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2014年10月17日 (金)

九州の関ヶ原~加藤清正の動き

 

慶長五年(1600年)10月17日、加藤清正が小西行長の支城・八代城を制圧しました。

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各地の武将を巻き込んで行われた天下分け目の関ヶ・・・
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】>>で…)

本チャンの関ヶ原と同時進行的な感じで展開していた九州の関ヶ原と言われる合戦で、東軍として参戦していた細川忠興(ただおき)杵築(きつきじょう=木付城・大分県杵築市)を、西軍総大将の毛利輝元(もうりてるもと)の支援を受けた大友義統(よしむね=宗麟の息子)が攻撃した(9月10日参照>>)事を受けて、豊前(ぶぜん=福岡県東部・大分県北部)中津城(大分県中津市)にて隠居の身であった黒田如水(じょすい=黒田官兵衛孝高)が挙兵し、救援部隊として、その義統を石垣原の戦い(9月13日参照>>)で破り、その勢いのまま北九州制圧(10月14日参照>>)した事など、先日来よりご紹介させていただいて来ましたが、

Katokiyomasa600 この九州では、多くの武将が西軍として関ヶ原に参戦していた中、合戦前から、先の黒田&細川とともに、東軍参戦を明白にしていたのが、隈本城(くまもとじょう・熊本城=熊本県熊本市)を居城とずる加藤清正(かとうきよまさ)でした。
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ご存じのように、この清正は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の母方の親戚だった縁から小姓となり、秀吉の奥さんのおねさんのもとでわが子のように育てられたいわゆる飼いの家臣で、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍(4月21日参照>>)にも名を連ね、あの朝鮮出兵でも活躍(12月22日参照>>)する猛将だったわけですが、

その朝鮮での戦いで、先頭に立って戦う清正らと、それを監督する立場にあった石田三成(いしだみつなり)らの間に亀裂が生じた(4月18日参照>>)ため、秀吉亡き後には三成襲撃事件(3月4日参照>>)まで起こしていました。

なので、この関ヶ原では、現地での実質的な中心人物であった三成に対抗すべく、当然の東軍参戦だったわけです。

この時、関ヶ原には行かず、九州に留まっていた清正は、もちろん、かの杵築城攻撃の一報を受けて、約4000の兵を引き連れて救援に向かうのですが、未だ、彼らが杵築に到着する前に、石垣原で決着が着いた旨の知らせが届いたため、清正は兵を戻す事にします。

が・・・彼もまた、如水同様、そのまま居城に戻る事なく、西軍として関ヶ原に参戦している小西行長(こにしゆきなが)の居城=宇土城(うとじょう=熊本県宇土市)に向かうのです。

Sekigaharakitakyuusyuukcc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

9月20日、宇土城近くに陣を構えた清正は、翌・21日に宇土城下を焼き払って、宇土城を完全包囲・・・この戦いには、日野江城(ひのえじょう=長崎県南島原市)有馬晴信(ありまはるのぶ)大村城(長崎県大村市)大村喜前(おおむらよしあき)も加わり、味方の士気は高まります。

この時、宇土城の留守を預かっていたのは行長の弟の行景(ゆきかげ)・・・この時点で、すでに数日前の関ヶ原本チャンでの勝敗は決定(9月15日参照>>)、しかも、19日には行長が捕縛(9月19日参照>>)されてしまっていますが、未だ、その知らせは宇土城には届いておらず、当然ですが、行景は、支城の八代城(やつしろじょう=熊本県八代市)へ救援要請するなど、徹底交戦の構えで挑みます。

この状況に、宇土城に総攻撃をするか否かを悩んだ末、「総攻撃は犠牲が大きすぎる」と判断した清正は、三の丸までは攻略したものの、その先は、固く包囲する状況のまま長期戦に持ち込もうとします。

ところが、ここに来て南から進軍して来たのが島津勢・・・ご存じのように、島津四兄弟の次男である島津義弘(しまづよしひろ)は、西軍として参戦した現地=関ヶ原にて敵中突破(9月16日参照>>)の離れ業で戦線を離脱しましたが、鹿児島に残っていた兄の義久(よしひさ)が、宮之城(みやのじょう=鹿児島県薩摩郡)島津忠長(ただなが=分家で家老)とともに北上し、清正の支城・佐敷城(さしきじょう=熊本県葦北郡)を攻撃して来たのです。

おかげで、清正の宇土城攻撃は、その先へ進めず・・・

しかし、当然の事ながら、やがては関ヶ原での戦況が、この九州にも伝わって来るわけで・・・

9月28日、かの黒田如水から関ヶ原現地での結果を聞いた清正は、行景に対して状況を説明し、降伏するよう呼び掛けはじめます。

はじめは清正の言う事を信じなかった行景でしたが、徐々に関ヶ原で敗れた兵士たちが宇土城に戻って来て、現地の状況を報告するようになった事から、結果を知った行景は決意を固め、自らの自決と引き換えに城兵の命を助ける事を条件に、10月14日(23日とも)、宇土城開城へと踏み切ったのでした。

続く慶長五年(1600年)10月17日、支城の八代城も制圧した清正・・・

一方、島津からの攻撃を受けていた佐敷城では、関ヶ原の結果を知った島津軍が兵を退くまでの約1ヶ月間、城代の加藤重次(しげつぐ)が、この籠城戦を守り切りました。

このあと、清正は最後の関ヶ原とも言える11月3日柳川城の戦い>>へと向かう事になります。
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