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2015年4月24日 (金)

秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期

天正八年(1580年)4月24日、織田信長の命により、播磨平定中羽柴秀吉が宍粟郡に入り、宇野祐清らの諸城を攻めました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(9月7日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、周囲敵ばかりになりながらも、天正元年(1573年)には浅井(8月28日参照>>)朝倉(8月6日参照>>)を倒し、天正三年(1575年)には長篠の戦い(5月21日参照>>)武田を破り・・・と、徐々に力を強めていくのですが、琵琶湖の東岸に安土城(滋賀県近江八幡市)を構築(2月28日参照>>)し始めた天正四年(1576年)頃から、西への勢力拡大=中国征伐を開始します。

ご存じのように、その中国地方平定の担当となったのが羽柴秀吉(はしばひでよし=豊臣秀吉)ですが・・・以前、若き日の黒田如水(くろだじょすい=小寺官兵衛孝高)さんのページ(11月29日参照>>)で書かせていただいたように、ここで、中国地方を統治する多くの武将たちが二者択一を迫られる事になります。

なんせ、西国には、あの毛利が控えています。

しかも、当時は、かの信長とドンパチ真っ最中の石山本願寺(5月3日参照>>)と、その毛利が提携してますから、迫りくる織田につくのか?控える毛利につくのか?・・・両者の間で独立を保つほどの勢力を持たない彼らにとっては、その動向が今後を左右する事になるのですから。。。

Himezinisinomaru800 姫路城天守より西方向を望む

そんな中、如水の進言により、いち早く信長傘下を表明した小寺氏姫路城(兵庫県姫路市)にて準備を整えた秀吉は、天正五年(1577年)11月、毛利傘下の赤松政範(あかまつまさのり)が守る上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を攻略しました(11月29日参照>>)

これによって播磨(はりま=兵庫県南西部)地方の武将たちは、一旦は信長派へとなびくのですが、当然の事ながら、奪われた上月城を奪還すべく攻め寄せる毛利・・・

と、そんなこんなの天正六年(1578年)2月、一旦、信長傘下を表明していた播磨三木城(兵庫県三木市)別所長治(べっしょながはる)が、いきなりの離反表明で城に籠ってしまった事で、秀吉は、その三木城攻防戦へと突入(3月29日参照>>)・・・そのために上月城への援軍が手薄になってしまいます。

上月城を任されていた尼子勝久(あまこかつひさ)と、その家臣の山中鹿介(やまなかしかのすけ・幸盛)が踏ん張るも、その年の7月3日に、上月城は落城しました(5月4日参照>>)

どうやら、この上月城落城の頃に、やはり一旦は信長傘下を表明しておきながらも毛利へと、その動向を変えたらしいのが宍粟郡(しそうぐん=兵庫県宍粟市)一帯を本拠としていた宇野政頼(うのまさより)宇野祐清(すけきよ)父子でした。

政頼&祐清の宇野氏は、室町幕府政権下で播磨一帯の守護を務めていた赤松氏のもとで守護代を務めていた家柄でしたが、戦国の世となって赤松氏の力が衰えてしまっていた事から、主君の赤松氏に見切りをつけ、毛利か?信長か?の選択の末、結局、毛利を頼ったという事なのでしょう。

祐清は政頼の次男なので、本来は家督を継ぐ身ではありませんでしたが、天正二年(1574年)頃に起こった家内のゴタゴタで家督を継いでいた兄が殺害され、以後、祐清が宇野氏の当主となっていたのです。

とは言え、ここらあたりの時点では、かの秀吉本隊は、先ほどの上月城や三木城の攻防戦にかかっていましたから、未だ、宇野氏への攻撃は、いち早く信長傘下となっていた赤松則房(あかまつのりふさ)の軍との対決だったおかげで、激しい戦いになりながらも、城が陥落する事はありませんでしたが、天正八年(1580年)1月16日に、その三木城が落城した事から、その矛先は宇野氏へと向けられる事になります。

Hideyosiharimaheiteicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

『信長公記』によれば・・・
天正八年(1580年)4月24日宍粟郡に入った秀吉軍は、政頼と祐政(すけまさ=政頼の弟で祐清の叔父)居城など(伊和郷岡城?杉ヶ瀬城?)を、またたく間に乗っ取って約250余人を討ち取ったと言います。

政頼らは、何とか宇野下野(しもつけ)の居城(篠ノ丸城?)へと撤退しますが、ここもまた、秀吉軍に攻められて多くの敵兵が打ち取られて陥落・・・

やむなく、政頼ら主だった武将たちは、当主=祐清の居る本城=長水城(ちょうずいじょう=兵庫県宍粟市山崎)へと逃げ込みます。

城内の様子を探らせた偵察隊によれば、「城内はもはや正気を失って混乱状態である」との事・・・しかし、長水城は険しい山の山頂という天然の要害を持つ堅固な城であった事から、秀吉は力攻めを避け、敵兵が逃走できないように麓を焼き払って、要所である3ヵ所に砦を築いて守備兵を配置し、厳重に対峙させる作戦に出ます。

その一方で、軍本隊は、その勢いのまま英賀(阿賀・あが=兵庫県姫路市飾磨区)へと攻め寄せますが、安芸(あき=広島県)毛利輝元(もうりてるもと)に人質を差し出して同盟をしている身の英賀城主・三木通秋(みきみちあき)は、秀吉軍と戦う事を諦めて舟で海上へと脱出・・・はるか九州へと落ち延びて行きました。

こうして秀吉は、英賀城下を手中に収める事に成功します(英賀城攻防戦は2月13日説・4月1日説もあり)秀吉が播磨英賀城を攻撃(4月1日参照>>)

一方、包囲された長水城は・・・
その後、しばらくの間は持ちこたえましたが、秀吉軍によって完全包囲された城内では、やがて精も魂も尽き果てるのは時間の問題・・・しかも、そうなると当然、内通者も出て来るようになるわけで・・・

やがて6月5日(5月9日~10日前後の説あり)・・・祐清以下、宇野一族郎党は、縁者を頼って美作(みまさか=岡山県東北部)へと向かうべく、真夜中の長水城を脱出します。

しかし、これに気付いた秀吉配下の荒木重堅(あらきしげかた=荒木村重の小姓・甥とも)蜂須賀家政(はちすかいえまさ=小六の息子)追撃を開始・・・千草(兵庫県宍粟市千種)のあたりで追いつかれ、あちこちで激しい戦闘が繰り広げられる中、祐清以下、宇野一族は自刃して果てました。

ここに、室町幕府初期に大活躍した赤松氏を支えた守護代の名家=宇野氏は滅亡・・・最後の当主となった祐清は、この時、33歳くらいだったと伝えられています。

ちなみに、今回の祐清一行を追い詰めた荒木重堅は、その功績により木下姓を名乗る事を許され、以後、木下重堅(きのしたしげかた)となりますが、そんな彼も、20年後の慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは、西軍として参戦し、戦後、息子とともに自刃しています。

まさに戦国の世・・・
毛利につくか?織田につくか?
はたまた、西につくのか?東につくのか?

義理と人情と利益と駆け引き・・・武将の選択が一族郎党の命を左右するのものなのだと、つくづく・・・
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2015年4月17日 (金)

学者大名~福知山藩主・朽木昌綱

 

享和二年(1802年)4月17日、福知山藩第8代藩主で蘭学者でもあった朽木昌綱がこの世を去りました。

・・・・・・・・

第6代福知山藩主朽木綱貞(つなさだ)の長男として江戸藩邸にて生まれた朽木昌綱(くつきまさつな)は、幼い頃から、何か一つ気になる事があると、トコトン夢中になる性格だったと言います。

