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2015年3月28日 (土)

秀吉の紀州征伐~太田城攻防戦

天正十三年(1585年)3月28日、紀州攻めに出陣した羽柴秀吉が、太田城の周囲を堤で囲みました。
(3月26日とも言われる出来事ですが、本日書かせていただきます)

・・・・・・・・・

主君の織田信長(おだのぶなが)亡き後、仇となった明智光秀(あけちみつひで)を倒して(6月13日参照>>)織田家内での力を増幅させた羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)は、家臣団の筆頭であった柴田勝家(しばたかついえ)賤ヶ岳(しずがたけ)(4月21日参照>>)で破り、信長の三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を自刃(5月2日参照>>)に追いやった後、天正十二年(1584年)、次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)徳川家康と手を組んで起こした小牧長久手の戦いをも、その人たらし術を大いに発揮して、何とか治めました(11月16日参照>>)

その小牧長久手の戦いの時、秀吉が東海へと遠征して留守となった畿内を、信雄&家康に呼応して脅かした(【小牧長久手~岸和田城・攻防戦】参照>>)が、根来寺(ねごろでら)の雑兵を中心とする根来衆雑賀(さいが・さいか)太田党といった紀州を本拠とする者たちでした。

その後・・・小牧長久手が終わったとは言え、当然、彼らをそのままにしておけない秀吉は、天正十三年(1585年)3月21日、6万(10万とも)の大軍率いて紀州征伐を開始するのです。

まずは根来寺を焼き討ちして根来衆を追いやった後(紀州征伐の大まかな流れは3月21日参照>>)、一部の雑賀衆が寝返った事で、残った太田党に焦点を絞ります。

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太田城水攻配陣の図(国立国会図書館蔵)

とは言え、大軍で囲むも、太田左近宗正(おおたさこんむねまさ)の守る太田城(和歌山県和歌山市)は、なかなかに堅固・・・容易に落とせそうに無いと判断した秀吉は、
「速やかに城を明け渡して退いてちょ」
と講和を持ちかけますが、左近らは
「今さら、大軍を恐れて降参せんこと勇士の義に非ず!」
と、左近は徹底交戦の姿勢を崩しません。

なおも説得を続ける秀吉側でしたが、城兵は弓を射かけて使者を攻撃してしまうほどヤル気満々・・・

これを見た秀吉は
「向こうは死に物狂いでかかってくるつもりやな…このまま、力づくで攻撃したら、こっちにも大きな損失が出る!ここは、水攻めや!」
とばかりに作戦変更・・・

かくして天正十三年(1585年)3月28日(25日・26日とも)、明石則実(のりざね)に命じて、城から三町ほど離れた周囲に堤を構築させたのです。

一説には、この時の人夫に469200人を要したのだとか・・・

おかげで堤はまもなく完成し、いよいよ4月1日、の川をせき止めて水を流し入れ始めますが、最初の1日~2日は静かな物でしたが、4月3日から大雨が降り続いた事から、城の周囲はまたたく間に泥の海と化しました。

その泥の海に、寄せ手の大将を命じられた中川秀政(なかがわひでまさ=中川清秀の息子)が舟を浮かべて、城壁の間近へと迫り、弓と鉄砲で攻撃を仕掛ければ、城兵も、「ここが防御の最前線!」とばかりに命がけで防ぐ一方で、泳ぎの上手い者を水に潜らせ、舟に穴を開けて水中に引きずり込みます。

もちろん、この間に城からも舟に向かって弓矢&鉄砲が雨のように降り注ぎますが、その中を尼崎吉兵衛なる武将が数百人の兵士を率いて城近くに上陸を試みます。

が・・・しかし、そこを上から鉄砲で狙い撃ちされて吉兵衛が倒れ込むと、寄せ手には「城兵強し!」の雰囲気が一気にたち込め、もはや、このあとに続く者もいませんでした。

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総光寺由来太田城水責図=部分(惣光寺蔵)

とは言え、事は持久戦の水攻め・・・

力攻めはせずとも、すでに孤立した城内の士気は、日に日に衰えていくもの・・・しかも、雨は降り止まず、水かさはどんどん増えていきます。

ただ、その雨は、攻める秀吉側にも被害をもたらします。

9日には東側の堤が決壊し、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陣が水没・・・多くの溺死者を出してしまいました。

やがて、籠城戦も1ヶ月を過ぎた頃になると、寄せ手も攻めあぐね、城中も守り疲れ・・

ここに来て秀吉は、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)を使者にたて、「城内の主要人物51人(53人とも)の首を差し出せば、残り全員の命を助ける」という条件を提示して、講和を打診・・・

