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2015年7月17日 (金)

関ヶ原に花と散る~細川ガラシャ=明智玉の壮絶最期

慶長五年(1600年)7月17日、大坂城に入る事を拒んだ細川忠興の妻=ガラシャが昇天しました。

・・・・・・・・・・

本能寺の変関ヶ原の戦い・・・細川ガラシャことお玉(たま=玉子)は、戦国屈指のこの二つの出来事に翻弄された女性です。

Dscn1467ab600 永禄六年(1563年)、明智光秀(あけちみつひで)三女(四女説あり)として生まれた玉が、細川藤孝(ほそかわふじたか=後の幽斎)の息子=細川忠興(ただおき)のもとに嫁いだのは天正六年(1578年)・・・彼女が16歳の時でした。

光秀&藤孝がともに主君と仰ぐ織田信長(おだのぶなが)の命による政略結婚ではありましたが、お相手の忠興も玉と同い年の16歳ですし、何より、この時の明智家&細川家の結びつきの大切さったら・・・

なんせ、ご存じのように、先代将軍の足利義輝(よしてる)暗殺(5月19日参照>>)された時、奈良の興福寺に幽閉されていた義輝の弟=足利義昭(よしあき=当時は覚慶)を救い出して、越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)のもとへと連れて行ったのが藤孝で、その義昭と信長を結びつけたのが光秀・・・(10月4日参照>>)

そのおかげで永禄十一年(1568年)に、信長は義昭を奉じて上洛(9月7日参照>>)・・・信長の畿内制圧&第15代将軍・足利義昭の誕生(10月18日参照>>)となるので、まさに二人は将軍擁立の立役者なわけで・・・

そんな両家が結ばれるという事は、結婚する当人たちにとっても良縁だったのです。

祝言こそ、こじんまりした質素な物だったようではありますが、結婚の翌年には長女が誕生し、そのまた翌年には長男が誕生し・・・と、最初の4年間は才色兼備を絵に描いたような美人でステキな奥さんに、忠興もメロメロで、新婚さんは幸せな日々を過ごしました。

この間、藤孝が丹後12万石を与えられたので、家族皆で宮津(みやづ=宮津市)にお引越しをしています。

ところが、ご存じ天正十年(1582年)・・・父の光秀が、あの本能寺の変を起こします。

この時、光秀は、当然、細川家にも協力を要請するのですが、藤孝&忠興父子の答えはNo!(6月9日参照>>)

その証として、父子は(もとどり)を切って(頭を丸めて)主君の喪に服し、主君の仇を父に持つという理由で玉を離縁として味土野(みどの=京都府京丹後市)の山里に幽閉したのです。

明智家時代からの女房衆とわずかな側近のみで幽閉状態となった玉は、
「腹黒なる御心ゆえに自らも忠興に捨てられ…」
と恨みムンムンの手紙を父=光秀に宛てて書いたとも言われますが、そうこうしている間に光秀は山崎の合戦(6月13日参照>>)で敗退し、居城へ戻る途中の山科小栗栖(おぐるす)にて死亡・・・

変の2日後には坂本城も落ちて、玉の母や姉、その姉の夫で重臣の明智秀満(あけちひでみつ)など、明智家の人々は、ことごとく城と運命をともにしたのです。(6月15日参照>>)

それから約2年間・・・玉の幽閉生活が終わりを迎えるのは天正十二年(1584年)の事・・・

かの山崎の合戦で主君の仇を討った事で、織田政権内での地位を上げた(6月27日参照>>)豊臣秀吉(とよとみひでよし=当時は羽柴秀吉)が、さらに賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)にも勝利し、続く小牧長久手の戦い(11月16日参照>>)をおっぱじめて、まさに信長亡き後の政権を掴みはじめたのが、この天正十二年でした。

そんな秀吉快進撃の一翼を担ったのが忠興だったわけで、その功績によって秀吉が忠興と玉の復縁を認め、玉は再び忠興の妻として、大坂の細川邸(大阪市中央区森ノ宮中央付近)に移ったのです。

「あぁ、やっと幽閉から解放されるぅ~」
と思いきや、待っていたのは、モラハラ忠興による、幽閉以上に厳しい監禁生活だったのです。

宣教師のルイス・フロイスの書いた『日本史』によると・・・
忠興は、玉を監視する者=2名を雇い、朝から晩まで、屋敷に出入りする者を、その日時までチェックさせて細かく報告させるばかりか、ごく親しい者しか玉への伝言は許さず、また、その伝言も、必ず内容を監視役にチェックさせ、その検閲が通った内容しか、玉には伝えられなかったのだとか・・・

