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2014年8月26日 (火)

信長VS三好の野田福島の戦い~本願寺参戦

元亀元年(1570年)8月26日、織田信長が大坂方に対抗すべく天王寺に陣を置き、野田・福島の戦いが開始されました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月・・・今は亡き、第13代室町幕府将軍=足利義輝(よしてる)(5月19日参照>>)の弟・足利義昭(よしあき=義秋)(7月28日参照>>)を奉じて上洛(10月14日参照>>)した織田信長・・・

それまで畿内を支配していたのは、義輝を暗殺した後に、自らの思い通りになる傀儡(かいらい=あやつり人形)的第14代将軍足利義栄(よしひで=義輝の従兄弟)=をトップに据えていた三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)・・・通称:三好三人衆と呼ばれる彼らでしたが、その信長軍の襲来で居城を追われるわ、頼みの義栄は若くして亡くなるわで、一旦、敗走していました(9月29日の前半部分参照>>)

しかし元亀元年(1570年)・・・そんな彼らに、畿内奪回のチャンスが訪れます。

そう、この年の6月にあった越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江(滋賀県北)浅井長政(あざいながまさ)を相手にした、あの姉川の戦い(6月19日参照>>)のため、信長の主力部隊が畿内を留守にしたのです。

早速、三好三人衆は、摂津池田城(大阪府池田市)の城主=池田勝政(勝正)の重臣だった荒木村重(あらきむらしげ)(5月4日参照>>)をけしかけて池田城を乗っ取らせ、そのドサクサで挙兵して、野田・福島(大阪市福島区)に砦を築き、信長に対抗しようとします。

この動きに、畿内の反信長派が三好三人衆のもとに続々と集結・・・その中には同族の三好康長(やすなが)十河存保(そごうまさやす=三好長慶の甥)らはもちろん、名門・細川家の細川昭元(ほそかわあきもと・信良=晴元の息子)、信長によって美濃(岐阜県)を追われた斎藤龍興(さいとうたつおき)(8月15日参照>>)や、その家臣=長井道利(ながいみちとし) などなど約8000。

一方、信長方の動きとしては、信長上洛の際にいち早く傘下に入った松永久秀(まつながひさひで)(12月26日参照>>)が、居城の信貴山城で準備を整えはじめますが、この時、彼ら=大坂方の最初のターゲットとなったのは、久秀と同時期に信長傘下に入っていた三好本家の三好義継(みよしよしつぐ=三好長慶の養子)古橋城(大阪府門真市)でした。

守る兵はわずかに800・・・8月17日に大坂方からの攻撃を受けた古橋城は、多勢に無勢のまま合戦突入となったワリには、かなりの抵抗を試みた激戦となりますが、いかんせん数に劣るため、間もなく壊滅状態となり、義継は敗走しました。

その一報を聞いた信長・・・8月20日に岐阜を出陣し、翌・21日に横山(滋賀県長浜市)、さらにその翌日に長光寺(滋賀県近江八幡市)、23日には京都の本能寺に宿泊し、25日は枚方(大阪府枚方市)の寺院に・・・

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野田城跡の碑(大阪市営地下鉄:玉川駅前)

かくして元亀元年(1570年)8月26日信長は、野田・福島の砦を包囲すべく陣を敷きます。

先陣を敵の最前線に配置し、天満ガ森(大阪市北区)川口(同西区)渡辺(同中央区)上難波(同中央区)下難波(同浪速区)神崎(兵庫県尼崎市)・・・と、取り囲む鉄壁の陣を敷き、自らは天王寺(大阪市天王寺区)に陣を構えました。

そうなると、信長方にも、堺や兵庫あたりから手土産持って挨拶に来る者や、様子を見に来る者などが続々と集まってくるわけですが、そんな中で、やはり、敵方=大坂方も一枚岩とは言い難く、28日には三好政勝(まさかつ)香西長信(こうさいながのぶ)らが信長方へと寝返ります。

また、9月3日には、この前年に三好三人衆からの襲撃を受けていた将軍=義昭が、細川藤賢(ふじかた)中嶋城(大阪市淀川区)に入りました。

さらに信長・・・9月8日には、大坂にあった石山本願寺より1kmほど西にある楼岸(ろうのきし=大阪市中央区)に砦を築かせて斎藤新五(しんご・利治・新五郎とも=道三の末子)(9月24日参照>>)稲葉一鉄(いなばいってつ=良通)(11月19日参照>>)などに守らせ、川向こうにある川口村にも砦を造って平手汎秀(ひらてひろひで=平手政秀の三男)(12月23日参照>>)佐々成政(さっさなりまさ)(7月10日参照>>)などに守らせ、