そんな昌綱が13歳の頃に出会ったのが、当時、大ブームとなっていた古銭の収集でした。

最初の頃は、ちょうど、江戸幕府が新貨幣増発制作を打ち出した時期でもあった頃から、ブームに乗っかって五匁(もんめ)四文銭など、身近な貨幣を収集していた昌綱少年でしたが、やがてそれが清国(中国)オランダの銭貨へ、さらにオランダを通じて入って来るヨーロッパの貨幣へと広がって行くうち、日本のソレとは違った雰囲気を放つ不思議な貨幣を造る、その外国そのものへと興味が湧いて来るようになるのです。

そんなこんなの安永元年(1772年)・・・23歳になっていた昌綱は、その前の年に、江戸は小塚原の刑場で行われた死刑囚の腑分け(解剖)の現場で意気投合した小浜藩の医者=杉田玄白(げんぱく)と中津藩の医者=前野良沢(りょうたく)『ターヘル・アナトミア(ドイツの医学書『解剖学図譜』をオランダ語に訳した物)翻訳作業に取り掛かるというニュース(3月4日参照>>)を聞き付け、そのチームに身を投じるのでした。

もとより、何事にも夢中になる少年時代の性格は、今もなお健在でしたから、これは、決して藩主おぼっちゃまの気まぐれなどでは無く、一大決心の真剣勝負・・・

外国に興味を以って以来、漢文で書かれた様々な地理に関する書物を読みながらも、「本当に西洋の事を知るためには、自分自身で洋書を読めるようになければ!」という思いからの行動でした。

なんせ、このチームのメンバーは、いずれも天下の逸材と呼ばれる人々ですから・・・

そんな中で、語学とともに地理研究を続けていた昌綱は、彼に最も影響を与える人物に出会います。

それが、当時、長崎の出島にてオランダ東インド会社商館長(カピタン)だったオランダ人外科医で学者でもあるイサーク・チチング(ティチング・ティツィング)でした。

日本を研究したいチチングと西洋を研究したい昌綱・・・現在、石川県立図書館に所蔵されるニコラ・サンソン編『新世界地図帳(ATLAS NOUVEAV=1692年パリ刊)は、安永九年(1780年)にチチングが初めて江戸にやって来た時に、昌綱にプレゼントした物だそうです。

これに代表されるように、チチングと昌綱は、お互いが持っている物を見せ合ったり、疑問に思っている事を質問しては答えたり・・・と、いつしか二人は、師弟とも友人とも言える交流を持つようになったようです。

なんせ、当時は、いくら欲しても、入手できる洋書の数は知れた物ですから、昌綱にとってのチチングは、まさに生きた辞書・・・言い方悪いですが、これほど便利な図書館はありません。

Kutukimasatunategami700a 二人の関係はチチングが日本を去った後も続けられ、昌綱のチチングに宛てたオランダ語の手紙も残っているそうです。

もちろん、昌綱の地理研究は、このチチングを得た事で、より本格的に進んで行きますが、それは、38歳で第8代福知山藩主となった後も続けられ、やがて寛政元年(1789年)、20年余りの彼の研究の集大成とも言える『泰西輿地図説(たいせいよちずせつ)』の刊行に至ったのです。

これは、第1巻のヨーロッパ総論に始まり、2巻~14巻は各国の地誌、15巻~17巻は地図や都市図を記した物なのですが、実はこれが、当時として珍しい仮名まじりの文章・・・

この時代のいわゆる学者さんが、学術的に高い専門書のような物を執筆する時は、漢文で書くのが一般的でしたが、昌綱は、誰にでも読みやすく、一般人でもたやすく理解できるように細心の注意を払って、この書を書いたのです。

