくる」となった時、頼勝の四男である長利(ながとし)だけが、すんなりと降伏して明智側につくのです(後に別件で攻められますが…)(5月19日参照>>)。

男5人兄弟のうち1人だけ・・・まさに、血筋と家を残すための手段ですよね。

地方の武将であっても、こうして生き残りを図るのですから、まして、天下分け目の関ヶ原となれば当然の事・・・そこに、「親兄弟だから」というためらいはありません。

もっと大事な物が彼らにはあるのです。

しかも、こういう場合、最も信頼できるのは身内・・・なんせ、家系の存続のためには、どんな状況になっても最大限、家のために尽くしてくれる最も信頼できる者を反対側に送り込まねば意味がありませんから・・・

そして、それこそが親子の情であり、兄弟の情・・・この時代、親兄弟が敵味方となって戦う事=愛情が無い事では無いのだと思います。

必死で戦って大きな武功を残せば、その恩賞により、敵にまわって負け組となった身内を救う事だってできるのです。

現に、前田家の場合、負けた利政の領地は、丸々利長の物となり、その命も助かってます。

また、前田家の場合・・・妹婿の宇喜多秀家(うきたひでいえという保険もかけていたと睨んでいます。

そう、秀家は利長の妹で秀吉の養女となったの豪姫(ごうひめ)(5月23日参照>>)のダンナ・・・西軍の主力である三成や、小西行長(9月19日参照>>)安国寺恵瓊(えけい)(9月23日参照>>)らが処刑される中(10月1日参照>>)、利長の働きかけによって秀家は八丈島への流罪となり(8月6日参照>>)、その後、前田家が支援をし続けています。

おそらく、この関ヶ原の戦いに西軍が勝った場合、利政と秀家が利長を支援する手はずになっていたんじゃないか?と・・・

もちろん、前田家だけではなく、ご存じの真田父子も・・・有名な犬伏の別れ(7月21日参照>>)で分かれた嫡男・真田信幸は、この関ヶ原でも、後の大坂の陣でも、見事、真田家を守ります。

さらに毛利(9月28日参照>>)九鬼一族(9月13日参照>>)も・・・ま、毛利の場合は家康に踊らされた感ありますが・・・

先にも言いましたが、関ヶ原だけでなく、一般的には、徳川の大勝利で、豊臣方には浪人しか集まらなかったと言われている大坂の陣でも、どうしてどうして、よく見ると保険かけてる大名はけっこういるんですよ。

もちろん、上記の通り、負けた側の情報はウヤムヤになってしまうので、アレですが、個人的には後藤又兵衛(4月10日参照>>)なんかも、黒田家の保険じゃ無いか?なんて気もします。

逆に、この大坂の陣で、家康がかけた保険が小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)・・・家康の隠し子とされる人物ですが、大坂の陣では豊臣方で参戦してます。

そして、そんな家康が最後の最後にかけた、250年に渡る大いなる保険が水戸家(1月6日参照>>)・・・なんて妄想がどんどん膨らんでしまいますが・・・(*´v゚*)ゞ

とにもかくにも、記録に残らない憶測ではありますが、親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事には、現代の私たちが思うのとは違う価値観、違う愛情を以って、戦国武将たちは挑んでいたのだと思います。
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2014年7月 7日 (月)

VS蘇我との決戦~物部守屋の討死と鵲森宮

 

用明天皇二年(587年)7月7日、蘇我VS物部の決戦において物部守屋が討死・・・物部氏が滅亡しました。

・・・・・・・・

と言いましても、この7日というのは、あくまで小耳に挟んだだけの情報で、一般的には物部守屋の死は「用明天皇二年(587年)7月」というだけで日付までは特定されていません。

