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2015年6月27日 (土)

秀吉の中国攻め~神吉城攻防戦

天正六年(1578年)6月27日、織田信長の命を受けた織田信忠・羽柴秀吉らが毛利方の神吉頼定らの播磨神吉城を攻撃しました。

・・・・・・・・・・

天正三年(1575年)5月の長篠の戦いに勝利(5月21日参照>>)した織田信長(おだのぶなが)は、翌・天正四年(1576年)には近江(滋賀県)の琵琶湖東部に安土城を構築(2月23日参照>>)しながら、畿内では石山本願寺と戦いつつ(5月3日参照>>)、他方では、自らの領地を拡大していくわけですが、その領地拡大の西国=中国(山陽・山陰)地方を担当したのが、羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)です。

これまでも、何度か書かせていただいてますが、この時の信長&その配下の秀吉としては、この中国攻めの最終目標は、西国の雄=毛利なわけですが、現在ほぼ平定した畿内から、その毛利が本拠とする安芸(あき=広島県)までの間には、大小様々な武将が、その土地々々に根を張っているわけで・・・

もちろん、その中間地点にいる彼らは彼らで、毛利に付くのか?織田に付くのか?が、彼ら自身の今後に左右するわけですが、そんな中でいち早く織田方を表明した黒田官兵衛孝高(よしたか=如水)(11月29日参照>>)荒木村重(あらきむらしげ)(2月20日最後部分参照>>)もいる一方で、当然、毛利に味方する者も少なく無いわけで・・・

そんなこんなの天正六年(1578年)3月、加古川城(兵庫県加古川市)で行われた交渉が決裂して毛利側に付く事になった別所長治(べっしょながはる)三木城(兵庫県三木市)を、秀吉率いる織田軍が包囲し、籠城戦が開始されます(3月29日参照>>)

・・・で、今、籠城戦と書かせていただいた事でお察しの通り、この三木城攻防戦は、後に「三木の干殺(ひごろ)し」と呼ばれる約2年に渡る長期戦となる事で、その間に秀吉は、最前線の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)の支援に向かったり(5月4日参照>>)、支城の野口城を攻撃したり(4月3日参照>>)と忙しい・・・

そんな中の6月16日、播磨(はりま=兵庫県南西部)から京都に戻った秀吉は、信長から「三木城が長期戦になるようなら、一旦、神吉(かんき)志方(しかた)(兵庫県加古川市)を攻めてから三木に攻めにかかるように…」との指示を受けます。

Hideyosiharimaheitei2cc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして始まった神吉城(かんきじょう=兵庫県加古川市)攻め・・・

この時の神吉城の城主を務めていたのは神吉頼定(かんきよりさだ)・・・頼定の神吉氏は、鎌倉討幕に尽力したあの赤松則村(あかまつのりむら・円心)(3月12日参照>>)の子孫ですが、宗家=赤松の衰退とともに播磨の土豪(地侍)として生き延び、この頃は、近隣の別所氏に味方していたのです。

前日、敵側の動きに対応するため、滝川一益(たきがわかずます)明智光秀(あけちみつひで)丹羽長秀(にわながひで)の軍勢を三日月山(兵庫県佐用市佐用町)に登らせた織田軍は、一方の秀吉と村重の軍を三木攻めの陣から引き払い、書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)まで撤退させ、明けた天正六年(1578年)6月27日、いよいよ神吉城への攻撃が開始されます。

まずは、北から東の山にかけて、信長の嫡男の織田信忠(おだのぶただ)(11月13日参照>>)、三男の神戸信孝(かんべのぶたか=織田信孝)林秀貞(はやしひでさだ=筆頭家老)細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斉)佐久間信盛(さくまのぶもり)らが、何段にも分かれて陣取りました。

ちなみに、この時、次男の織田信雄(おだのぶお・のぶかつ)は、先に志方の抑えに向かっています。

そこを、滝川一益、明智光秀・・・他に、稲葉一鉄(いなばいってつ)筒井順慶(つついじゅんけい)、荒木村重らが一気に神吉城へと攻め掛かり、またたく間に外構えを破って、神吉城を裸城にした後、次々と本城への堀に飛び込んで堀を崩し、数時間に渡って攻撃をくり返しますが、敵もさるもの・・・少々の苦戦を強いられ、さすがに一日で陥落させる事はできず、戦いは翌日へ・・・

翌・28日は、再び本城の堀の際まで攻め寄せ、大量の草で以って堀を埋め、築山を築いて攻め立てました。

この間に秀吉は、但馬(たじま=兵庫県北部)周辺の武将のもとへと出向いて彼らに織田家への忠誠を誓わせ、味方となった竹田城(兵庫県朝来市)(12月21日参照>>)に弟の羽柴秀長(はしばひでなが)を留め置いて、自らは再び書写山へと戻っています。

やがて、南側の攻めが手薄と判断した織田軍は、その南側に織田信包(のぶかね=信長の弟)を投入・・・さらに、信雄とともに志方に睨みを効かせていた丹羽長秀が若狭衆とともに城攻めに加わり、コチラは東から攻めたてました。

二つの櫓(やぐら)を構築し、大砲を撃ち、堀を埋め・・・さらに、東の攻めには滝川一益も加わり、隧道(ずいどう)を掘らせて敵方近くへ進み、そこからの攻撃で、敵の櫓や堀を壊していきます。