残念ながら原本は残っていないようなのですが、別の物に転載された一部の記述を見てみると・・・
「『ウェストミュンステル』ノ殿閣ハ古ヘハ是モ王の居處ナリシカ今ハ會儀堂トナリテ國中ノ諸官人集リテ政事ヲ儀スルノ役所トナセリ…」
て・・・これってイギリスはロンドンの・・・あの「ウェストミンスター宮殿=ビッグベンは、現在では国会が開かれる場所ですヨ」って事ですよね?
今でも、わかりやすいです。

おかげで、この『泰西輿地図説』は、西洋地誌の権威書として長く珍重される事になります。

また、この昌綱さんは、自らが勉学に励むだけでは無く、蘭学者たちのパトロンであった事も知られています。

たとえば・・・
一流の蘭学者&医者として知られる大槻玄沢(おおつきげんたく)(3月30日参照>>)・・・実は、同じ「チーム解体新書」のよしみから、彼の長崎進学の資金を提供したのが、この昌綱さん・・・

彼がいなければ、玄沢の遊学も道半ばで終わってしまっていたかも知れないわけで、そういう意味でも、昌綱は蘭学の発展に尽くした人と言えるのです。

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福知山城

寛政十二年(1800年)、50歳を超えた昌綱は、養子の倫綱(ともつな)に家督を譲って隠居した後、江戸へと戻ってわずか2年の享和二年(1802年)4月17日53歳の生涯を閉じます。

禅の道にも精通し、茶道の世界でも、山水画も一流だった昌綱さん・・・

とにもかくにも、これだけの才能を持ち、常に努力して実行した大名は、他にはいないわけで、もう少し知名度があって良いのでは?と思う歴史人物の一人ですね。
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2015年4月10日 (金)

安中藩主・板倉勝明~「安政遠足」侍マラソン

安政四年(1857年)4月10日、上野安中藩の第5代藩主=板倉勝明が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

第4代上野安中(群馬県安中市)藩主=板倉勝尚(かつなお)の長男として生まれた板倉勝明(いたくらかつあきら)は、その父の死を受けて、わずか12歳で家督を継いで第5代藩主なりますが、父譲りの学問好きで、藩士たちにも学問を奨励し、藩校に有名な学者を招いて講義させるなどの教育改革を行う一方で、自らも執筆活動をこなしながら、様々な藩政改革をも積極的に行う名君であったと言われています。

そんな改革の一つが軍制改革・・・そう、勝明が男盛りの30代・40代を迎える頃は、時代がまさに幕末へと突入する頃だったわけで、早速、高島流砲術を導入して西洋式の訓練にも力を入れたのです。

中でも有名なのが、藩士たちの心身を鍛えるために行われた『安政遠足(あんせいとおあし)と呼ばれる武士たちのマラソン大会・・・

それは安政二年(1855年)5月に勝明が、50歳以下の藩士に向けて、実施要綱を発表した事に始まります。

  • 実施日=安政二年(1855年)5月19日より
  • それぞれ6~7名のグループを組んで、前日までに上司に届け出
  • 雨天決行…てか、どんな暴風雨でも実行する事
  • コースは安中城をスタートして碓氷峠(うすいとうげ)山頂の熊野権現までの29.17km
  • ゴールにいる神主から通過時間を記した書き付けを受け取ったら、城へ戻って大目付に提出する事(←って、往復かいな?)
  • 疲れや足痛によっての遅れは認めるが、馬や駕籠を使用した者は処罰する(←やっぱ、せやろな(^-^;)

と、こんな感じです。

・・・で、この発表で、ゴールとなる熊野権現の神主=曽根出羽(そねでわ)さんは、前日の18日に未明に峠を下って、代官と会い、到着時間と着順を記録するための割付札を50枚を受け取り、その日は坂本宿に宿泊・・・翌朝、早くに宿を出発する事にします。

Annakasakamotozyuku800a
錦絵に描かれた坂本宿と碓氷峠:木曽街道六十九次「坂本」(国立国会図書館蔵)

ところが・・・この神主さん、
翌朝、ちゃんと、朝早くに宿を発ったにも関わらず、碓氷峠の峠の茶屋まで来た所で、安中城をスタートして走って来た7人の選手たちに追いつかれてしまいます。

