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2015年8月28日 (金)

織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦

永禄八年(1565年)8月28日、織田信長が斎藤方の美濃堂洞城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

父=織田信秀(おだのぶひで)の時代から、隣国同志でドンパチやっていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)・・・しかし、美濃のマムシと呼ばれた斉藤道三(さいとぷどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)と信秀の息子=信長(のぶなが)の結婚で、天文十八年(1549年)頃には、ひとまず和平が保たれたものの(4月20日参照>>)、やがて信秀が亡くなり、弘治二年(1556年)に、かの道三が嫡男=義龍(よしたつ)との合戦に敗れて(4月22日参照>>)政権交代すると、再び、険悪状態に・・・

そんな中、道三戦死の直後から度々美濃侵攻を繰り返しつつ、信長は弘治三年(1557年)には、弟=信行(のぶゆき)を中心とした家中の反対派を一掃して(11月2日参照>>)織田家内を一つにし、永禄三年(1560年)には、あの桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)名を挙げました

とは言えこの間、名将の義龍によって侵攻を阻まれまくっていた信長でしたが、永禄四年(1561年)5月、その義龍が亡くなって、わずか14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継いだ事をキッカケに、その日のうちに美濃へと侵攻開始・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)、続く23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と立て続けに勝利した後、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した事から、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きます。

さらに永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、この状況を見て、美濃の武将の中には、自ら織田方に味方する者も現れはじめます。

そんな中で、いち早く手を挙げていたのが加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子・・・当然ですが、信長は大喜びで彼らを傘下とし、「兵糧の準備をしといてちょ」金50枚を進呈しています。

しかし、ちょっと困った事が・・・

実は佐藤忠能・・・かねてからの信長の侵攻に備えて、近くの関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)や、堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)岸信周(きしのぶちか)らと、「信長が来よったら、3人でやったろな!」と三者による同盟を結んでいたのです。

その証として忠能は、自らの娘を岸信周に人質として預けてもいました。
なので、今回の内応は、しばらくの間は、ひた隠しに隠されていたわけですが・・・

Douhorakassenncc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あの犬山城の占拠から間もなく、その犬山から木曽川を挟んで対岸にあった大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市)と、そこに隣接する多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)の二つの城を、信長配下の丹羽長秀(にわながひで)が攻めて落城させると、敗走した兵の多くが堂洞城へと逃げ込みました。

信長は堂洞城へと使者を派遣し、岸信周に織田方に降るよう説得しますが、信周は激しく拒否・・・この頃には、佐藤忠能の動向も知れ渡っており、人質に差し出されていた彼の娘は、岸勢によって磔にされて処刑されたと言います。

こうなると、もう交戦しかありません。

裏切り者の佐藤の加治田を攻めるべく準備を整える長井道利は、堂洞に岸勢と多治見勢を配置し、自らは関より数キロ離れた位置に本陣を構えます。

永禄八年(1565年)8月28日・・・敵の動きを知った信長が堂洞と関を分断すべく高畑山(岐阜県加茂郡富加町高畑)に本陣を置き、堂洞城を囲みます。

その日は、風の強い日でした。

信長は、自ら馬に乗って駆けまわり、周囲の状況を判断して
「おのおの松明(たいまつ)を作って持ち寄り、塀の際に集合して一気に四方から投げ入れろ!」
との指示を出します。

一方、織田勢の堂洞城包囲に気づいた長井道利は、後方から織田本陣を攻めようと、さらに下って、堂洞の3km手前あたりまで軍勢を配置しますが、結局は出撃せず・・・

そんな中、一部の兵を長井への対策として後方に向けながらも、信長の命令を遂行する織田勢は、次々と松明を投げ入れ、まずは二の丸を焼き尽くします。

追われた敵は、本丸へと合流して一団となりますが、この時、二の丸の入口にあった高い建物の上に上がって、一発必中の矢をを何度も射かけていたのが、『信長公記』の著者としてお馴染みの太田牛一(おおたぎゅういち・うしかず・ごいち)・・・「小気味イイ働きやな(*゚▽゚)ノ」と、その様子を見た信長さんに褒められたとか(って、自分で自分の事を『信長公記』に書くんや~っと思ったりなんかして…)

かくして正午頃に始まった戦いが、夕刻の午後6時を迎えた頃、暮れかかる空を前に、一気にケリをつけんがばかりに河尻秀隆(かわじりひでたか)本丸へ突入・・・続いて丹羽長秀勢も・・・

しかし、敵は敵とて敵ながらあっぱれな働きぶりで、かなりの抵抗・・・両者入り乱れての壮絶な戦いとなりますが、やがて大将各の皆々が次々と討死するにあたって、ついに堂洞城は落城しました。

その日の夜は佐藤くんちに泊めてもらい、翌日に首実検して本拠へと戻ろうとした信長でしたが、そこを、関方面から長井道利が、井ノ口(いのくち=岐阜市)方面から斉藤龍興が、約3000もあろうかという軍勢で追撃を仕掛けて来ましたが、残っている信長の軍勢は800ほど・・・

とても叶う人数では無いと判断した信長は、すかさず撤退する判断を下しますが、なにぶん多勢に無勢・・・多数の死傷者を出してしまいますが、信長自ら馬で駆けまわって指示しまくったおかげで何とか撤退に成功・・・

追撃を全うできなかった美濃勢は、大いにくやしがったとか・・・

この後、8月末から9月にかけての織田方の攻撃で関城が陥落した後、いよいよ、斉藤家の本拠である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜市・後の岐阜城)での戦いに向かう事になるのですが、そのお話は・・・
*2009年8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*同年8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
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