この攻め立てが昼夜を問わず行われた事で、さすがに精魂尽き果てた神吉城側から和睦の申し出がありましたが、この時は、信長から「YOUたち、徹底的にやっちゃいなヨ」の指示が出ていたので、ここで和睦に応じる事はなく、攻撃が続けられました。

やがて半月ほどが経った7月15日、夜になって滝川&丹羽の両軍が神吉城の東の丸へと突入し、翌・16日には中の丸まで攻め込んで頼定を討ち取り、天守に火を放ちました。

一方、西の丸を攻撃中の佐久間&荒木軍に対して、ここを防御していた神吉藤大夫(かんきとうだゆう=頼定の叔父)が投降・・・一命を助けられた藤大夫は志方城へと退去し、ここに神吉城は落城しました。

落城した神吉城を受け取った秀吉は、その勢いのまま志方城へ・・・包囲された志方城は、間もなく降伏し、人質を差し出して明け渡されます。

この一連の流れから、謀略によって織田方へと降った藤大夫が頼定を裏切って暗殺した(=なので助命された)との話もあるようですが、現在では、その話は後世の創作との見方が強く、藤大夫の助命は、その次の志方城明け渡しの説得を、彼にさせるための助命であったと考えられているようです。

とにもかくにも、先日の野口城に続いて、今回の神吉城&志方城を攻略して、ようやく秀吉は三木城に本腰を入れ、三木城陥落の後は宇野氏の諸城を攻める(4月24日参照>>)事になりますが・・・

その間に、あの上月城は落城するわ(7月3日参照>>)
村重は反旗をひるがえす(12月26日参照>>)
と、まだまだ話は尽きませんが、このへんの出来事の流れは【織田信長の年表】>>でどうぞ
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2015年6月21日 (日)

愛溢れる敗軍の将~平宗盛の汚名を晴らしたい!

元暦二年(1185年) 6月21日、 源氏との戦いに敗れた平宗盛が近江の国にて斬首されました。

・・・・・・・・・・・

平宗盛(たいらのむねもり)は、あの平清盛(たいらのきよもり)三男・・・長男の重盛(しげもり)&次男の基盛(もともり)は先妻さんとの子供なので、その後に清盛の正室となってドラマ等で活躍する平時子(たいらのときこ=二位の尼)にとっては、清盛との間にもうけた初めての男の子だったわけです。

Tairanomunemori400a ご存じのように、後白河法皇(ごしらかわほうおう)とタッグを組んで、平治元年(1159年)の平治の乱に勝利(12月25日参照>>)して以降、まさに全盛期(2月10日参照>>)を迎えていた父=清盛のもとで、順調に重職をこなし、着々を階段を上っていく宗盛でしたが、法皇の寵愛を受けていた建春門院滋子(けんしゅんもんいんしげこ=時子の妹)亡くなった(7月8日参照>>)安元二年(1176年)頃から法皇と清盛の間に亀裂が起きはじめ、その後の鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)治承三年の政変(11月17日参照>>)とで法皇が清盛に抑え込まれた事から、翌・治承四年(1180年)4月、法皇の第3皇子である以仁王(もちひとおう)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)を発し(4月9日参照>>)、それに応える形で、伊豆源頼朝(みなもとのよりとも)(8月17日参照>>)木曽源義仲(みなもとのよしなか)(9月7日参照>>)相次いで挙兵し、一連の源平合戦へとなだれ込んでいくわけですが・・・
(それぞれの事柄については【平清盛と平家物語の年表】からどうぞ>>)

そんなこんなの養和元年(1181年)2月、大黒柱だった清盛が死去(2月4日参照>>)・・・この時、すでに長男の重盛も次男の基盛もこの世にはなく、必然的に宗盛が平家一門の統率を取る立場となります。

ところが、皆様ご存じのように、この頃からの平家一門は、頼朝との墨俣川の戦い(3月16日参照>>)こそ勝ったものの、北陸から攻めて来る木曽義仲との対戦では、翌・寿永二年(1183年)5月9日の般若野の合戦(5月9日参照>>)を皮切りに、
5月11日の倶利伽羅峠の戦い(5月11日参照>>)
6月1日の篠原の戦い(6月1日参照>>)
と続いて敗退し、とうとう
7月25日には一門揃って「都落ち」
【維盛の都落ち】参照>>
【忠度の都落ち】参照>>
となってしまうわけで・・・

しかも、この都落ちでは、ともに西国へ連れてくはずだった後白河法皇を比叡山へと逃してしまうという大失態・・・もちろん、都落ちの最終決断をしたのも宗盛なわけで・・・

おかげで『平家物語』での宗盛さんは、ことごとく腰抜けの愚鈍な大将として描かれ、これまでの小説やドラマ等でも、宗盛さんがカッコ良かったためしがありませんww

もちろん、『平家物語』は軍記物・・・この中で、長兄の重盛を聖人のように描き、すぐ下の弟=知盛(とももり=清盛の4男)智将と描いているため、それらの話を面白くするためには、彼らに対比するかのようなダメダメ宗盛にしないといけないわけですが・・・