この条件を呑んだ左近は、自ら51人の仲間とともに自刃し、4月22日(24日とも)太田城は開城となりました。

この太田城攻防戦の勝利により、この地域はほぼ平定され、紀伊一国は、この戦いで副将を務めていた羽柴秀長(はしばひでなが=秀吉の弟)に与えられます。

ちなみに、その秀長が、この地に和歌山城を構築し、それまで「若山」と呼ばれていた場所は和歌山と呼ばれる事になります。

この後、秀吉は、いよいよ四国攻めへと取りかかる事になりますが、そのお話は2008年7月25日【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】でどうぞ>>
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2015年3月24日 (火)

武田滅亡後の織田信長…論功行賞と訓令発布

天正十年(1582年)3月24日、織田信長が、武田との戦いを労って、自軍の諸隊に兵糧を支給しました。

・・・・・・・・・・・・

あの長篠・設楽ヶ原の戦い(5月21日参照>>)から7年・・・

Odanobunaga400a この間、天正四年(1576年)に安土城を構築した(2月23日参照>>)織田信長(おだのぶなが)は、配下の羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)中国方面(5月4日参照>>)明智光秀(あけちみつひで)丹波方面(8月9日参照>>)柴田勝家(しばたかついえ)北陸方面(3月9日参照>>)攻略させつつ、さらに上杉謙信(うえすぎけんしん)亡き後のゴタゴタ(2007年3月17日参照>>)に乗じて越中の諸城も手に入れ(9月24日参照>>)ながら、天正八年(1580年)には、10年に渡る石山本願寺との交戦にも終止符を打ちました(8月2日参照>>)

一方の武田勝頼(たけだかつより)は、そんな信長と、その同盟関係にある徳川家康(とくがわいえやす)をけん制すべく、北条や上杉と同盟を結ぶとともに、甲斐(かい=山梨県)で初めての本格的な城=新府(しんぷ)(山梨県・韮崎市)の構築を開始しますが、天正九年(1581年)に遠江(とうとうみ・静岡県西部)高天神城家康に奪還された(3月22日参照>>)あたりから、家臣の中から離反者が相次ぐようになり、天正十年(1582年)に入った1月に、とうとう妹婿である信濃(長野県)南部の武将・木曾義昌(きそよしまさ)までが信長方に寝返ってしまいました。

これを受けた信長が2月9日に甲州征伐(こうしゅうせいばつ)を開始(2月9日参照>>)・・・
2月20日の田中城・開城(2月20日参照>>)
3月1日の穴山梅雪(あなやまばいせつ)離反【3月1日参照>>)
3月2日の高遠城陥落(3月2日参照>>)
と来て、
天正十年(1582年)3月11日、天目山に逃れた勝頼以下が自刃して、ここに名門・武田が滅亡しました。
【武田勝頼、天目山に散る】参照>>
【天目山…武田勝頼の最期】参照>>

ちなみに、『常山紀談(じょうざんきだん)では、合戦後に、現地から送られて来た勝頼の首を見た信長が、「お前のオヤジが義を欠いて道理に外れた事をした故の天罰でこうなったんや!」と罵るも、家康は、「ひとえに、その若さ故、このようになられてしまった」と、丁寧な言葉をかけた事で、後に、これを伝え聞いた武田の旧臣たちは徳川家に好意を寄せる事になった…
と、信長をディスるとともに家康ageな内容となっていて、何となく、この後に徳川が「赤備え」(10月29日参照>>)を引き継ぐ事を匂わせる記述となっていますが、

『信長公記(しんちょうこうき)では、合戦後に勝頼の首実検をした織田信忠(おだのぶただ=信長の嫡男)が、家臣に命じて、その首を信長のもとに送り届けた
という事だけが、アッサリと記されている感じです。

とにもかくにも、ここで武田に撃ち勝った信長は、3月19日に上諏訪の法花寺に陣を据え、翌・20日に、かの木曽義昌と穴山梅雪と面会して労い、続く23日には、滝川一益(たきがわかずます)上野(こうずけ=群馬県)信濃(しなの=長野県)のうちの2郡を与えて「関八州の警固を命ずる」=関東管領に任ずる事を伝えています。

そして天正十年(1582年)3月24日「各隊とも長期に駐留して、兵糧などに困ってるんちゃうん?」と、家臣に命じて兵員の数をまとめさせ、その人数に応じて米を支給した後、「僕は、(諏訪から)富士山の麓を見物しながら駿河(するが=静岡県東部)&遠江(とおとうみ=静岡県西部)を回って京に帰りたいと思てるから、君ら(諸将)だけ付き合ってな…一般兵士の皆さんは、一旦、ここで解散!!」と指示し、3月29日から、兵士たちは、それぞれ帰国の途につきます。

