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2015年2月27日 (金)

アンケート企画「カッコイイと思う戦国武将の通り名は?」の結果発表

お待たせしました!

本日は、最新アンケートあなたがカッコイイと思う戦国武将の通り名は結果報告ですが、まずはお礼を申し上げねば!!

投票にご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

なんせ、今回のアンケート・・・このコーナーの最高記録である177名(パーツ=170+コメント=7)の皆さまのご回答&62件のコメントをいただきまして、お題を考えた甲斐がございました~

しかも、「おそらく、選択肢への投票は少なく、その他ばっかりの回答になるのでは?」と予想をしていた中で、なんと!0票がゼロ=すべての選択肢に投票をいただけるとは!!!ヽ(´▽`)/
ホント、選択肢を練りに練った苦労が報われました~ありがたいです!

と、言っても、やっぱり、「その人、選択肢に入れるの忘れてた~」ってな事もあるんですけどね・・・\(_"_ ) 反省

・・・って事で、ではでは結果発表と参ります。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
49票
独眼龍 伊達政宗
やはりダントツ=ダブルスコアの1位でした…独眼竜政宗と苗字に置き換えて言えるのがカッコイイですね~
2位
21票
第六天魔王 織田信長
何たって魔王…しかも、ハッタリかまして来た信玄へのハッタリ返しで自ら名乗った通り名ですから…
3位
13票
日本一の兵 真田幸村
大坂の陣での絶賛の嵐…やはり上位に喰い込んで来ましたねヽ(´▽`)/
4位
10票
越後の龍 上杉謙信
「軍神」や「毘沙門天の申し子」やらと迷ったですが、信玄と対比すべく、コチラを選択肢にしました。
5位
9票
乱世の梟雄 松永久秀
相変わらず、久秀さんはなかなかの人気ですね。
6位
8票
甲斐の虎 武田信玄
「龍」の朱印を用いていた信玄は「甲斐の龍」とも呼ばれますが、やはり「龍」の旗が有名になった謙信との対比で、いつしか「虎」が定着したらしい… 永遠のライバルですね。
7位
6票
今孔明 竹中半兵衛
戦国日本に「軍師」というモノは存在せず、おそらくは「日本で諸葛孔明みたいな軍師にあたる人は?」って事で、うんと後世になって付けられた通り名だとは推測しますが、カッコイイです。
8位
5票
海道一の弓取り今 川義元
槍の又左 前田利家
美濃の蝮 斎藤道三
剣豪将軍 足利義輝

姫若子 長宗我部元親
なんと5人が5票の接戦に…個人的には前田利家が意外にに奮闘?
13位
3票
鬼武蔵 森長可
お父ちゃんもカッコイイが息子もカッコイイ
14位
2票
笹の才蔵 可児才蔵
鬼玄蕃 佐久間盛

名人久太郎 堀秀政

肥前の熊 龍造寺隆信
個人的には「笹の才蔵」の響きがカッコイイ気がしてます。
18位
1票
東海一の弓取り 徳川家康
瓶割柴田 柴田勝家
家康さんは、強いとかカッコイイとかより、なんかドッシリて雰囲気…個人的には神君家康公っつーのが1番シックリかも…
勝家さんは、「鬼柴田」の方が良かったかな?
その他 23票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