とは言え、『平家物語』以外の『源平盛衰記』でも、公家の日記である『玉葉(ぎょくよう)や僧侶の史論書である『愚管抄(ぐかんしょう)、そして鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でも、同じようにボロカスに書かれてますので、ある程度、そんな感じの人だったのかも知れませんが、それこそ「勝てば官軍、負けれ賊軍」で、負け組がカッコ悪く記録されるのは歴史の常って事で・・・最近では、少し見方を変えた再評価の動きもあるとの事・・・

というのも、実は宗盛さんという人は、かなりの平和主義で家族思いの愛溢れる人だったのです。

たとえば、父=清盛が亡くなった後すぐに、後を継いだ宗盛が後白河法皇政権を返上して院政を復活させているのですが、これも、平家が屈したというよりは、
「お父ちゃんとちごて、僕は、事を荒立てたくないねん」
という、宗盛さんの意思から来た物・・・もちろん、周辺の人々に言わせりゃ、そこが腰抜けなとこなんでしょうが、結局は、「より高みを勝ち取るタイプ」ではなく「現在の平和を維持していくタイプ」の人だったというだけなのかも知れません。

・・・で、都落ちした平家一門は、その後、水島の戦い(10月1日参照>>)で義仲に勝利した事や、その義仲と頼朝とで源氏トップ争い(1月21日参照>>)をしてくれた事で、ちょっと盛り返しますが、結局は
寿永三年(1184年)2月の一の谷>>
翌・文治元年(1185年)2月の屋島>>と来て
続く3月には、とうとう壇ノ浦(山口県)まで追い詰められますが、この間にも、宗盛は、義仲と和睦交渉してみたり、一の谷の戦いの直前まで、後白河法皇からの
「僕が和平の仲介したるから、今は合戦をするな」
という忠告を真に受けておとなしくしていたりと、やっぱりここでも、かなりの平和主義が垣間見えます。

しかし、ご存じのように壇ノ浦・・・初めは平家優勢だったのが、源氏軍の大将=源義経(みなもとのよしつね=頼朝の弟)による掟破りの船頭狙いで形勢逆転され(2008年3月24日参照>>)、やがて配色が濃くなった平家軍の皆々が、次々と海に身を投げる中、あの二位尼が、大事な宝剣(三種の神器)と幼い安徳天皇を抱えて入水・・・海の藻屑と消え、ここに平家は滅亡しました(2007年3月24日参照>>)

と、ここで宗盛さん・・・彼も潔く海に飛び込んで欲しいところですが、残念ながら、どうして良いかわからず右往左往してるところを見かねた家臣が、彼を船から突き落とすようにしてドッボ~~ン

その光景を見た宗盛の息子=清宗(きよむね)も慌てて飛び込みますが、実はこの父子、メチャメチャ泳ぎがうまい・・・ス~~ッと海の奥深く~っと本人は思う物の、ついつい体が反応しちゃって何度もプカプカ浮いてしまって沈まない・・・

そうこうしているうちに、源氏の船が近づいて来て、息子の清宗を救いあげると、その光景を見ていた宗盛は自らその船に近付いて来て救助・・・つまり、源氏軍に生け捕りにされたのです。

それこそ『平家物語』をはじめ、皆がこぞって意気地なし宗盛談をアピールするこの場面ですが、後に宗盛が語ったところによると
「日頃から、合戦に負けて死ぬ時は息子と一緒に…と心に決めてたんやけど、ふと見たら清宗が助けられたよって…」
と・・・一緒に死のうと決めていた息子と最期まで一緒にいたいと思っての投降・・・という事のようです。

そう、宗盛さんは家族思いのマイホームパパなのです。

以前、出産のために奥さんが亡くなった時は冠位を返上して仕事を休んで泣きあかし、その後、男手一つで子供たちを立派に育て上げたイクメンなんです。
(後妻をもらったという説もありますが、あくまで不明ですので)

もちろん、自分の家族だけを特別に・・・という勝手な愛ではなく、裏切った者や反抗した者も、その命助けるほどの慈愛に満ちた人だったのです。

やがて、義経とともに東国へ下った宗盛父子は、腰越で止められた義経(5月24日参照>>)と別れて鎌倉へ・・・ここで、敗軍の将として頼朝と対面する事になりますが、予想通り『吾妻鏡』などでは、「命乞いするばかり」と、その態度の醜さを語っていますが・・・

その後、京都へと戻される事になった宗盛父子は、その旅の途中の元暦二年(1185年) 6月21日近江国(滋賀県)の篠原(野洲または勢多の説あり)にて斬首されるのです。

その日、昨日まで一緒にいた清宗と別々の場所に連れて来られた宗盛は、二人が引き離された理由を察したとみえ、
「清宗はどこですか?
ホンマやったら、先の合戦で死んだらええもんを、京都でも鎌倉でも恥をさらしたんは、清宗がおったからこそですねん。
たとえ首を斬られる場所が別々でも、遺体は一緒のところにお願いします」

と、清宗の事を気にする中、聖の説法で少し落ち着いたところを、橘公長(たちばなのきみなが)なる武将に首を跳ねられますが、その直前
「清宗は、すでに斬られたんですか?」
と尋ねた言葉を最後に、39歳の生涯を閉じたのです。

一方、彼が最後の最後まで心配した清宗は、宗盛斬首の知らせを聞くと・・・
「父の最期はどうでしたか?」
と尋ね
「立派でしたよ。安心してください」
と言われると、
「そうですか…ほな、もう思い残す事もありません、どうぞ斬って下さい」
と言って潔く首を差し出し、16歳の命を散らしました。