そして、同じく3月29日に、信長は旧武田領の配分や今後の取り決めについての事を発表しています。

甲斐国河尻秀隆(かわじりひでたか)
ただし穴山梅雪の支配地は除き、その代替地として諏訪1郡をプラス
駿河国徳川家康
上野国信濃国(小県・佐久2郡)滝川一益
信濃4郡(高井・水内・更科・埴科)森長可(もりながよし)
信濃木曽谷2郡木曽義昌に追加
信濃伊那1郡毛利長秀(もうりながひで)
岩村((岐阜県恵那市)団忠直(だんただなお)
金山米田島(よねだじま=岐阜県加茂郡)森定長(もりさだなが=長可の弟・蘭丸)
ちなみに森長可と団忠直は今回の戦いで先陣を切って活躍した事(先の2月9日を参照>>)への評価による恩賞です。

また、甲斐&信濃の両国に対して11ヶ条に渡る訓令も発布・・・

  • 関所&駒口(こまぐち=荷馬用の関所)にて税を徴収してはならない 
  • 農民に正規の年貢以外の不法な税を徴収してはならない 
  • 忠誠を尽くす者は取り立ててやり、反抗する者は切腹か追放にする事 
  • 裁判は念入りに調査して判決を下す事 
  • 国人(地侍)たちは丁寧に扱いながらも警戒を怠るな 
  • 新たに与えられた所領を一人占めせず、現地で家臣を召し抱えて分配するなどして、決して欲張らない事 
  • 本国(尾張や美濃)でもともと奉公していた者を新たな領地で雇うなら、雇用状況を確認のうえ、以前の上司に連絡してから採用する事 
  • 諸城は堅固に修復しておく事 
  • 鉄砲・弾薬・兵糧などは充分に備蓄しておく事 
  • 新たな領地を与えられた者は、責任を以って現地のインフラ整備に取り組む事 
  • 領地の境界線でモメるような事があっても怨恨を残したらアカンよ

以上、

その後、しばらくの間、息子の信忠を甲斐&信濃に駐留させる事にし、4月2日、予定通り、信長は帰国の途につきます。

途中、山あいから見えた富士山は、真っ白に雪が積もり「これぞ、日本一!」という美しさだったそうで、一行は大いに感動したとの事・・・

この後、4月21日に安土に到着するまでの道のりについてのくわしい事は【甲州征伐後の信長の書状と安土帰陣と息子・勝長の事】>>で見ていただくとして、この直後の武田関連の出来事としては、4月3日に、信長に屈しなかった恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)があります。

また、これらの様々な日付けをご覧になって、お察しの通り、信長が本能寺に倒れるのは、このわずか2ヶ月後の事・・・

この戦いで最も評価された森長可は、主君と弟たち(蘭丸・坊丸・力丸)の悲報を聞いて鬼の形相で京都へと向かい(4月9日前半部分参照>>)、同じくこの戦いで甲斐一国を与えられた河尻秀隆は武田の旧臣率いる一揆に囲まれて命を落とし(2013年6月18日参照>>)、関東管領を賜った滝川一益は、あの清州会議(月27日参照>>)にさえ間に合いませんでした(6月18日参照>>)

戦国の世のならいとは言え、信長ほどの人物でも、その運命にはあらがえないのでしょうか?・・・上記の11ヶ条の訓令を見る限りでは、新たな領地支配についての夢多き未来が感じられるだけに、なんだか切ないですね。。。

もちろん、武田勝頼さんに対しても切なさいっぱいですが・・・
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2015年3月16日 (月)

維新の混乱に散った長州藩士~大楽源太郎

 

明治四年(1871年)3月16日、幕末の長州藩士で忠憤隊を組織した大楽源太郎が久留米にて斬殺されました。

・・・・・・・・・・・・

天保三年(1832年)もしくは五年((1834年)に、 萩藩の家老・児玉若狭の家臣である山県信七郎の息子として生まれた大楽源太郎(だいらくげんたろう)は、12歳の時に、同じ児玉家の家臣であった大楽助兵衛の養嗣子となります。

まもなく、にて、勤王の僧であった月性(げっしょう)や儒学者の広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の塾で学んだ事から、そこの門下生であった久坂玄瑞(くさかげんずい)赤禰武人(あかねたけと=赤根武人)(1月25日参照>>)らと友情を育む一方で、安政四年(1857年)の20代半ば頃から京都江戸に出て、梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)頼三樹三郎(らいみきさぶろう=頼山陽の三男)西郷吉之助(後の西郷隆盛)らと交流を持つというバリバリの尊皇攘夷派(そんのうじょういは=天皇を尊び外国を排除する派)の道を歩む事になります。

ところが、ここに来てご存じの安政の大獄・・・このブログでも、幕末の回になると度々出て来ておりますが、この安政の大獄とは、天皇の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)を得ないまま、アメリカと『日米修好通商条約』(横浜、神戸などの開港と関税とアメリカ人の治外法権)を結んだ幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が、それに反発する者たちを、逮捕投獄したり死刑にしたりと、武力で以って弾圧した一件(10月7日参照>>)です。