ただ、それだとこのブログにupし難いので、とりあえず、出どころのわからない情報ではありますが、本日=7月7日に書かせていただく事にしますので、ご了承のほど・・・

・‥…━━━☆

物部守屋(もののべのもりや)の物部氏は、天磐樟船(あまのいわくすふね)に乗って天孫降臨し、あの神武天皇(2月11日参照>>)よりも先に大和(奈良県)を統治していた饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖に持つ大豪族(2011年3月30日参照>>)・・・そのページでお話させていただいたように、神代の話についてはアレですが、少なくともこの飛鳥時代より以前には、天皇家の武器庫の可能性高い石上(いそのかみ)神宮の管理運営を任されていた(2月1日参照>>)とおぼしき実力者で、天皇家の親衛隊だった大伴(おおとも)とともに並び立つ二大勢力だったわけです。

そこへ、新勢力として登場して来たのが蘇我氏・・・で、当時の日本に様々な技術や物産をもたらした渡来人とのパイプを持つ蘇我氏は、大陸から伝来した仏教を導入しようとし、古くからの豪族である物部氏は、それに反対し・・・と、ご存じの「蘇我VS物部の対立」が始まるわけですが(2010年3月30日参照>>)・・・

先日の【謎が謎呼ぶ蘇我馬子の時代】(5月20日参照>>)でもお話させていただいたように、ここらあたりの記録は、後に天下を掌握する藤原氏が残した勝者の記録・・・一説には物部氏も仏像を祀っていた(住居跡から寺跡発掘)なんて話もあって、おそらくは、蘇我VS物部の対立も、仏教云々以外の可能性もあり、何となく、記紀によってヒーローに祭り上げられる聖徳太子に対するかませ犬的な役割を背負わされ、悪のイメージをつけられまくり感のある物部守屋です。

しかし、そんな中でも垣間見えるのが、守屋が対立する蘇我馬子(そがのうまこ)に対して、
「まるで、矢の刺さったスズメやん!」
(小柄な馬子が大きな太刀を差している姿を見て…)
と言ってみたり、

欽明天皇の寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)の死を嘆く馬子に
「お前ごときの小者が知るこっちゃない!」
と一喝したり・・・

やはり、そこには、「新参者の蘇我氏とは格が違うのだ」といった物部のプライドを感じます。

そんなこんなの用明天皇二年(587年)4月、第31代・用明(ようめい)天皇が崩御され、かねてから、皇位継承に不満を持っていた穴穂部皇子(あなほべのおうじ=29代・欽明天皇の皇子)が暴走・・・かの三輪君逆を殺害してしまいます。(6月7日参照>>)

この事件を受けて馬子は、額田部皇女(ぬかたべのおうじょ=後の推古天皇)から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子(やかべおうじ)を誅殺(ちゅうさつ・罪を認めて殺す事)せよ」
との(みことのり・天皇の正式命令)を取りつけ、同年6月7日、正々堂々と官軍として穴穂部皇子を討伐した後、彼を次期天皇候補として推していた守屋=物部氏に迫ります。

両者がいずれ決戦を迎える事は、すでに誰もが予想していましたが、この時の物部氏=守屋にとって、旗印として掲げて蘇我氏と対抗するはずだった穴穂部皇子を失った事は大きい・・・なんせ、旗印が無ければ、後継者&政権争いではなく、ただの謀反人になってしまいますから・・・

そんなこんなで、本来持つ強力な軍事力を動員する事ができなかった守屋は、「子弟(こやから)と奴軍(やっこいくさ=奴隷)」のみで、蘇我の大軍を迎え撃つ事になります。

かくして守屋討伐の大軍・・・明日香で陣を整えた主力となる第1軍は、竹内峠から二上山を越えて河内(大阪府)古市(羽曳野市)国府(藤井寺市)へと入り、途中で守屋軍の先鋒と激戦を繰り広げながら、守屋の「難波の宅」を目指し、ここを守る捕鳥部萬(ととりべのよろず)と交戦します。