そりゃ、あーた、仕事バリバリで出世街道まっしぐらな一方で、家に帰れば子煩悩なイクメンで家事もバッチリ!なんて、絵に書いたキムタクのような人がいたなら、それに越した事はござんせんが、悲しいかな、人間、持ってる身体は一つ、少なくとも、仕事バリバリやってる間は育児はできないわけで・・・

しかも、いちいちすべての事にベストを尽くしてたら、その身ももたないわけで・・・

確かに、この時代・・・しかも武士という身分で、争いを好まず現状維持をヨシとし、家族を1番に思う事は腰抜けの愚将だったかも知れませんが、見方を変えれば、天皇家とうまくやりながら政権のトップクラスに居続けて国家の平和を保つ事も大切な事で、実際には、それにだって、しっかりとした政治手腕が必要だったんじゃないか?と思います。

そういう意味では、宗盛さんは良きパパ、良き人物としては、なかなかに評価できる人ですが、結局は時代が彼に微笑まなかったという事なのでしょう。

・・・と、今回は、ちょっと持ち上げ過ぎかも知れませんが、ご命日という事で汚名返上の回にしてみました(*´v゚*)ゞ
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2015年6月13日 (土)

鎌倉幕府・第2代執権~北条義時の最期の謎

 

元仁元年(1224年)6月13日、鎌倉幕府の第2代執権を務めた北条義時が、62歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

北条義時(ほうじょうよしとき)は、伊豆の豪族・北条時政(ときまさ)の息子・・・つまり、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)の奥さん=北条政子(まさこ)にあたります。

Houzyouyositokia400 その政子ネェが頼朝に嫁いだ頃は、未だ15~6歳の少年だったようですが、以来、父&兄とともに頼朝を助け、以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)平家討伐の令旨(りょうじ・天皇一族の命令書)(4月9日参照>>)を手にした頼朝が、治承四年(1180年)に伊豆で挙兵(8月17日参照>>)してからは、まさに、手足となって戦場を駆け巡って行動をともにしたのです。

残念ながら、兄の宗時(むねとき)は、続く石橋山の合戦(8月23日参照>>)で戦死していますが・・・

義時は、その後の一連の平家との戦い(【源平争乱の年表】参照>>)や、奥州藤原氏との合戦(8月10日参照>>)で戦功を挙げ、まさに天下人となった頼朝が右近衛(うこのえ)大将権大納言に任ぜられる(12月1日参照>>)建久元年(1190年)頃には、その頼朝から「義時をもって家臣の最となす」と評されるほどの信頼を得ました。

頼朝亡き後は、第2代鎌倉幕府将軍となった頼家(よりいえ=頼朝&政子の長男)のもとで採用された13人衆の合議制(4月12日参照>>)を行う御家人メンバーにも選ばれました。

その後、鎌倉幕府内のゴタゴタで、梶原景時(かじわらかげとき)(1月20日参照>>)比企能員(ひきよしかず)(10月15日参照>>)畠山重忠(しげただ)(6月22日参照>>)和田義盛(わだよしもり)(5月2日参照>>)などの有力御家人を次々と追い落とす一方で、父=時政&政子ネェとタッグを組んで、頼家に代わる実朝(さねとも=頼朝&政子の次男)第3代将軍に擁立(7月18日参照>>)しますが、その後、方針が合わなくなると父の時政までをも失脚させ(1月6日参照>>)、自らが鎌倉幕府・第2代執権となります。

(執権(しっけん)とは鎌倉幕府内で政所別当(一般政務・財政を行う所の長官)を務める者が、事実上、政務の最高責任者を兼ねる事で、義時の頃から、その責任者を執権と呼ぶようになったとされるので、初代執権は父の時政とも、初代の政所別当である大江広元(おおえのひろもと)(6月10日参照>>)とも…という複数説がある微妙な感じです)

しかし、そんな実朝も、政子ネェ&義時の意のままにならないようになりはじめた頃(11月24日参照>>)、なんと、今度は、その実朝が暗殺されるという一大事件が勃発・・・
【実朝・暗殺事件の謎】参照>>
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】参照>>
【謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期】参照>>

もちろん、そこに義時の黒幕説もチラホラ囁かれるのですが、一方で、このゴタゴタをチャンスと見た後鳥羽上皇(ごとばじょうこう=第82代天皇)を中心とする朝廷復権を願う軍団が、承久三年(1221年)5月『北条義時・追討令』を発令・・・ご存じ、承久の乱(じょうきゅうのらん)です。

しかし、この時も、幕府を開いた頼朝の直系亡き中で、その意志を継ぐカリスマ性を持つ政子ネェを看板に据えて、自らはナンバーⅡとなって見事勝利し、逆に、幕府をより盤石な物としました。
【北条政子・涙の演説】参照>>
【承久の乱に翻弄された幸薄き仲恭天皇】参照>>

ところが、その乱からわずか3年後・・・その最期の時は突然訪れます。

『吾妻鏡』によれば・・・
その前日の朝9時頃、持病の脚気(かっけ)に加えて霍乱(かくらん)を併発して重態に陥った義時を、卜筮(ぼくぜい)で占ったところ、「夜の9時には治りまっせ」と出ますが、念のために、あっちからもこっちかも神職や僧を招いて祈祷を行い、病魔を乗り移らせるための身代わりも5種用意して病気治癒に挑んだものの、容体は重くなるばかり・・・

