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2014年10月25日 (土)

織田信長ピンチ!~第二次長島一向一揆戦

 

天正元年(1573年)10月25日、北伊勢から撤退する信長軍を、長島一向一揆勢が追撃し、信長軍の殿をつとめた林通政が討死しました。

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長島は、尾張(おわり=愛知県西部)伊勢(いせ=三重県中北部と愛知県・岐阜県の一部)の国境にあり、木曽川長良川揖斐川という3本の川が合流して伊勢湾に流入するデルタ地帯・・・

この頃には、尾張の一部と認識されていたようですが、永禄五年(1562年)に尾張統一を果たした(11月1日参照>>)とされる織田信長も、未だ、この長島は支配していませんでした。

というのも、この長島は、本願寺蓮如(れんにょ)(3月25日参照>>)の六男・蓮淳(れんじゅん)を住職として創建された願証寺(がんしょうじ)を中心に、武装した本願寺門徒が勢力を誇る地域だったからです。

永禄十年(1567年)に居城の稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜県岐阜市・現在の岐阜城)を信長に落された(8月15日参照>>)斉藤龍興(たつおき)が、後に刀禰坂(刀根坂・とねざか)の戦い(8月14日参照>>)で反信長として再登場する=つまり、城を落されても生き延びる事ができたのは、その時に、ここ長島に逃げ込んだからとの事・・・

そんなこんなの元亀元年(1570年)9月、大坂の石山本願寺が信長相手に蜂起・・・ご存じの石山合戦が勃発(9月12日参照>>)、この時に第11代法主の顕如(けんにょ)が、全国の本願寺門徒に蜂起を呼び掛けた事から、当然、この長島も・・・

早速、下間頼旦(しもつまらいたん)に率いられた何万もの武装した宗徒が、信長方の長島城(ながしまじょう=三重県桑名市長島町)古木江城(こきえじょう=愛知県愛西市)桑名城(くわなじょう=三重県桑名市)次々と攻略・・・この時、長島城の伊藤重晴は追放され、古木江城を守る織田信興(のぶおき=信長の弟)は自決に追い込まれ、桑名城の滝川一益(たきがわかずます)が敗走という結果に・・・

この時の信長は、あの姉川の戦い(6月28日参照>>)をはじめとする対・浅井朝倉戦(9月20日参照>>)に向き合っている真っ最中で救援に向かえなかったのです。

しかし、続く11月26日の堅田の戦い(11月26日参照>>)で、その浅井朝倉戦が一応の落ち着きを見せた事から、翌・元亀二年(1571年)5月に、信長は最初の長島一向一揆戦を開始しました。

第一次長島一向一揆戦となるこの時の戦いでは、信長軍が周辺に放火して回った後、一旦退こうとしたところを、数万の宗徒が追撃・・・総指揮をとっていた柴田勝家が負傷し、殿(しんかり)をつとめた勇将・氏家卜全(うじいえなおもと=直元)(8月1日参照>>)討死してしまうという、またもや痛手を被ってしまいました。

その後、天正元年(1573年)8月になって朝倉を倒し(8月6日参照>>)、その勢いのまま、先の刀禰坂の戦い後に浅井を破った(8月28日参照>>)信長は、続いて休む間もない9月24日、北伊勢に向かって出陣・・・これが、第二次長島一向一揆戦となる戦いです。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)に一泊した信長が、翌25日に大田城(おおたじょう・太田城=岐阜県海津市)がある小稲葉山(こいなばやま)に布陣する一方で、近江(滋賀県)に駐留していた織田配下の軍勢が峠を越えて伊勢入り・・・26日には桑名方面へ進撃した佐久間信盛(さくまのぶもり)羽柴秀吉(はしばひでよし)丹羽長秀(にわながひで)蜂屋頼隆(はちやよりたか)らが西別所城(にしべっしょじょう=三重県桑名市)に立て籠もる一揆勢を数多く討ち取りました。

柴田勝家と滝川一益も、近くにある坂井城(さかいじょう=桑名市)を包囲し、間もなく攻撃を開始・・・城を守っていた片岡掃部(かたおかかもん)は10月6日に降伏を申し出、城を明け渡しました。

続いて勝家と一益の二人は、深谷部(ふかやべ)近藤城(こんどうじょう)を攻め立てますが、この時、近くの抗夫を雇って隧道を掘って攻め、まもなく、この城も開城となりました。

さらに10月8日、信長が本陣を東別所に進めると、もはや抵抗は不可能と判断した周辺の地侍たちが、次々と本陣を訪れ、人質を差し出して降伏の挨拶に参上しましたが、そんな中で、白山城(はくさんじょう=三重県津市)中島将監(なかじましょうげん)だけは現れなかった事から、信長が、またまた信盛・頼隆・長秀・秀吉の4人に命じて、築山を築いて隧道を掘って攻めさせると、さすがに「もはや守りきれない」と感じた将監が降伏・・・白山城も開城となりました。

こうして北伊勢は平定・・・一向一揆勢も半数は討死して、勢力も衰えた事から、信長は矢田(やだ=桑名市)に砦を築かせて、そこを滝川一益に守らせ、兵を撤収する事にしたのでした。

天正元年(1573年)10月25日、岐阜へと戻る途中の信長は、県境にある多芸山(たぎやま・養老山=岐阜県養老郡・大垣市)へと差しかかりますが、当時のこのあたりは左手には草木の生い茂った山が迫っており、右手は揖斐川がすぐそばまで迫る泥深くて葦が生い茂る中を、うねうねとした1本の道が通っているという難所・・・

そう、実はここに、撤退する信長軍を追撃しようとする長島一向一揆勢が伏せていたのです。

各自、鉄砲や弓矢を持った伏兵は、道の要所々々に散らばって、信長がやって来るのを待ち、やがて、その時が来た時、一斉に矢を放ちます。

一揆勢の中には、加勢にやって来た伊賀&甲賀の弓の名手も多数含まれていましたので、雨あられのように降り注ぐ矢の前に、信長軍の兵士は次々と倒れていきましたが、そこを毛屋猪介(けやいのすけ=元は朝倉の家臣)なる武将が進み出て、そこかしこで応戦・・・

そんな中、昼を過ぎた頃から、いきなりの激しい雨が降って来たため、一揆勢・信長軍、ともに鉄砲が使えなくなった事から白兵戦となり、信長は林通政(はやしみちまさ)殿を任せて、自らは前進・・・

大役を任された通政は、何度も敵を追い払い、道が狭くなったところに集中して兵を集めて、逃げる主君を追わせぬよう踏ん張って戦います。

中でも、賀藤次郎左衛門(かとうじろうざえもん)という通政の家臣は、国内に知らない者はいない弓の名手で、今回も先頭を切って駆けて来る敵をバッタバッタと倒しておりましたが、やがて、主君の通政が討死・・・次郎左衛門もまた、ここで命を落しました。

しかも、昼過ぎから降り出したこの日の雨は、さらに激しさを増して降り続き、兵士たちの中には凍死した者も少なくなかったとか・・・(旧暦の10月25日は11月末~12月初めなので…)

通政らの命がけの防戦で、何とか敵の追撃を振り切った信長は、この日の夜に大垣城に到着・・・翌・10月26日に岐阜城に戻りました。

まさに、危機一髪だった信長・・・当然、このままおとなしく引き下がるはずは無い事は、ご承知の通り・・・

翌・天正二年(1574年)7月、今度は最後となる3度目の長島一向一揆戦へと向かう事になりますが、そのお話は2007年9月29日のページで>>7年も前の記事なので、まだブログに慣れて無い感ありますが、よろしければどうぞm(_ _)m
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