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2015年8月 6日 (木)

九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い

正平十四年・延文四年(1359年)8月6日、南朝方の懐良親王を担いだ菊池武光が、北朝方の少弐頼尚らを攻撃した筑後川の戦いがありました。

・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、その後の建武の新政(6月6日参照>>)で溝が入った事をキッカケに、後醍醐(ごだいご)天皇と敵対した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都での市街戦に勝利(6月30日参照>>)して開いた室町幕府北朝と、京都を追われた後醍醐天皇が奈良吉野にて開いた朝廷=南朝(12月21日参照>>)に始まる、ご存じ南北朝時代・・・
(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

この尊氏が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)、吉野へと逃げる後醍醐天皇は、自らの皇子たち幾人かを地方へと落ち延びさせましたが、そのうちの一人が、未だ8歳?(←生まれ年に諸説あり)という幼さで征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任命され、西国へと派遣された懐良(かねよし・かねなが)親王でした。

ちなみに名将=新田義貞(にったよしさだ)の警固を受けて北国へ(10月13日参照>>)と向かった恒良(つねよし・つねなが)親王尊良(たかよし・たかなが)親王(ともに懐良親王の異母兄)は、延元二年・建武四年(1337年)の越前金崎城(かねがさきじょう)の落城(3月9日参照>>)とともに北朝の手に落ちています。

その後の南朝は、それまで陸奥守(むつのかみ)に任じらた義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇=後醍醐天皇の皇子)とともに東北にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、延元三年・建武五年(1338年)に、馳せ参じた大坂で無念の死を遂げ(5月22日参照>>)、その1ヶ月余後には、かの新田義貞も討死(7月2日参照>>)する中、一方の北朝=尊氏は室町幕府初代将軍に就任(8月11日参照>>)・・・

翌延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇も崩御(8月16日参照>>)され、その後、正平三年・貞和四年(1348年)には名将=楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の遺児=楠木正行(くすのきまさつら)四条畷の戦い(1月5日参照>>)で討死・・・と南朝の主要人物が次々とこの世を去った事もあってか、

北朝は、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)という内部分裂も乗り越え、さらに八幡合戦(3月24日参照>>)の危機も乗り越え、父=尊氏に反発する足利直冬(あしかがただふゆ)らも抑え(3月13日参照>>)、ここに来てようやく北朝は、ほぼ揺るぎない物となり、すでに息子に将軍職を譲った尊氏も一安心・・・と、心が緩んだのか?正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、尊氏はこの世を去ります(4月30日参照>>)

そんな中で、唯一、北朝に対抗できる勢力を維持していたのが、西国へ下った懐良親王だったのです。

やっと出て来た~
ここまで前置き=これまでの経緯ですo(_ _)oペコッ

Kaneyosisinnou600a あの延元元年・建武三年(1336年)、父=後醍醐天皇と分かれて西へと向かい、瀬戸内海の水軍の力を借りながら数年の歳月をかけて九州へとたどりついた懐良親王は、いち時は、自らの南朝と、敵対する北朝勢力・・・

さらに、あの足利直冬の勢力との三つ巴の戦いを繰り広げていました。

もちろん、そこには、中央の彼らをそれぞれに支持する九州のもともとからの地元豪族がいたわけけで・・・

南朝の懐良親王についていたのが菊池武光(きくちたけみつ)で、そこに、室町幕府から鎮西総大将を命じられていた一色範氏(いっしき のりうじ)・・・彼が北朝ですね。

そして、尊氏と敵対して九州に入ってきた足利直冬を指示していたのが少弐頼尚(しょうによりひさ)でしたが、上記の通り、正平八年・文和二年(1353年)に山名時氏(ときうじ)に担がれた(6月4日参照>>)直冬が京都を目指して九州を去っってしまった事から、これをチャンスと見た一色範氏が少弐潰しとばかりに、頼尚に攻撃を仕掛けます。