その他 正直一票では足りないほどに推したい人が多すぎて困るけれど今回は私の大好きな「米五郎左」こと丹羽長秀に一票!当時の米の重要さを思えば龍や虎にも引けを取らぬいい通り名だと思うのです(20歳代/男性/大阪)
「私自身、一人には絞れません(><)…『鬼の五郎左』てのもありますが、経済面からの通り名は長秀さんらしい気がしますね~
伊達政宗 やはり独眼竜政宗!でしょうか。確か遺言で、肖像の目は二つ書いてくれ。ってあったらしいけど。誰も遺言守ってくれへん。(30歳代/男性/福岡)
「やはり、響きがカッコイイですよね~」
その他 相模の獅子: 北条氏康 ・・・龍と虎が上がっているのに。(30歳代/男性/海外)
「そっかぁ、『相模の獅子』もあるんですね…『相模の虎』しか知らなくて、虎かぶりになるので苦渋の選択で信玄さんを選択肢に入れちゃいました~すみませんm(_ _)m」
武田信玄 好きだからつい選んでしまいます(20歳代/男性/神奈川)
「通り名のカッコ良さで…ってなっても、ついつい武将の好みに寄っちゃいますよね~(*´v゚*)ゞ
伊達政宗 当然!(女性/徳島)
「やはり…ですね。
今川義元 油断することなく信長を蹴散らしていたら、室町幕府が進化した形で、戦国が収まった可能性があると思います。(60歳代/男性/東京)
「血筋がしっかりしてますから…
武田信玄 力量は戦国ナンバー1だと思います。タイミングさえあえば天下人だったはずです。(50歳代/男性/神奈川)
「もう少し若ければ!!…どうなってたかわかりませんね
真田幸村 普通にかっこいい!(30歳代/男性/兵庫)
「来年の大河が楽しみですね」
長宗我部元親 先日歴史秘話ヒストリアでやっていて、家臣思いで柔和な性格なのに秘めた野望があるところがうぉぉ!かっこいい!って思いました。女々しくてなよなよしいんじゃ決してないんですよね、そこがまぁ時代てですよね。(10歳代/女性/千葉)
「完全マッチョより細マッチョを好む日本人のタイプに合ってるような気がします」
真田幸村 最後まで義を貫いた幸村。カッコイイです!(10歳代/男性/埼玉)
「この通り名は、九度山の苦労時代へのエールのように聞こえますね」
伊達政宗 独眼竜なら現代でも通用しそう。あとはその時代ならではの格好よさ。中には武骨に強いイメージしか浮かばないものも多い。(40歳代/男性/東京)
「確かに…現代でもカッコイイですね
斎藤道三 私が歴史好きになったきっかけは、司馬遼太郎さんの「国盗り物語」でした。私の中では蝮って決して良いイメージではないけど、道三の生き方に格好良さが感じられました。以来40年、歴史のロマンにハマっています。(60歳代/女性/東京)
「『国盗り物語』は良かった(私はドラマですが…)ですね~松坂慶子さんの美しさったら、この世のモノとは思えない
今川義元 響きが好きです(20歳代/男性/北海道)
「当時の海道一は全国一にも匹敵しますよね~」
その他 加藤清正の地震加藤 いち早く秀吉の元に駆け付けたなんてスゴイな?(20歳代/男性/滋賀)
「この清正さんの気質があるからこそ、関ヶ原の時点での家康は、まだまだ豊臣配下を装っていたんだろうと、個人的には推測してます」
柴田勝家 この話で勝家がすごくカッコよく感じました(20歳代/男性/滋賀)
「そうなんですよ~ 上にも書かせていただいたように、一般的には『鬼柴田』の方が有名なんですが、個人的にこの逸話が好きで『瓶割柴田』を選択肢にしました」
上杉謙信 いつも楽しみに拝見してます。これからも頑張ってください。応援してます!(40歳代/男性/大分)
「ありがとうございますo(_ _)oペコッ…励みになります」
織田信長 ファンタジーでもないのに魔王なんて呼ばれるのはこの人くらいだろうからいつも楽しく読ませて頂いてます(20歳代/男性/埼玉)
「ありがとうございますo(_ _)oペコッ…>ファンタジーでもないのに…ホントですね。別の所で聞いたらサリーちゃんのお父さんしか思い浮かばないです」
織田信長 やっぱり魔王って言葉の響きは,迫力あります。言動も魔王に見合う業績を残されているし(30歳代/男性/香川)
「恐ろしいほどカッコイイ…そんな感じですね」
その他 鬼島津
「あぁ、そう、島津さんちも迷ったあげくに選択肢に入れてませんでした~申し訳ないです」
長宗我部元親 アニキは元姫若子!!土佐の出来人もいいですが、実は「鳥なき島の蝙蝠」が一番好きです(^_^)(40歳代/女性/高知)
「そうなんです~どれにするか迷ったんですが、個人的に好きな『姫若子』にしてしまいました(p_q*)
その他 地黄八幡どうかな?(30歳代/男性/海外)
「北条さん系をお一人も(選択肢に)入れなかったのはミスです!…なんせ旗指しを見ただけで敵が震えるんですから…」
その他 夜叉九郎(30歳代/男性/高知)
「鬼は多いけど夜叉は少ないですね~カッコイイです!」
その他 夜叉九郎:戸沢盛安(40歳代/男性/東京)
「やっぱり…カッコイイですね~」
上杉謙信 子供の時、NHK大河ドラマ・天と地とを見てからのファンです。いろんな本を読んで、また他の多くの武将のを読んでも揺るぎないNo1です。竹中半兵衛も、森長可よりはお父さんの森可成もカッコイイ。(50歳代/男性/兵庫)
「謙信はドラマで絵になりますよね~(*^-^)」
伊達政宗 伊達者で、圧倒的にインパクト大、独眼龍政宗さんかっこいいです。故郷、柳川藩第三代当主、立花忠成候のご正室は政宗候のお孫さんの鍋子姫です。(60歳代/女性/福岡)
「>伊達者で…そこもカッコイイんですよね~
前田利家 利家は本当に強い。それよりも、もう少しだけ潮目が読めれば、天下も遠くはなかったのに。(50歳代/男性/石川)
「そうですね。戦国ドラマでは殿様イメージが強いんですが、実は腕の立つ猛将なんですよね~」
その他 第六之親指豊臣秀吉第六尺五寸豊臣秀頼(20歳代/男性/大阪)
「かなりの巨漢だったようですね」
伊達政宗 でしょ(40歳代/男性/東京)
「やはり…ですね
その他 佐竹義重:坂東太郎・鬼義重(30歳代/男性/大阪)
「コチラも鬼ですね~やはり、戦国での1番の褒め言葉!」
その他 斬雷の闘将:立花道雪『道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である』今の時代だからこそ思い出してほしい知勇兼備の名将。(40歳代/男性/兵庫)
「コチラも『鬼道雪』の異名もありますね~カッコイイです」
伊達政宗 伊達政宗の頭脳明晰さと自由な生き方に憧れます。個人的には謀神=毛利元就推しなのですが選択肢になかったので…(30歳代/女性/千葉)
