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2014年9月23日 (火)

南北朝動乱~北朝執事の細川清氏が南朝へ…

 

正平十六年・康安元年(1361年)9月23日、 将軍・足利義詮からの討伐命令が下った事を知った細川清氏が若狭へと退去しました。

・・・・・・・・・・

ただでさえややこしい南北朝の動乱が、終盤に近づく頃の出来事・・・

くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】>>でご覧いただくとして・・・とりあえずは、元弘三年(1333年)に鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)建武の新政(6月6日参照>>)を行った後醍醐(ごだいご)天皇に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)が、京都へと攻め上り(6月30日参照>>)光明(こうみょう)天皇を擁立して(8月15日参照>>)開いた室町幕府・・・これが北朝と呼ばれます。

一方、この尊氏に京都を追われた後醍醐天皇が吉野(奈良)に入って開いたのが南朝(12月22日参照>>)・・・で、日本に、この二つの朝廷があった約60年ほどに渡る動乱が、一般的に南北朝の動乱と呼ばれている時代です。(時代区分は室町時代)

延元三年(歴応元年・1338年)には尊氏が征夷大将軍の座につき(8月11日参照>>)、続く延元四年・暦応二年(1339年)に後醍醐天皇が崩御する(8月16日参照>>)中、その間の南朝方との戦いを優位に進めていた尊氏でしたが、
北畠顕家(きたばたけあきいえ)討死(5月22日参照>>)
新田義貞(にったよしさだ)討死(7月2日参照>>)
楠木正行(くすのきまさつら)敗死(1月5日参照>>)など

一方では、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)と呼ばれる内紛に関連して、尊氏の右腕となって政務をこなしていた弟の足利直義(ただよし)(10月25日参照>>)や、苦楽をともにした執事の高師直(こうのもろなお)などを失い(2月26日参照>>)、そのドサクサで、後醍醐天皇の後を継いで第97代天皇となっていた後村上(ごむらかみ)天皇(後醍醐天皇の皇子)八幡(やわた=京都府)合戦(3月24日参照>>)で京都を制圧されたり、南朝に、尊氏と不仲だった次男の足利直冬(あしかがただふゆ)を担かれて抵抗されたり(6月9日参照>>)、というアブナイ場面もありました。

やがて正平十三年・延文三年(1358年)、その尊氏の死(4月30日参照>>)を以って、南北朝の動乱は新たなる展開を見せて行く事になるのですが・・・

その尊氏の後を継いで第2代室町幕府将軍となっていたのは、三男の義詮(よしあきら)・・・彼は、未だ千寿王(せんじゅおう)と呼ばれていた幼き頃から関東における足利の主(尊氏の名代)と認識されていて(5月21日参照>>)、その中で様々な経験を重ねつつ成長し、20歳の頃には、京都にて父のサポート役として政務をこなし、今や29歳の働き盛り・・・

後継ぎとして、義詮自身には問題は無かったのですが、問題だったのは、彼の周囲にいた重臣たちです。

それこそ彼ら重臣たちは、尊氏が反旗をひるがえした時代から支えて来た大物たちですから、そんな彼らとどう向き合い、2代目将軍としてどのように自身の地位を確保していくのか・・・

そう、若き将軍を旗印に掲げながらも、その下で働く、彼ら大物たちの間で、政権内の争いが勃発しはじめるのです。

もちろん、この間にも南朝勢力との戦いは続いていたわけですし・・・

・・・で、それまで執事職についていたのは、先の直冬との戦い=東寺合戦(京軍=きょういくさ)(3月13日参照>>)でも活躍した足利一問の仁木頼章(にっきよりあきら)でしたが、その仁木に反対する武将たちが結託して、南朝との合戦のウラで仁木の追い落としをたくらむ動きが出始めます

正平十五年・延文五年(1360年)、南朝への攻撃と見せかけて反仁木派が蜂起した事を受けて、仁木は京都を退去し、伊勢へと逃れ抵抗を続けるも撃退され、これにて仁木は没落の一途をたどる事になります。