9月9日には、信長自ら天満ガ森へと本陣を進出させ、諸将に草を集めさせて、その草で以って、敵の砦付近にある堀や入江を埋めさせたのです。

以前もお話しましたが、この頃の大阪平野は、未だ川や入江が縦横無尽に走る湿地帯でしたからね。

さらに、9月12日は、野田・福島の砦から1kmほど北の海老江(大阪市福島区)という村に砦を築いて、ここに義昭と信長が合流して本陣としますが、この頃には、すでに合戦の火ぶたは切られており、信長軍の先陣は、敵近くに土手や物見櫓を構築して近くまで攻め寄せ、大砲もぶっ放しております。

また、信長に呼応した根来(ねごろ)雑賀(さいか・さいが)など紀州の面々が2万の軍勢を率いて信長方に参戦・・・ご存じのように鉄砲に長けた彼らの攻撃は昼も夜も止む事なく、まさに天地に響く轟音が鳴り続けたと言います。

さすがの大坂方も、この数の多さには圧倒され、ここらあたりから和睦を申し入れて来ますが、信長の返事は「NO!」・・・「もう1日もたんやろ!一気に落せ!」と、さらに勢いづくばかり・・・

これに反応したのが、真横でドンパチやられている石山本願寺です。

もともと、好立地にある石山本願寺の場所を狙っていた信長に、このまま野田・福島を落されては、「この本願寺が危ない」とばかりに、第11代法主=顕如(けんにょ)が、全国の信徒に蜂起するよう呼び掛ける檄文を発し、9月12日夜には突然響いた鐘の音とともに楼岸・川口の両砦に向けて鉄砲を打ち込んだのです。

さすがに、プロの戦闘集団である信長軍は、あくまで烏合の衆である一揆勢にビビる事はありませんでしたが、14日には、大坂方が天満ガ森まで出撃して来るという事態に・・・

そう、風前の灯であった野田福島の大坂方が、本願寺の参戦によって勢いを盛り返したのです。

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「小田信長、石山本願寺を貴る」(絵本拾遺信長記:前篇五)

ここに野田福島の戦いは、この先10年に渡る有名な石山合戦へと移る事になるのですが、それに関連するお話は、
本願寺が参戦した9月12日のページ>>
もしくは
激戦となる天王寺合戦5月3日のページ>>
でご覧くださいませm(_ _)m
 .

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2014年8月22日 (金)

アンケート企画「戦国最高の2代目は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケートあなたが思う、戦国最高の2代目は結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
予想通りもありですが、予想外もあり・・・
様々な見方があり、様々な立ち位置に様々な推しメンあり・・・

「なるほど~そういう見方もあるかぁ」
と、あらためて歴史の面白さを感じるわけで・・・

これだからアンケート投票は楽しいヽ(´▽`)/

・・・って事で、結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
29票
真田昌幸
やはり、1位でしたか…でも、今回は、さすがにブッチギリ!といかなかった所が見どころでしたね
2位
23票
徳川秀忠
1位に迫る堂々の2位…途中の追いつ追われつの攻防も見ものでした
3位
18票
北条氏綱
地味な存在に反してなかなかの得票数…やはり繁栄の土台を築いた点が評価されたのでしょう
4位
14票
立花宗茂
偉大な父ちゃんがダブルなうえにご本人も…という事で堂々の4位!
5位
10票
上杉景勝
失礼ながら、意外にイイ位置に食い込みましたね~寡黙さの勝利?
6位
7票
武田勝頼
戦国最強の噂もある勝頼さん…愚将の汚名を返上する日も近い?
7位
5票
黒田長政
大河ドラマでは小牧長久手ほぼスルー…せめて黒田父子が活躍する岸和田城攻防戦>>はやって欲しかったにゃ(;ω;)
8位
3票
斎藤義龍
宇喜多秀家
長宗我部盛親

惜しい位置に留まった3名の方々…それぞれの個性は光ってたんですけどね~
11位
2票
細川政元
今川氏真
織田信忠
池田輝政
豊臣
(三好)j秀次

やはり上位に喰い込むには、知名度+インパクト、そして治世の長さも必要かと…
16位
1票
前田利長
細川忠興

ともに江戸時代の反映の基礎となったお二人ですが、残念ながら1票でした
18位
0票
蜂須賀家政
ちょっと知名度がイマイチだったでしょうか?残念ながら票の獲得はありませんでした…お父さんの大河での活躍に期待
その他 14票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