「>選択肢に… ホントすみませんでした。。。
その他 相模の獅子:北条氏康(20歳代/男性/東京)
「やはり『相模の獅子』は有名なんですね~選択肢に入れずに申し訳なかったです」
その他 元祖「赤備え」山県昌景。その武にあやかって真似をさせた天下人やした勇将がいたので。(20歳代/男性/大阪)
「そうですね…赤備えはずっと受け継がれていきますからね
その他 毛利勝永(40歳代/男性/兵庫)
「すみませんm(_ _)m勝永さんの通り名を存じておりません。何というのが有名なんでしょうか?教えていただければ幸いです」
伊達政宗 昔、見た大河ドラマ独眼竜政宗(主演・渡辺謙)は大変良かった。何と言っても「梵天丸(政宗・幼名)もかくありたい」のセリフを思い出します。それが独眼竜政宗になって行くんですからカッコいいですね。(60歳代/女性/石川)
「大河ドラマ、良かったですね~細かな事は覚えてませんが、タイトルバックがすごくカッコ良かったのは覚えています
斎藤道三 小さいけど毒のある蝮と名付けたところが道三と美濃国を上手く表してしていると思います。熊や龍、虎じゃないんですよねぇ…(40歳代/女性/愛知)
「>小さいけど毒のある…まさにそうですね~良い意味での不気味さが込められているようです」
竹中半兵衛 今孔明って響きにロマンありますよね?。(40歳代/男性/千葉)
「私は、昔、手相見のオッチャンから『諸葛孔明の生まれ変わりや~』と言われた事があるんですけど、未だに誰も呼んでくれません(p_q*)今孔明…カッコイイです
上杉謙信 毎年、越後まで車を飛ばし 謙信公祭に行ってます。(40歳代/女性/兵庫)
「カッコイイですよね~(゚▽゚*)
上杉謙信 私欲の為には戦わなかったと聞き及びます。毘沙門天の申し子の方が好きです。(40歳代/女性/岡山)
「すみませんm(_ _)m信玄との対比で、つい『越後の龍』を選択肢にしちゃいました」
今川義元 海道一の弓取りに一票です。最近の戦国物のマンガでは従来のヘタレイメージが払拭されつつあり良い感じです。(20歳代/男性/大阪)
「そうですね~こ最近は、公家メイクのダメイメージがなくなりつつありますね」
伊達政宗 通り名はやっぱり政宗ですかね?(20歳代/男性/大阪)
「やはり、響き的にも1番良いですかね~」
その他 鬼石曼子でしょやっぱり。鬼といったら島津あの戦闘力は別格(30歳代/男性/静岡)
「島津は強いですからね~」
伊達政宗 伊達政宗というよりは独眼龍政宗の方がピンと来ます。(40歳代/女性/宮城)
「そうですね。そこがやはり1位という事だと思います」
真田幸村 当時の戦のプロ達から、一番という称賛を受けた通り名ですから!(20歳代/男性/大阪)
「そうですね、他者から見て『日本一』ですからね」
森長可 やはり鬼がつきますと、カッコイイと思ってしまいます。姫、がつくのも素敵ですね。(20歳代/女性/東京)
「戦国での1番の褒め言葉ですからね~」
織田信長 唯一無二の人間味のない通り名、カッコよすぎです!(40歳代/男性/東京)
「確かに…単語で見ると鬼よりも魔王の方が上位にいる気がします
織田信長 カッコ良さなら抜群でしょう。(40歳代/男性/千葉)
「確かに…信長さん以外に魔王は使えない気が…」
前田利家 偉人だけど、個人的にはエピソードがリアリティーのある偉人?と言うイメージなので、又左が好きです。(30歳代/女性/岐阜)
「ケチで、それを奥さんに怒られた感じも人間味溢れててイイですね」
その他 北条綱成の異称「地黄八幡」です。一つに絞るには数多くの戦国武将がいて悩みましたが、信長の野望をプレイした時に当時早雲と氏康しか知らなかった北条氏でこんな人が居たんだと強烈な印象でした。(40歳代/男性/兵庫)
「またまたですが…旗指しを見ただけで敵が震えるんですから、この異名はスゴイです」
その他 女性でも寿桂尼が「女戦国大名」と呼ばれてたらしいですが、でも武将ではないので駄目でしょうか。
「寿桂尼さんも…そう、『女戦国大名』でしたね。女性もアリですよ」
伊達政宗 やはりこの呼び方に勝るものはないでしょう。元々は中国の武将の異名から来たそうです。(30歳代/男性/千葉)
「やはり、通り名というところでは1位ですかね~
竹中半兵衛 竹中ファンですので。(60歳代/男性/長野)
「ファンの気持ちは押さえられませんね」
伊達政宗 イメージにぴったり♪(30歳代/女性/北海道)
「…ですね~響きも良いですし」
その他 橙武者 戦いの最中に遊郭とはツワモノ。最期は汚名返上で奮戦。(30歳代/男性/兵庫)
「戦闘中に遊郭というのは私的にはカッコイイ部類に入るんですが、世間一般ではそうでは無いようで…薄田隼人は大好きなんですが『橙武者』というのは悪口っぽいので選択肢には入れませんでした~ゴメンナサイ
可児才蔵 表裏比興もお忘れなく
「真田昌幸さんですね…大河が楽しみですね~」
織田信長 魔王には勝てずでしょう(笑)(40歳代/女性/茨城)
「>魔王には勝てず…確かに(笑)
真田幸村 迷ったのですが、舞台を観た影響もあってこの方に!大河も期待してますw(女性/兵庫)
「ホント、大河が楽しみです。
伊達政宗 この方を演ずる俳優さんは、いつも注目してます。(50歳代/女性/岩手)
「戦国モノにはほぼ登場しますもんね~」
織田信長 信長さま   ブログ開設9周年おめでとう御座います。「歴史は奥が深い」頑張れ(40歳代/男性/大阪)
「ありがとうございますm(_ _)m10周年に向かって頑張ります!
その他 夜討ちの大将 塙団右衛門(10歳代/男性/宮城)
「あっ、コレもイイですね~襖(壁やったかな?)に置き手紙残しての出奔も好きなんですが…」
足利義輝 剣術を身に付け、最期まで将軍の威信を見せつけた義輝にふさわしい通り名だと思います!(10歳代/男性/福岡)
「足利将軍の中では、なんだかんだでカッコイイ死に方の人が少ないような(←個人のイメージです)…その中で光ってますね
伊達政宗 語呂がいい。
「そうです!言いやすいというのも通り名選択の一つだと思います」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧くださいm(_ _)m)
松永久秀 (あいこさん)
その他 山陰の麒麟児:山中鹿之介
(マー君さん)
その他 竜の右目:片倉景綱
(ぼのさん)
その他 三河武士の鑑:鳥居元忠
(ととぽむさん)
その他 天下のご意見:大久保忠教
(歴史君さん)
足利義輝 (雑兵さん)
その他 乞食若殿:毛利元就

