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2014年8月16日 (土)

河尻秀長VS遠山友政の関ヶ原~苗木城・開城

 

慶長五年(1600年)8月16日、河尻秀長が留守となった苗木城を遠山友政が奪いました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦いに関係する美濃(みの=岐阜県)での戦い・・・苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)争奪戦です。

この当時、苗木城を治めていたのは河尻秀長(かわじりひでなが)という人物・・・彼のお父さんは、織田信長に仕え、その後継者の信忠(のぶただ)を見事にサポートして武田滅亡(3月11日参照>>)へと導いた重臣で、織田政権下では、その武田の旧領である甲斐(かい=山梨県)一国を与えられていた名将=河尻秀隆(かわじりひでたか)ですが、例の本能寺の変のドサクサで起こった国人一揆で命を落としていまいました(6月18日参照>>)

そのため、息子の秀長は、父と同じく、織田政権下で武田の旧領北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を与えられていた森長可(ながよし)(4月9日参照>>)のもとに身を寄せ、その後の信長亡き後に起こった織田家内の政権争いで、長可とともに東美濃の平定にあたり、その時に落城させた城の一つが、遠山友忠(とおやまともただ)の苗木城でした。

友忠は、羽柴(後の豊臣)秀吉VS織田信孝(神戸信孝=信長の三男)(5月2日参照>>)柴田勝家織田家内での争い(4月20日参照>>)の時に信孝側についたのですね。

で、この戦いの功績により、秀長は苗木城を与えられますが、この時、秀長が城主に復帰するために、イロイロと奔走してくれたのが、秀吉の側近だった石田三成(いしだみつなり)だったのだとか・・・

そう、秀長は三成に恩があったのです。

かくして、訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い・・・その呼び水となった会津征伐では、徳川家康が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて東北へ向かいますが、その家康の留守を狙って、家康と対立していた三成が挙兵(7月11日参照>>)・・・

そして、自らの伏見城が攻撃を受けている事を知った家康が、会津征伐を中止してUターンする事を、従軍している諸将に決意表明して、今後の彼らの動向を問うたのが、あの「小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)です。

ご存じのように、福島正則(ふくしままさのり)らをはじめとする多くの武将が、この評定の席で家康=東軍につく事を表明するのですが、秀長は、逆に、この小山評定を機に西軍参戦を表明し、家康の軍団を離れて、居城である苗木城に戻り、家老の関治兵衛を城代として城の守りを任せた後、自らは三成のもとに馳せ参じるのです。

もちろん、三成への恩だけではなく、彼の中には彼なりの様々な思いがあったでしょうが・・・

一方、この「秀長=西軍」を受けて動いたのが、かつて秀長に苗木城を奪われた遠山友忠の嫡男=遠山友政(ともまさ)でした。

その時、苗木城を追われた遠山父子は、その後、家康の家臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)の庇護のもと、上野(こうずけ=群馬県)館林(たてばやし)にてひっそりと隠れるように暮らしていたのです。

秀長が三成のもとに馳せ参じたように、友政も家康のもとへ馳せ参じます。

そして、「東美濃の攻略は俺に任せてくれ!」と直談判・・・もちろん、「奪回したあかつきには、旧領の回復を認めてほしい」と・・・

この申し出を快諾した家康は、友政に金100両とともに銃弾をプレゼントして送り出しました。

こうして家康の公認を得た遠山軍は、1700余の手勢を率いて美濃へ・・・早速、留守を預かる治兵衛に対して開城を求めますが、
「殿さまの留守の間に、そんな事、僕が勝手に決めるわけにはいきませんわー殿さまの許可が下りるまで、ちょっと待ってね」
との回答・・・

「そんな時間稼ぎに付き合うてられるか!」
とばかりに、慶長五年(1600年)8月15日夜・・・松明を掲げた遠山勢が苗木領内へと侵入し、、一気に城付近へと押し寄せます。

もともと、わずかな城兵しか残っていなかった苗木城・・・「とてもじゃないが、この数での防御は不可能」と判断した治兵衛以下城兵は、遠山勢に城が完全包囲される前に、見事と脱出に成功・・・

翌・慶長五年(1600年)8月16日遠山勢が、苗木城の奥深くに入った時には、城内はすでにもぬけの殻で、もいない状態だったとか・・・

こうして、苗木城奪回した友政は、後に正式に苗木城を与えられ、その子孫は江戸時代を通じて生き残り、幕末まで存続します。

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↑岡山烽火場から見た関ヶ原古戦場

一方の秀長は、西軍として伏見城攻防戦に参戦した後、9月15日のあの関ヶ原本チャンでの合戦(9月15日参照>>)に赴くも、その戦場で戦死したと伝えられています。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。ブログ楽しんでいます。よろしくお願いします。ちなみにこの遠山苗木藩、江戸時代では最も規模が小さい藩で、藩財政は常に赤字状態だったとか。

投稿: 貧乏武士 | 2014年8月16日 (土) 18時28分

貧乏武士さん、こんばんは~

>常に赤字状態…

そうだったんですか?
まぁ、江戸時代は、多くの藩が財政難に苦しんでましたから、小さな藩なら、やりくりも大変だったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年8月16日 (土) 23時52分

茶々様、はじめまして。初めてコメントいたします。

細川政元さんググったら茶々様のブログにたどり着いた者です。

とても充実した内容でしたので、バックナンバーを古代から読みはじめ、江戸時代の中頃まで到達しました。

今回の記事の遠山氏の支族の末裔に、「遠山の金さん」でお馴染みの遠山左衛門少尉景元さんがいらっしゃいますね。

投稿: 芥田悪六兵衛 | 2014年8月17日 (日) 22時41分

芥田悪六兵衛さん、こんばんは~

たくさんのページを読んでくださっているのですね。
ありがとうございます。

そうですね。
「遠山の金さん」の遠山さんも美濃遠山氏…苗木遠山さんとともに、「遠山七家」の一つです。

投稿: 茶々 | 2014年8月18日 (月) 01時01分

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