徳川秀忠 父に耐え、奥方に耐え、時代に耐え、未来を希望した人ではないでしょうか。(60歳代/男性/東京)
「しっかりとした江戸時代の基礎をつくりはりましたね
北条氏綱 北条早雲の息子・氏康の父と、地味に見えながらもこの2代目があったからこそ戦国時代にありがちな身内間の争いがない後北条家の基盤が出来たと思う。(40歳代/女性/宮城)
「やはりこちらも、しっかりとした基礎づくり…地味ながら重要です」
北条氏綱 有名な名将の目白押しで悩ましいところでしたが、軍事の点で秀忠に勝つと思うので新九郎殿に一票!(20歳代/男性/大阪)
「確かに、軍事の面でも優れてはります…関東は未だ微妙な頃でしたからね」
徳川秀忠 いつもタイミング悪かったのでアンケ初参加です^^奈良?平安中期ヲタの歴女なので、この時代は言う程詳しくはないのですが、秀忠公は、安定の完成と管理にふさわしい方という印象です。(20歳代/女性/山口)
「そうだったんですか?不定期ながら、今後もアンケートやりますので、よろしくお願いします」
その他 毛利輝元。(20歳代/男性/茨城)
「アンケート募集ページにコメントさせていただいたように、毛利は迷ったんですよね~
武田勝頼 偉大な父と比べられて評価が低いが,もうちょっと評価されても良いのではという応援の気持ちも込めて一票入れます。(30歳代/男性/香川)
「応援の気持ち…わかります(*^.^*)
その他 毛利隆元で。(30歳代/男性/東京)
「おっ!今度は隆元さんですね~やっぱり毛利は1人に絞りづらいです(;ω;)
上杉景勝 跡目争いにも競り勝ち、家を存続させた。(吉良のために30万石から15万石に減りましたが)
「戦国の世で、かなりアブナイ橋を渡ったワリには、何とか家を存続させましたからね~」
真田昌幸 戦上手の徳川を二度も手玉に取った手腕は別格だと思う!(40歳代/男性/埼玉)
「しかも少数で勝ってるところがスゴイっす!」
真田昌幸 真田好きっていうのもあるんですがw あの徳川さんを2度も撃退したあの戦は本当に見事で、勝ち方が鮮やかで読むたびにスカッとしますw ただ単に徳川側が間抜けだっただけかもしんないけど。
「強い敵と戦う側に、つい判官びいきしちゃいますね~」
その他 真田信之さんに一票!戦国大名の真田氏は昌幸さんが初代と考えてましたんで、家を残した信之さんがその2代目ということで。(30歳代/男性/福岡)
「確かに『昌幸=初代』って考えもあると思います…そうなるとお兄ちゃんは捨て難い!
黒田長政 関ヶ原の功績を考えたら長政でしょ!(40歳代/男性/大阪)
「関ヶ原では奔走しましたからね~」
武田勝頼 参照のページを読んで勝頼を見直しました!(10歳代/男性/福岡)
「読んでくださったんですか?ありがとうございますm(_ _)m私としては信玄のバトンタッチの仕方が悪かったような気がしています」
徳川秀忠 自分も二代目と呼ばれて時があって、その時何故か秀忠を心の拠り所にしてた記憶があります。(40歳代/男性/千葉)
「カリスマ的な父を持つ2代目は、2代目を継いだ時点で、良くも悪くもなんやかやのふろくがついて来ますからね~」
真田昌幸 大勢力に囲まれつつも生き残るしぶとさは超一流。昌幸ファンとしてはぜひ上位に入ってほしい!(40歳代/女性/神奈川)
「狙われやすい場所で…武功だけでなく、微妙な立ち位置をキープする能力も評価できますね」
真田昌幸 私にとっては初代なのですが上位に入ってほしいので!(30歳代/女性/兵庫)
「スンマセンm(_ _)m幸隆さんを重視してしまいました…でも、昌幸さんが1位でしたよ!」
その他 島津義久。島津本宗家を分家(伊作家,相州家)から継いだ島津貴久を初代と考えれば2代目ですね。秀吉、家康に降伏しながらも、本領を守った当主としての実力は、派手な戦績を残しつつも,本領を守れなかった上杉景勝、真田昌幸を凌ぐでしょうね。(40歳代/男性/兵庫)
「そうそう…島津も、4兄弟の中から一人に絞りきれずに、その他からのご投票に委ねる事にしてしまったんです…なるほど義久さんですか~」
北条氏綱 斎藤義龍なんか能力もあるから押したいのだけれど、残念な事にその治世があまりにも短すぎた。と云う事で、実績ピカイチのこの人に一票。(50歳代/男性/静岡)
「もう少し長生きしていたら…という惜しい方もいらっしゃいますよね」
その他 まあ俺は、鬼島津と呼ばれた弟の方、島津義弘に一票やな。あの鬼神の様な弟がいてこそ、義久は本領を守れたんや。(30歳代/男性/大阪)
