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2015年6月13日 (土)

鎌倉幕府・第2代執権~北条義時の最期の謎

 

元仁元年(1224年)6月13日、鎌倉幕府の第2代執権を務めた北条義時が、62歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

北条義時(ほうじょうよしとき)は、伊豆の豪族・北条時政(ときまさ)の息子・・・つまり、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん=北条政子(まさこ)にあたります。

Houzyouyositokia400 その政子ネェが頼朝に嫁いだ頃は、未だ15~6歳の少年だったようですが、以来、父&兄とともに頼朝を助け、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を手にした頼朝が、治承四年(1180年)に伊豆で挙兵(8月17日参照>>)してからは、まさに、手足となって戦場を駆け巡って行動をともにしたのです。

残念ながら、兄の宗時(むねとき)は、続く石橋山の合戦(8月23日参照>>)で戦死していますが・・・

義時は、その後の一連の平家との戦い(【源平争乱の年表】参照>>)や、奥州藤原氏との合戦(8月10日参照>>)で戦功を挙げ、まさに天下人となった頼朝が右近衛(うこのえ)大将権大納言に任ぜられる(12月1日参照>>)建久元年(1190年)頃には、その頼朝から「義時をもって家臣の最となす」と評されるほどの信頼を得ました。

頼朝亡き後は、第2代鎌倉幕府将軍となった頼家(よりいえ=頼朝&政子の長男)のもとで採用された13人衆の合議制(4月12日参照>>)を行う御家人メンバーにも選ばれました。

その後、鎌倉幕府内のゴタゴタで、梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)比企能員(ひきよしかず)(10月15日参照>>)畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)などの有力御家人を次々と追い落とす一方で、父=時政&政子ネェとタッグを組んで、頼家に代わる実朝(さねとも=頼朝&政子の次男)第3代将軍に擁立(7月18日参照>>)しますが、その後、方針が合わなくなると父の時政までをも失脚させ(1月6日参照>>)、自らが鎌倉幕府・第2代執権となります。

(執権(しっけん)とは鎌倉幕府内で政所別当(一般政務・財政を行う所の長官)を務める者が、事実上、政務の最高責任者を兼ねる事で、義時の頃から、その責任者を執権と呼ぶようになったとされるので、初代執権は父の時政とも、初代の政所別当である大江広元(おおえのひろもと)(6月10日参照>>)とも…という複数説がある微妙な感じです)

しかし、そんな実朝も、政子ネェ&義時の意のままにならないようになりはじめた頃(11月24日参照>>)、なんと、今度は、その実朝が暗殺されるという一大事件が勃発・・・
【実朝・暗殺事件の謎】参照>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】参照>>
【謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期】参照>>

もちろん、そこに義時の黒幕説もチラホラ囁かれるのですが、一方で、このゴタゴタをチャンスと見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)を中心とする朝廷復権を願う軍団が、承久三年(1221年)5月『北条義時・追討令』を発令・・・ご存じ、承久の乱(じょうきゅうのらん)です。

しかし、この時も、幕府を開いた頼朝の直系亡き中で、その意志を継ぐカリスマ性を持つ政子ネェを看板に据えて、自らはナンバーⅡとなって見事勝利し、逆に、幕府をより盤石な物としました。
【北条政子・涙の演説】参照>>
【承久の乱に翻弄された幸薄き仲恭天皇】参照>>

ところが、その乱からわずか3年後・・・その最期の時は突然訪れます。

『吾妻鏡』によれば・・・
その前日の朝9時頃、持病の脚気(かっけ)に加えて霍乱(かくらん)を併発して重態に陥った義時を、卜筮(ぼくぜい)で占ったところ、「夜の9時には治りまっせ」と出ますが、念のために、あっちからもこっちかも神職や僧を招いて祈祷を行い、病魔を乗り移らせるための身代わりも5種用意して病気治癒に挑んだものの、容体は重くなるばかり・・・

明けて元仁元年(1224年)6月13日午前5時、死を覚悟した義時は、自らが担ぎあげた時の将軍=藤原頼経(ふじわらのよりつね=第4代将軍)の許可を得て出家・・・「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とくりかえし唱え続ける中の午前10時、夜を徹して止む事が無かったその念仏が、ついに止まったと思うと、外縛印(げばくいん=指を交互に組んで両掌をピタリと合わせる状態の合掌)を胸の上で固く結んだままの静かな最期であったと・・・

その死にざまが、あまりに立派で「順次の往生(じゅんじのおうじょう=死んですぐに浄土に生まれ変わるだろう)」と絶賛の嵐だったのだとか・・・

んん?♪ちょと待ってちょと待ってお兄さん~♪
確かに、脚気は持病・・・そもそも、あの実朝暗殺の時も、本来なら義時が実朝に付き添うはずだったのが、その脚気のために体調不良となって急きょ欠席したおかげで、とばっちりを喰らわなくてすんだわけで・・・それは良いとして、