この頃のモラハラっぷりな逸話として有名なのは、
庭の手入れだか何だかをしていた小者が、そばを通った玉の美しさに見とれて一瞬フリーズ・・・それを見た忠興が激怒して、その場でその者を斬り捨て、刀にこびりついた血を玉の小袖で拭き取ったところ、玉は驚くどころか、平気な顔をして、その血のついた小袖を2日も3日も着続けていたので、忠興が
「お前はヘビか!」
と言ったところ
「鬼の嫁にはヘビがお似合いですやろ?」
と答えたとか・・・

また、ある時、食事に髪の毛が入っていたのを見つけた玉が、そっと隠すように取り除いたところ、忠興が
「お前は、ヘタこいた料理人をかばうんか?」
とこれまた激怒し、料理人を呼んで手討ちにし、その首を食事中の玉の膝の上に乗せますが、彼女は顔色一つ変えずに座り続けていたとか・・・

・・・と、どこまで信用できるかは謎な逸話ではありますが、実際に、気に入らなくて手討ちにした家臣を数えてみたら36人いたので、36人=三十六歌仙にちなんで『歌仙』と名付けたとされる忠興本人の愛刀が現実に残っていたりするので、やっぱり短気でハラスメント満載な人だった可能性大ですね。

結局、この事から、玉は心を病んでしまう・・・そう、鬱になってしまうんですね。

しかし、そんな彼女の心を救ってくれたのがキリスト教でした。

上記の通り、厳しい監視下に置かれていたため、彼女が実際に教会に足を運んだのは、ただ1度きりだったようですが、フロイスの『日本史』によると、その時に対応した高井コスメ修道士必死のパッチで返答せねばならないような高い知識のスルドイ質問&反論を浴びせかけたらしい・・・

その日の問答でキリスト教を理解した玉は、先に入信した侍女のいと(洗礼名=マリア)から洗礼を受け、ガラシャという名のもとにキリスト教徒となります。

しかし、それと前後してキリスト教徒には厳しい時代が・・・そう、天正十五年(1587年)、島津を討つべく(4月17日参照>>)九州に乗りこんだ秀吉が、まるで異国に乗っ取られたかのような九州の現状と、そこに見える外国の思惑を垣間見て、あの2日連続のキリシタン禁止令を発布するのです。
【天正十五年六月十八日付覚】>>
天正十五年六月十九日付朱印(松浦文書)>>

そんな中、九州での合戦を終えて大阪の自宅に戻った忠興が見た物は・・・嫁から侍女から家臣から、嫁に近しい者順に、多くの者がキリスト教徒になってしまっている現実・・・

「ワシの留守中に何やっとんじゃぁ!」
と激怒する忠興でしたが、何と言っても驚いたのは玉の変わりようでした。

あの心の病はすっかり消え、元気ハツラツ!ファイト1発!で健康バリバリの生き生きとした生活を送る玉・・・結局、この先の10何年かの夫婦は、むしろ、波風立たぬ穏やかな日々を過ごす事となります。

やがて訪れる慶長五年(1600年)・・・

秀吉亡き後の豊臣政権内での主導権争いで、西国の雄=毛利輝元(もうりてるもと)を担いだ石田三成(いしだみつなり)西軍と、五大老筆頭の徳川家康(とくがわいえやす)東軍による天下分け目の関ヶ原の戦いです。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】で>>)

この時、夫の忠興は、会津征伐に向かう家康に従って北上中・・・実は、この家康の留守を狙って伏見城を三成が攻撃したのが、関ヶ原の1発目の戦いなんです(8月1日参照>>)

・・・で、この伏見城攻防戦と同時進行で行われたのが、三成による諸大名の妻子の囲い込み・・・大坂城周辺に屋敷を持つ大名たちの妻子を大坂城に登城させ、言わば質として確保し、諸大名が西軍に味方するようにし向けたわけです。

当時、侍女をしていた(しも)という女性が後に書いた『霜女覚書(しもじょおぼえがき)によると・・・
慶長五年(1600年)7月13日、この噂を耳にした玉は、夫=忠興が、以前から、三成と対立する立場にあった事から、まずは、忠興の妻である自分が人質に取られるであろう事を予感して準備していたと言います。

案の定、まもなく親交のあった尼僧を通じて、大坂城への登城を打診された玉は、すかさず、これを拒否・・・さらに16日になって正式に登城の通告がもたらされますが、そこには、「仮に拒絶するならば、力づくでも大坂城に連れて行く」との内容が・・・

