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2015年5月 1日 (金)

三好政権を支えた「鬼十河」~十河一存

永禄四年(1561年)5月1日、三好長慶の弟で「鬼十河」の異名を持つ讃岐の猛将=十河一存の死亡が確認されました。

・・・・・・・・・・

と、いつもとは違う雰囲気の書き方をしてしまいましたが、実は、本日の主役=十河一存(そごうかずまさ・かずなが)さんの亡くなった日というのが複数あります。

『日本伝説叢書.・讃岐の巻』によれば、十河氏の菩提寺である称念寺にある一存のお墓には3月18日とあると・・・
一方で、大阪の堺にある南宗寺の三好一族とともにある一存のお墓では没日は4月23日とされている・・・

Dscn0957a800 堺・南宗寺にある三好長慶一族の墓

そんな中で、『伊勢貞助記』なる文献には「5月1日には死去のため出仕なし」の記録があるため、それ以前には死去していたと考えられており、阿部猛氏&西村圭子氏共著の『戦国人名事典』でも、「永禄四年五月一日(四月とも)病没(享年30歳前後)とありますので、とりあえず、本日=5月1日の日付けで書かせていただく事にしますが・・・

実は、その死因も、梅毒による病没が一般的なれど、落馬による事故死暗殺説まであり・・・なんせ、織田信長が上洛する以前に畿内を制して、言わば、戦国初の天下人となった三好長慶(みよしながよし=一存の兄)の三好一族が、坂道を転げ落ちるように衰退していくのが、この一存の死に始まるので、様々な憶測が飛び交う事になるのです。

もともと、阿波(あわ=徳島県)の戦国武将=三好元長(もとなが)の四男として生まれた一存は、父を失くした(7月17日参照>>)事で若くして三好家の家督を継ぐ事になった兄=長慶のもとで、三好家の軍事面担い、大いに活躍した武将で、その兄の命により、三好傘下となった讃岐(さぬき=香川県)十河(そごう)を継いだ事から十河一存となります。

それからも、河内・山城南部の守護代だった木沢長政(きざわながまさ)をはじめ、名だたる摂津の武将を次々と撃ち破って、摂津西半国の守護代となって徐々に力をつけていく兄=長慶のサポートしながら、天文十八年(1549年)の江口の戦い(6月24日参照>>)では兄弟による連携プレーで、父の仇である細川晴元(はるもと)に見事勝利し、前将軍=足利義晴(よしはる)と現13代将軍=足利義輝(よしてる)父子(11月27日参照>>)を都から追放するという・・・まさに「天下を取った」わけですが・・・

と、その一方で、結局は、彼ら=三好家に敵対する将軍を、しかも何度も許して京に迎えるあたりなど・・・なんとなく、その「やさしさ」が仇となる感があります。

とは言え、当然ですが、三好一族は弱々しい武将たちではありませんよ。

特に、今回の一存さん・・・そのイカつい顔つきから、その果敢な戦いぶりから「鬼十河(おにそごう)なる通り名で呼ばれていたうえ、月代(さかやき)を広く四角に剃り込んだ彼独特の「十河額」というヘアスタイルがカッコイイと、家臣の間で大流行していたのだとか・・・もちろん、ニックネームも、髪型の流行も、そもそもは、その強さへの憧れからきているのですから、いかに強かったかが想像できます。

また、ある合戦では、左腕に深い傷を負って本陣に戻って来たので、そこで休憩するのかと思いきや、傷口に塩をすり込んで、そばにあった藤のツルをクルクルと巻いて包帯代わりにし、再び、戦場へと撃って出たのだとか・・・

一方で、兄の長慶同様に、心やさしい逸話も残っています。

東讃岐に勢力を持つ寒川氏(さんがわし)と戦っていた時、ある家臣が「自分の兄が敵側にいるので、兄とな戦いたく無いので、お暇を頂戴したい」と、退職を願い出て来ました。

本来なら、それだけで「な~に~( ゚皿゚)!!」とキレても仕方無いところですが、一存は、一切、その家臣を責める事なく、むしろ「戦場で、俺に会うた時は、遠慮せんとかかってコイヤ~щ(゚Д゚щ)」との言葉をかけて、快く送り出したのだそうです。

果たして、その後のとある戦場で、その兄弟と遭遇した一存は、見事、二人を1度に討ち取ったのだとか・・・もちろん、これは男と男の約束として手を抜く事なく、戦場では鬼と化して戦ったが故の堂々たる逸話です。

