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2015年6月 2日 (火)

戦国最大のミステリー・本能寺の変~『信長公記』より

 

天正十年(1582年)6月2日は、『本能寺の変』のあった日です。

・・・・・・・・・・

と・・・ご存じのように戦国最大のミステリーと言われる織田信長(おだのぶなが)暗殺事件『本能寺の変』・・・

故に、今もなお新説が登場し、常に様々な憶測が流れ、考え方も多種多様で定まらない・・・まさに、謎が謎呼ぶミステリーです。

そんな中で、昨年、本能寺の変に関する大きな発見(石谷家文書)がありましたが(【日本史の新発見&発掘…2014年総まとめ】参照>>)、そのページでも書かせていただいたように、光秀でなくとも、カワイイ家臣の、妹の嫁ぎ先から「攻めないで~お願い゚゚(´O`)°」と頼まれたら、助けてやりたいのが人の常・・・

なので、現代人の感覚なら、まずは上司を説得し、戦争回避のために走り回るわけですが・・・

残念ながら、その感情のままに動けないのが戦国の常・・・いざという時には、親兄弟で敵同士に回ってでも、家と血筋を残す事が最大の愛情表現なのですから・・・(7月14日【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】参照>>)

明智光秀(あけちみつひで)の本能寺の変という行動は、今、1番身近にいる織田家側の者(同盟者を含む)すべてを、瞬時にして敵に回し、自分はもちろん、自分の身内も家臣も、家臣の家臣も、その家族も・・・とにかく、関わった者全員を、そんな周囲からの危険に晒す行為なわけで、それはそれは、ものすんごいリスクなわけですから、よほどの勝算が無い限り決行できない事なわけで・・・

しかも、ご存じのように、光秀は、現在の織田家内で、信長が最も優秀だと思っているほどデキる武将なわけで・・・

だったら、その「よほどの勝算」てぇのを見せてもらおうじゃないの(`ε´)
って思うけれど、肝心のそれが、未だに見つからない・・・

遺体が無いとは言え、信長ともあろう人が、万が一、この本能寺で死んでいなければ、当然、後々出てくるはずですから、この事件後に歴史に登場しない以上、(100歩譲って別の場所で亡くなったとしても)この時点で亡くなった事は確かですから、後世の我々は、明確な理由を見ないまま、結果だけを見さされている状態なので、憶測やら何やらが飛び交う戦国最大のミステリーとなるわけで・・・

それは、意図的に隠された物かも知れないし、単に見つかって無いだけかも知れないし、これから見つかるかも知れないし、すでに見つかっているのに解釈を間違っているのかも知れない・・・

現に、先ほど触れた石谷家文書の中から、本能寺の変後の京都での様子を綴った元関白の近衛前久(このえさきひさ)から長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の側近=石谷光政に宛てた手紙が、新たに発見された事が、つい一昨日(2015年5月30日)にも発表されていますから、この先も、新たな発見、新たな解釈がどんどん進んでいく事は必至・・・

まぁ、小説家さん&作家さんとしては、そこに自らの思う理由を結びつけて、ステキなドラマに仕上げてくださってるわけですが、、、

そんな中で、今回は、原点に戻って『信長公記』に綴られた「本能寺の変」を見て参りましょう。

原点というのは、そう、なんだかんだでこの『信長公記』は、今なお1級史料とされ、信長研究においては無くてはならないと位置付けられている史料・・・なんせ、その信長の家臣をやっていた太田牛一(おおたぎゅういち・ うしかず・ごいち)が、ほぼ同時代に書いたメモ的な物を、晩年になって客観的にまとめたとされているわけですから・・・

ただし・・・
たとえば今回の本能寺の変なんかの場合は、牛一さん本人は現場にいませんでしたから、おそらく、内容は人づて・・・もちろん、複数の人に、いわゆる新聞記者のように聞き取り調査したのでしょうが、悪気は無いにしろ、伝聞のまま、歪んで伝わってる可能性もゼロではありません。

また、完成した時期が、牛一さんの亡くなる前年頃=慶長十七年(1612年) 頃とされていますから、その時々のスポンサー的実力者との兼ね合いもあって、書けなかったり、書かなかったり、変えて書いちゃったり、って事もあるかもしれません。