もう一つの霍乱て・・・
何となく、字を見ても怖そうな雰囲気ですが、これ、今で言うところの急性胃腸炎の事で、激しい腹痛とともに嘔吐と下痢を繰り返す・・・

とても落ち着いて、静かにお経を読んでいられ無いのではないかと・・・

実は、この『吾妻鏡』・・・ご存じのように鎌倉幕府の公式記録なものですから、「幕府に都合の悪い事は書かない」あるいは「変えて書く」というクセがありまして・・・現に、初代将軍=頼朝の死もウヤムヤだったり、義時父ちゃんの時政の出自もはっきり書いてなかったり・・・結構重要な事が抜けてます。

で、そうなると、やっぱり登場するのが謎を含む異説・・・

『小倉百人一首』(5月27日参照>>)の撰者として有名なあの藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記=『明月記(めいげつき)には、後鳥羽上皇のオカルト的な話(7月13日の後半部分参照>>)とともに、あの承久の乱の京方の首謀者の一人が、敗戦から6年後に捕まったくだりも書かれているのですが・・・

乱から6年後・・・ですから嘉禄三年(1227年)、って事は、もちろん義時は亡くなり、なんなら政子ネェも2年前の嘉禄元年(1225年)に死去してる(7月11日参照>>)わけですが、一方で、この犯人(一応犯人と呼びますスンマセン)はその間、ずっと地下に潜伏していたわけで、当然ですが、「彼を匿った誰かがいる」って事になるわけで、かなり厳しい取り調べが行われたのだとか・・・

で、その取り調べの苦痛に耐えかねた犯人が、
「義時が妻が義時にくれけむ薬、我に是くはせて早殺せ!」
と叫んだと・・・

つまり、義時は、後妻さんが盛った薬によって毒殺されたような事が書いてあるんです。

この後妻さんとは伊賀の方と呼ばれる女性で、義時の後継者に娘婿の一条実雅(いちじょうさねまさ)を推すも失敗して流罪になった人で、今回捕まって重大な事口走った犯人というのは実雅の兄である尊長(そんちょう)という僧侶・・・なんか、友達の友達のそのまた友達ほど遠く無いところが信憑性ありますなぁ

また、他にも、家臣に刺殺された説(『保暦聞記』)、近習の深見三郎なる人物が「父の仇!」と叫びながら刺殺した説(『続本朝通鑑』)などの説もあります。

まぁ、ご本人もカッコつけたいでしょうから、「のたうちまわって…」ていうのを「静かに落ち着いて…」と書き換えるのは公式記録としてはアリな気もしますが、さすがに毒殺や刺殺の場合はスルーし難い・・・ちょっと気になりますね。
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コメント

鎌倉幕府初代の源頼朝も暗殺説がありますね。
実質的には、政子さんが、
影の将軍のような気がします。
お父さんも弟もいますが。

投稿: やぶひび | 2015年6月13日 (土) 12時14分

「毒」大好き人間の私には毒殺説はロマンがあり好きです。
ひと思いに殺せやぁ~と叫びながら、頭に浮かんだのは義時のあっけない死様。
トリカブトどころではない強烈な毒、正倉院にある冶葛なら瞬時に昇天します。
皇室経由で入手することも可能だったのでは…。

投稿: masa | 2015年6月13日 (土) 13時05分

やぶひびさん、こんばんは~

やっぱ尼将軍ですからね(*^-^)
奥さんは強いです。

投稿: 茶々 | 2015年6月14日 (日) 00時27分

masaさん、こんばんは~

やはり、女性が手を下す場合は毒殺が多いですよね。

投稿: 茶々 | 2015年6月14日 (日) 00時28分

はじめまして。
小学生の息子の宿題(源頼朝について調べる)を手伝っていたら、こちらに辿り着きました。
とても読みやすく興味深いお話がたくさん。よく調べてみえますね。
宿題が終わってからも楽しく読ませていただきました。
またお邪魔します~。

投稿: marika | 2015年6月14日 (日) 21時16分

marikaさん、はじめまして~

「読みやすい」と言っていただけるとありがたいです。
また、いらしてださいませ。

投稿: 茶々 | 2015年6月15日 (月) 02時10分

40歳で「長寿のお祝い」をしたご時世で、60歳過ぎまで生きていたので当時としては長命の人になりますが、鎌倉時代の北条氏は義時の孫の代あたりから短命の家系になっちゃいましたね。北条氏系図を見ると嫡流である得宗家が短命と言う感じです。
出自がわからないという点では、私は「北条政子の生母」の経歴を知らないんですよ。頼朝と政子が結婚した時に存命だったかどうかわかりません。

投稿: えびすこ | 2015年6月16日 (火) 17時55分

えびすこさん、こんばんは~

北条家は謎が多いです。

投稿: 茶々 | 2015年6月17日 (水) 01時23分

個人的には頼朝の死や北条家の問題などに関しては、奥州藤原氏の存在が気になるところです
確かに、吾妻鑑はスカッと幕府が勝ったようなことを書いていますが、当時の軍事常識から言うと動員力による単純計算で楽勝とはとても思えない訳で。
吾妻鑑はご指摘の通り、やや過剰美化気味な所があちこちに見受けられますし、足利幕府も最初から最後まで不安定な感じでしたし、むしろ後者のほうが自然な歴史に思えます