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
 .

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2015年2月20日 (金)

信長の意見書に将軍・義昭が反旗

 

元亀四年(天正元年・1573年)2月20日、将軍・足利義昭が織田信長討伐の為に今堅田に軍を進めた事を受けて、信長配下の柴田勝家らが出陣しました。

・・・・・・・・・・

そもそもは・・・
自分を担いで上洛してくれる武将を求めていた足利義昭(よしあき・義秋)と、上洛する大義名分を求めていた織田信長(おだのぶなが)(10月4日参照>>)・・・この二人の利害関係が一致した事により、永禄十一年(1568年)9月にともに上洛し、翌10月に、義昭は晴れて第15代・室町幕府将軍となりました(10月18日参照>>)

ところが、この二人の蜜月はそう長くはなく、2年後の元亀元年(1570年)1月23日には、信長から「これからは全部、俺がやるさかいに、アンタはおとなしゅーしといてね」てな感じの『信長朱印条書』を突き付けて(1月23日参照>>)、同年の4月には、朝倉氏の手筒山・金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)します。

しかし、ご存じのように、そこで妹婿の浅井長政(あざいながまさ)が朝倉側についた事で一旦撤退(4月27日参照>>)・・・2ヶ月後の姉川の戦いに勝利(6月28日参照>>)するも、8月に勃発した三好三人衆との戦い(8月26日参照>>)に、今度は石山本願寺が参戦(9月12日参照>>)・・・

さらに、未だくすぶる浅井朝倉との戦い=(9月:宇佐山城の戦い>>)(11月:堅田の戦い>>)で、その浅井朝倉の残党をかくまった比叡山を、翌・元亀二年(1571年)9月に焼き討ち(9月12日参照>>)にした信長・・・

この間に、長島一向一揆も勃発(10月25日の前半部分参照>>)していますが、そんなこんなの元亀三年(1572年)・・・いよいよ、甲斐(かい=山梨県)のオオモノ=武田信玄(たけだしんげん)が参戦して来たのです。

Odanobunaga400a この状況を踏まえてか?否か?信長は義昭に対して、17カ条にも及ぶ意見書を提出します。

少し長いので、かいつまみつつ、ご紹介しますが・・・
 .

  • 入京した時から、毎年、怠りなく宮中に参内されるよう申し上げてますのに、最近は、その事をお忘れになってるようですが、そんなんやったら困りますわ。 
  • 諸国に手紙出して、馬やら何やら、イロイロ献上してもろてはるみたいですけど、そんなん、僕に命じてくれはったら、僕が手配するて前から言うてますやん…僕にナイショでコソコソ指示されるのは、よくないと思いまっせ。 
  • 幕府内の人事で、一所懸命やってる人に恩賞与えんと、それほどでも無い新参者を格別に可愛がってはるみたいですけど、評判よくありませんよ。 
  • 最近は、将軍様と僕の関係が悪化してるなんて噂がたってるみたいですけど、そんな中で、ご自分の大事な宝物なんかを、御所から別の場所に移したりなんかして、今度は、どこに引っ越さはるんですか?せっかく僕が、今の御所を建ててさしあげたのに、無駄になってまいますやんか。 
  • 賀茂神社の所領を没収して石成友通に与えて経費を負担するよう指示しはったて聞きましたけど、寺社の所領を没収したりするのんは、あんまりええ事やありませんし、僕は僕でどうするか考えてましたのに、勝手にそんなんされるんは良くないと思いますわ。 
  • 僕と親密にしてる者と聞けば、下っ端の者にまでイケズしてはるそうで、彼らも困惑してますよ。僕と親しい者には、逆に親切にしてもらわんと…いったい、どんな理由で、そんな事してはりますのん? 
  • 「俺ら頑張ってるのに、ぜんぜん給料上げてくれへん」て僕に泣きついて来てる者もいてて、僕から口聞いたらどないかなるやろと思て伝えましたけど、一向に音沙汰無しで、僕のメンツも立ちませんわ。 
  • 若狭の国の代官の訴訟に関しては、当然の事やなと思て助言しましたのに、その後、決裁されんままですやん。 
  • 小泉は偶発的な喧嘩で死んだのに、彼の身の回りの品や刀なんかを没収しはったらしいですけど、ちゃんと法律にう基づいた処分をせんとお名前に傷がつきまっせ。 
  • 元亀の元号は縁起悪いから変えた方がええて皆が言うて、宮中からも催促があるのに、改元の費用ケチって延び延びになってますやん。 
  • 烏丸光康をクビにされた件は、僕が「許してやってほしい」と進言しましたけど、なんや聞くところによると、金銭を受け取ってお許しになったとか…情けないですわ。 
  • 諸国から金銭を献上してもろてはる事は明白やのに、それを自分だけの貯蓄に回してはるんは何のためでっか? 
  • 明智光秀が京都で集めた固定資産税を預けておいたら、「そこは延暦寺の土地や」言うて預けてたもんを差し押さえはったんはアカンと思います。 
  • 昨年夏、幕府が備蓄している米を売って、たいぶ儲けはったみたいですけど、将軍が商売するなんて、聞いた事ありませんわ。世は戦国でっさかいに、幕府には常に兵糧米がある方がかっこええんちゃいますん? 
  • 可愛がってる男の子に小遣いやりたいって思いはるんやったら、ベッドに入ったその時にやりなはれ。あとから役職につけたり、不当な味方したりしはったら、周りに示しがつきませんやん。 
  • 幕府に仕えてる武士たちは、武具や兵糧やなく、金銀ばっかり蓄えてるそうやないですか。これも将軍様自身が金銀を集め、ヤバい時は、コレ持って御所から逃げよと思てはるのがバレバレやからやないですか?「上に立つ者は自らの行動を慎む」…僕は、将軍様は「やればデキる子」やと思てます。 
  • 世間では農民までもが、将軍様の事を「悪御所」と呼んで陰口たたいてますけど、なんで、そんな事言われなアカンのか、よくよく考えた方がええと思いますわ。
       以上