それこそ、現代社会で言われるネットリテラシーが重要・・・あまたある情報の中から、真偽見極めて、必要な情報を振るいにかける能力を身につけながら読み解いていく事が大切です。

・‥…━━━☆

天正十年(1582年)6月1日夜・・・居城=亀山(現在の亀岡)の城を出た明智の軍勢は【明智越体験記】参照>>)、翌日の夜明けを迎えるあたりで桂川を越えた後、信長の宿所である本能寺(ほんのうじ=京都市右京区)を取り囲みました。

やがて、周囲の微妙な雰囲気に気付いた信長&小姓たちは、最初は、警固の兵士同志でケンカでもしてるのか?と、あまり気にとめていなかったのですが、そんな中で明智勢が鬨(とき)の声を挙げて御殿へ鉄砲を撃ち込んで来たので、さすがの信長も
「謀反か?誰や?」
と、問いただすと、森蘭丸(もりらんまる=長定)
「明智の軍勢と見受けます」
と・・・

で、ここで、有名な
「是非に及ばず」

これは「やむおえない」「仕方がない」という意味とされます。

まもなく、御殿へと討ち入って来る明智勢に対して、御堂に詰めていた御番衆も御殿へと集結し、一団となって迎え撃つ態勢をとりますが、早くも斬って出た数人が討死し、続いて、御中間衆をはじめとるす24人も討死・・・

御殿の中では、先の蘭丸や、その弟の坊丸(長隆)力丸(長氏)など御小姓衆たちも、次々と敵勢へ打ち掛かっては討死していく中、この頃には騒ぎを聞きつけて馳せ参じ、敵に紛れ込んで寺内へと駆け込む者もいて、いずれも比類なき働きをしますが、なんせ多勢に無勢・・・(一般的には、明智軍=1万3000に対し、織田勢は、信長=100名、この後の信忠=500名と言われています)

そんな中で信長は、初めは弓を取り、二つ三つと取り替えては矢を放って応戦していましたが、いずれの弓も、いくつか矢を放つと弦がプツリと切れてしまったために、その後は槍を持って戦うも、肘に槍傷を受けて退きます。

この時、それまで側に付き添っていた女性たちに対し
「女の子らは、もうえぇで…急いで脱出しぃ」
と言って、彼女たちを退去させました。

すでに御殿には火がかけられ、信長のすぐ近くまで燃えて来たので、敵に最期の姿を見せたくないと思ったのか?信長は御殿の奥深くに入り、内側から納戸の戸を閉め、中で切腹したのです。

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錦絵に描かれた本能寺の変(歌川貞秀画・大阪城天守閣蔵)

一方、この日、同じく京都の妙覚寺(みょうかくじ=京都市中京区)に滞在していたのが、信長の嫡男=信忠(のぶただ)です(信忠については11月28日参照>>)

一報を聞いた信忠は、早速、信長に合流しようと妙覚寺を出発しますが、出たところで村井貞勝(むらいさだかつ)父子が駆け付け
「もはや本能寺は敗れて、御殿も焼け落ちましたよって、敵は必ずここも攻めて来るでしょう。ここより、二条の新御所(同中京区)の方が、守りが堅固で立て籠もりやすいと思います」
と進言・・・

「ならば…」
と、隣接する二条御所へと移動した信忠は、御所にいた誠仁親王(さねひとしんのう=正親町天皇の第5皇子)和仁親王(かずひとしんのう=誠仁親王の第1皇子で後の後陽成天皇)
「ここは戦場となりますので、お二人は内裏(だいり)の方へお移りください」
と、別れの挨拶をして送り出します。

ここでの評議では、
「退去しましょう」
と進言する者もいましたが、信忠は、
「これほどの謀反や!敵は、万が一にも逃さんやろ。ザコ共の手に掛かるようなカッコ悪い事になるくらいやったら、ここで切腹するわ」
と言います。
ちなみに、信長の弟=長益(ながます=後の有楽斎)や、信忠の嫡男=三法師(さんほうし=後の秀信)らは無事に逃げています(12月13日参照>>)

そうこうしているうちに、程なく、明智の軍勢が攻め寄せて来て戦闘となり、あの桶狭間の所で名を挙げた毛利良勝(もうりよしかつ=新介・新左衛門・秀高とも)(5月19日参照>>)をはじめとする多くの者が撃って出て、寄せて来た敵勢と火花を散らします。