「やはり、島津も分かれますよね~」
豊臣秀次 宇喜多秀家殿も捨てがたく迷いに迷いましたが 秀次殿が生きていて下されば 伊達 徳川を従え 豊臣政権は まだ続いたのではないのか:(T-T):そんな訳で 秀次様?お墓参りもさしてもらいましたよって(50歳代/女性/大阪)
「この方が長生きしていたら、たぶん歴史は変わってましたよね~
立花宗茂 強い、格好いい、以上。(20歳代/男性/沖縄)
「多くは語りますまい」
斎藤義龍 この人が生きていたら、信長公も大いに困ったと思います。(30歳代/男性/岐阜)
「結局は、この方が生きていた間は、信長は、ほぼ何もできていませんでしたからね~」
武田勝頼 滅んだとはいえ、最強だったのでは。家臣に問題があったと思いたいです。(40歳代/男性/千葉)
「やはり、バトンタッチがうまくいかなかったんだと思います」
その他 豊臣秀頼に一票でもよいですか?やはり大坂の陣、西軍の総大将という事で戦国最高の二代目かと。(30歳代/男性/東京)
「もちろん、秀頼公も大アリですよヽ(´▽`)/」
立花宗茂 嫁の反対を押し切り、豊臣に義をつらぬいた。故太閤に凄く愛された武将のひとりだと聞いています。(40歳代/男性/大阪)
「敵からも愛された名将ですからね」
その他 毛利隆元ですかね。人望・内政・財務の人ってイメージが強いですが、厳島合戦や対大友氏など戦でも活躍してたと思います。死後は父元就も「あいつ生きてた時は心強かった」的なこと言ってたらしいし。(30歳代/男性/岡山)
「毛利は悩んだです~隆元さんもアリですね~
立花宗茂 孤高の武将です(60歳代/男性/熊本)
「ですね~( ̄ー ̄)ニヤリ」
徳川秀忠 スケールの大きさに一票受け継いだ事を次に渡す前に更に手を加えて次の土台となる。素晴らしい!(40歳代/女性/岩手)
「コチラは見事なバトンタッチでしたからね」
北条氏綱 色々と有名な人がいて迷いましたがやはり神奈川県民として北条さんに一票入れさせて頂きました。(40歳代/男性/神奈川)
「地元推し…アリです(*^-^)
上杉景勝 超無口な性格に惹かれます。「義」を重んじて家康と対決したところなど、男の中の男、千両役者です。(60歳代/男性/兵庫)
「イイ男は多くを語らず(o^-^o)」
立花宗茂 父(義父)紹運・道雪を持ちながらも、2人に負けない知略・人徳を持つ愛すべき坊っちゃんキャラに、一票(40歳代/女性/東京)
「そうそう、初代に負けてませんからね~
その他 お市の方の娘、「江」でお願いします。政略結婚が常の世とはいえ、「浅井と織田の血を絶やさぬよう」の母の言葉を守り、その結果、今上天皇に繋がっているなんてスゴイ!の一言に尽きます。(40歳代/女性/愛知)
「今回は『家を継ぐ2代目』という観点から女性は選択肢に入れませんでしたが、確かに、『血を受け継ぐ』という点では女性も…との考えもありますね~
武田勝頼 信玄が好きなので。滅びてはしまったが生き延びるために頑張っているので(20歳代/男性/神奈川)
「勝頼さんは、もっと評価されるべき人ですね」
その他 織田信長戦国時代を基準に考えたら織田信秀の跡継ぎの織田信長が二代目。尾張守護代の家臣から天下統一直前までは最強の下克上&二代目だと思います。(30歳代/男性/埼玉)
「募集ページに書かせていただいた信玄同様、信秀=初代という見方にも一理あると思います(゚ー゚;まぁ、それなら信長でしょうね
上杉景勝 眉間にシワで!(40歳代/男性/大阪)
「寡黙なお兄さんのイメージです」
その他 真田幸隆の嫡男、真田信綱に一票です。確かに知名度は弟と比べて圧倒的に劣りますが、この人だって武田二十四将になるほどの人で、真田と武田の為に転戦して戦死したのに…、と気になってしまって。
「この方も、もう少し長生きしてくれていたら…と思いますね~
北条氏綱 氏綱いないと、のちの北条関東王国もちろんなかったわけ(20歳代/男性/海外)
「100年に渡って君臨する基礎ですからね~」
立花宗茂 紹運と道雪と2人の名を背負っておると思えば、ある意味最強の2代目かも。後、浪人からの復活はやはり凄いです。(30歳代/男性/福岡)
「両父の名に恥じない実力をお持ちですから…」
宇喜多秀家 豊臣びいきとしては、バロメーターはやっぱり関ヶ原・・・(60歳代/男性/長野)
「関ヶ原では主力の一翼を担いましたからね~」 