と、こんな感じですが、受け取った義昭さんにしたら、さぞかしご立腹の内容だったかも・・・いや、むしろ、これで両者の亀裂が決定的になったのかも・・・

一方、信長包囲網に参戦した信玄は、3月には、信長配下の遠山景任(かげとう)岩村城を奪った(3月2日参照>>)後、10月には、信玄自らが出陣し、12月には、あの三方ヶ原で、信長と同盟を結んでした徳川家康(とくがわいえやす)を惨敗させた(12月22日参照>>)ばかりか、その時に討死した平手汎秀(ひらてひろひで)の首を、これ見よがしに信長に送りつける(12月23日参照>>)というノリノリの参戦でした。

そう、この頃の信長は、未だ浅井朝倉とはゴチャゴチャやってるわ、本願寺は参戦するわ、比叡山は敵に回るわ、さらに、ここに来て信玄は出陣するわと大忙し・・・で、「これはチャンス!!( ´艸`)」と、思ったのか?

Asikagayosiaki600 元亀四年(天正元年・1573年)正月、将軍・義昭は信長に対して反旗を翻します。

しかし、それでも信長は、「将軍に忠誠を尽くしている」事を強調し、日乗朝山(にちじょうちょうざん=日蓮宗の僧・朝山日乗とも)島田秀満(しまだひでみつ)村井貞勝(むらいさだかつ)、の3名を使者に立て、自らの息子を人質に差し出しての和睦を提案しますが、義昭側は、まったく受け入れず・・

むしろ、事が成った後の恩賞をチラつかせながら味方を増やし、今堅田へと軍を進めて、石山(滋賀県大津市)に砦を築きはじめます。

これを受けた信長は、配下の柴田勝家(しばたかついえ)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)蜂谷頼隆(はちやよりたか)の4名に、その撃退を命じたのでした。

かくして元亀四年(天正元年・1573年)2月20日柴田らは出陣します。

24日には舟で瀬田を渡り、例の石山の砦に突入・・・ここを守っていたのは、義昭によって幕臣にとりたてられていたとされる山岡景友(やまおかかげとも)で、やはり、信長に敵意を抱く伊賀衆甲賀衆が多く陣取っていましたが、悲しいかな、未だ砦は完成しておらず、構築途中・・・やむなく、山岡軍は砦から撤退します。

その後、この石山砦を破壊した柴田ら織田軍は、今堅田へと向かい、2月29日の朝、一斉に攻め掛かります。

明智隊は琵琶湖の湖上に浮かべた舟から、丹羽隊は東南側から・・・と見事な連携プレーで攻撃を仕掛ける中、正午頃には明智隊が敵陣奥深くに突入して猛攻撃を展開しました。

これによって、志賀(しが)周辺はほぼ鎮圧され、まもなく、勝家や光秀ら織田軍は、それぞれ帰還しますが、1ヶ月後の3月25日、代わって織田信長自身が、軍を率いて京に入ります。

そう・・・鎮圧したとは言え、まだ、和睦は成ってませんから・・・

で、この信長入京の時に、国境の逢坂(おうさか=滋賀県大津市)まで出迎えに行って、信長を大いに喜ばせたのが、この時までは、まだ幕臣としての立場をとっていた(実際にはすでに信長に内通していますが…)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斉)(6月9日参照>>)と、主君の池田家を掌握したばかりの荒木村重(あらきむらしげ)・・・この二人は、ここで、信長の傘下となったのですね。