もちろん、そこには、本能寺で生き残った信長配下の者も合流して・・・

しかし、そんな中で、明智勢が、隣接する近衛前久邸の屋根に上り、御所を見下ろす形の位置から、弓と鉄砲での猛攻撃を開始・・・ここで信忠側に多くの死傷者が出て、だんだんと戦う者の数が少なくなる中、とうとう、明智勢が御所の中へと突入し、建物に火を放ちました。

やがて信忠の近くまで火が回って来た時、
「俺の遺体は、板を引き剥がして、床下に隠してくれ!」
と言い残し、信忠は自刃したのです。

天正十年(1582年)6月2日辰の刻=午前8時前後・・・信長父子と家臣たちを討ち果たした光秀が、
「逃亡者がいるかも知れんから、家々を徹底的に探せ!」
と命じた事から、明智の兵士たちは、洛中の町家一軒々々に踏みこんで落人を探索していきますが、その様子は目も当てられず、都は大変な騒ぎになったという事です。
(今回の文章は、原文の読み下しではなく、討死した方々のお名前ほか、一部の内容を省いております)

・‥…━━━☆

以上、『信長公記』では、このあと、本能寺での異変を聞いた安土城の留守番役の方々の様子が描かれますが、上記の通り、『信長公記』には、「是非に及ばず」は出て来ますが「敵は本能寺にあり」は出て来ませんww(確か、川角太閤記が初出です)

あ、例の愛宕山の連歌会の話(5月28日参照>>)は出てきますよ(*^-^)

他にも、このブログでは、
本能寺・前夜>>
堺の商人・黒幕説>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
家康暗殺計画説>>
突発的な単独犯>>
四国説>>
信長の首は静岡に?>>
アンケート「本能寺の真相は?」>>
などなど、本能寺の変についてはイロイロと展開しておりますので、よろしければご覧あれ!
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コメント

「わずかな手勢しかいなかった」と言うのも本能寺の広さを考慮したのか、それとも人手が足りなかったのか。この少人数での兵力があだになりましたね。
ところで丹羽長秀の子孫と言う人がサッカー選手なんですね。今日初めて知りました。

投稿: えびすこ | 2015年6月 2日 (火) 17時17分

今日は「裏切りの日」です。
本能寺の変の首謀者は、光秀だったのか?
ミステリアスな事件です。

乙女ゲームの光秀さんは、かなり美化されていました。

投稿: やぶひび | 2015年6月 2日 (火) 17時44分

茶々さま、ご無沙汰いたしておりますm(__)m
毎回興味深い話題を、ありがとうございます♪


基本的な質問で恐縮なのですが…。
「是非に及ばず」と「是非に及ばす」。
どちらが正しいのでしょう?
及ばずと及ばすでは、ぜんぜん意味合いが違ってきますよね。
あちこちの歴史サイトや本で調べてみたのですが、判然といたしません…。
おわかりになられる範囲で結構です。
ご教示いただければ幸いでーす(*^O^*)

投稿: あいこ | 2015年6月 2日 (火) 20時53分

えびすこさん、こんばんは~

本文にリンクさせていただいたいくつかのページにも書かせていただいてますが、この時、信長は秀吉の要請で中国攻めの総仕上げに向かう準備をしていて、安土城には、ほぼ準備が整った軍団が、3日後くらいには出陣できる手はずとなってました。

私としては、やはり、この6月2日に京を離れる予定をしていた島井宗室に会いたかったのでは無いか?と…
なので、「(出陣前に)ちょっと京に行ってみるわ」的な感覚だったので、側近だけ連れて来ていたのではないかと…近くに信忠もいますしね。

ただ、先に中国に向かうはずの完全武装の1万越えの軍団を連れた光秀が謀反して来るとは思ってもみず、そこを見誤ったって感じですかね?

投稿: 茶々 | 2015年6月 3日 (水) 02時19分

やぶひびさん、こんばんは~

ホントです。
光秀が真犯人かさえ疑わしい…とんでもないミステリーだと思います。

投稿: 茶々 | 2015年6月 3日 (水) 02時20分

あいこさん、こんばんは~

アッほんとだ!!(゚ロ゚屮)屮
「す」になってますね。。。
「ず」です「ず」です。
完全に、キーボードを斜め右上の打ち間違いです…申し訳ないですm(_ _)m
早速、本文、訂正しときました。

もし、言いかえるとしたら
「是非もなし」か
「是非に叶わず」とかですね。

「是非に及ばす」は、私のようなSとZのキーボード打ち間違いじゃないんでしょうか?