これによって、源太郎が師事していた梅田雲浜が逮捕されてしまうのです(9月14日参照>>)

当然、源太郎にも幕府の手が伸びて来るわけですが、この時は逮捕される寸前に故郷・長州へと戻り、長州藩による謹慎処分を受ける事で、何とか幕府からの処分を逃れました。

しかし、すでにその謹慎が解けるか解けないかの頃に井伊直弼暗殺計画を練ったり、ご存じの高杉晋作(たかすぎしんさく)松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)出身者と合流して勤王運動を繰り返す源太郎は、当時、京の町で増加していた天誅(てんちゅう=本来は神による天罰の意味ですが、ここでは勤王の志士による暗殺行為の事)事件にも、いくつか関与したとの事ですが、なんだかんだでその身を守りつつ、やがて故郷へと戻っていたところ、文久三年(1863年)には藩からの学校建設の命を受け、再び京都へ・・・

ところが、この年の8月の八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)にて、長州藩は中央政界から追われ、翌・元治元年(1864年)の6月には、密かに京にて活動していた長州藩士らが殺害される池田屋騒動(6月5日参照>>)が起こり、その翌月には、この騒動に不満を感じた長州が武装して上洛する、あの禁門(蛤御門)の変(2010年7月19日参照>>)・・・と、時代がめまぐるしく動きます。

この禁門の変の時、源太郎は、真木和泉(まきいずみ=保臣)(2007年10月21日参照>>)久坂玄瑞(2011年7月19日参照>>)らと行動をともにしていましたが、一時は御所に迫る勢いをみせたものの、やがては、敗戦となって彼らは自刃・・・源太郎も、悲痛な思いの中、なんとか長州へと帰還しました。

これにより、長州藩内の勤王倒幕の影は衰え
(【長州を守る為~福原越後の自刃政治責任】参照>>)
(【長州に尽くす!国司信濃の政治責任】参照>>)
藩の上層部は保守派が牛耳る事になりますが、これに不満を持った高杉晋作が1ヶ月後に、下関の功山寺にて兵を挙げる(12月16日参照>>)、源太郎も、自らの同志とともに忠憤隊を組織して参戦します。

この長州藩内の内紛で勝利した事により、再び長州藩は、高杉らが率いる革新派が牛耳る事になり、源太郎の忠憤隊この内紛時に生まれた多くの諸隊は、それぞれが合併したりして長州藩の軍隊の一部となって行くのですが・・・

そんなこんなの慶応二年(1866年)・・・この年の1月には、ご存じの薩長同盟が成立(1月21日参照>>)しますが、一方の源太郎は、この年に、故郷の三田尻近くに敬神堂(西山書屋)なる私塾を開設します。

水戸学水戸学については…【水戸学・尊王・倒幕~藤田東湖・志半ば】を参照>>日本外史の講義をしていたというその塾は、一時は100人を超える塾生を抱えるほどの大人気で、この年の6月に勃発する第2次長州征伐=四境戦争(7月27日参照>>)にも、源太郎の塾生たちが参加したと言います。

そして、その第2次長州征伐=四境戦争、さらに、この年の7月に14代将軍=徳川家茂(とくがわいえもち)(7月20日参照>>)、12月に第121代=孝明天皇(12月25日参照>>)と、相次いだトップの死を受けて情勢が大きく変化して、皆様ご存じのように、倒幕の嵐は最高潮となり、翌・慶応三年(1867年)・・・
10月13日&14日には「討幕の密勅」(10月13日参照>>)が出され、
10月14日には大政奉還(10月14日参照>>)
12月9日には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
と続き、

さらに、この暮れの12月25日に起こった薩摩藩邸焼き討ち事件(12月25日参照>>)をキッカケに、幕府が、朝廷に『討薩の表(朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩を罰したいんですが…という内容)を提出すべく、翌年・1月1日に、武装して大坂から京都に向かっていた行軍の列を、「京都へは入れない!」と阻止する長州藩&薩摩藩の軍隊が衝突した事を皮切りに始まったのが鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)です。
(厳密には前日の海戦が最初ですが…【大坂湾で~初の様式海戦】参照>>

・・・で、その鳥羽伏見の戦いが、北へ東へ進み、戊辰戦争と名を変え、やがて明治維新を迎える事になるのですが、その一連の流れは【幕末・維新の年表】で>>

とにもかくにも、この間も、源太郎の私塾からは、多くの優秀な人材を輩出する事になるのですが、そんな源太郎の運命が、大きく変わるのが、明治二年(1869年)・・・

この年の9月4日、例の四境戦争や戊辰戦争にて、その巧みな戦術で勝利を導いた事から(5月15日参照>>)、今や新政府軍の最高位の立場にあった大村益次郎(おおむらますじろう)が京都で襲撃され、その傷がもとで亡くなって(9月4日参照>>)・・・そう、大村益次郎の暗殺事件です。