京に入った信長は、早速、東山の知恩院に本陣を置き、配下の諸将たちは、白川から粟田口(あわたぐち)祇園清水六波羅鳥羽竹田と、まさに、京都の東側に鉄壁の陣を敷き、4月3日には、まずは洛外にて、堂塔を避けるように火を放ち、義昭陣営を威嚇します。

もちろん、ここでも、「将軍様の返答次第では、和睦しまっせ」との姿勢を、信長は見せていましたが、将軍=義昭とて、そう簡単に応じるわけにはいかず・・・

すると翌日の4月4日・・・二条にある将軍御所を包囲した信長は、周辺の上京に火を放って焼き払います。

これが、ご存じの上京焼き討ち(4月4日参照>>)・・・と、そのページにも書かせていただいたように、少々の謎はあるものの、とにかく、ここで、この焼き討ちに驚いた正親町(おおぎまち)天皇から「和睦の勅命(ちょくめい=天皇の命令)が出た事もあり、義昭自身も「もはや抵抗はムダだろう」と感じていた事もあって、「和議に応じる」との返答を信長に送ったのです。

こうして、4月6日、両者の和睦が成立しました。

で、早くもその翌日には、京都を後にする信長ですが・・・ご存じのように、この和睦はわずか3カ月しかもちませんでした。

結局、その年の7月、義昭は槇島(まきしま)に籠って、またまた信長に反旗を翻す事になる(7月18日参照>>)のですが、

その前に・・・
この義昭の反旗を予想して、信長は大船の建造をしていますので、まずはコチラからどうぞ>>)
 .

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2015年2月12日 (木)

ブログ開設9周年…感謝です!

本日の話題・・・私ごとで恐縮ですが、

今日、2015年2月12日にて、このブログが開設9周年を迎えました(*゚▽゚)ノ

「9周年て…」(^-^;
どうせなら、今年はスルーして10周年でババ~~ンと!とも思いましたが、なんだかんだでやっぱし記念日・・・

しかも、忙しさにかまけて、ここのところは週1~2回の更新頻度になってしまっているにも関わらず、未だ、毎日、多くの皆さまに閲覧していただいて嬉しい限りなわけで、ここは一つ、記念日に合わせて、日々のご訪問のお礼を申し上げねば!と、筆を…いや、キーボードを叩きました次第です(*´v゚*)ゞ

皆さま、本当にありがとうございますo(_ _)oペコッ
そして、これからも、よろしくお願いいたします。

・‥…━━━☆

てな事で、本日は、日ごろ書けない私的な事を書かせていたがきますが・・・

実は私…これだけ歴史好きでありながら、歴史小説はほとんど読まず、購入する書籍は、もっぱらノンフィクションの歴史本か史料集のような物ばかりです。

とは言え、長き人生の中で、引越しして図書館が遠くなったり、近くの本屋さんが閉店したりで、ここ何年かは、そんな本購入の数も、以前ほどではなくなって来ているのですが、

そんな中、ウレシイのは、やっぱりネットの力ですね。

ここを閲覧して下さってる皆さまは、もはやご存じであろうかとは思いますが、最近は、大学の図書館や各地の公立図書館、それに博物館や資料館が、そこに保存されている蔵書や秘蔵の品などのデジタル化に力を入れておられるのです。

そう・・・
これまでは、何かを調べようと思うと、まずは歴史の舞台となった現地に行くか、あるいは博物館や図書館へ調べに行くか・・・

もちろん、この時代になっても現地へ足を運ぶ事は大切ですが、なんだかんだで自分の身は一つですから、近くなら簡単に行けても、遠い場所ですと、それなりの時間とお金がかかるわけで・・・早々、「行きたいから行く」というワケには参りません。

しかも、調べてみたい史料が、本当に貴重な物であればあるほど、この一市民に、簡単に見せていただく事は不可能な場合もあるわけで・・・

ところが、今は、そのデジタル化のおかげで、家にいながらにして貴重な史料等がネットで閲覧できるのです。

こんなうれしい事はありませんがな!!

てな事で、私めのPCのプラウザの「お気に入り」には、数々のサイトが入っているわけですが、そんな中でも、によく閲覧させていただいていて、検索しやすそうな、いくつかのサイトを、今回はご紹介したいと思います。

  • リンクは別窓で開きます。 
  • 必ず、各サイトにある利用規約等をお読みになって、ルールに従ってご利用くださいね。

国立国会図書館デジタルコレクション>>

国文学資料館・電子資料館>>

東京大学史料編纂所>>

佛教大学図書館 一般公開コレクション>>

早稲田大学図書館 古典籍総合データベース>>

京都府立総合資料館>>
(↑現在閉館中ですが、ネット上で一部のデジタル史料が閲覧可能)

大阪市立図書館 デジタルアーカイブ>>

もちろん、これらは原文ままなので、読むのにも一苦労し、内容の把握となるとさらに苦労・・・そんな時は、古文の単語を調べなおしたり、解説書などに目を通したりしながら、日々奮闘しております。

一方で、展覧会などに行った時など、大好きな歴史人物の手紙が、自分で読めたらうれしいなという思いから、以前に「くずし字講座」の講義を一通り受けたのですが、講義を受けたからといって即、スラスラと読める物ではなく(講師の先生も、講義が終わってからの努力が必要と言っておられました)、今現在も勉強中なのですが、そんな中で見つけたのが、コチラ↓静岡県立図書館のページでして、