この時、頼尚が支援を求めたのが菊池武光・・・もともと肥後(ひご=熊本県)を本拠地に九州一円の制覇を夢見ていた武光は、これ幸いと頼尚とともに一色勢を攻撃・・・大宰府(だざいふ)での戦いに勝利し、さらに日向(ひゅうが=宮崎県)畠山に勝利して、豊後(ぶんご=大分県)大友も破って、一色勢を九州から追い出しました。

ところが、ここで少弐頼尚が北朝への突然の寝返り・・・これを受けて正平十四年・延文四年(1359年)7月、菊池武光は懐良親王を頂いて、少弐を討つために進発したのです。

これが「筑後川の戦い」、または「大保原の戦い」、あるいは「大原合戦」、別名を「菊池合戦」と呼ばれる南北朝時代の九州における最大の合戦です。
(呼び方多過ぎひんか?)

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大保原合戦図(国立国会図書館蔵『三井郡史蹟調査委員編『懐良親王と三井郡』より)

筑後川を挟んで南の高良山に親王&菊池、北の鰺坂(あじさか)(福岡県小郡市)に少弐・・・

まさに南北に布陣して両者が対峙する事になりますが、菊池勢は、なかなか渡河できずに攻めあぐねておりました。

しかし7月19日の真夜中、武光自らが5千騎を率いて夜襲を決行・・・川を渡って攻撃を仕掛けようとします。

しかし、これを察知した少弐側は、すかさず、敵が攻撃し難いであろう湿地帯=大保原の沼地に撤退して陣取り、さすがの菊池も、それ以上は、思うように進めません。

しばらくの間、かなり近い距離で睨みあう両者・・・

やがて正平十四年・延文四年(1359年)8月6日夜、菊池武政(たけまさ=武光の息子)率いる先鋒が闇に乗じて、搦め手より少弐勢に夜襲を仕掛けると、まもなく菊池の本隊が正面から鬨(とき)の声を挙げて突入・・・四方八方に暴れまわり、激戦となります。

戦いは数時間続き、少弐側では、頼尚の嫡男=直資(ただすけ)の討死をはじめとする多大な損害を受け、やむなく頼尚は、宝満(ほうまんやま=福岡県太宰府内山)退却しますが、一方の菊池側も被害大きく、懐良親王までが負傷した事もあって、追撃を諦めて、一旦、肥後へと引き揚げました。

追撃しなかったとは言え、今回の合戦自体には勝利した親王&菊池軍は、やがて待望の大宰府入りを果たし、懐良親王の征西府は、九州における全盛期を迎える事になります。

なんせ大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、懐良親王に「日本国王」のお墨付きを与えちゃって、第3代室町幕府将軍となった足利義満(あしかがよしみつ)が大慌てするくらいですから・・・と、そのお話は、懐良親王のご命日=3月27日に書かせていただいた【独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心】のページでどうぞ>>
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん、おはようございます。
本来北部が少弐、中部は大友、南部は島津で、実際に戦国時代は少弐の一族の龍造寺、大友、島津が三強です。大友は没落しましたが、龍造寺の一族の鍋島、島津が受け継がれました。
何故南北朝時だけ菊池が強かったのかよく分かりません。おまけに懐良親王が九州の王になったのもよく分からないくらいに尊氏の頃は室町幕府側が強かったのでよく分からないのが今でもです。
私は世界史を学びましたが、日本史の内容は世界的にはあり得ない事ばかりです。強者や首都を抑えた方が圧倒的に強く、ゲリラは山岳だけです。ところが南朝はゲリラなのに大宰府を抑えているし、ゲリラの菊池が九州最強と言うのはよく分かりません。
菊池ファンの方には悪いですが、懐良親王、菊池は世界的に見ますとゲリラです。世界的にはゲリラが重要拠点を抑えたら徹底的に政府軍は取り返すために潰しにかかります。