実は、ここのところの大村は、軍隊の改革を推進しており、 「もはや、武士の兵法は古く、徴兵制を設けて国民皆兵とし、西洋式の軍隊に育てあげるとしていましたが、それは未だ武士のプライドを捨てきれない多くの士族(元武士)たちの反感をかっていたのです。

なんせ、彼らは、維新を成した、かの四境戦争&戊辰戦争を命がけで戦ってきた人たちなわけで・・・で、その大村暗殺劇の中心人物だったのが、源太郎の私塾出身の神代直人(こうじろなおと)だったのです。

この事から、「影で糸を引いていたのではないか?」と疑われ、源太郎は、主君である児玉若狭によって幽閉されてしまいますが、事態はさらに悪化して行くのです。

それから約3ヶ月後の11月27日、藩知事の毛利元徳(もとのり)が、元奇兵隊を含む諸隊を、第1大隊~第4大隊の常備軍として再編制する事を発表(11月27日参照>>)・・・つまり、事実上の諸隊の解散命令で、これは、多くの兵士たちのクビ切りを意味していました。

新たな軍隊への登用が見込めない兵士たちは、当然、この解散命令を不服とし、一旦、山口を脱走して集結した後、彼らの言い分が聞き入れられないとなると、大勢で以って藩庁を取り囲み、もはや数千人に膨らんだ集団は、しだいに暴動と化していきます。

・・・と、この暴徒と化した集団に中にも、源太郎の教え子が多く含まれていたのです。

しかも、もともと兵制の改革には反対の姿勢だった源太郎は、この暴動の首謀者と睨まれ、藩庁より出頭の命令が出されますが、彼は出頭命令を無視して、密かに九州へと脱出します。

そして、熊本藩の飛び地であった鶴崎に、かつての同志である河上彦斎(かわかみげんさい=るろ剣のモデルです(*^-^)を訪ね、「回天軍を立ち上げよう!」とクデーターを持ちかけますが実現ならず・・・
(後に彦斎は源太郎をかくまった罪で斬首されます…【佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎】参照>>

やむなく、未だ攘夷の意思固い応変隊のいる久留米藩へと向かいます。

一旦は、源太郎を受け入れた久留米藩ではありましたが、当然、新政府の追及はどんどん激しくなって来るわけで・・・やがて、「このまま大楽を庇護し続ければ、藩の存続も危ぶまれる」となった事から、やむなく、応変隊の川島澄之助らは、源太郎の暗殺を計画します。

明治四年(1871年)3月16日「回天軍を起こす準備ができたゾ」と川島らに呼び出された源太郎は、その場で斬殺され、40年足らずの生涯を閉じました。

『久留米藩難記』には、「藩のためには、どうしても生かしておく事はできなかった」と、暗殺に関わった彼らの心情が記されています。

悲しい末路となった奇兵隊と同様に、今回、源太郎に手を下した彼らも、その心の内では涙していたのかも知れません。

明治という時代は、まだ始まったばかり・・・時には鬼となって近代化を模索しなければならなかったのでしょうね。
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2015年3月 9日 (月)

大阪の史跡:天王寺七名水と亀井の尼の物語

 

本日は、大阪の寺社巡りのヒントとなる史跡=「天王寺七名水」と、そこにまつわる物語をご紹介させていただきます。

寺社巡りと言えば、遠方の方から見れば奈良京都なんでしょうが、実は大阪の方が歴史が古かったりします。

たとえば、今回の七名水巡りの少し北にある生國魂神社(いくたまじんじゃ)高津宮(こうづぐう)・・・(地図参照)

生國魂神社は、未だ現在の大阪の半分以上が海だった頃に、あの初代天皇となる神武天皇(じんむてんのう)が、その東征で瀬戸内海から上陸した場(2月11日参照>>)、日本列島そのものの神である生島大神と足島大神を祀ったのが始まりとされています。
(現在の生國魂神社は大坂城構築の際に移転された場所ですが、以前は現在の大阪城の大手門あたりにあったとされています。また、神武天皇上陸の地は特定されておらず、推定地は大阪天満宮の境内にもあります)

あの伊勢神宮の始まりが、第11代垂仁(すいにん)天皇(7月14日参照>>)の頃とされますので、由緒&伝承だけで見れば、いくたまさん(←生國魂神社の呼称です)の方が数百年古い事になります。

また、高津宮は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)(1月16日参照>>)が政治の場とした難波高津宮(なにわたかつのみや)のあった場所・・・と言いたい所ですが、仁徳天皇の高津宮の場所は特定されていないので、あくまで仁徳天皇を主祭神に祀るゆかりの地という事になりますが、おそらくは、皇居があった場所も、この近くでは無いか?と推測されます。