最盛期には畿内一帯はもちろん、阿波&讃岐にまで勢力を延ばしていた三好一族ですが、先ほども書かせていただいたように、室町幕府を滅ぼして自らの政権によって新時代を築こうという野心が無かったのか?・・・長慶は、和睦を申し入れて来た将軍を許し、もともとからあった秩序のもとで、その政権を維持して行こうとしました。

しかし、そこが、野心丸出しの武将の付け入るスキだったのかも知れません。

その男は松永久秀(まつながひさひで)・・・

彼は、「やられたらやりかえす」「やられる前にやってやる」という、まさに、取ったり取られたりの戦国乱世にふさわしい男で、とにかくウマく立ち回って、付け入るスキを見逃さず・・・人呼んで『乱世の梟雄(きょうゆう)、鬼でも虎でも龍でもなく、梟(フクロウ)というのが、まさにピッタシの男だったわけで・・・(←悪口ではなく、褒めてるんですヨ…戦国乱世に生き残るにはこれくらいでないといけませんから)

もちろん、そんな久秀を一存は早くから警戒していて、兄の長慶に何度も「松永をあまり重用しないように…」と進言していたようですが、当の長慶は、久秀への信頼が篤く、最も重要な京都の政治を任せるほどでした。

そんなこんなの永禄四年(1561年)4月、病にかかった一存は、有馬温泉へ湯治に出かけますが、なぜか、その時一緒に有馬温泉に行ったのが久秀・・・

出発前、一存がお気に入りの葦毛(あしげ)の馬に乗った姿を見た久秀が
「有馬権現は、葦毛の馬を嫌うので、葦毛に乗って行ったら天罰が下りまっせ。その馬はやめときなはれ」
と声をかけますが、上記の通り、久秀の事を少し警戒している一存は、その言葉を無視して、その葦毛の馬に乗って出かけますが、途中で落馬して命を落とした・・・と、一部の文献にありますが、日付けが合わない部分もある事から、冒頭にも書かせていただいたように、一般的には湯治中の病没とされています。

しかし、上記の通り、亡くなった時に、そばにいたのが久秀・・・という事で、久秀による毒殺説も、早くから囁かれています。

なんせ、この一存さんの死後の長慶は、
翌年に弟(長慶の弟で一存の兄)三好義賢(よしかた:実休・之虎・之康とも=長慶の弟で一存の兄)を・・・
また、その翌年には息子の三好義興(よしおき=長慶の長男)を失い・・・
さらにその翌年には2番目の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>を、自らの勘違いで手にかけてしまい、その後悔の念から、わずか2ヶ月後に廃人のようになって、本人=長慶もこの世を去る(5月9日参照>>)わけで・・・

そんな三好家に取って代わるがのごとく、頭角を現して来るのが久秀なわけで・・・(12月26日参照>>)

もちろん、これらの事のすべてを、久秀が意図的に画策する事は不可能ですが、三好家の軍事面を担い、心強い盾となっていたのが一存で、彼を失った事によって、三好家が内から外から崩れていく感は拭えません。

やはり、一存が三好家の「要」だったという事でしょう。

この後、彼らを受け継ぐ三好三人衆が、かの久秀とつるんだり敵対しながら、やがてやって来る織田信長を迎える事になりますが、そのお話は【スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆】でどうぞ>>
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

これも資料が少なくてハッキリしたことは言えませんが、
後年の義輝暗殺などやっていることを見ると当時は十河一存らが穏健派、松永久秀が急進派だったのかな…と思います。
やはり久秀のほうがより戦国的な発想だったとは思います。
ただ、その急進的政策の為に後日信長に上洛の名分を与えてしまっていたりするので
三好長慶としては両者の間で迷う所があったのは当然でしょう。

後年、義昭の妹が三好義興に嫁いでようやく久秀は将軍家に協力していますが、松永久秀と大和を巡って争った筒井家に徳川家康の妹が嫁いでいるところを見ると、最終的には信長による三好勢力の支持が再び十河存保らに移っていると思われるので、結局のところ松永久秀も三好家に仕える平凡な家臣というスタンスが色濃く見受けられるように思います。
むしろ、外部勢力に三好家中の微妙な温度差、派閥格差みたいなものをうまく利用されたというのが真相に近いように個人的には思います。

投稿: ほよよんほよよん | 2015年5月 3日 (日) 03時32分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