『太平記』では、畠山道誓(はたけやまどうせい)の屋敷にて細川清氏(ほそかわきようじ)佐々木道誉(ささきどうよ)らを招いて酒宴・茶会を催した際に、打倒仁木の作戦を練ったとされていますが、結局のところは首謀者のわかぬままに決行された仁木追い落とし作戦の結果、その後に政権を担うようになったのが管領で執事でもあった細川清氏でした。

さぁ、これから順調に義詮と清氏の政権が・・・と、思いきや、今度は、それまでは円満だった義詮と清氏の関係が、例の仁木追い落とし作戦がかなり強引だった事もあり、しだいにお互いが離れていくようになってしまいます。

この一件も、一説には道誉の策略により、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)に清氏が収めた願文に「天下を執る」の一文を発見した伊勢貞継(いせさだつぐ)が、其の事を将軍=義詮に伝え、義詮が清氏に疑心を抱いたという道誉首謀説もあるようですが、

一方では、今川貞世(いまがわさだよ=了俊)著した『難太平記』には、今川範国(のりくに)を密かに召し出した義詮が「君んトコの息子(貞世の事)は清氏と親しいから、ちょっと京都に呼び出してヤッちゃってくれへんか?」と言ったなんて、将軍主導な話も書かれています。

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京都・嵐山にある天龍寺…天龍寺への行き方は、本家HP:京都歴史散歩の「竹林の里・嵯峨野&嵐山」でどうぞ>>

と、またもや首謀者のわからぬ一件ですが、とにもかくにも、その時、「武装した300騎の軍隊を引き連れた清氏が天龍寺を参拝した」との情報を聞いて、清氏の謀反を確信した義詮は、正平十六年・康安元年(1361年)9月23日後光厳(ごこうごん)天皇とともに京都を出て新熊野(いまくまの=今熊野・京都市東山区)に籠って、清氏の討伐を諸将に命じたのです。

急を察した清氏が義詮に対して(謀反の)身に覚えが無いです」と釈明するも義詮は聞き入れず・・・やむなく清氏は、血気にはやる家来たちをなだめて、領国の若狭(わかさ=福井県南部)へと退去したのでした。

若狭に入ってからは、頓宮四郎左衛門(とんぐうしろうざえもん)小浜城(福井県小浜市)に落ち着いた清氏らでしたが、そこへ「北陸道より幕府の討伐軍が進軍して来ている」との知らせが届き、清氏は自ら出陣して敵を迎え撃つ事にします

しかし、彼らが小浜城を後にした後、未だ勝敗が決していなにも関わらず、留守を守るはずだった四郎左衛門が幕府側へと通じ、敵を城内に入れてしまいます。

武勇の誉れ高き清氏も、さすがにこれでは万事休す・・・前後を挟まれたうえ、帰る場所もなくなってしまい、やむなく、清氏たちは右に左に、バラバラになって落ちていきました。

こうして、わずか2騎となった清氏・・・しかし、今度はその数の少なさを活かして、密かに京都へと舞い戻り、以前、南朝へと降った旧友の石堂頼房(いしどうよりふさ)を通じて南朝への降伏を打診・・・

間もなく、後村上天皇の綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給された文書)が下り、晴れて南朝軍の一員となった清氏のもとには加勢する味方も集まり、南朝軍の士気も高まり・・・

そして、この3ヶ月後には、清氏自ら「1日で京都を攻略してみせまっせ!」といきまいて、北朝と一戦交える事になるのですが・・・そのお話は、南朝軍が京を制圧した12月7日【南北朝~新将軍京落での佐々木道誉の風流と楠木正儀】でどうぞ>>m(_ _)m
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コメント

「みんな仲ようせなあかんえ。」
って言いたくなるくらいグダグダですね。

投稿: ことかね | 2014年9月27日 (土) 17時14分

ことかねさん、こんばんは~

武家にとっては、北も南も、あんまり関係無かったんでしょうかね?
ほんと、グダグダです。

投稿: 茶々 | 2014年9月27日 (土) 17時33分

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