もちろん、今回の七名水巡りの核となる四天王寺も、以前書かせていただいた通り(7月7日参照>>)、その歴史は飛鳥時代にさかのぼります。

Yuuhigaokasyousaicc ←地図クリックで拡大します
「大阪市営地下鉄=夕陽ヶ丘駅」か「JR環状線:天王寺駅」が便利です。

とまぁ・・・神代の昔から大地だった上町台地には、奈良や京都に勝るとも劣らない神社仏閣がたくさんありますし、古き良き大阪を感じさせる「天王寺七坂」というのもあって、さすがに1度に全部をご紹介できませんので、今回は、題名通りの「天王寺七名水」に話題を絞らせていただきます。

…で、今回の「天王寺七名水」とは、有名な四天王寺の周辺に湧き出る湧水の事ですが、それは北から
1、有栖の清水
2、金龍の水
3、逢坂の清水
4、亀井の水
5、増井の清水
6、安居
(安井)の清水
7、玉出の清水

の、7ヶ所ですが、このうち「有栖の清水」と「玉出の清水」は場所が特定されておらず、しかも、実際には「金龍の水」と「亀井の清水」以外は、水は枯れてしまっていますが、歴史遺産を記憶にとどめるべく、井戸枠を残したり、石碑を建てたりされています。

  1. Dscf3403_aaa600b21 有栖の清水
    途中で土佐藩が買収して庶民が使えなくなった事から「土佐清水」とも呼ばれましたが、現在の星光学院の敷地内にかつてあった「料亭:浮瀬」の前あたりに湧水があったとされています。
  2. Dscn1409a800 金龍の水
    星光学院の南西=清水坂を下った場所にあり、そのほのかな甘みがなんとも美味だった事から茶の湯として使用されたそうです。
  3. Dscf2279a600 逢坂の清水
    以前は一心寺の門前西…まさに逢坂(おうさか)の途中にありましたが、広い道路に拡張させるにあたって取り壊され、その遺構が四天王寺の境内の地蔵山に移されています。
  4. 亀井の水(写真は下記の物語内に…)
    Ca3e0016a600 四天王寺の金堂の地底にある池から流れ出ていると言われる水で、その上に建てられた亀井堂の中にある石造りの大きな桶に、現在も水が流れていて、お彼岸には、その桶に戒名を書いた「経木」という板を浸して、ご先祖様の供養をする善男善女が集まります。
    また、この水が、この先、近くの清水寺の「音羽の滝(大阪市内唯一の滝=右上写真↗)になるという噂も…
  5. Ca3e0011a800 増井の清水
    かつては高さ2mの岩の間から、2段に分かれた広さ8畳ほどの水溜めに溜められ、酒造にも使用されたとの記録がありますが、現在はその水も枯れ、下段の屋形のみが残されています。
  6. Dscn1389a800 安居の清水
    菅原道真が太宰府に赴任する時に、病を癒しながら舟を待ったという事で、その場所に建立された安居神社…その境内にあった湧水で現在は空井戸と玉垣が残ります。
    ちなみに、この安居神社は、あの真田幸村の最期の地としても有名です。
  7. Dscn1383a800 玉出の清水
    かつて一心寺の西にあったとされる湧水ですが、残念ながら現在は枯れてしまい、その正確な位置もわかっていないのですが、推定値に石碑が建立されています。

以上、本日は「天王寺七名水」をご紹介しましたが、この七つの場所を巡るだけなら小一時間もかかりませんので、史跡巡りをされる場合は、是非とも、「天王寺七坂」や周辺の寺社へも訪れてみてください。

くわしくは・・・手前味噌ではありますが、本家HP:大阪歴史散歩「上町台地を歩く」>>を参照してみてくださいませ(モデルコースの関係からブログの地図とは番号などが違っていますのでご注意ください)

最後に、今回の「亀井の水」にまつわる『亀井の尼』の物語を・・・

・‥…━━━☆

京都は東山の一角に建つボロ屋に、一人の女性が住んでおりました。

彼女は、非常に控えめでおとなしく、色っぽい噂一つ無いマジメは女性ではありましたが、やはり、そこはうら若き乙女・・・年頃になれば、「恋の一つもしてみたい」と思うもの・・・

とは言え、人も寄りつかぬ荒れた家では何とも・・・月を見てはため息をつき、花を見ては涙する日々を送っておりましたところ、ある時、清水寺に参拝すると、何やら手引きする人物が・・・

その人に誘われるまま、ある男と夢のような一夜を過ごすのですが、なんと、そのお相手は時の帝・・・

それからしばらくは、「もう一度、あの夢のような一夜を…」と待ち続けていた彼女でしたが、なんせ相手は帝ですから、やがて時が経つにつれ、「やっぱり、相手が相手やし…無理なんやろね」と、諦めムードに傾いていきます。

