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2014年10月14日 (火)

九州の関ヶ原~小倉城開城で黒田如水が北九州制圧

 

慶長五年(1600年)10月14日、関ヶ原の戦いに乗じて北九州を制圧中の黒田如水が、小倉城を落しました。

・・・・・・・・・

天下分け目の関ヶ原は、9月15日の本チャン=関ヶ原での決戦以外にも、各地に様々な影響を与え、それぞれ東西に分かれた各地の武将が、このドサクサで領地を増やそうとしたり、失っていた旧領を回復しようと奔走していたわけですが・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

そんな中で、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)を通じて、豊臣秀頼(とよとみひでより=秀吉の息子)から旧領=豊後(大分県)の回復を約束された大友義統(よしむね=宗麟の息子)が、東軍として関ヶ原にいるために留守役しか残っていなかった細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)を攻めた事(9月10日参照>>)で、この杵築城を救援すべく兵を挙げたのが、隠居して豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)中津城(大分県中津市)にいた黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)・・・

9月13日、両者は石垣原でぶつかり、九州の関ヶ原とも呼ばれる、この石垣原の戦いに如水は勝利する(9月13日参照>>)のですが、如水の関ヶ原は、まだまだ終わりません。

Sekigaharakitakyuusyuucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

その後、先の杵築城攻め救援を優先したために、囲んだだけでスルー状態になっていた垣見一直(かきみかずなお)富来城(とみくじょう=大分県国東市国東町)と、熊谷直盛(くまがいなおもり)安岐城(あきじょう=大分県国東市安岐町)を自ら兵を率いて攻める如水は、9月19日に安岐城を、10月2日に富来城を開城させる一方で、

家臣の栗山利安(くりやまとしやす=善助)日田(ひた)玖珠(くす)郡へと侵攻させて、西軍に属する佐伯城(さえきじょう=大分県佐伯市)城主の毛利高政(もうりたかまさ)に属する角牟礼城(つのむれじょう=大分県玖珠郡玖珠町)隈城(くまじょう=大分県日田市:日隈城とも)を攻撃させました。

留守を預かる隈城代・毛利隼人佐(はやとのすけ)は、わずかな兵で籠城しつつ、周辺の西軍に属する城へと救援を求めるのですが、残念ながら、ここらあたりの城主たちは、皆、主力部隊を引き連れて現地=関ヶ原に行ってしまっていて留守・・・救援に応える事ができません。

やむなく隼人佐は、無血で降伏開城する事を決意しますが、実は、それと前後して、如水の勢いに押されたのか?、ここ九州では、西軍から東軍に寝返る武将が続出していて、かの毛利高政も、すでに東軍に寝返っていたらしい事から、この無血開城は、もはや戦う意味も無かったという事なのかも知れません。

そんな中、豊後竹田・岡城(おかじょう=大分県竹田市)中川秀成(なかがわひでしげ)も西軍から東軍に寝返り、太田一吉(おおたかずよし)臼杵城(うすきじょう=大分県臼杵市)を攻めるべく出陣・・・迎え撃つ太田勢は、10月3日に佐賀関にて中川勢を破ったものの、もはや、東軍へと吹く風に逆らう事は無謀と判断したのか?如水に対して降伏を申し出ます。

つまり、ここも如水が平定した事になったわけで・・・

「ほんだら、次は…!」とばかりに、如水は居城の中津へは戻らず、そのまま毛利勝信(かつのぶ=吉成)小倉城(こくらじょう=福岡県北九州市小倉)へと向かいます。

まずは10月5日に、支城である豊前・香春岳城(かわらだけじょう=福岡県田川郡香春町大字香春)開城させた如水は、その勢いのまま小倉城を囲みます。

しかし、すでに支城の香春岳城が開城した事も小倉城内に伝わっているうえ、攻撃の先発隊だったのが、その香春岳城・城主の遺児(城主は伏見城の戦いで戦死)を掲げた言わば仲間だった事もあり、さらに、小倉城主の勝信も、その息子の毛利勝永(吉政)も、現地の関ヶ原に行っていて留守だった事・・・

それらの状況を受けて、小倉城内では、我先に逃亡者が続出する事態となり、もはや戦闘くクソも無い状況・・・結局、慶長五年(1600年)10月14日小倉城は開城となったのです。

こうして、あの9月9日に中津城を出陣して後、わずか1ヶ月余りで、豊後&豊前を平定するという電光石火の猛進撃を見せた如水・・・

なので、如水は、この関ヶ原のドサクサで天下を狙っていたのでは?という説もあり・・・ウソかマコトか、「お前の左手は何をしてた?」って、息子の長政(ながまさ)を怒鳴ったって話(8月4日の後半部分参照>>)もありますしね。
(個人的には、今年の大河ドラマの主役=戦を回避したがるキャラの官兵衛で、ここのあたりをどう描くのかが楽しみです)

とにもかくにも、このあとの九州の関ヶ原は、
10月20日の久留米城の戦い>>
11月3日の柳川城の戦い>>
へと向かう事になりますが、その前に黒田如水と同時進行だった
【九州の関ヶ原~加藤清正の動き】もどうぞ>>m(_ _)m
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

茶々様、こんにちは。
関が原の合戦を今年の大河ドラマがどう描くか、興味深いですよね。何となくスルーの予感がしますが…。

投稿: いんちき | 2014年10月14日 (火) 13時59分

歴史は次の歴史を暗示し、次の歴史を創っていくということでしょうねる

( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: ,根保孝栄・石塚邦男 | 2014年10月15日 (水) 00時07分

いんちきさん、こんばんは~

スルーだと悲しいですね。
私としては、そこが、官兵衛の1番の見せ場だと思っているので…

投稿: 茶々 | 2014年10月15日 (水) 03時45分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~

まさに、大河のように、とうとうと流れていきますね~

投稿: 茶々 | 2014年10月15日 (水) 03時46分

戦をできるだけ避けてた人間がいきなり天下狙い始めるって・・・ 製作者サイドのブレッブレな態度に呆れております。

投稿: | 2014年12月11日 (木) 18時00分

>戦をできるだけ避けてた人間がいきなり天下狙い

そうですね。
ブログの本文でも、この九州での状況をどう描くのか?と書かせていただきましたが、まさかのキャラ変更でしたね。

キャラが変わるなら変わるで、その過程も、もう少し描いていただきたかったような気がします。

投稿: 茶々 | 2014年12月12日 (金) 02時33分

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