明けて元仁元年(1224年)6月13日午前5時、死を覚悟した義時は、自らが担ぎあげた時の将軍=藤原頼経(ふじわらのよりつね=第4代将軍)の許可を得て出家・・・「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とくりかえし唱え続ける中の午前10時、夜を徹して止む事が無かったその念仏が、ついに止まったと思うと、外縛印(げばくいん=指を交互に組んで両掌をピタリと合わせる状態の合掌)を胸の上で固く結んだままの静かな最期であったと・・・

その死にざまが、あまりに立派で「順次の往生(じゅんじのおうじょう=死んですぐに浄土に生まれ変わるだろう)」と絶賛の嵐だったのだとか・・・

んん?♪ちょと待ってちょと待ってお兄さん~♪
確かに、脚気は持病・・・そもそも、あの実朝暗殺の時も、本来なら義時が実朝に付き添うはずだったのが、その脚気のために体調不良となって急きょ欠席したおかげで、とばっちりを喰らわなくてすんだわけで・・・それは良いとして、

もう一つの霍乱て・・・
何となく、字を見ても怖そうな雰囲気ですが、これ、今で言うところの急性胃腸炎の事で、激しい腹痛とともに嘔吐と下痢を繰り返す・・・

とても落ち着いて、静かにお経を読んでいられ無いのではないかと・・・

実は、この『吾妻鏡』・・・ご存じのように鎌倉幕府の公式記録なものですから、「幕府に都合の悪い事は書かない」あるいは「変えて書く」というクセがありまして・・・現に、初代将軍=頼朝の死もウヤムヤだったり、義時父ちゃんの時政の出自もはっきり書いてなかったり・・・結構重要な事が抜けてます。

で、そうなると、やっぱり登場するのが謎を含む異説・・・

『小倉百人一首』(5月27日参照>>)の撰者として有名なあの藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記=『明月記(めいげつき)には、後鳥羽上皇のオカルト的な話(7月13日の後半部分参照>>)とともに、あの承久の乱の京方の首謀者の一人が、敗戦から6年後に捕まったくだりも書かれているのですが・・・

乱から6年後・・・ですから嘉禄三年(1227年)、って事は、もちろん義時は亡くなり、なんなら政子ネェも2年前の嘉禄元年(1225年)に死去してる(7月11日参照>>)わけですが、一方で、この犯人(一応犯人と呼びますスンマセン)はその間、ずっと地下に潜伏していたわけで、当然ですが、「彼を匿った誰かがいる」って事になるわけで、かなり厳しい取り調べが行われたのだとか・・・

で、その取り調べの苦痛に耐えかねた犯人が、
「義時が妻が義時にくれけむ薬、我に是くはせて早殺せ!」
と叫んだと・・・

つまり、義時は、後妻さんが盛った薬によって毒殺されたような事が書いてあるんです。

この後妻さんとは伊賀の方と呼ばれる女性で、義時の後継者に娘婿の一条実雅(いちじょうさねまさ)を推すも失敗して流罪になった人で、今回捕まって重大な事口走った犯人というのは実雅の兄である尊長(そんちょう)という僧侶・・・なんか、友達の友達のそのまた友達ほど遠く無いところが信憑性ありますなぁ

また、他にも、家臣に刺殺された説(『保暦聞記』)、近習の深見三郎なる人物が「父の仇!」と叫びながら刺殺した説(『続本朝通鑑』)などの説もあります。

まぁ、ご本人もカッコつけたいでしょうから、「のたうちまわって…」ていうのを「静かに落ち着いて…」と書き換えるのは公式記録としてはアリな気もしますが、さすがに毒殺や刺殺の場合はスルーし難い・・・ちょっと気になりますね。
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2015年6月 9日 (火)

戦国の終わりとともに…福島正則の転落人生

元和五年(1619年)6月9日、江戸幕府が広島城無断修築の罪で福島正則を信濃川中島へ減封しました。

・・・・・・・・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の叔母の子として生まれたとされる福島正則(ふくしままさのり)は、その秀吉とは24歳も離れているとは言え、上記の通り従兄弟(いとこ)・・・18歳で小姓の一人として初参戦した播磨(はりま=兵庫県南西部)三木城の籠城戦(3月29日参照>>)以来、常に秀吉のそばにあり、その戦いぶりを見つめながら成長して来た武将でした。

Fukusimamasanori400a 秀吉の天下分け目の一つである山崎の合戦(6月13日参照>>)でも武功を挙げ、もう一つの天下分け目である賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(2011年4月21日参照>>)でも、「賤ヶ岳の七本槍」のうちの一人(2009年4月21日参照>>)に数えられるほどの大活躍をみせます。

すぐにカッとなる激情型で行動力のある性格は、水を得た魚のように、戦国という世を泳ぎやすかったのかも知れません。

しかし、そんなこんなの慶長三年(1598年)、これまで、彼の道しるべとなっていたであろう秀吉が亡くなり(8月9日参照>>)、真っ二つに分かれた豊臣家臣団の間で、あの関ヶ原の戦いが勃発します。