「アカン( ̄Д ̄;;!こんなんやったら、到着時刻や着順を記録するどころや無いがな!」
と大慌て・・・

しかし、もうすでに、追いつかれてしまった物はどうしようもありません。

やむなく、彼らといっしょに走り、午前10時頃にゴールの熊野権現に到着・・・この日は遠足初日という事で熊野宮に御神酒を捧げた後、到着した選手たちに、力餅やお茶の接待をしたとの事・・・

とは言え、完全なる失態・・・藩主からのお咎めを覚悟した神主さんでしたが、その後もお咎めを受ける事なく、むしろ、何事も無かったかのように、順々にマラソンは実施されました。

なので、次からは、ちゃんと神社の境内にて待ち受け、しっかりと着順、時刻を記録して、やはり初日と同じように、到着した選手たちを労ったのだとか・・・

昭和三十年(1955年)に、かの碓氷峠の茶屋から発見された『安中御城内御諸士御遠足着帳』なる古文書には、その時の記録が残っているそうで・・・

・‥…━━━☆

●五月十九日巳ノ上刻頃参着

  • 黒田誠三郎殿
  • 黒川鐘之助殿
  • 粕瀬雅三殿
  • 倉林愛之助殿
  • 橋本鉞蔵殿
  • 竹内粂三郎殿
  • 丹所太平殿

●同 廿一日辰上刻参着

  • 弐番参着 小林房之進殿
  • 〃      和久沢文四郎殿
  • 壱番参着 根本国次郎殿
  • 三番参着 石井幸右衛門殿
  • 弐番    植栗荘蔵殿
  • 三番    山口徳五郎殿
  • 壱番    石塚吉十郎殿

などなど(記録はまだまだ続きますが…)

・‥…━━━☆

どうやら、5月19日~6月28日までのうちの16日間に、6~7名に分かれた藩士が順々に走ったようですが、そのうちの二人が2回走っているので、参加者は96名で、記録は98名分あるそうです。

それにしても、やっぱり初日の19日・・・

着順が書かれて無いし「巳ノ上刻‘頃’参着」って・・・やっぱり正確には書けなかったんですね~

「せめて、選手たちがゴールする所を見届けなくては!」と、神主さんがその責任感で以って、必死のパッチで彼らと一緒に走ったかと思うと、失礼ながら、ちょっと笑っちゃいますね。

ちなみに、この古文書の中には、一旦、割付札に書かれた記録を「もっと遅い時間に変更してくれ」と訴えたグループがあって、神主さんが時刻を書き換えた事も記されているのですが・・・

どうやら、(当然ですが…)若い者が早く走り、おそらく彼らの上司にあたるおっちゃんグループが遅くなってしまったために、若い者たちが遠慮して、わざわざ記録を遅く申告しようとしたらしい・・・って、接待ゴルフかいな!てな場面もあったようです。

それに、いちいち対応する神主さんも大変ですわな。

とにもかくにも、勝明は、この翌年にも軍制に関する命令を出しているようですので、おそらくこの先、もっと大きな波になるあろう外国との関係&国防についての意識が高かったものと思われ、まだまだやり残した事もあったのでしょうが、残念ながら、安政四年(1857年)4月10日彼は47歳の生涯を閉じました。

ちなみに、安中藩と言えば思い出す一昨年の大河の主役=山本八重(やまもとやえ=新島八重)さんのダンナさんで、後に同志社英学校を開設する新島襄(にいじまじょう=本名は七五三太(しめた))(1月23日参照>>)・・・生前の勝明は、彼の才能をいち早く見出して目をかけていたのだとか・・・