投稿: 茶々 | 2015年6月 3日 (水) 02時38分

茶々さん、こんばんは!横スレしますねhappy01
あいこさんへ
「是非に及ばず」は漢文表記だと「不及是非」となります。細かく見ると、
名詞「ぜひ」+格助詞「に」+動詞「およぶ」の未然形+否定(打消)の助動詞「ず」
となります。間違えちゃいけないのが、この語は古語に当たるので、現代語のような五段活用(口語体)ではなく、四段活用(文語体)が適用されます。
したがって、「およぶ」は、
未然形「ば」
連用形「び」
終止形「ぶ」
連体形「ぶ」
已然形「べ」
命令形「べ」
となり、助動詞「ず」は、
未然形「ず(ざら)」
連用形「ず(ざり)」
終止形「ず」
連体形「ぬ(ざる)」
已然形「ね(ざれ)」
命令形「ざれ」
と変化します。助動詞「ず」は未然形に接続する語なので「およばず」が正しいと思います。
また、直江兼続が徳川家康に送り付けた「直江状」にも記載があるのですが、こちらの場合には「不及是非候」となっていて「ぜひにおよばざりそうろう」と読みますが、「不及是非」のように語句を切っているのであれば「ぜひにおよばす」と読むべきでしょうね。

投稿: 御堂 | 2015年6月 3日 (水) 19時52分

茶々さん、こんばんは。
本能寺で思い出したのですが、信長、蘭丸は薩摩に逃れたという説があります。
その後も秀頼、秀頼の子の国松、真田幸村が薩摩に逃れたという説や実際に宇喜多秀家が薩摩に逃れました。そういうのを見ますと薩摩は落ち武者の隠れ家と言う感じがしますが、如何でしょうか?
でも信長に対して複雑なのです。我が家は信長の弟の信行の家系なので信長に殺され、二男の信雄につかえさせられました。だから何とも言い難い気持ちです。

投稿: non | 2015年6月 3日 (水) 21時04分

御堂さん、こんばんは~

くわしく、ありがとうございます。
古語は難しいです。

投稿: 茶々 | 2015年6月 4日 (木) 03時36分

nonさん、こんばんは~

薩摩は遠いですから、やはり「支配の及ばない場所」というイメージが強いのでしょうね。

しかも、現に、関ヶ原の時に宇喜多秀家が匿われていた事が、さらに「あるかも知れん」感を増しているのでしょうね。

信行さんの…ですか。。。
少し複雑な気持ちですね。

投稿: 茶々 | 2015年6月 4日 (木) 03時40分

茶々様、早速のご回答を誠に有難うございましたm(_ _)m
また、御堂様には解りやすいご解説をいただき、お手数をおかけいたしましたm(_ _)m
お二人に心より感謝申し上げます。


「及ばず」が正解なのですね、承知いたしましたー(o^-^o)v
「不」は否定の意味だということは解りますので、素直に「ず」と読んで構わないのですね。
「及ばす」と書いてある歴史サイトが意外と多くあって、以前から読み方に疑問を持っておりました。
お二人のおかげでスッキリいたしましたです♪


また、疑問なことが出てまいりました際には、ご教示いただけますと大変嬉しいです。
これからもどうぞ宜しくお願いいたします(o^-^o)

投稿: あいこ | 2015年6月 4日 (木) 13時15分

あいこさん、こんばんは~

返信、ありがとうございます。
御堂さんは、専門的に歴史を勉強されている方なので、とてもおくわしいですよ(*^-^)

投稿: 茶々 | 2015年6月 5日 (金) 02時16分

初めまして。
本能寺の変に限らず、時間が経過するに連れてあれこれ脚色されるのが世の常ですね。
出来ることなら天正十年にタイムスリップして、光秀本人に聞いてみたいといつも思います。
もしかすると意外と単純な動機だったりしてね(笑)。
これは私の考えですが、きっと勝算はあったと思います。ただそれが光秀の独りよがりで、いざ事を起してみると「こんなはずでは…」って感じだったのでは。
また、読ませていただきます。 では!