この時、東軍の大将である徳川家康(とくがわいえやす)最も警戒したのが、この正則だったと言います。

なんせ、その豊臣恩顧度はハンパないですから・・・

しかし、一方で、そのカッとなりやすい性格は、うまく扱えは強い味方ともなる・・・そう、正則は、この関ヶ原で家康に敵対していた石田三成(いしだみつなり)メチャメチャ仲が悪かったんですね。

戦場にて自らの手で武功を勝ち取って出世する武闘派の正則は、政権内で事務的な事が得意な文治派=三成を、どーも好きになれない・・・なんせ、秀吉が死んだ翌年には、三成襲撃事件(3月4日参照>>)も起こしてますから・・・

・・・で、この家臣同士の亀裂を利用して豊臣家内の反対派を一掃しようとする家康は、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いあり(4月1日参照>>)と称して、軍勢を率いて東へと向かい、自分が留守の間に、三成が伏見城を攻撃した(8月1日参照>>)との報告が入るなり、会津征伐を取りやめて三成と一戦交えるためにUターンして戻るのですが・・・(7月24日参照>>)

その事を、率いていた軍勢に発表したのが「小山評定(おやまひょうじょう)と呼ばれる会議・・・なんせ、この時、家康が率いている軍団は、あくまで豊臣政権下の会津征伐軍であって、参加している武将のほとんどが自分の妻子たちを大坂に残して来ている状態ですから、(大坂にいる三成と戦うんやけど)このまま僕に着いて来てね」と家康が言っても、「ハイ、そうですか」と従ってくれるかどうかは微妙なわけです。

・・・で、家康は、この時、1番に警戒していた正則を、黒田長政(くろだながまさ)を通じて、その激情型の性格をくすぐるがごとく説得し、真っ先に味方につけたのです。

こうして、会議の席にて、「君ら、どーする?」と聞く家康に対し、いち早く手を挙げ、
「家康さんについて行きます!」
と宣言した正則・・・(7月25日参照>>)

最も豊臣恩顧の正則が手を挙げれば、当然、その場にいた豊臣恩顧の武将たちも、我も我もとこぞって手を挙げ、この小山評定の場にいた会津征伐軍は、ほぼそのまま、関ヶ原の東軍となります(当然ですが、全員ではなく、ここで袂を分かった武将もいます)

こうして、関ヶ原へ向かう一連の戦いを駆け抜け(そのあたりは【関ヶ原の年表】で>>)本番の関ヶ原でも率先して大活躍した正則は、関ヶ原戦前の清州24万石から、戦後は、安芸・備後2ヶ国49万石の大出世を果たし、西軍総大将だった毛利輝元(もうりてるもと)(9月28日参照>>)の抑えとして、あの広島城に入ったのです。

この前年には、後継ぎである養子=福島正之(ふくしままさゆき=正則の甥)に、家康の養女=満天姫(まてひめ=家康の姪)を娶っていて、まさに、徳川政権内でノリノリ状態に・・・(正之が亡くなった後も徳川との縁が切れるのを嫌がって、満天姫をそのまま、実子の福島忠勝(ふくしまただかつ)の嫁とした説あり)

とは言え、一方では、やはり豊臣に対しての忠誠心も強く、家康が、秀吉の遺児=豊臣秀頼(とよとみひでより)と面会した二条城での会見の時には、かの加藤清正(かとうきよまさ)らとともに、イザという時には豊臣とともに命を捨てる覚悟のカッコイイ逸話(3月28日参照>>)も残してくれています。

まぁ、かなりの酒豪で、お酒による失敗の逸話も残してくれていますが・・・(6月6日の後半部分参照>>)

しかし、それも・・・やがて、清正をはじめとする豊臣恩顧の武将が次々と世を去る(6月24日参照>>)のにともなって、正則の価値が大暴落していくのです。

もはや遠慮なく、正則への警戒を露わにし始めた家康は、大坂の陣の時には正則を江戸留守居役とし、息子の忠勝だけが参戦・・・そして慶長二十年(1615年)5月、豊臣は滅亡(5月8日参照>>)、天下は徳川の物となりますが、そんなこんなで元号が変わった元和三年(1617年)、広島城が大水害に見舞われるのです。

太田川のデルタ地帯に建つ広島城は、三の丸まで浸水し、石垣や櫓まで崩れてしまうという膨大な被害となりました。

早速、正則は、城修復の許可願いを提出します。

なんせ、未だ天下を平定したばかりの徳川幕府は、慶長二十年(1615年)7月に発布した「武家諸法度(ぶけしょはっと)(7月7日参照>>)で、諸大名の行動を厳しく制限していて、幕府の許可なくしては、城に釘1本打ってはいけない状況だったですから・・・

ところが、待てど暮らせど、その許可が下りず・・・このままでは、城そのものが倒れかねない状況となり、やむなく正則は、城下町の堤防1m高くし、壊れた石垣をチョコッと修復しちゃいます。

・・・が、お察しの通り、そこを
「待ってました~」
とばかりに追及したのが、亡き家康の後を継いだ第2代江戸幕府将軍=徳川秀忠(ひでただ)

慌てて修理した部分を破却して弁明する正則でしたが、破却が不十分だとして、元和五年(1619年)6月9日安芸・備後の領地を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5千石に減封・転封されてしまったのです。