一方、第2軍は、大和川から信貴山を越えて守屋の本拠地である渋川(大阪府八尾市)を攻めました。

ここらあたり一帯の泥沼の地形をうまく利用して、何度か敵を撃退させる守屋でしたが、なんせ多勢に無勢・・・やがて衣摺(きずり=東大阪市)まで撤退し、ここに構築した稲城(いなき=稲で造った砦)にて応戦する守屋は、自ら大榎に上って、その高みから雨のように矢を射って見せたと言います。

この奮戦ぶりに「負けるかも知れない」と不安にかられる蘇我軍・・・

ここで登場するのが、かの聖徳太子=厩戸皇子(うまやとのおうじ)です。

苦戦の中、近くにあった白膠木(ぬりで=ウルシ科の落葉木)を切りとって四天王像を造り(仕事早っ!!(゚ロ゚屮)屮)、颯爽とと進み出てそれを高々と前髪にかざしながら・・・
「もし、今、俺らを勝たせてくれはったら、四天王のために寺を建立しまっせ!お願い!人( ̄ω ̄;)
と声も高らかに誓い、全軍の士気を高めて軍を進めました。

やがて、萬を破った第1軍が合流するにあたって態勢を立て直した蘇我軍・・・と、それでも奮戦する守屋でしたが、そんな中で突然!!

密かに守屋が上る大木の下に忍び寄っていた迹見赤檮(とみのいちい=守屋の側近だったとも)が頭上の守屋に向けて矢を放ち、その1発で仕留めたのです。

続いて守屋の一族に向かって次々と矢が放たれて子供たちを射殺・・・主を失った兵たちは散り散りに逃走し、ある者は僧侶に変装したり、ある者は狩人のふりをしたりしながら四散・・・用明天皇二年(587年)7月7日(仮)、ここに物部氏は滅亡しました。

この頃の敗者には、後の世とは比較にならない過酷な運命が待っていたようで・・・

生き残った者は名を改めて隠れ住んだほか、一部は流浪の身となり、一部は他家の奴隷に・・・また、約半数が、この時の勝利によって、後に聖徳太子が建立する事になる四天王寺の奴隷となったのだとか・・・

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鵲森宮(森之宮神社):くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を行く」でどうぞ>>(別窓で開きます)

ところで、この時の戦いに登場する守屋の「難波の宅」・・・これが、どこにあったのか?というのは、未だ謎なのですが、一説には、「守屋の宅」→「守屋の宮」→「森ノ宮」・・・と、現在のJR大阪環状線の森ノ宮駅近くにある鵲森宮(かささぎもりのみや=森之宮神社)が、そうではないか?という説があるのだとか・・・

大阪城近くで生まれ育った不肖・茶々・・・大阪在住の方はお察しかと思いますが、幼き頃から通いなれた最寄駅が、この森ノ宮駅で、この鵲森宮は完全なるテリトリー範囲内でして、敗者好きな私は、仮説とは言え、ここに守屋の邸宅があったのか?と思うと、ワクワクドキドキなのですが・・・

・・・で、神社の由緒にもある通り、この鵲森宮は聖徳太子が造った神社・・・しかも、ご存じの方もあろうかと思いますが、最初に四天王寺が建てられたのは、実はこの場所なのです。

後に現在の地に移転して、ご存じのような大伽藍となる四天王寺ですが、つまりは、蘇我VS物部の決戦の直後に聖徳太子が建てたのはこの地なわけで・・・
(しかも現在の四天王寺の境内の一画には守屋を祀る祠もある)

勝利した証に、勝利に導いてくれた四天王の寺を、敵であった守屋の邸宅の跡に建てる・・・なんだか、アリな気がするのですが、いかがでしょう?
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2014年7月 3日 (木)

島津を翻弄した阿蘇の軍師:甲斐宗運

 

天正十三年(1585年)7月3日、戦国期の九州にて、阿蘇氏の軍師的存在として活躍した甲斐宗運こと甲斐親直が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