さらに時が経ち、彼女はふと、
「ひょっとしたら、これは『それをキッカケに世を捨てなさい』という仏様の思し召しかも知れない」と思うようになり、心を決めて、あの手引きしてくれた人物に手紙を送ります。

♪なかなかに 訪(と)はぬも人の うれしきは
 憂き世をいとふ たよりなりけり ♪

「あなたが来られない事が、むしろ良かったかも知れんわ~
せやかて、それで世を捨てる決心ができたモン」

と・・・

しばらくして、使者を通じて、その手紙を手にした帝・・・

「うかつやったわ!忘れたわけでも嫌いなわけでもなく…たまたまやねん。
すぐに、また逢いに行くつもりやってん」

と、帝の気持を知った使者は、早速、東山の彼女家を訪ねますが、もはや、そこには留守を預かる老婆ひとり・・・

その老婆によると、
「なんや事情はよぅわかりませんが、今は四天王寺にお参りに行ってはります」
との事・・・

慌てて使者は四天王寺へ・・・

寺の境内で、あちこち聞いて回ると、霊水の湧き出る亀井の付近に、2~3人の尼僧が住んでいるのを突きとめ、訪ねてみると・・・ビンゴ!

Ca3e0066a900 四天王寺の亀井堂

その尼僧は、若い彼女とその母親でした。

使者の顔を見て、たまりかねて泣きだす彼女・・・

そばにいた母は
「出家は以前から決めていた事で、決して帝のせいやおまへん…そんな畏れ多い事…」
と言いながらも、二人とも言葉にならず泣き崩れるばかりでした。

もはやどうしようもなく・・・使者は、空しく、都へと戻って行ったのでした。

・‥…━━━☆

この物語は、鎌倉時代に成立(作者は藤原信実が有力)したとされる『今物語』にあるお話ですが、肉食系女子が多数な今日このごろの恋に比べると、平安の雅な恋は、「待つ恋」だったのだなぁ~とつくづく・・・
 .

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2015年3月 2日 (月)

荒木村重VS池田恒興~花隈城の戦い

天正八年(1580年)3月2日、荒木村重の籠る花隈城と、それを囲む池田隊の間で花隈城の戦いが開始されました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)に足利義昭(よしあき・義秋)を奉じて上洛を果たした織田信長(おだのぶなが)(9月7日参照>>)に、その義昭が反旗を翻した元亀四年(天正元年・1573年)に信長の傘下となった(2月20日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)・・・

Arakimurasige600a その後は、信長に大いに気に入られ、どちらかと言うと出世コースを歩むかに見えた村重でしたが、天正六年(1578年)10月21日、突如として反旗を翻し、居城の有岡城(兵庫県伊丹市=伊丹城)に籠ってしまいます。

 .
以来、様々な条件と様々な使者を派遣して、
村重の説得にあたる信長サイドでしたが、村重は城を明け渡すどころか、逆に、説得に訪れた黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)を幽閉して(10月16日参照>>)かたくなに籠城を続けますが、

翌・天正七年(1579年)入ってからは、信長の軍に有岡城を2重3重にも囲まれてしまったうえに、頼りにしていた毛利の援軍も一向に現れなかった事から、9月2日の真夜中、妻子をはじめとするほとんどの者を有岡城に残したまま、わずかな側近だけを連れて村重は有岡城を脱出・・・息子・村次(むらつぐ)が城主を務める尼崎城(兵庫県尼崎市=大物城)へと逃走したのです。

これを受けた信長は、村重に対して
「現在籠っている尼崎城と、配下の花隈城(はなくまじょう=兵庫県神戸市中央区)を明け渡せば、有岡城に残る妻子らの命は助ける」
との条件を出して、またまた説得しますが、その交渉も実を結ぶ事がなかった事から、その年の暮れ、村重の妻子をはじめとする一族郎党約600名が処刑される(12月16日参照>>)事態となってしまったのです。

Ikedatuneoki600a その後、尼崎城から花隈城へと移った村重父子・・・文字通り、村重にとって最後の砦となった花隈城に対し、天正八年(1580年)に入って、信長の命にて近くに付城(つけじろ=敵の城を攻撃するための城)を築いた織田の家臣・池田恒興(いけだつねおき)は、自らと嫡男の元助(もとすけ)が花隈の北にあたる諏訪に陣を置き、西の金剛寺山には侍大将の伊木忠次(いぎただつぐ)森寺清右衛門ら、南の生田の森には次男の輝政(てるまさ)を配置して臨戦態勢に入ります。

かくして天正八年(1580年)3月2日、動きを見せたのは花隈城内の荒木勢・・・城から撃って出て、囲む池田勢に襲いかかり、花隈城の戦いの火蓋が切られました。

反応素早き池田勢は、すぐに足軽部隊が応戦し、元助&輝政兄弟が烈火のごとく突撃・・・この時、元助は22歳、輝政はわすか16歳でしたが、ともに組討で敵の首を挙げる功名をたてました。