私は、「松永さんがもう少し若ければなぁ」って思います。
なんせ、三好長慶より年上やし、信長世代とは親子ですから…

松永さんが、信長世代だったら、どうな感じだったんだろう?と想像してしまいます。

投稿: 茶々 | 2015年5月 3日 (日) 13時03分

義興×→義継○ に訂正です

松永さんがもう少し若かったら、徳川家における本多重次みたいな存在になったような気がしますが…(汗

しかし、兄弟や愛息たちの死はありましたが、結果として何だかんだでせっかく松永派が残って家中を一本化する大きなチャンスだったのですから、長慶さんには、ここからこそ狂気の松永イズムで突っ走って欲しかったですね…
史実は深刻な鬱状態になったようで。。為政者としてはそうじゃないだろうと…そこが三好家の最大のミステイクだったように理解しています

投稿: ほよよんほよよん | 2015年5月 3日 (日) 22時25分

おばんです。

本文と上記のコメント&回答と三好長慶さんの記事を読んでみました。三好ってのは勢力もデカいし“地の利"も有るし、個々の人物も多士済々(あの弾正さんも使いこなせたら凄い名臣ですよ)なのに天下を“取りきれなかった"感が有りますよね。長慶さん死後は“三好党"て言うくらい誰が頭か?分からないくらい纏まりが無かった…
長慶さんが優しすぎたからかもね。
「弾正さんがもう少し若ければ…」
と有りますが、長慶さんこそが“鬼になれれば"弟を殺さず、自分も死なず、この多士済々を使いこなして、死後も家が分裂せずに済んだやろうに…と可哀想です。

投稿: 高槻晋作 | 2015年5月 3日 (日) 23時03分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

そうですね。
やはり戦国の世は、心を鬼にできねば生き残れませんね~

投稿: 茶々 | 2015年5月 4日 (月) 02時37分

高槻晋作さん、こんばんは~

後に信長がやる事で有名な「城割」や「楽市楽座」も、三好一族が先にやっていたようですから、事実上、完全に天下取ってますが、やはり、あまりの坂道の転げっぷりで、その事が注目されづらく…ホント「惜しい」って感じがします。

投稿: 茶々 | 2015年5月 4日 (月) 02時42分

ゲームな話で申し訳ありませんが
今更ですがノブヤボ創造PKの超級アップデートが来たので、三好家をシミュレートしているのですが、全盛期ごろのシナリオであれば簡単に天下を取ることができました。
結局、何が足りなかったんでしょうねえ。ゲーム上ではやはりゴリ押しで覇権を押さえる心構えが足りなかったという結論が出ました。

投稿: ほよよんほよよん | 2015年9月15日 (火) 14時56分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

あくまで私見ですが…
やはり、家長である三好長慶に天下を取る気が無かったんじゃ無いでしょうか?

もちろん、長慶は強くて豪快な武将ですが、上下関係を重んじる古い気質を持った人で、あくまで自分は将軍家に仕える身であって、将軍を倒そうとは思わなかったんじゃ?
応仁の乱の時の山名宗全も、そんな感じだったようなので、古き良きまっすぐな武将っていう印象があります。

「ゴリ押しで覇権を押さえる心構えが足りなかった」という結果は、ある意味当たってると思います。
「足りなかった」というよりは「そうしたく無かった」という感じですが…

投稿: 茶々 | 2015年9月16日 (水) 02時32分

やっぱり、史実の通り織田家の勃興が真の天下統一だったんでしょうねえ。それは全くの同感です。

実際、三好家でプレーしていると、あっちを攻めれば同盟関係から数珠つなぎ式に敵対されたり背後を突かれたりと、序盤は最後まで攻めきれず、焼き討ちメインの対応を強いられます。

これを体験して「ああ…長慶は優しかったというより、天下人ではあるものの各個撃破が難しい政略的立場にも居たのだな」などと個人的には解釈したりもしたのですが。

ただ、確かに織田家は今のアメリカじゃないですけど、家中がある意味標準化されていて、わかりやすいですよね。三好家は有能な登用組に権限があるのか、一門に権限があるのか最後までよくわからない印象が拭えません。

私は個人的には豊臣秀吉とか徳川家康が好きではなく、三好長慶、織田信長のファンです。
「城割」や「楽市楽座」の先駆者というのもありますが、何より好きなのが「理世安民」です。
他の戦国大名と違って「愛国心」「健全性」とでもいうのか、ちゃんとしたビジョンを持っていますよね。もちろん徳川家も強いビジョンはもってますけど、あまりに暗すぎる雰囲気が素直に評価できないです…


投稿: ほよよんほよよん | 2015年9月17日 (木) 23時37分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

やはり、信長世代から、戦国武将の気質というかイメージというかが変わったような気がします。

投稿: 茶々 | 2015年9月18日 (金) 02時35分

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