肥後(ひご=熊本県)阿蘇氏の家臣の子として生まれた甲斐親直(かいちかなお)・・・出家後の宗運(そううん)の名号が有名なので、本日は宗運さんと呼ばせていただきますが、没年に関しては天正十一年(1583年)ありますのでご注意を・・・

で、そんな宗運が仕えていた阿蘇氏は、その名でお察しの通り、熊本の阿蘇地方を治める豪族で、代々、阿蘇神社大宮司(だいぐうじ)を務める家柄・・・そのご先祖は神代の昔にさかのぼる事もできるという由緒正しきにもほどがある家系だったのです。

ところが、戦国という時代になって、ご存じの通り、九州には、豊後(ぶんご=大分県)大友(2月10日参照>>)肥前(ひぜん=佐賀県)龍造寺(8月20日参照>>)薩摩(さつま=鹿児島県)島津(6月23日参照>>)といった戦国大名が力をつけはじめ、やがて、この三者による三つ巴の様相を呈するに至って、名門の阿蘇家も、その中での生き残りを図らねばならないわけで・・・

そこで活きて来るのは、巧みな交渉術と策略・・・そう、おそらくは、神代からの名門のプライドが許さないようなセコイ(イイ意味で)策略を、主君に代わってやってのけたのが、今回の宗運というワケです。

もちろん、名門のプライドだけでは生き残っていけない戦国の世を感じていた当時の阿蘇家の当主=阿蘇惟将(あそこれまさ)も、そんな宗運の素質を見抜いて、彼を重用する事になりますが、

そんなこんなの天文十年(1541年)、阿蘇家と敵対した御船房行(みふねふさゆき)を討伐した功績により、御船城(みふねじょう=熊本県上益城郡御船町)を与えられ、おそらく、この頃から、主君=惟将より阿蘇家の外交面を一手に任されるようになったとおぼしき宗運・・・

迷わず豊後の大友宗麟(おおともそうりん=義鎮)同盟を結んで、より近づくため、大友の重臣たちとも親しく交流します。

しかし、そんな宗麟が天正六年(1578年)、耳川の戦い(11月12日参照>>)で島津に大敗してしまいます。

それでも、しばらくの間は、大友との同盟を重視し、耳川の戦い後に大友から離反する勢力を抑え込んでいたりしたのですが、やはり、坂道を転げ落ちるがごとき大友の衰退を見るに見かねたのか?天正九年(1581年)の春に、大友との断交を決意・・・今度は肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に接近し、人質と一族連盟の起請文を差し出して、龍造寺家と同盟を結びました。

これを知った島津は、すぐさま、傘下に入ったばかりの相良義陽(さがらよしひ・よしはる)に、宗運の御船城を攻略するよう命じますが、両者が相対した天正九年(1581年)の12月2日、戦場となった響ヶ原(ひびきがはら=熊本県宇城市)にて義陽は討死とあいなります。

というのも、上記の通り、義陽は島津の傘下となったばかり・・・実はそれまでは、阿蘇家と同じく大友と同盟を結んでいたために、その天正九年(1581年)に島津からの侵攻を受けて、やむなく領地の一部を差し出して降伏・・・

つまり、それまでの義陽が親しくしていたのは、大友であり阿蘇家であり宗運だったわけで・・・当然の事ながら、そんな宗運の城を攻める事には、はなから乗り気じゃなかったのです。

そこを突いた宗運・・・本陣だけを一点集中で一気に突入し、アッと言う間に攻め勝ったのでした。

この頃から「阿蘇にその人あり」と九州全土にその名を轟かせる宗運ですが、一方では、先の同盟を結ぶ際に龍造寺家に差し出した人質が、彼の手かせ足かせとなって苦しむ事になります。

そう、おそらく宗運には、すでにこの先の龍造寺家の行く末が見えていたでしょう。

・・・なので、本来なら、ここらあたりでアッサリと龍造寺家を見限って島津家へ・・・と行きたいところですが、龍造寺へ人質を送っているという事実が、彼の決断を鈍らせるのです。