鎌倉幕府が何故一枚岩でなかったのか?怪しげない内紛事件が多いのか?については、個人的には奥州藤原氏との戦いに不賛成だった武将が多く、この戦いを独断専行した頼朝を非難する声が大きく、実際相当な犠牲を払った上での勝利だったからではないかと考えています

徳川家康がスカッと豊臣家を完封して作った幕府のイメージの方が例外と感じています。

投稿: ほよよんほよよん | 2015年6月19日 (金) 19時22分

ほよよんほよよんさん、こんばんは~

本文でリンクした右近衛大将就任のページ>>でも書かせていただいたですが、奥州攻めに関しては、八幡太郎の血を継ぐ頼朝の悲願というか、意地というか…だからこそ、右近衛大将ではなく、征夷大将軍でなきゃいけなかったんだと思っています。

>徳川家康がスカッと豊臣家を完封…

う~~ん(><)
大阪人としては、スカッと完封してない気がしないでもない…
いや、完封していてほしくは無いと願っている、が正しいかな?
あくまで、願いです(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2015年6月20日 (土) 01時10分

茶々さん、おはようございます。
私は義時だけでなく頼朝、頼家、実朝などの死に三浦が関わっていると思います。
三浦は当時北条よりも力がありました。吾妻鏡には書いていませんが、その頃の様子や源平合戦の頃を見ますと北条は脇役です。寧ろ三浦、畠山、大庭の方が主役でした。畠山、大庭は落ちぶれましたが、三浦はしぶとく生き残りました。頼朝などの源氏にものを言えるのも三浦以外にいないので私は三浦暗殺説をとります。
ところで義時の子孫の時宗ですが、出家した肖像画しか残っていませんが、死ぬ間際まで出家していません。何故あの出家した肖像画有名になったのでしょうか?
私は義満から義教までの室町時代が好きです。

投稿: non | 2015年7月 5日 (日) 10時01分

nonさん、こんにちは~

たとえ「友を喰らう三浦犬」と揶揄されようとも、乱世には生き残る事が重用ですからね。

肖像画に関しては何とも言えませんが、そもそも、肖像画が描かれるのが死後何年か経ってから…という事も少なくないですし、有名になるならないは、さらに後世の事なので、保管状態や保管されている場所、あるいは、その貴重さとか、要因は様々にあるのでは無いでしょうか?
あと、個人所蔵の場合や、貴重すぎて公開されない場合もありますので、一般に公開できる物が限られるなんで時もあるんじゃないかと思います。

投稿: 茶々 | 2015年7月 5日 (日) 15時53分

友を喰らう三浦犬ですか。そう言えば裏切りが多いですね。頼家、和田合戦、実朝、義時、最後の鎌倉滅亡でも裏切ってばかりです。そのたとえに相応しいです。
北条ですが、本来ならば直系の貞盛の子孫の筈なのに何故か伊豆ですし、伊勢に移った一族と別れただけなのに清盛の頃は単なる地侍です。伊東よりも身分が低いです。不思議な一族です。
泰時は頼朝の隠し子と言う説もありますね。

そうなんですか。肖像画は無くなった後ですか。それですと残っているのは少ないし、現実の顔とよく分かりません。
そうなると個人肖像の肖像画が発見されないと現実は分からないことが多いですね。
それにしても死ぬ前に出家と言うのはこの頃は多いですね。
女の人も死ぬ前には完全に剃ってしまうのですが、何か理由でもあるのでしょうか?
でも出家してしまうと表の政務、神社の行事は参加できないのですが、良いのでしょうか?
それと不思議なのですが出家した人は意外と長生きしますね。

投稿: non | 2015年7月 5日 (日) 18時12分

nonさん、こんばんは~

死ぬ前に出家するのは、やはり「僧として死んだ方が、あの世で優遇されて浄土に行きやすいんじゃないか?」という考えみたいですね。

平安時代の貴族の間で流行りはじめて、しばらく流行りが続いたみたいです。

投稿: 茶々 | 2015年7月 6日 (月) 01時08分

こんばんは、茶々さん。

どうも出家ブームで思い出したのですが、中世の欧州も似ていまして、何だか最後は修道院に行く男女が多いです。どうも中世は信仰に目覚めるのかなと思いました。近代になると現世的になりますが、中世美術を見ますと宗教的です。日本もそうですね。
どうも禅宗が根付いても念仏は武士にも根強いのだと思いました。

出家と言いますと後鳥羽上皇も流罪前に出家しましたし、土御門上皇も出家しました。佐渡に流された世阿弥も出家しました。流罪になると罪人ですが、出家するのでしょうか。そう言えば上総で反乱を起こした平忠常も出家しました。出家と言うのは贖罪のつもりかなと思いました。

投稿: non | 2015年7月 7日 (火) 18時31分

nonさん、こんばんは~

やはり、「許しを乞う」意味があったんでしょうね。
洋の東西を問わず、迷いがある時は救いを求めるものですね。

投稿: 茶々 | 2015年7月 8日 (水) 02時22分

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