真田昌幸 あの場所でくにが存続し続けたのは凄い(30歳代/男性/静岡)
「その、生き残り術に乾杯!ですね」
真田昌幸 アンケートといえども、秀忠公に負けるわけにはいけませぬ!真田に一票入れ申す!(50歳代/女性/奈良)
「お味方は見事、勝利いたしましたぞ!」
真田昌幸 徳川に二度も勝ったのは素直にすごい(10歳代/男性/富山)
「その名声は、そっくりそのまま息子にも受け継がれてますからね~」
北条氏綱 有名な初代と3代目に挟まれて影が薄いですが、この方がいたから後北条家はしっかり頑張ったのだと思います。(40歳代/女性/兵庫)
「そうです、そうです、3代目も河越夜戦>>で有名なんですよね~でも、それも、この2代目がいたからこそ!」
真田昌幸 ここは、やっぱり この人でしょうなぁ・・・ 真田昌幸(60歳代/男性/海外)
「やはり…ですね~(*^-^)」
その他 天下人達と敵対しつつもうまく立ち回って家を残した上杉景勝や黒田長政を推したいところだけども、直虎が奇跡的に繋いだ家系を関ヶ原の決死の戦いで残す道を開いた井伊直政をイチ推しします。(30歳代/男性/神奈川)
「おぉ!井伊直政ですか…何となくこの方が初代のような気がして選択肢に入れなかったんですが、考え方としてはアリですね」
徳川秀忠 影武者徳川家康での秀忠は腹黒くて姑息なキャラ設定で、とても好きですので。てか、ある程度そういう性格で無いと、徳川300年の礎は造れないと思います。(40歳代/男性/広島)
「大坂の陣で千姫が脱出した際『なぜ?秀頼とともに死ななかったのだ!』と叱責したのは秀忠でしたからね~そういう面も無いとやっていけないのが戦国ですね」
長宗我盛親 相変わらずの地元贔屓です(笑)もう少しお父さんも込みで知名度が上がるといいのになあと思いますが…お父さんの人生後半がちょっとドラマには向かないのかもしれませんね(^^;(40歳代/女性/高知)
「地元推し…大いにアリです。やはり後半生がね~((・(ェ)・;))」
立花宗茂 義父、実父の才を十二分に受け継いでらっしゃるので(20歳代/男性/兵庫)
「かつて敵対した者の世で生き続けるのは、やはり、その実力がハンパ無いという事だと…」
真田昌幸 真田ファンとしては、この方ですね。幸村と言いたいところですが、この方が自分の中では二代目なので。この投票は結果が楽しみです。票が割れてますから。(50歳代/男性/愛知)
「追いつ追われつな感じが楽しかったです」
その他 佐竹家全盛期を築いた鬼義重の子、佐竹義宣を推します。(20歳代/男性/東京)
「秋田藩の祖となる人物ですからね~(゚▽゚*)」
その他 本多忠勝(70歳代/男性/長崎)
「唐の頭と…ですね。スンマセンm(_ _)mお父さんの事、もう少し勉強します」
立花宗茂 本人は勿論、父さんズ(実父、義父)が格好良すぎ!(女性)
「父さんズ…ですか~二人に負けてませんね」
北条氏綱 北条家の繁栄はこの人あってのことだと思います。お家の繁栄は基礎がしっかり固められてでないとダメですから(10歳代/女性/千葉)
「やっぱり基礎造りですね(゚▽゚*)」
北条氏綱 二代目、つまり前からあったものを受け継いでさらに盛り上げてく、という意味ではこの人がダントツじゃないかな。次いで前田利長、徳川秀忠。(30歳代/男性/愛知)
「>前からあったものを…確かに、その通りですね」
立花宗茂 文禄・慶長の役、南下中の明軍を碧蹄館の戦いで撃破し、講和交渉のテーブルに引きずり出したのは、立花宗茂の活躍あってのこと。
「やはり実力ありますから…」
徳川秀忠 秀忠は大河ドラマの印象で、偉大な父に忠実な生真面目な2代目って思ってたんですが家康亡き後に大粛清してるとを知って印象がガラッと変わりました。真面目だからこそなのかも知れませんが。(30歳代/女性/兵庫)
「私としては、平和な時代の生真面目と、戦国の生真面目は少し違う気がします~やはり戦国では、時には血も涙も無い徹底した生真面目さも必要かと…」
立花宗茂 最高じゃないかもしれないけど、最強でしょう(40歳代/男性/東京)
「やっぱりイイです!」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
真田幸村 (高来郡司さん)
北条氏綱 (lc1gr6さん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2014年8月16日 (土)