静岡県立中央図書館 くずし字解読講座テキスト>>

順を追って解説してくださっていてわかりやすく、『くずし字辞典』片手に思いっきり頑張れば、ひょっとしたらひょっとするのかも・・・と、

その静岡県立図書館のくずし字解読講座の最後のあたりにも、書かれていますが
「数多く史料を読むと慣れて来る」
「読み下しができるようになると文章の意味もわかって来るようになる

との事・・・

で、今日この頃と言えば、上記の言葉を胸に、日々頑張って行けばなんとかなる???という淡い期待を抱きつつ精進しながら、これからも、ブログの方でも楽しい歴史の話をいっぱいして行きたいと思っている毎日であります。

てな事で・・・
本日は、ブログの記念日という事で、「何月何日何があった」という日頃の話題とは、別の、個人の近況報告的なページとなりましたが、

どうぞ皆さま、今後とも、不肖・羽柴茶々の「今日は何の日?徒然日記」を、よろしくお願いしますm(_ _)m
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2015年2月 6日 (金)

長州一の知弁:長井雅楽~無念の死

文久三年(1863年)2月6日、長州藩の英才と謳われた長井雅楽が自刃しました。

・・・・・・・

文政二年(1819年)に、長州(山口県)藩士の長男として生まれた長井雅楽(ながいうた=時庸)は、幼くして父を亡くした後、藩校の明倫館(めいりんかん)で学びますが、その優秀さは目をみはるほどで、やがて時の藩主である毛利敬親(もうりたかちか)小姓から奥番頭となり、毛利家の後継ぎである定広(さだひろ)後見人にも抜擢されるほどの信頼を得て、長州藩の重役にまで昇り詰めます。

C01700001101j しかし、何と言っても彼を有名にしたのは、文久元年(1861年)に藩主に提出した『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)という建白書です。
(右→画像は『山口県幕末維新関係資料等データベース』様>>より転載)

 .
ご存じのように、時は幕末・・・
嘉永六年(1853年)6月のペリー来航(6月3日参照>>)以来、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かに揺れる中で、幕府大老の井伊直弼(なおすけ)が、開国に反対する孝明天皇勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま『日米修好通商条約(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)に調印してしまった事から、開国派と攘夷派は真っ向から対立する事になります。

以前に、水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)さん死去のページで少し書かせていただきましたが(10月2日参照>>)、もともとは、幕府を守るための尊王攘夷思想だったのが、幕府大老自らがそこでの序列を無視してしまった事で、尊王攘夷はどんどんと倒幕の方向へと向かうのですが、そんな中で、それに拍車をかける如く行われたのが、安政六年(1859年)の、あの安政の大獄・・・

危険を感じた西郷隆盛(さいごうたかもり)自殺未遂するわ(11月16日参照>>)
梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)逮捕(9月14日参照>>)されるわ、
橋本左内(はしもとさない)斬首(2012年10月7日参照>>)されるわ、
吉田松陰(よしだしょういん)死刑(10月27日参照>>)になるわ、
と、幕府に反発する攘夷論者を次々と罰した事から、ますます日本は真っ二つとなり、翌・安政七年(万延元年=1860年)3月には、張本人の直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で暗殺される事態に・・・

そんな中で、その打開策として、幕府は公武合体(こうぶがったい)を模索しはじめます。

公武合体とは、その名の通り、「公=朝廷」と「武=幕府」が、力を合わせてこの苦境を乗り切って行こうという物で、その象徴のように進められていたのが、第14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)と、孝明天皇の妹=和宮(かずのみや)結婚話でした(8月26日参照>>)

・・・で、その翌年の文久元年(1861年)に、先ほどの雅楽の建白書=『航海遠略策』です。

その内容を、ごくごく簡単にご紹介しますと、
「このまま、尊王攘夷論の朝廷と、開国論の幕府が対立していては欧米列強につけ込まれるかも知れない…すでに、アメリカとの条約を結んでしまった今となっては、幕府が調印した条約に朝廷が同意して勅許を与え、国論を統一して万全な体制を作り、海外にも進んで乗り出しつつ外国との交渉にも当たるべきである」
みたいな感じです。

当時、藩内知弁第一と謳われた雅楽ですから、その説明も見事な物で、藩主・敬親も大いに感動し、重臣の周布政之助(すふまさのすけ)(9月26日参照>>)も、その意見に耳を傾けたと言います。

早速、この案は、長州藩の藩論とされ、藩主・敬親は雅楽を伴って、江戸へ京へと奔走・・・幕府も喜んで賛同します。

てか、もともと、和宮の嫁入りを模索していた幕府にとって、むしろ、これは好都合な案・・・早速、その年の10月には、皇女和宮が江戸に向かって発ち(10月20日参照>>)、これで政局は一段落したかに見えました。

しかし、長州藩の一部の志士は、これに納得せず、雅楽暗殺計画を立て、反対運動を展開します。

その中心となっていたのが、桂小五郎(かつらこごろう=後の木戸孝允)久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)と言った、今は亡き松陰の松下村塾(11月5日参照>>)の出身者たち・・・

実は、そもそも『航海遠略策』の根底に流れる「国論を統一して海外にも積極的に乗り出して外国と交渉すべき」という考え方は、雅楽よりも先に松陰が言っていた事だったんです。

なんせ、ご存じのように、黒船に乗って外国へ行こうとした人ですからね・・・松陰は、

なので、彼ら反対派も、それが、来たるべき未来に実現すべき正論である事は重々承知だったわけですが、ただ、その考えを、今、この時点で、幕府の生き残りのための策として使われるのが許せなかったようなのです。