引越し後、正則が忠勝に家督を譲って隠居して出家した事で、何とか福島家は生き残る事となりましたが、もはや、以前の姿は見る影もありません。

『名将言行録(めいしょうげんこうろく)には、この時の正則の心境が語られています。

「弓ってな…合戦の時にはメッチャ役立つ武器やん。
けど、合戦の無い時は袋に収まって蔵に保管される。
俺って弓やな。。。
不要になったら、川中島の蔵に入れられるんや」

この5年後の寛永元年(1624年)、正則は64歳の生涯を閉じます。

戦国に生まれた比類無き猛将は、平和な世の訪れとともに、暗い土蔵の中に身を投じる事となったのです。

おそらく、彼こそが、家康&秀忠の父子2代が最後の最後まで警戒した豊臣の武将だったのかも知れません。
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2015年6月 2日 (火)

戦国最大のミステリー・本能寺の変~『信長公記』より

 

天正十年(1582年)6月2日は、『本能寺の変』のあった日です。

・・・・・・・・・・

と・・・ご存じのように戦国最大のミステリーと言われる織田信長(おだのぶなが)暗殺事件『本能寺の変』・・・

故に、今もなお新説が登場し、常に様々な憶測が流れ、考え方も多種多様で定まらない・・・まさに、謎が謎呼ぶミステリーです。

そんな中で、昨年、本能寺の変に関する大きな発見(石谷家文書)がありましたが(【日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ】参照>>)、そのページでも書かせていただいたように、光秀でなくとも、カワイイ家臣の、妹の嫁ぎ先から「攻めないで~お願い゚゚(´O`)°」と頼まれたら、助けてやりたいのが人の常・・・

なので、現代人の感覚なら、まずは上司を説得し、戦争回避のために走り回るわけですが・・・

残念ながら、その感情のままに動けないのが戦国の常・・・いざという時には、親兄弟で敵同士に回ってでも、家と血筋を残す事が最大の愛情表現なのですから・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

明智光秀(あけちみつひで)の本能寺の変という行動は、今、1番身近にいる織田家側の者(同盟者を含む)すべてを、瞬時にして敵に回し、自分はもちろん、自分の身内も家臣も、家臣の家臣も、その家族も・・・とにかく、関わった者全員を、そんな周囲からの危険に晒す行為なわけで、それはそれは、ものすんごいリスクなわけですから、よほどの勝算が無い限り決行できない事なわけで・・・

しかも、ご存じのように、光秀は、現在の織田家内で、信長が最も優秀だと思っているほどデキる武将なわけで・・・

だったら、その「よほどの勝算」てぇのを見せてもらおうじゃないの(`ε´)
って思うけれど、肝心のそれが、未だに見つからない・・・

遺体が無いとは言え、信長ともあろう人が、万が一、この本能寺で死んでいなければ、当然、後々出てくるはずですから、この事件後に歴史に登場しない以上、(100歩譲って別の場所で亡くなったとしても)この時点で亡くなった事は確かですから、後世の我々は、明確な理由を見ないまま、結果だけを見さされている状態なので、憶測やら何やらが飛び交う戦国最大のミステリーとなるわけで・・・

それは、意図的に隠された物かも知れないし、単に見つかって無いだけかも知れないし、これから見つかるかも知れないし、すでに見つかっているのに解釈を間違っているのかも知れない・・・

現に、先ほど触れた石谷家文書の中から、本能寺の変後の京都での様子を綴った元関白の近衛前久(このえさきひさ)から長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近=石谷光政に宛てた手紙が、新たに発見された事が、つい一昨日(2015年5月30日)にも発表されていますから、この先も、新たな発見、新たな解釈がどんどん進んでいく事は必至・・・

まぁ、小説家さん&作家さんとしては、そこに自らの思う理由を結びつけて、ステキなドラマに仕上げてくださってるわけですが、、、

そんな中で、今回は、原点に戻って『信長公記』に綴られた「本能寺の変」を見て参りましょう。

原点というのは、そう、なんだかんだでこの『信長公記』は、今なお1級史料とされ、信長研究においては無くてはならないと位置付けられている史料・・・なんせ、その信長の家臣をやっていた太田牛一(おおたぎゅういち・ うしかず・ごいち)が、ほぼ同時代に書いたメモ的な物を、晩年になって客観的にまとめたとされているわけですから・・・

ただし・・・
たとえば今回の本能寺の変なんかの場合は、牛一さん本人は現場にいませんでしたから、おそらく、内容は人づて・・・もちろん、複数の人に、いわゆる新聞記者のように聞き取り調査したのでしょうが、悪気は無いにしろ、伝聞のまま、歪んで伝わってる可能性もゼロではありません。

また、完成した時期が、牛一さんの亡くなる前年頃=慶長十七年(1612年) 頃とされていますから、その時々のスポンサー的実力者との兼ね合いもあって、書けなかったり、書かなかったり、変えて書いちゃったり、って事もあるかもしれません。

それこそ、現代社会で言われるネットリテラシーが重要・・・あまたある情報の中から、真偽見極めて、必要な情報を振るいにかける能力を身につけながら読み解いていく事が大切です。