果たして、その日の夜、大坂方の武将が細川邸を取り囲むと、娘・二人を大阪教会オルガンチノ神父に預け、息子の嫁をお隣さんの宇喜多家へ避難させた玉は、夫=忠興と、長男=忠隆(ただたか)に宛てた手紙を霜に託して、彼女らにも退去をうながし、自らは礼拝堂へ・・・

そこに、稲富祐直(いなどめすけなお)の裏切りによって防戦し切れなくなった家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ=少斎)がやって来たので、自ら髪を束ね、首を差しのべて秀清に討たせたのです。

時に慶長五年(1600年)7月17日細川ガラシャ=享年38歳・・・お察しの通り、キリシタンである彼女には自殺が許されない事から、秀清による昇天となり、その秀清は、玉を殺害した直後に屋敷に火薬をまいて点火し、自らも自刃して果てました。

この玉の壮絶な死によって、これ以降、「同じような事が続けば、かえって諸大名の反発をかうだけだ」として、大坂方による妻子人質作戦は行われなくなったという事です。

彼女の死は、『細川家記』では「御義死」と表現されています。

つまり、「死を以って、後の徳川政権における細川家の立場を守った」と・・・まさに、その通り・・・

おそらくは、あの監禁うんぬんの時点で、すでにお互いに夫婦の愛情なんて無かったと思われる二人・・・特に玉にとっての忠興は、うっとぉしい事この上ないモラハラ夫であったはずです。

しかし、最後の最後は夫の・・・いや、自らの婚家である細川家のために・・・そこには、愛だの恋だのを越えた何かがあるのです。

19や20歳の若者なら、愛だの恋だのが人生の最優先事項・・・もちろん、それはそれで青春の1ページとしてすばらしき事には違いないのですが、人間、歳を重ねて行くと、最優先の重要事項が徐々に変化して来るわけで・・・

その時の玉の中にあったのは、愛だの恋だのを越えた戦国の女の意地??いや、それは、大地のように広く、海のように深い、母のごとき本能だったのかも知れません。

♪ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
  花も花なれ 人も人なれ ♪
 細川ガラシャ:辞世

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越中井

現在、細川邸があったと伝えられる場所には、台所の井戸だったとされる『越中井(えっちゅうい)が残っています。
(「越中井」のくわしい場所や地図などは本家HPの大阪歴史散歩:上町台地へ>>別窓で開きます
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

彼女の胸の中には、諦めがあったのか、覚悟があったのか、どちらでしょう。彼女の葬儀が行われた時は、忠興は泣いた…と云う話が伝わっていますが、それなら、もうちょっと優しくしなさいよ…と思っちゃいます(流石に甘い甘い甘口に、とは言わないけど)。去年辺りには、ガラシャの為のミサもありましたよ。もしかしたら彼女、心中では夫を“アテ”にしてなかったのでは?と思っています。

投稿: クォ・ヴァディス | 2015年7月17日 (金) 10時39分

クォ・ヴァディスさん、こんにちは~

対応した修道士は「これほど明晰な日本人女性と話した事がない」と言っていたらしいですから、かなり頭の良い女性だったと思うので、ベストタイミングな死を、自ら予見していたかも知れませんね。

平和な時なら、死を意識する事も無いと思いますが、世は戦国ですし、心を病んだ時に、何度も「死にたい」と思っていたかも知れない彼女にとって、最高のタイミングだったのかも知れません。
辞世の句を読むと、そんな気がします。

投稿: 茶々 | 2015年7月17日 (金) 15時31分

茶々さん、こんばんは。
玉の子孫は細川護煕でなく細川隆一郎、細川隆元の方らしいですね。
細川忠興が勝手に玉が逃がした奥さんを忠隆に言ったら断ったので廃嫡にし、弟の忠利にしたそうですが、そういう勝手をしても誰も文句を言わないとは忠興はかなり暴君だと思いました。
ところで人質作戦ですが、間違っていません。ただ細川家は特殊でしょう。加藤家みたいに事前に逃げたところはありますが、人質になるのも逃げるのも断るのは滅茶苦茶です。今でも熊本では細川家は人気が無いです。加藤家の方が人気があります。
私なんかだと細川の本家筋にあたる阿波細川でなく急に出てきた藤孝の方が主家なのは認めがたい感じがします。

投稿: non | 2015年7月17日 (金) 21時28分

nonさん、こんばんは~

ウソかマコトか、大坂城に入って、夫に情報を送ったという山内さんちの千代さんの話もありますね。

投稿: 茶々 | 2015年7月18日 (土) 01時46分

茶々さん、こんにちは。
それは聞いたことがあります。嘘か真か分かりませんが、西軍の情報は筒抜けでしたね。
どうも昔から西軍は負けることが多いですが、何か原因はあるのでしょうか?