投稿: non | 2015年8月 6日 (木) 10時20分

nonさん、こんにちは~

九州の豪族たちはいずれも歴史がありますね。
龍造寺と少弐は藤原秀郷、大友は源能直、島津は鎌倉幕府の御家人…菊池は、通説では藤原北家の道隆ですが、一方では大化の改新の頃の菊池郡司に始まる説もあります。

いずれにしても、菊池氏は、奈良か平安の始めの頃から歴史上に登場し、源平の合戦や蒙古襲来でも活躍してますので、「南北朝時だけ菊池が強かった」という事では無いと思います。

また、
>日本史の内容は世界的にはあり得ない事ばかり…
とおっしゃる通り、日本には日本独特の物がありますね。
世界史での定義から見ると「南朝はゲリラ」なのかも知れませんが、日本史では「南朝が正統」です。
もちろん、反対意見もあり、未だ議論はありますが、一応通説では「南朝が正統」…
って事は、「室町幕府が正統では無い」事になります。

武力で以って王朝から何からがすっかり変わる外国と違って、武力で制圧するのは政権であって、その上には常に同じ君主がいるという日本の歴史は、やはり独特なのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2015年8月 6日 (木) 15時24分

茶々さん、ありがとうございます。
九州三国志と言う本を読んでいますと主役は私が上げた少弐系、大友、島津なので菊池と言うのが何故南北朝で強いのとか菊池だけは南朝?と言うのが疑問でした。確かに少弐、大友、島津もいつもいつもでないですし、菊池についてはあまり詳しいことは知りません。ただ熊本にあれほどの豪族とは凄いと思いました。西郷隆盛も菊池系らしいですね。菊池は源平の時も活躍していますか。肥後と言いますと元寇で竹崎が活躍しましたが、竹崎は菊池系なのでしょうか?

世界史的に見ますと首都を抑えたり、重要拠点を抑えた方が正統です。だからゲリラになる南朝が正統とは外国人にどう説明して良いのか私も迷いますし、神聖なところと言いますと外国人は北朝は神聖でなく穢れているのかと言うのもいます。本当に説明しがたいです。そう言う点は政府が公式見解をしてほしいと思います。
フランスが日本に似ていますが、負けた方とか首都を抑えていないとか弟の系統と言いますとおかしいと言います。難しいですね。
国際政治を勉強した私には日本史を説明するのが一番面倒です。正義と悪が分かりにくいのも日本ですから・・・それくらいに奥行きが広い国家なのでしょうけど・・・

投稿: non | 2015年8月 6日 (木) 16時21分

こんにちは
何気にこの時代の九州で最もかわいそうなのは少弐にも菊池にも目の敵にされていた渋川でしょう。渋川義行は九州探題の役割を邪魔されて解任となり、その子の満頼は先の探題の今川了俊への恨みを島津、少弐、大友という味方たちから受けることになってしまいます。

投稿: 貧乏武士 | 2015年8月 6日 (木) 16時53分

貧乏武士さん、こんばんは。
渋川は見過ごしていました。足利一族で名門なのに軽く扱われていますね。
渋川は確か九州探題以外に要職についていませんね。
お気の毒です。今川了俊は陰険ですね。有能ですけど謀殺をしていますね。あれしたら少弐、大友、島津は反乱を起こすでしょう。でも九州は秀吉の頃まで戦乱続きでしたが、圧倒的な勢力がなかったからでしょうか。
あそこは大内、毛利も手を出していますので、入り乱れていますね。

投稿: non | 2015年8月 6日 (木) 17時49分

>貧乏武士さん、
>nonさん、
こんにちは~

これまでも応永の乱>>や、その他の足利義満さん関連のページで、そのようなニュアンスの事を書かせていただいてきましたが、

「三つ巴、四つ巴に入り乱れて潰し合い~からの、完全に潰すんは無し」というのが義満の作戦だったと思います。

厚遇したり冷遇したり、同族同士でモメさせたりして室町幕府を強固な物にしていったのかと…
少なくとも初代=尊氏&2代=義詮の時代は、未だ幕府も強固では無かったと思いますので…