河尻秀長VS遠山友政の関ヶ原~苗木城・開城

 

慶長五年(1600年)8月16日、河尻秀長が留守となった苗木城を遠山友政が奪いました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦いに関係する美濃(みの=岐阜県)での戦い・・・苗木城(なえきじょう=岐阜県中津川市)争奪戦です。

この当時、苗木城を治めていたのは河尻秀長(かわじりひでなが)という人物・・・彼のお父さんは、織田信長に仕え、その後継者の信忠(のぶただ)を見事にサポートして武田滅亡(3月11日参照>>)へと導いた重臣で、織田政権下では、その武田の旧領である甲斐(かい=山梨県)一国を与えられていた名将=河尻秀隆(かわじりひでたか)ですが、例の本能寺の変のドサクサで起こった国人一揆で命を落としていまいました(6月18日参照>>)

そのため、息子の秀長は、父と同じく、織田政権下で武田の旧領北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を与えられていた森長可(ながよし)(4月9日参照>>)のもとに身を寄せ、その後の信長亡き後に起こった織田家内の政権争いで、長可とともに東美濃の平定にあたり、その時に落城させた城の一つが、遠山友忠(とおやまともただ)の苗木城でした。

友忠は、羽柴(後の豊臣)秀吉VS織田信孝(神戸信孝=信長の三男)(5月2日参照>>)柴田勝家織田家内での争い(4月20日参照>>)の時に信孝側についたのですね。

で、この戦いの功績により、秀長は苗木城を与えられますが、この時、秀長が城主に復帰するために、イロイロと奔走してくれたのが、秀吉の側近だった石田三成(いしだみつなり)だったのだとか・・・

そう、秀長は三成に恩があったのです。

かくして、訪れた慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い・・・その呼び水となった会津征伐では、徳川家康が、会津(あいづ=福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて東北へ向かいますが、その家康の留守を狙って、家康と対立していた三成が挙兵(7月11日参照>>)・・・

そして、自らの伏見城が攻撃を受けている事を知った家康が、会津征伐を中止してUターンする事を、従軍している諸将に決意表明して、今後の彼らの動向を問うたのが、あの「小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)です。

ご存じのように、福島正則(ふくしままさのり)らをはじめとする多くの武将が、この評定の席で家康=東軍につく事を表明するのですが、秀長は、逆に、この小山評定を機に西軍参戦を表明し、家康の軍団を離れて、居城である苗木城に戻り、家老の関治兵衛を城代として城の守りを任せた後、自らは三成のもとに馳せ参じるのです。

もちろん、三成への恩だけではなく、彼の中には彼なりの様々な思いがあったでしょうが・・・

一方、この「秀長=西軍」を受けて動いたのが、かつて秀長に苗木城を奪われた遠山友忠の嫡男=遠山友政(ともまさ)でした。

その時、苗木城を追われた遠山父子は、その後、家康の家臣である榊原康政(さかきばらやすまさ)(5月14日参照>>)の庇護のもと、上野(こうずけ=群馬県)館林(たてばやし)にてひっそりと隠れるように暮らしていたのです。

秀長が三成のもとに馳せ参じたように、友政も家康のもとへ馳せ参じます。

そして、「東美濃の攻略は俺に任せてくれ!」と直談判・・・もちろん、「奪回したあかつきには、旧領の回復を認めてほしい」と・・・

この申し出を快諾した家康は、友政に金100両とともに銃弾をプレゼントして送り出しました。

こうして家康の公認を得た遠山軍は、1700余の手勢を率いて美濃へ・・・早速、留守を預かる治兵衛に対して開城を求めますが、
「殿さまの留守の間に、そんな事、僕が勝手に決めるわけにはいきませんわー殿さまの許可が下りるまで、ちょっと待ってね」
との回答・・・

「そんな時間稼ぎに付き合うてられるか!」
とばかりに、慶長五年(1600年)8月15日夜・・・松明を掲げた遠山勢が苗木領内へと侵入し、、一気に城付近へと押し寄せます。

もともと、わずかな城兵しか残っていなかった苗木城・・・「とてもじゃないが、この数での防御は不可能」と判断した治兵衛以下城兵は、遠山勢に城が完全包囲される前に、見事と脱出に成功・・・

翌・慶長五年(1600年)8月16日遠山勢が、苗木城の奥深くに入った時には、城内はすでにもぬけの殻で、もいない状態だったとか・・・

こうして、苗木城奪回した友政は、後に正式に苗木城を与えられ、その子孫は江戸時代を通じて生き残り、幕末まで存続します。

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↑岡山烽火場から見た関ヶ原古戦場

一方の秀長は、西軍として伏見城攻防戦に参戦した後、9月15日のあの関ヶ原本チャンでの合戦(9月15日参照>>)に赴くも、その戦場で戦死したと伝えられています。
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2014年8月 9日 (土)

「丹波の赤鬼」こと赤井直正と明智光秀の黒井城・攻略

 

天正七年(1579年)8月9日、織田信長の命を受けて丹波国を平定中の明智光秀が丹波黒井城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・・・

上洛後の織田信長による全国制覇の一環ですが・・・
ご存じのように山陰+山陽=中国地方を担当していた羽柴(後の豊臣)秀吉明智光秀(あけちみつひで)・・・

Aketimituhide600 そんな中で、光秀は畿内に近い京都府北中部や兵庫県北東部にあたる丹波(たんば)の平定を任されていたわけですが・・・

その中の、今回の丹波黒井城(兵庫県丹波市)・・・
ここを本拠として治めるのは赤井直正(あかいなおまさ=荻野直正)という武将。

彼は荒木氏綱(あらきうじつな)「荒木鬼」波多野宗高(はたのむねたか)「丹波鬼」籾井教業(もみいのりなり)「青鬼」(10月26日参照>>)とともに、丹波に住む4人の鬼の一人、「丹波の赤鬼」と呼ばれる人物で、あの『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)では、徳川家康(とくがわいえやす)長宗我元親(ちょうそかべもとちか)に並んで3人の「名高キ武士」として紹介されています。

