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2014年12月21日 (日)

応永の乱~大内義弘の最期

 

応永六年(1399年)12月21日、応永の乱で大内義弘が討死しました。

・・・・・・・・・

延元三年・歴応元年(1338年)8月征夷大将軍に任命されて、京都にて室町幕府を開く足利尊氏(あしかがたかうじ)(8月11日参照>>)ですが、ご存じのように、開幕当初は、あの南北朝の動乱に明け暮れる日々・・・
(くわしくは【尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

やがて、応安元年(正平二十三年・1368年)に尊氏の孫=足利義満(よしみつ)が第3代将軍に就任する(12月30日参照>>)頃になって、ようやく南北朝は、少し落ち着きを見せ始めますが・・・(実際の南北朝合一は元中九年・明徳三年(1392年)=10月5日参照>>

なんたって、この時、将軍に就任した義満は未だ11歳・・・周囲には、その南北朝動乱で活躍した多くの武将たちがいたために、将軍の権力はまだまだ強固な物ではなく、それを確固たる物にするために、義満は、ある時は相手を攻め、ある時は、彼らを内部分裂で切り崩して行き、将軍権力の絶対化に向けて力を注がねばならなかったのです。

そんな中で、 弘和元年・永徳元年(1381年)に邸宅である『花の御所』を完成させた義満は、明徳元年(元中七年・1390年)には、山名氏清に同族の山名時熙(ときひろ)を攻めさせ(12月23日参照>>)、自らは、美濃(岐阜県)土岐康行(ときやすゆき)を討ち破り、翌年には、その氏清を明徳の乱(12月30日参照>>)で倒し・・・と、自らの直轄部隊を強化するとともに、守護大名の弱体化を図っていくのです。

その頃に、頭角を現して来ていたのが、九州探題(きゅうしゅうたんだい)今川貞世(いまがわさだよ=了俊)と、周防長門(すおう・なごと=山口県)の守護大名であった大内義弘(おおうちよしひろ)でした。

九州探題とは、その名の通り、九州を平定するために幕府から派遣されてる役職ですが、以前、日明貿易関連のページ(5月13日参照>>)で書かせていただいたように、この少し前に九州大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、後醍醐(ごだいご)天皇の第7皇子である懐良(かねよし・かねなが)親王を、日本側の代表者と勘違いして謁見するくらい、九州での室町幕府の影響力は弱かった(3月27日参照>>)わけで、その後も、しばらくは、九州は幕府の掌中には無かったのです。

そこを、将軍の支配下とするために派遣されていたのが貞世で、貞世の援軍として九州平定に活躍したのが義弘です。

義弘の大内氏は、百済(くだら=飛鳥時代に朝鮮半島にあった国)の王を祖先とし、鎌倉の昔よし周防・長門を守護する武家でしたが、義弘の代になって、先の明徳の乱など京都市中での活躍などが評価され、豊前(ぶぜん=福岡県東部と大分県北部)石見(いわみ=島根県西部)、さらに、和泉(いずみ=大阪府南西部)紀伊(和歌山県)といった、中央に近い場所の守護を任されるほどの大大名に出世していたのです。

ところが・・・
そんなこんなの応永二年(1395年)、九州平定に尽力していた今川貞世が突然京都に呼び戻され、これまた突然、九州探題の任を解かれて、、地元の駿河(するが=静岡県)へと帰還するという出来事が・・・

代わって、新たな九州探題として渋川満頼(しぶかわみつより)が派遣されますが、地元の少弐(しょうに)菊池相手になかなかの苦戦・・・この時、すでに応永元年(1394年)に将軍職を嫡男の義持(よしもち)に譲っていた義満でしたが、この事態を打開すべく、義弘に九州入国を命じたのです。

応永五年(1398年)、大軍を率いて九州に入った義弘・・・その援軍のおかげで、何とか形勢を挽回する幕府軍でしたが、そんな中で、義弘は、とんでも無い噂を耳にします。

「義満が、少弐氏や菊池氏に対して『大内討伐』の密命を下した」と言うのです。

結局、その噂は単なる噂だったようなのですが、1度抱いた疑念が義弘の心から消える事は無かったのです。

なぜなら、この九州での戦いで、義弘は弟の満弘(みつひろ)を失いましたが、それに対する義満からの言葉かけもないばかりか、別ルートで「和泉と紀伊の領地を召し上げるらしい」との噂の流れており、何たって、先年の今川貞世への仕打ちを目の当たりにしています。