投稿: 茶々 | 2015年8月 6日 (木) 18時13分

おはようございます。
室町時代は乱れに乱れ時代ですね。
こんな時代に幕府がよく200年以上続いたと思いました。
私が住んでいる四国とか先祖がいた越前、美濃、尾張はまだ落ち着いた方ですが、探題がいるのに九州、奥州、羽州は乱れに乱れています。
渋川、大崎、最上は菊池、伊達の直接の主君みたいにあたる筋なのにいつも反乱を起こしています。
菊池はそうでないですが、伊達は自分に従えと政宗の曽祖父の種宗の頃から言っていますし、お家騒動ばかりです。よく東北の諸大名は耐えたと思います。
何か江戸時代まではどこもかしこも主君に従うと教育は無いみたいですね。

投稿: non | 2015年8月 7日 (金) 09時09分

nonさん、こんにちは~

>何か江戸時代まではどこもかしこも主君に従うと教育は無いみたいですね。

朱子学が浸透していくのは江戸時代になってからですから…
それも江戸幕府の思惑ですが…

投稿: 茶々 | 2015年8月 7日 (金) 14時34分

茶々さん、こんにちは。
確かに江戸時代に朱子学が浸透するまでは裏切りが当たり前ですが、でも礼儀は尽くしましたし、下剋上と言いましても菊池みたいな古い豪族、陶みたいな一族でした。
それを考えますと長州の下剋上、南朝正統は室町、江戸の両幕府だけでなく朝廷にも警戒心を抱いたと思います。
ところで後醍醐天皇系の南朝はそれ以外の皇族が全て集まった北朝をどう思っていたのでしょうか?菊池とか楠木の南朝方の武将は素直に考えたら北朝の方が正統なのを思ったりしなかったのでしょうか?私は室町幕府に対する戦いは良いのですが、北朝や北朝の帝は都にいて、朝廷の大部分はそちらと言うのに講和を考えなかったのかなと思いました。結局講和は北朝側からの働き掛けでした。

投稿: non | 2015年8月 7日 (金) 17時40分

私が先ほど書いたのも講和と言うのは勝者から言いだすのは世界史的にはめったにないです。余裕があるのかローマみたいに後後を考えているかだけです。大体講和は敗者から言います。こういいますと南朝支持者は怒るでしょうが、負けたのは世界史的にも政治史的にも南朝です。王位継承権争いと言うのは英仏百年戦争が二回ありましたがそう言うのはあります。ところが負けが分かっているのに戦うのはユダヤが玉砕したマサダ、先の大戦ぐらいです。それ位に無いです。勿論筑後川の戦いは南朝の勝ちですが、戦略的に間違いでなかったのではないかと思います。九州の王と名乗ったので、よく南朝が分裂しなかったと感心します。でも東進しようとしなかったのを見ますと地方政権樹立とみられてもおかしくないと思いました。
細川が強い四国でも山岳の険しいところは南朝系です。確か親戚の平家系は南朝でした。我が家は源平の対立以外に南北朝の対立があり、話すと大喧嘩になります。茶々さんの御親戚は如何ですか?

投稿: non | 2015年8月 7日 (金) 17時57分

nonさん、こんばんは~

>北朝の方が正統なのを思ったりしなかったのでしょうか?
>講和と言うのは勝者から言いだすのは世界史的にはめったにないです

一つ目のご質問の答えが2つ目だと思います。
様々な考えがありますので、あくまで私個人の見方を言わせていただくと「三種の神器を持ってる南朝が正統」です。
なので、最終的に北朝を担いでいた室町幕府側から講和を申し出たのではないかと思います。
日本の場合、皇統というのは勝ち負けや強い弱いではありません。
伝統的に受け継がれる物(目に見える物質とは限りませんが…)を正式に受け継いだ者が正統です。
なので、三種の神器もなく、上皇や法皇の指名も無い北朝の天皇は、あくまで力づくで担ぎあげたと室町幕府自身も思っていたのでは?
まぁ、天皇自身は、持明院統と大覚寺統の関係もあるし、光厳天皇は廃位された恨みもあるしで、どちらもが「ウチが正統」と思っていたかも知れませんが…

>茶々さんの御親戚は如何ですか?