それをカバーするがの如く、ここらあたりで、強くなる一方の島津に対する様々な駆け引きを試みる宗運・・・

腰を思いっきり低くして降伏を申し出たと思えば、急に上から目線になって和睦交渉を決裂させたり、和睦してないのに、「同盟を結んでくれてありがとう」と、お礼の贈答品を使者に持って行かせたり・・・

もちろん、この頃の島津が、対・龍造寺との合戦に主力を置いていて、阿蘇まで手が伸びない事を見越しての生き残り駆け引きだったわけで、事実、島津は、この宗運の作戦に翻弄され、彼が健在の間は、阿蘇に手を出す事はできなかったわけで・・・

しかし、その最期はいきなり訪れます。

冒頭に書いた通り、その死亡の時期は、天正十一年(1583年)と天正十三年(1585年)とあるのですが、もし前者の天正十一年なら、島津が龍造寺に勝利する沖田畷(おきたなわて)(3月24日参照>>)の1年前という事になり、後者の天正十三年なら、やはり沖田畷の戦いの1年後となるわけですが・・・

天正十三年(1585年・もしくは天正十一年)7月3日、突然訪れた宗運の死は、一説には毒殺だったと・・・それも、息子の嫁による毒殺・・・

実は、宗運は、阿蘇家を守るためなら、身内同族をも、ちゅうちょする事なく抹殺するという一面もあったのです。

もちろん、宗運から言わせれば、それは戦国を生き残るための手段・・・上記の通り、周辺の大勢が変わる度に、その姿勢を変化させて生き抜く宗運に、保守的な考えの者が「ついて行けない」と離反すれば、それは謀反となるわけで、当然の事ながら、謀反を起こした者をそのままにしておけば、残った者の士気が乱れます。

たとえば、日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)と同調して謀反を起こそうとした二男・親正、三男・宣成、四男・直武の3人の息子を、宗運自ら成敗しています。

また、嫡男・親英(ちかひで)の舅である黒仁田豊後守(くろにたぶんごのかみ)や一族の甲斐守昌(かいもりまさ)なども・・・

それは、父の行動におそれおののいた嫡男の親英が、宗運の殺害計画を練るほど・・・事前に発覚したこの計画は未遂に終わり、宗運は、その嫡男をも抹殺しようとしますが、この時は、家臣たちが間に入って、なんとか収めたものの、結局は、「いつか夫が殺されるかも知れない」と不安にかられた親英の嫁によって毒を盛られたとの事・・・

と言っても、毒殺はあくまで噂で、一般的には病死と言われていますが、宗運の死を天正十三年(1585年)とする『上井覚兼日記』では、その死はわずか10日後に島津の知るところとなり、すぐさま、島津は戦いの準備をはじめたのだとか・・・

しかし、そうとは知らぬ嫡男・親英・・・亡き父に代わって家老となるが早いか、島津との直接対決を避けていた父・宗運の思いとはうらはらに、島津傘下の花の山城(はなのやまじょう=熊本県宇城市)を攻撃します。

が・・・反撃されて、あえなく降伏・・・親英は捕縛され、当時、わずか2歳だった当主の阿蘇惟光(これみつ=惟将の甥)は逃亡・・・

この惟光は、後に、九州を平定した豊臣秀吉の保護を受ける(梅北の乱にて斬首=6月15日参照>>)事になりますが戦国大名としての阿蘇家は、ここに滅亡する事となります。

一説には、宗運の理想形は・・・
「コチラから島津を攻める事なく、もちろん潰される事も無く、距離を置いて耐え続け、いつか天下を取る者が現れた時に、その者に従う・・・というのが、阿蘇家の生き残りの方法」
だったらしいのですが、果たして、その理想通りには事が運ばないのも世の常であります。
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