「大きくなり過ぎた大内に対して、そろそろ何か仕掛けて来るかも知れない・・・」
徐々に徐々に、義弘のその思いは膨らんでいったのです。

かくして応永六年(1399年)10月13日、軍を率いて周防を出立した義弘は、領地である和泉の(大阪府堺市)にやって来て、京都を見据える形で、この地に陣を敷きます。

「上洛して義満に謁見する」との噂も流れましたが、結局、義弘自身は上洛せず、京都には使者を派遣しただけ・・・逆に、義満側には、「大内が堺にて兵を集めている」という噂が流れ始めます。

Zekkaityuusin500 そうなると、義満も黙っているわけにはいかず・・・お抱え禅僧の絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を、使者として義弘のもとへ派遣し、上洛して速やかに義満に面会するよう求めました。

しかし、中津に面会した義弘は、その思いを切々と語り始めるのです。

「俺の、上様への篤い思いは今も変わりません。
せやからこそ、明徳の乱の時も、今回の九州での戦いも、南北朝合一の時も、俺ら、精一杯頑張って来ましてん。
せやけど、ここのところの上様のなさりようには、ホンマ、合点がいきませんのや。
敵方に‘大内を討て’て言わはったとか、‘領地を召し上げる’て言わはったとかの話聞くし、なんて言うても、ウチの弟が討死した事に対し、感謝の言葉一つくれはれへんていうのは、どーゆーこっちゃ?って思てますねん」

その不満を聞いた中津は、「それは誤解や」「そては行き違いや」と丁寧に弁解し、
「その疑念を解くためにも、上洛して将軍様に会うてくれへんやろか?」
と説得しましたが、もはや、義弘の決意は揺るがなかったのです。

実は、義弘は、すでに鎌倉公方足利満兼(あしかがみつかね=第3代鎌倉公方)と、
「ともに挙兵して幕府の御政道を正そう!」
との約束を交わしていたのです。

「いずれ、鎌倉殿とともに上洛します」
これが、義弘の答えでした。

そうなると、道はただ一つ・・・義満は、各地の大名に軍勢を整えて京に上るよう指令を発しました。

11月8日、東寺に陣を構えた義満のもとに馳せ参じた細川(ほそかわ)赤松(あかまつ)の軍勢が(京都市伏見区)山崎(京都府向日市)を通って和泉へと発進・・・さらに、駆け付けた畠山(はたけやま)斯波(しば)の軍勢も八幡(京都府八幡市)に集結し、時をうかがいます。

迎え撃つ義弘は、5000余りの軍勢で堺城に籠りますが、その堺城を幕府軍が取り囲むようになった11月下旬には、幕府の大軍は30000ほどに膨れ上がっていました。

とは言え、数の違いのワリには籠城&出撃を巧みにくりかえし、激戦を交わしながらも耐え抜く義弘・・・しかし、応永六年(1399年)12月21日早朝、いよいよ、幕府軍が総攻撃を開始します。

その日はおりからの強風・・・その風に乗じて、城内に火を放った幕府軍は、一気に城内へ攻め寄せます。

やがて主だった者が次々と討死し、その敗戦の色に内応者も出る中、最期の時を悟った義弘は、自刃ではなく、戦って死ぬ事を選びます。

自ら進み出て奮戦する義弘・・・一人減り二人減り、やがて、気付けば最後の一人・・・

自分を取り囲む敵兵に対して、義弘は高らかに・・・
「我は、天下無双の将・大内義弘である!この首取って、将軍に見せるがええ!」
と、言い放ち、その言葉を最後に、見事に討ち取られたと言います。

主君を失った大内勢は、その場で自刃する者、落ちる者、様々でしたが、ほどなく堺城は落城し、世に言う応永の乱が終結しました。

戦後、義満は、他の領地は召し上げたものの、周防・長門の守護職は安堵し、大内氏の名跡は、義弘の弟の大内弘茂(おおうちひろしげ)が継ぐ事になりました。

やはり、義満の心の内は「大内滅亡」ではなく、あくまで、その力を弱める事であったようです。

全滅こそ免れたものの、中央からは遠い、周防・長門に押し込められてしまった大内氏ですが、この後、応仁の乱でも、戦国でも、大いに活躍する名家として登場する事は、皆さま、ご存じの通りです。
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