投稿: non | 2015年7月18日 (土) 12時14分

nonさん、こんにちは~

>昔から西軍は負けることが多い

??よくわかりません。
ごめんなさい。

投稿: 茶々 | 2015年7月18日 (土) 17時34分

こんにちは。nonさんのコメントを見ると細川家が人気がないと言う事実に驚きました。肥後の鳳凰重賢のような名君もいるのに。土佐の山内家といい、どうも江戸時代の近代大名は誤解が多く人気がないですね。(加藤にしろ長宗我部にしろ改易にされたのは自業自得なところがありますが) あと忠興の奥州家の祖先の顕氏は時の北朝の中心人物だったことを考えると阿波本家よりもすごいかもしれませんね。

投稿: 貧乏武士 | 2015年7月18日 (土) 18時41分

貧乏武士さん、熊本城のコスチュームしている人は加藤家関係が多いです。他は武蔵ぐらいでしょうか。それくらいに細川は名君がいましたけどやはり加藤家なのです。熊本の殿様は加藤清正と言います。高知も山内は人気ないですね。容堂は人気がありますが、他は全然です。長宗我部が殿様です。でも不思議な事に両方とも治世は短いです。後は大変ですね。
細川は徳島と言うイメージが今でも四国では強いです。熊本と言いますと加藤清正とか小西行長と言う人が多いです。

茶々さん、すみません。
でも不思議なのですが西軍が勝った戦は少ないです。応仁の乱も政治的には東軍の勝ちだし、大内が来なかったら東軍の圧勝でした。
西軍が勝ったのは戊辰戦争ぐらいだと思います。
源平も源氏の勝ちですから・・・

投稿: non | 2015年7月18日 (土) 21時23分

貧乏武士さん、こんばんは~

熊本では加藤清正さんの事を「セイショコさん」(清正公という意味です)と呼ぶファンの方が多いですね。

投稿: 茶々 | 2015年7月19日 (日) 02時08分

nonさん、こんばんは~

背景も経緯も繋がりも違うので、西が東がとは言えない気がしますが、秀吉は東からの敵に防戦を張っていましたし、家康は「敵は西から来る」と言い残してますから、東西の意識はあったかも知れませんね。

頼朝と秀吉は東北にも勝ってます。

投稿: 茶々 | 2015年7月19日 (日) 02時14分

そう言えば頼朝、秀吉は東北まで攻め入りましたね。秀吉は小田原で終わりでなく、東北平定もしています。
ある意味ではこの二人はその後の基礎を作った感じがします。
東軍と西軍ですが、きちんと分けられませんね。西軍でも東側もいますから・・・

投稿: non | 2015年7月19日 (日) 13時03分

nonさん、こんばんは~

応仁の乱でも、名称は西軍と東軍ですが、それはあくまで本陣を置いた場所が、京都市内の東側か西側かと言うだけですし、しかも両者の間は数百メートルしか離れてませんから、あんまり西だから、東だからという意識は無かったように思います。

投稿: 茶々 | 2015年7月20日 (月) 03時45分

( ̄▽ ̄)数奇な運命のガラシャ・・。
歴史に翻弄された女性の哀しさですか・・。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男ね | 2015年7月20日 (月) 12時02分

根保孝栄・石塚邦男ねさん、こんにちは~

戦国の女性は生きるにも死ぬにも気合が入ってそうです。

投稿: 茶々 | 2015年7月20日 (月) 14時25分

>すでにお互いに夫婦の愛情なんて無かったと思われる二人・・

そうなんですか?
逆に見える私がオカシイのかな?

投稿: ことかね | 2015年7月22日 (水) 13時15分

ことかねさん、こんにちは~

確かに…
愛情の裏返しって事もあれば、戦国ゆえの表現かも知れませんので、様々な愛の形があるかも知れませんね。

忠興&ガラシャの息子たちの場合、長男は前田家との縁を切らずに父と敵対し、次男も大坂の陣で豊臣に属して父と敵対し…結果、後を継いだのは三男ですが、これらは戦国独特の愛情表現ですからね。
心の奥底は計り知れないです。

投稿: 茶々 | 2015年7月22日 (水) 16時23分

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