なので、一説には、この勝明さんの死が、襄が安中藩を脱藩して外国に渡る決意をする一つの後押しになったのでは?との見方もあるようです。

現在、群馬県安中市では、毎年5月の第2日曜日に、『安政遠足侍マラソン』なるマラソン大会が開催され、多くのランナーが「日本のマラソン発祥の地」を疾走する人気のイベントになっているそうですよ。
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2015年4月 4日 (土)

豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り

先日、桜咲く近江八幡(おうみはちまん)へと行って参りました~(*゚▽゚)ノcherryblossom

近江八幡は、滋賀県琵琶湖の東岸に位置する城下町・・・と言っても、実は、お城があったのは、意外に短い期間だけだったのですけどね。

Toyotomihidetugu600a ご存じ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)甥っ子(秀吉の姉=ともの息子)で、後に秀吉から関白を引き継ぐ事になる豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)が、天正十三年(1585年)の四国攻め(7月25日参照>>)で副将として活躍した事で近江・四十三万石を賜り、ここ近江八幡に八幡山城を構築して城下町を整備し、現在に至る近江八幡の基礎を築いたわけですが、秀次さんの生涯については2007年7月15日参照>>)

その後、天正十八年(1590年)に、秀次が尾張(おわり=愛知県西部)清州(きよす)へと転封となった事から、八幡山城には京極高次(きょうごくたかつぐ)(9月3日参照>>)が入りますが、まもなく、これまたご存じの疑惑ありまくり&汚名着せられまくりの事件によって秀次が自刃に追い込まれた(2010年7月15日参照>>)影響から、八幡山城が廃城となって、高次も大津城へと移って行ったのでした。

つまり、近江八幡は城下町でありますが、そこにお城があったのは、わずか10年間という事になります。

しかしながら、城はなくなっても近江八幡の町はすたれる事なく、戦国→江戸→明治と、どんどん発展し続けるのです。

もちろん、そこには、中山道66番目の宿場町=武佐宿(むさしゅく、むさじゅく)など、他にも様々な発展理由があろうかと思いますが、やはり、秀次が行った城下町整備が大きかったのではないか?と思います。

Dscf3513a800 豊臣秀次が構築した「八幡堀」…(八幡堀巡り:大人=1000円)

その中でも、八幡山城の防御の一環として造った『八幡堀(はちまんぼり)・・・これを運河として利用し、近江八幡を琵琶湖を往来する船の寄港としたのです。

さらに、かつての安土のように楽市楽座を取り入れて商業を大いに発展させた・・・そう、後に「三方よし」(売り手&買い手&社会の三方)と呼ばれる商魂でお馴染みの『近江商人』を産んだのが、この近江八幡です。

Dscf3509aaa800 同じく豊臣秀次が構築した「八幡堀」…両側に建ち並ぶ蔵が商人の町をしのばせます

ふとんの西川さん住友さんみずほさん・・・もう、数えたらキリが無いくらいの大社長さんたちを輩出し、近江八幡は商人の町として長きに渡る時代を生き抜いて来たのですね。

とは言え、その商業の礎となった八幡堀も、高度成長期の昭和三十年代にはドブ川と化して埋め立て計画が浮上し、その存続が危ぶまれた時期もありましたが、市民ボランティアによる清掃活動など、有志による活動が実を結んで、在りし日の姿を取り戻し、今や、近江八幡のシンボル的存在となっています。

Dscf3557a800 古い町並みが残る新町通

今回は、その八幡堀を舟で巡った後、千年の歴史を誇る近江八幡の総社=日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)や、古い町並みが残る新町通りなど散策して来ましたが、少し時間が足りなくて、八幡山に登る事ができませんでした。

次回は是非登りたいヽ(´▽`)/

なんせ八幡山は、西に琵琶湖、東に西の湖と、その展望のすばらしさもさることながら、八幡山城の跡もあるので、石垣なんか、時間をかけてっくりと見てみたいですね~

とにもかくにも、時代劇のロケにも使用される八幡堀の桜舞い散る姿は、なかなかのタイムスリップ感があり、心落ち着くひとときでした~
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