息子に負けじとばかりに、続いて父の恒興も敵中に駆け込み、またたく間に槍にて数人を討ち取ります。

この初日の戦いは池田軍の勝利・・・若き兄弟の活躍は、比類なき働きとして名を挙げる結果となりました。

とは言え、上記の通り、未だ花隈城は開城には至らず・・・
その後、しばらくは、池田配下の武将が城内に忍び込んで探りを入れたりのこう着状態が続きました。

次に激しい交戦が行われたのは4ヶ月後の7月2日・・・

生田の森の南側へ、馬用の草を刈るために幾人かの者が出たのを、隠れていた花隈の城兵らが追い払う場面を、例の付城から見つけた元助が、それをキッカケとばかりに馬に乗り、槍を携えて「行くぞ!者ども、俺に続け!」と声をかけ、一気に、城の大手へと向けて突進していきました。

・・・と、同時に、これを見ていた金剛寺山の伊木忠次や森寺清右衛門らが搦手(からめて)へと回り、城内への突入を図ります。

花隈城内からは野口与一兵衛なる武将が打って出て、決死の防戦を展開しますが、まもなく彼が討ち死にすると、池田側の勢いが増します。

しかし、ここらあたりで、大手での戦いで負傷者が続出・・・危うさを感じた恒興が、「一旦退こう」としますが、それを阻止したのが、梶浦勘兵衛なる者・・・

実は、彼は、かの、こう着状態の時に、花隈城内に忍び込んだうちの一人で、その時の城内の様子を見て、すでに「勝てる!」と踏んでいたのです。

「今引揚げたら、自軍の足が乱れるだけやと思います。
さっきまで、意外に鉄砲の数が少ないように思いましたのに、なんや急に増えたように感じますんは、たぶん、搦手から大手に応援が来てるんやと思います。
そうなると、おそらく、搦手の彼らは、もう、城内へ乗り込む寸前やと…せやのに、ここで大手を退けば、城兵は搦手へと回り、伊木や森寺は討死してしまいます」

と、勘兵衛が進言すると、恒興は、
「よっしゃ!それなら、しばらく引かずに踏ん張るから、お前は、搦手の様子を見て来い!」
と命令・・・

搦手へと向かった勘兵衛が、清右衛門に事を報告をすると、清右衛門は、
「お前、よう言うた!今からすぐに門を破って乗り入れまっさかいに、殿は大手をお攻めあれ!と伝えてくれ」
との事・・・

再び大手に戻った勘兵衛が、恒興に搦手の現状を報告すると、「もはや、一にも二にも突入あるのみ!」と、恒興は全軍にゲキを飛ばし、大手門の脇へと攻め寄せました。

もちろん、同時に搦手も門を破って攻め入りますが、やはり勘兵衛が推察した通り、コチラは手薄となっていて、容易に火が放たれると、それを察した大手の兵が大手門を開けて撃って出て防戦をしますが、ほどなく、搦手から進入して来た池田勢が、大手門近くに到着し、背後から攻め立てると、もはや、状況を見て取った花隈の城兵たちは、一気に浜辺の方角へ我も我もと敗走を開始しました。

兵庫築島(兵庫県神戸市)には雑賀(さいが・さいか)が花隈の加勢として陣取っていましたが、伊木忠次と森寺清右衛門は、その勢いのまま、ここの砦も落します。

一方、湊川にては、荒木側の五輪(ごりん)作右衛門なる豪傑と戦っていた元助でしたが、まもなく、その場に森寺清右衛門の軍勢が駆け付けた事で、作右衛門は、自らの旗指物(はたさしもの=武士が戦場で目印として背中にさした小旗)を投げつけながら、
「これは有名な指物やぞ!お前らにやるわ!」
との捨てゼリフを残して川に飛び込み、どこへともなく逃れていったのだとか・・・

こうして花隈城は開城となりました。

合戦後、恒興は
「今回の皆の活躍は、この目でしっかりと見届けたからな…特に梶浦の決断は、あのややこしい場面で、よくぞ推察してくれた!これは槍の手柄よりスゴイ事やぞ!」
と大絶賛したそうです。

・・・と、本日は『常山紀談(じょうざんきだん)に沿って、花隈城の攻防戦をご紹介しましたが、ご存じのように、張本人の荒木村重は、この戦いのさ中に城を脱出し、中国の雄=毛利氏に身を寄せて生き残り、後に利休七哲(りきゅうしちてつ=千利休の高弟7人)の一人として歴史上に再登場する事になります。

・・・が、そのお話は、また、関連するその日の日付けにて書かせていただきたいと思います。
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