ウチは村上水軍なので大丈夫です。
勝ち目のある方につきます。

投稿: 茶々 | 2015年8月 8日 (土) 00時56分

茶々さん、こんにちは。
三種の神器ですが、前にNHKラジオで聞いた話ですと奄美の方に通称天皇さんと言う方がいたそうです。奄美の方の言い伝えによりますと天皇さんは安徳天皇の子孫で、江戸時代の時に島津の役人が来て、その時に三種の神器を取り返して京都へ戻ったという説があるのです。
もしそれが本当ならば後醍醐天皇が保持したのも偽物で、偽物を渡された北朝、恒良親王は偽物の偽物を渡されたことになります。それぐらいに鎌倉から江戸までは安定しなかった証拠になるのかなと思いました。

投稿: non | 2015年8月 8日 (土) 17時25分

nonさん、こんばんは~

安徳天皇生存説は奄美以外にも複数ありますね。
(5年前にブログにも書かせていただいておりますのでご覧いただくとありがたいですが…【安徳天皇・生存説】>>

そもそも、壇ノ浦の入水の時に二位の尼が安徳天皇と宝剣を抱えて飛び込んで、義経はそれを回収する事ができていません。
また、南北朝時代にくわしい『太平記』の巻二十五には「壇ノ浦に沈んだ宝剣が伊勢で発見されて北朝に献上された話」が出てきたりします。

どのお話も、もはや伝説となっていて真偽のほどはわかりませんから、こーだあーだと、すぐに決着がつく事は無いだろうと思いますが、個人の考え方は自由…いろんな発想が楽しめるのが歴史だと思います。

投稿: 茶々 | 2015年8月 9日 (日) 01時11分

( ̄ー ̄)ニヤリ
どちらが正統かは、勝てば官軍のたとえ通りでしょう。
結局は、敗者は歴史に埋もれる運命。
なぜなら、歴史は勝者が書き残すものだからです。
書かれていない歴史の発掘こそが歴史を弁起用する者の使命でしょうね。wink

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年8月15日 (土) 08時23分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~

その探究がオモシロイんですよね~

投稿: 茶々 | 2015年8月15日 (土) 14時29分

面白いコメントが入ってますね。参加させてください。

え~と、南朝は負けていませんよね?
負けそうではあったけれど。
北朝側から転向者があって、盛り返したりしてますもんね。
こういうのは、世界的にもゲリラとは言わなんじゃないかな。
正統性でいえば、北朝・幕府側はクーデターを起こした方になるので、勝利するまでは正統とは言えないと思います。
そして、勝利していない。優勢ではあったけれど。
クーデター側からの講和の申し入れは、ほぼ敗北宣言ですね。世界的には。(笑)
幕府が残っているため、実質的には勝利したと言えますが、名分上は引き分けでしょう。
引き分けではタイトルの移動がないので、南朝が正統。
(ジンギ?ナニソレオイシイノ?)
という、私の個人的な見解が今、確定しました。( ̄ー ̄)ドヤ

>いろんな発想が楽しめるのが歴史だと思います。
そうですね。本当に面白くて楽しかったです。

投稿: ことかね | 2015年8月16日 (日) 12時28分

ことかねさん、こんばんは~

鎌倉幕府の滅亡のドサクサでタイトルをはく奪された光厳天皇は、何とか巻き返したかったかも知れませんが、おっしゃる通り、北朝側は完全勝利しない限り「正統」のタイトルは得られませんね。

投稿: 茶々 | 2015年8月17日 (月) 02時57分

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