敬親と雅楽が江戸や京都や国許を行ったり来たりしている間にも、藩内で積極的に反対運動を推進していく彼らに、初めは賛成派だった周布政之助も態度を変えるようになり、徐々に反対派は増えていき、やがて、藩主の敬親も『航海遠略策』に消極的になっていきます。

そんな中、雅楽の『航海遠略策』に最もノリノリだった幕府老中=安藤信正(あんどうのぶまさ)が、文久二年(1862年)1月15日に起こった坂下門外の変(1月15日参照>>)と呼ばれる水戸脱藩浪士に襲撃された事件がもとで失脚し、雅楽は大きな後ろ盾を失ってしまいます。

その2ヶ月後の3月には、未だ、朝廷から、正式に『航海遠略策』を認めてもらっていない雅楽は、江戸を発って京都に向かいますが、すでにこの頃は、朝廷内でも反対派の動きが活発になっていて、雅楽の建白は失敗・・・さらに、続く4月には、反対派の久坂らによって、12カ条に及ぶ『長井弾劾書』が長州藩に提出されるのです。

その内容は、
「松陰を幕府の役人に売り渡した」とか、
「勤王の志篤い長州藩を詭弁で翻弄した」とか、
「朝廷は攘夷一色だったのに外国との条約に勅許を下すよう仕向けた」とか、
「藩主が病気なのに参勤交代でウロウロさせた」とか・・・

しかし、ずいぶん前の安政の大獄の直弼の本心のページ(2006年10月7日参照>>)でも書かせていただいたように、それは松陰自らが、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)暗殺計画と、仲間の梅田雲浜の奪還計画を自白して出頭して来たわけで、そんなテロ行為が発覚した以上、幕府は何らかの処置を取らねばならないし、幕府の命があれば、当時、直目付という役職だった雅楽は、粛々と、その役職を全うするわけで・・・売り渡したというよりは、単に仕事をこなしただけのような気がしないでもない・・・

また、そのほかの、尊王攘夷か公武合体かとかに関しては、雅楽一人が原因なのではなく、そこに同調した重臣やらその他モロモロの大勢の関係もあるわけで・・・

しかも、ここに来て、前年に雅楽が朝廷に提出していた『航海遠略策』に、その文書の中に「謗詞(ぼうし=誹謗中傷する言葉)がある」として不採用との判断がくだされます。

謗詞一件(ぼうしいっけん)と呼ばれるこの事件ですが、結局のところ、『航海遠略策』のどの部分が朝廷に対しての誹謗中傷なのかよくわからずじまいの一件で、要は、反雅楽派=長州内の攘夷派の画策を、朝廷内の攘夷派が受けて、とにかく「誹謗中傷の言葉が含まれている」の一点張りで押し通した・・・てな感じのようです。

とにもかくにも、これにて、長州藩内の雅楽への批判は頂点へと達します。

なんせ反対派も賛成派も長州藩士なわけですから、藩主としても分裂した藩を一つにまとめねばならないし、かと言って「藩主が…」「重役たちが…」って事になれば、事は大きくなるわけで、ハッキリ言って、雅楽一人に責任を取らせる形にしないと、収まりがつかなくなったという事なのでしょう。

そして、その責任の取り方は・・・そう、切腹です。

もちろん、藩内にも雅楽に同情する者もいましたし、藩主の敬親も、彼の優秀さに惚れ込んでいた一人ですから、おそらく、その死を惜しんだでしょうが、もはや、長州藩のゴタゴタは、それ以外に収拾の方法が無い状況となっていたようです。

切腹の命を受けた雅楽は、最期となる日の前日、定広の側近を、長年ともに務めた友人=高杉小忠太(たかすぎこちゅうた=晋作の父)に、その思いを込めた長文の手紙を書いたと言います。

それは、自分に降りかかった非難が、いかに言われの無い物であるかという事を綴った悲痛な訴えだったようですが、その末尾には
♪ぬれ衣(ぎぬ)の かゝるうき身は 数ならで
 唯思はるゝ 国の行末  ♪
という辞世の句が添えられていたのだとか・・・

かくして文久三年(1863年)2月6日長井雅楽の切腹は執行されました。

その最期を目撃した人によると、
朗々と『弓八幡』を謡い終わった後、介錯人の助けを拒絶して自らの刃で切腹を果たし、血の海の中で逝った・・・との事。

この3ヶ月後、長州藩は関門海峡を通る外国船に砲撃を仕掛けて攘夷の先頭に立つ事になるのですが(5月10日参照>>)、それもつかの間・・・

さらに3ヶ月後の8月に政変が起こった(8月18日参照>>)事で表舞台から引きずり降ろされた長州は、翌年の禁門(蛤御門)(7月19日参照>>)にて朝敵(国家の敵)となり、その後始末のために・・・

実は、今回の雅楽の最期を、検使役として見届けたのが家老の国司信濃(くにししなの)・・・彼もまた、その禁門の変の後始末のために切腹する事になるのです(11月12日参照>>)

維新という大義を成し遂げた長州藩・・・
そこに至るまで、めまぐるしいほどの紆余曲折の日々に散って行った人々・・・

親王攘夷と公武合体・・・胸に抱いた思想は違えど、彼らは、皆ともに、日本の明日を真剣に考えていた人々なのです。
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