・‥…━━━☆

天正十年(1582年)6月1日夜・・・居城=亀山(現在の亀岡)の城を出た明智の軍勢は【明智越体験記】参照>>)、翌日の夜明けを迎えるあたりで桂川を越えた後、信長の宿所である本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)を取り囲みました。

やがて、周囲の微妙な雰囲気に気付いた信長&小姓たちは、最初は、警固の兵士同志でケンカでもしてるのか?と、あまり気にとめていなかったのですが、そんな中で明智勢が鬨(とき)の声を挙げて御殿へ鉄砲を撃ち込んで来たので、さすがの信長も
「謀反か?誰や?」
と、問いただすと、森蘭丸(もりらんまる=長定)
「明智の軍勢と見受けます」
と・・・

で、ここで、有名な
「是非に及ばず」

これは「やむおえない」「仕方がない」という意味とされます。

まもなく、御殿へと討ち入って来る明智勢に対して、御堂に詰めていた御番衆も御殿へと集結し、一団となって迎え撃つ態勢をとりますが、早くも斬って出た数人が討死し、続いて、御中間衆をはじめとるす24人も討死・・・

御殿の中では、先の蘭丸や、その弟の坊丸(長隆)力丸(長氏)など御小姓衆たちも、次々と敵勢へ打ち掛かっては討死していく中、この頃には騒ぎを聞きつけて馳せ参じ、敵に紛れ込んで寺内へと駆け込む者もいて、いずれも比類なき働きをしますが、なんせ多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

そんな中で信長は、初めは弓を取り、二つ三つと取り替えては矢を放って応戦していましたが、いずれの弓も、いくつか矢を放つと弦がプツリと切れてしまったために、その後は槍を持って戦うも、肘に槍傷を受けて退きます。

この時、それまで側に付き添っていた女性たちに対し
「女の子らは、もうえぇで…急いで脱出しぃ」
と言って、彼女たちを退去させました。

すでに御殿には火がかけられ、信長のすぐ近くまで燃えて来たので、敵に最期の姿を見せたくないと思ったのか?信長は御殿の奥深くに入り、内側から納戸の戸を閉め、中で切腹したのです。

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錦絵に描かれた本能寺の変(歌川貞秀画・大阪城天守閣蔵)

一方、この日、同じく京都の妙覚寺(みょうかくじ=京都市中京区)に滞在していたのが、信長の嫡男=信忠(のぶただ)です(信忠については11月28日参照>>)

一報を聞いた信忠は、早速、信長に合流しようと妙覚寺を出発しますが、出たところで村井貞勝(むらいさだかつ)父子が駆け付け
「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と進言・・・

「ならば…」
と、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出します。

ここでの評議では、
「退去しましょう」
と進言する者もいましたが、信忠は、
「これほどの謀反や!敵は、万が一にも逃さんやろ。ザコ共の手に掛かるようなカッコ悪い事になるくらいやったら、ここで切腹するわ」
と言います。
ちなみに、信長の弟=長益(ながます=後の有楽斎)や、信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の秀信)らは無事に逃げています(12月13日参照>>)

そうこうしているうちに、程なく、明智の軍勢が攻め寄せて来て戦闘となり、あの桶狭間の所で名を挙げた毛利良勝(もうりよしかつ=新介・新左衛門・秀高とも)(5月19日参照>>)をはじめとする多くの者が撃って出て、寄せて来た敵勢と火花を散らします。

もちろん、そこには、本能寺で生き残った信長配下の者も合流して・・・

しかし、そんな中で、明智勢が、隣接する近衛前久邸の屋根に上り、御所を見下ろす形の位置から、弓と鉄砲での猛攻撃を開始・・・ここで信忠側に多くの死傷者が出て、だんだんと戦う者の数が少なくなる中、とうとう、明智勢が御所の中へと突入し、建物に火を放ちました。

やがて信忠の近くまで火が回って来た時、
「俺の遺体は、板を引き剥がして、床下に隠してくれ!」
と言い残し、信忠は自刃したのです。

天正十年(1582年)6月2日辰の刻=午前8時前後・・・信長父子と家臣たちを討ち果たした光秀が、
「逃亡者がいるかも知れんから、家々を徹底的に探せ!」
と命じた事から、明智の兵士たちは、洛中の町家一軒々々に踏みこんで落人を探索していきますが、その様子は目も当てられず、都は大変な騒ぎになったという事です。
(今回の文章は、原文の読み下しではなく、討死した方々のお名前ほか、一部の内容を省いております)

・‥…━━━☆

以上、『信長公記』では、このあと、本能寺での異変を聞いた安土城の留守番役の方々の様子が描かれますが、上記の通り、『信長公記』には、「是非に及ばず」は出て来ますが「敵は本能寺にあり」は出て来ませんww(確か、川角太閤記が初出です)

また、ドラマ等では、よく、死を覚悟した信長が♪人間五十年~♪って舞うシーンがあったりしますが、アレは桶狭間(おけはざま)の戦いの出陣直前のエピソードです(5月19日参照>>)

あ、例の愛宕山の連歌会の話(5月28日参照>>)は出てきますよ(*^-^)

他にも、このブログでは、
本能寺・前夜>>
その時、安土城では…>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
家康暗殺計画(431年目の真実)>>
突発的な単独犯>>
四国説>>
信長の首は静岡に?>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>
などなど、本能寺の変についてはイロイロと展開しておりますので、よろしければご覧あれ!
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