もともとは荻野姓を名乗っていたのが、義父を殺害して黒井城を乗っ取った頃から赤井姓を名乗るようになり、その一件から通称を悪右衛門と称するようになったとか・・・

とにもかくにも、幼き頃から悪童として名を馳せたエピソードを持つ直正だったわけですが、信長が西国に勢力をのばして来た元亀元年(1570年)頃には、すんなりとその傘下に入り、甥っ子の赤井忠家(ただいえ)とともに、持っていた所領は、無事安堵されました。

しかし、その後、もともとここらあたり一帯に勢力を持っていた山名氏とのトラブルが勃発し、その関係から、信長を敵に回してしまうのです。

やがて天正三年(1575年)、信長は明智光秀を総大将に丹波の平定に乗り出したというわけです。

その年の10月、準備を整えて出陣した光秀は、圧倒的な兵力で黒井城を取り囲み、即座に攻撃を開始します。

もはや、ヘビに睨まれたカエル状態の黒井城は、またたく間に陥落すると思われましたが、どうしてどうして・・・黒井城はなかなかの堅城で、しかも守るは丹波の赤鬼・・・

すぐに決着がつくかに見えた籠城戦は終わりを見せず、翌・1月には、なんと、これまで信長傘下を表明していた丹波八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)波多野秀治(ひではる)が、赤井の援軍として明智軍を取り囲んで攻撃を開始して来たのです。

この戦いは、「もはやこれまで!」と、一旦は光秀に死を覚悟させるほどでしたが、その後、何とか撤退を成功させて、近江(滋賀県)坂本城へと戻った光秀・・・

当然ですが、信長は黒井城の赤井よりも、いきなり裏切った八上城の波多野に怒り爆発し、すぐに光秀に秀治討伐を命じるわけですが、上記の通り、光秀が落さねばならない丹波地方の城は、八上城や黒井城だけではありませんし、しかも、その間の光秀は、秀吉の三木城・籠城戦(3月29日参照>>)を応援したり、畿内の石山本願寺との合戦(5月3日参照>>)に赴いたりと、かなり忙しい・・・

で、ようやく、天正七年(1579年)の6月・・・何とか、その兵力を八上城一本へと絞って、八上城陥落へと持ち込んだのでした(1月15日参照>>)

そうなると、当然のごとく、次のターゲットを黒井城一本に絞れるわけですが・・・実は、この間に黒井城の赤井側にも大きな変化がありました。

天正六年の3月9日に、赤鬼こと直正が亡くなってしまっていたのです(病死とも、戦の傷の悪化とも)

しかも、先の八上城攻めやらなんやらの周辺の戦いで、もはや黒井城の支城もほとんど落されてしまっている状態・・・織5月19日参照>>)

直正の遺児=直義(なおよし)が未だ幼かったため、直正の弟=幸家(ゆきいえ)や、甥っ子の忠家が中心となって明智軍を迎え撃つ事になりますが、もちろん、今度は、波多野の援軍も無いわけで・・・

かくして天正七年(1579年)8月9日赤井勢が立て籠もる黒井城へと攻め寄せた光秀・・・

出撃して来た赤井勢をサラッと攻撃し、形勢不利となった赤井勢が城への逃走を図りはじめると、それを追撃する形で、じわりじわりと城の外郭へと攻め込みます。

この状況に、この先の戦の行方を読み切った赤井側は、これまでに出されていた様々な条件を飲み降伏・・・黒井城を開け渡して、どこへともなく逃走したのでした。

これにて、光秀による丹波平定は完了・・・2ヶ月後の10月24日に信長に報告すると(10月24日参照>>)、信長は「比類なき功績!」と、大喜びだったのだとか・・・

ちなみに、幼き直義は、この後、藤堂高虎(とうどうたかとら)のもとで活躍し、忠家も豊臣秀吉から徳川家康に仕えて大和国内に1千石を与えられていますので、赤井氏の血脈は生き残った事になります。
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2014年8月 3日 (日)

北陸の関ヶ原~前田利長、大聖寺城を攻略

 

慶長五年(1600年)8月3日、北陸の関ヶ原と言われる『大聖寺城の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・

何度も語られて来た関ヶ原の戦いの経緯ではありますが・・・

慶長三年(1598年)8月に亡くなった豊臣秀吉(とよとみひでよし)(8月9日参照>>)・・・さらに、その後を追うがの如く翌・慶長四年(1599年)の3月に加賀の大物=前田利家(まえだとしいえ)が亡くなった(3月3日参照>>)事で表面化する豊臣家内部の分裂(3月4日参照>>)・・・

Maedatosinaga500a 利家の死を受けて、五大老秀頼(ひでより=秀吉の遺児)傅役を継いでいた利家の長男=前田利長(としなが)は、そのゴタゴタから一歩退いた状態を保ちたかったのか?・・・この時点で残る1番の大物である徳川家康(とくがわいえやす)の勧めに応じて加賀へと帰郷・・・