投稿: masa | 2015年6月 5日 (金) 20時30分

masaさん、こんばんは~

>きっと勝算はあったと思います。

私も、そう思います。
本文にも『「是非に及ばず」は、「やむおえない」とか「仕方がない」という意味と解釈される』と書かせていただきましたが、

この「仕方がない」は
「光秀ほどの人物なら、相当な計算をして万端な準備を整えて事に及んだのだろう」→だから「仕方がない」という意味だ…という意見が多く、私もそうだろな?と思っています。
なので、光秀なりの勝算はあったはずなんですが… そこが計算通りに行かないのが時の運という物でしょうか。。。
その時の運となったモノが、未だ見つかっていない気がします。

投稿: 茶々 | 2015年6月 6日 (土) 02時15分

茶々さんのプロフを読んで。
私も大阪生まれ、冬の陣の今福の戦いがあった辺りで育ちました。
通った中学校も大阪城の近く、でも今は統合されてなくなりましたが。
えぇ…って感じでした。

投稿: masa | 2015年6月 8日 (月) 20時41分

masaさん、こんにちは~

>冬の陣の今福の戦いがあった辺り…

そうなんですか?
ひょっとして、テリトリーがかぶってるかも知れませんね。
私は、統合されて、名前が残った方の中学校です。

投稿: 茶々 | 2015年6月 9日 (火) 16時20分

茶々様、こんばんは。

本当に本能寺の変は戦国時代最大のミステリーだと思います。

本能寺の変後安土城にあった信長の財宝を光秀は坂本城に運びこんで

光秀死後家臣がどこかに隠したそうですが

光秀の埋蔵金伝説もミステリーですね。

投稿: 新発田重家 | 2015年6月10日 (水) 00時33分

新発田重家さん、こんばんは~

そうですね。
財宝の行方もミステリーですね。

そもそも、すでに家督を譲っていた信長なので、安土城にはさほど財宝は無かったてな説もありますが、あったとしても蒲生賢秀はパクッて無いだろうし、1日遅れで光秀が入城した時は、どんくらいのお宝があったんでしょうね?
家臣が隠した埋蔵金伝説もあっちこっち複数ありますしね。

吉田兼見の日記は2つあるし、勧修寺晴豊の日記も本能寺の部分だけ別に保管されてるし…
なんか、いっぱい隠し事がありそうですね。
ま、だからこそミステリーなのでしょうが

投稿: 茶々 | 2015年6月10日 (水) 02時48分

個人的な話題はこれを限りにします、お許しを。
私も名前の残った方です。因みに当時は可能だった越境入学組でした。
お互い思い違いでなければ、校歌の歌い出しは ♪あしたさぎりのはれゆけば錦城はゆる誇りかに♪ でした。

投稿: masa | 2015年6月10日 (水) 20時17分

masaさん、こんばんは~

ハイ!
私も、♪文化の理想を仰ぎつつ♪、毎日、地下鉄に乗って通っておりましたです(*^-^)

最近、日生球場の跡地にショッピングモールができましたよ!
地元の話は、これくらいにしときますww

投稿: 茶々 | 2015年6月11日 (木) 02時39分

茶々さん、こんばんは。
本能寺の変はよく分からないですね。
女信長だとあの後信長と光秀は欧州に渡ります。
薩摩に逃れたと言う説もありますからよく分からないですね。
それはそうと私の先祖は本能寺の変の頃は信長に関係しています。私の先祖は信長の実の弟の信行(信勝)です。その次男かその又弟の子孫が私みたいです。と言いましてもそこから分家の分家ですのであまり関係しません。
家の先祖の兄が津田信澄で信孝に討たれました。先祖はどうも信雄の家臣でした。でも信雄が改易された後は家来の家来の蜂須賀の家臣に秀吉によってされました。これを見ましても何だか秀吉は怪しい感じがします。そのお蔭で世相と離れた生活をしたと思いますが・・・何だか不自然な感じがします。信行の子孫から見た感想です。すみません長々と書きました。

投稿: non | 2015年6月22日 (月) 00時42分

nonさん、こんばんは~

ホント、本能寺の変はよくわからないですね~

被害者の無防備さも、犯人の動機も、その後の展開も、不思議だらけで、イロイロと勘繰ってしまいますね。

投稿: 茶々 | 2015年6月22日 (月) 01時41分

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