しかし、利長が畿内を留守にしている間に、「家康・暗殺未遂事件」の首謀者の疑いをかけられ、やむなく、母のまつ=芳春院(ほうしゅんいん)江戸に差し出す事で(5月17日参照>>)何とか前田家の謀反の疑いを晴らしたのですが、今度は、「会津の上杉に謀反あり!」として会津征伐を決意した家康から、越後春日山城(新潟県上越市)堀秀治(ほりひではる)とともに「津川口を守れ」との出陣要請がかかります。

母を人質に出してまで家康への恭順を示した利長ですから、当然、その出陣要請にも応えたいところですが、この時、家康が同時に東北の警固を命じた越前丸岡城(福井県坂井市)青山宗勝(あおやまむねかつ)小松城(石川県小松市)丹羽長重(にわながしげ)が、なんと、家康に敵対する石田三成(いしだみつなり)率いる西軍の主力の一人=大谷吉継(よしつぐ)の呼びかけにより、家康の要請を蹴って西軍につく事に・・・

さらに奔走する吉継の働きかけによって、結局、越前(福井県)では府中城(福井県越前市)堀尾吉晴(よしはる)以外のほとんどの武将が西軍となってしまったのです(7月14日参照>>)

そうなると、自分が家康の要請通りに東北に出陣した後に、留守となる加賀が心配・・・て事で、利長は、まずは周辺地の平定を先にすべく、慶長五年(1600年)7月26日、2万5千余の兵を率いて金沢城を出立し、南加賀から越前方面へと向かったのです。

そして、まず目指すは丹羽長重の小松城・・・この長重は、ご存じ、織田信長の重臣であった丹羽長秀(ながひで)(4月16日参照>>)の息子ですが、例の「家康・暗殺未遂事件」のゴタゴタの際には、家康から「利長を監視するように…」との命令を受けていた事もあって、利長とはもともときな臭い雰囲気が漂う相手・・・

しかし、その小松城は周囲が泥沼に囲まれた場所に立つ天然の要害でなかなかの堅城・・・しかも、長重自ら3千の兵を率いて守る守備態勢は万全で、おそらく、攻撃を仕掛ければ、即、壮絶な戦いが繰り広げられるであろう事は明白・・・

なので、利長は、あえて小松城を見送って先へと進み、同じく西軍を表明していた山口宗永(むねなが)加賀大聖寺城(だいしょうじじょう=石川県加賀市)を目指します。

8月2日・・・大聖寺城に近い松山城に入った利長は、まずは穏便に、宗永に降伏を求めますが、宗永は断固拒否・・・よって、翌・慶長五年(1600年)8月3日早朝、利長は大聖寺城に向かって出陣したのです。

迎える宗永は、嫡男=修弘(ながひろ)を城の外へと打って出させ、前田勢を待ち伏せする作戦をとりますが、前田方の先鋒=山崎長徳(やまざきながのり)に見破られ、逆に襲撃されてしまいます。

逃げる山口勢に追う前田勢・・・

そのまま大聖寺城に逃走する兵を追撃する形で、前田勢は城内へと突入し、やがて本丸まで侵入・・・後に、最も激戦となった場所は「骨ヶ谷」なる名称で呼ばれるほどの壮絶な戦いになったのだとか・・・

この情勢をみた修弘は、自ら名乗って長徳の家臣の前に進み出て、抵抗する事なく首を討たせました。

まもなく、父=宗永も自刃し、この日の夕刻、大聖寺城は陥落したのです。

しかし、まだまだ手は緩められません。

一部の家臣を大聖寺城の警固に残し、休む間もなく出立した利長は、次に越前の北ノ庄を目指しますが、ここに来て、この前田勢の勢いに押された越前丸岡城の青山宗勝や北ノ庄城(福井県福井市)青木一矩(あおきかずのり)は、利長に恭順姿勢を見せます。

「戦わんでええからラッキー!ヽ(´▽`)/」
と思いきや・・・8月5日、利長は突然Uターンして金沢に引き返すのです。

その理由については、今なお不明ですが、一説には、この時、表面では恭順姿勢を見せていた青木一矩が、実は水面下で大谷吉継に援軍要請をしており、その援軍が、まもなく北ノ庄城に入るとの情報に前田勢が動揺したとか・・・

また、その吉継の別働隊4万が、海と陸に分かれて金沢に攻め込むとの情報が入ったためとか言われています。

結果的に、その情報は誤報(もしくは吉継がかく乱のために流したとも…)だったわけですが、それに慌てた?利長が、北ノ庄城への攻撃を中止して帰路についた事は確か・・・

・・・で、この撤退劇を見逃さなかったのがかの小松城の丹羽長重・・・そう、現在、利長がいる位置から金沢に戻るためには、どうしても小松城の近くを通らねばならないわけで・・・

かくして起こったのが「北陸の関ヶ原:Part 2」加賀浅井畷(あさいなわて)の戦いですが、そのお話は、7年も前の記事ではありますが(*´v゚*)ゞ8月8日のページでどうぞ>>
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