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2015年8月28日 (金)

織田信長の美濃侵攻~堂洞合戦

永禄八年(1565年)8月28日、織田信長が斎藤方の美濃堂洞城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

父=織田信秀(おだのぶひで)の時代から、隣国同志でドンパチやっていた尾張(おわり=愛知県西部)美濃(みの=岐阜県)(9月22日参照>>)・・・しかし、美濃のマムシと呼ばれた斉藤道三(さいとぷどうさん)の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶)と信秀の息子=信長(のぶなが)の結婚で、天文十八年(1549年)頃には、ひとまず和平が保たれたものの(4月20日参照>>)、やがて信秀が亡くなり、弘治二年(1556年)に、かの道三が嫡男=義龍(よしたつ)との合戦に敗れて(4月22日参照>>)政権交代すると、再び、険悪状態に・・・

そんな中、道三戦死の直後から度々美濃侵攻を繰り返しつつ、信長は弘治三年(1557年)には、弟=信行(のぶゆき)を中心とした家中の反対派を一掃して(11月2日参照>>)織田家内を一つにし、永禄三年(1560年)には、あの桶狭間(おけはざま)今川義元(いまがわよしもと)を破って(5月19日参照>>)名を挙げました

とは言えこの間、名将の義龍によって侵攻を阻まれまくっていた信長でしたが、永禄四年(1561年)5月、その義龍が亡くなって、わずか14歳の息子=龍興(たつおき)が家督を継いだ事をキッカケに、その日のうちに美濃へと侵攻開始・・・5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)、続く23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と立て続けに勝利した後、翌年の永禄五年(1562年)に織田信賢(のぶかた)を追放して尾張一国を統一した事から、いよいよ本格的に美濃攻略に乗り出す決意を固め、永禄六年(1563年)には、美濃侵攻の拠点とするべく、小牧山(こまきやま=愛知県小牧市)に新たな城を築きます。

さらに永禄七年(1564年)に犬山城(いぬやまじょう=愛知県犬山市)の家老の内応により、その犬山城が織田方の物となると、この状況を見て、美濃の武将の中には、自ら織田方に味方する者も現れはじめます。

そんな中で、いち早く手を挙げていたのが加治田城(かじたじょう=岐阜県加茂郡富加町)佐藤忠能(さとうただよし)忠康(ただやす)父子・・・当然ですが、信長は大喜びで彼らを傘下とし、「兵糧の準備をしといてちょ」金50枚を進呈しています。

しかし、ちょっと困った事が・・・

実は佐藤忠能・・・かねてからの信長の侵攻に備えて、近くの関城(せきじょう=岐阜県関市)長井道利(ながいみちとし)や、堂洞城(どうほらじょう=岐阜県加茂郡富加町)岸信周(きしのぶちか)らと、「信長が来よったら、3人でやったろな!」と三者による同盟を結んでいたのです。

その証として忠能は、自らの娘を岸信周に人質として預けてもいました。
なので、今回の内応は、しばらくの間は、ひた隠しに隠されていたわけですが・・・

Douhorakassenncc
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あの犬山城の占拠から間もなく、その犬山から木曽川を挟んで対岸にあった大沢基康(おおさわもとやす)鵜沼城うぬまじょう=岐阜県各務原市)と、そこに隣接する多治見修理(たじみしゅり)猿啄城(さるばみじょう=岐阜県加茂郡坂祝町)の二つの城を、信長配下の丹羽長秀(にわながひで)が攻めて落城させると、敗走した兵の多くが堂洞城へと逃げ込みました。

信長は堂洞城へと使者を派遣し、岸信周に織田方に降るよう説得しますが、信周は激しく拒否・・・この頃には、佐藤忠能の動向も知れ渡っており、人質に差し出されていた彼の娘は、岸勢によって磔にされて処刑されたと言います。

こうなると、もう交戦しかありません。

裏切り者の佐藤の加治田を攻めるべく準備を整える長井道利は、堂洞に岸勢と多治見勢を配置し、自らは関より数キロ離れた位置に本陣を構えます。

永禄八年(1565年)8月28日・・・敵の動きを知った信長が堂洞と関を分断すべく高畑山(岐阜県加茂郡富加町高畑)に本陣を置き、堂洞城を囲みます。

その日は、風の強い日でした。

信長は、自ら馬に乗って駆けまわり、周囲の状況を判断して
「おのおの松明(たいまつ)を作って持ち寄り、塀の際に集合して一気に四方から投げ入れろ!」
との指示を出します。

一方、織田勢の堂洞城包囲に気づいた長井道利は、後方から織田本陣を攻めようと、さらに下って、堂洞の3km手前あたりまで軍勢を配置しますが、結局は出撃せず・・・

そんな中、一部の兵を長井への対策として後方に向けながらも、信長の命令を遂行する織田勢は、次々と松明を投げ入れ、まずは二の丸を焼き尽くします。

追われた敵は、本丸へと合流して一団となりますが、この時、二の丸の入口にあった高い建物の上に上がって、一発必中の矢をを何度も射かけていたのが、『信長公記』の著者としてお馴染みの太田牛一(おおたぎゅういち・うしかず・ごいち)・・・「小気味イイ働きやな(*゚▽゚)ノ」と、その様子を見た信長さんに褒められたとか(って、自分で自分の事を『信長公記』に書くんや~っと思ったりなんかして…)

かくして正午頃に始まった戦いが、夕刻の午後6時を迎えた頃、暮れかかる空を前に、一気にケリをつけんがばかりに河尻秀隆(かわじりひでたか)本丸へ突入・・・続いて丹羽長秀勢も・・・

しかし、敵は敵とて敵ながらあっぱれな働きぶりで、かなりの抵抗・・・両者入り乱れての壮絶な戦いとなりますが、やがて大将各の皆々が次々と討死するにあたって、ついに堂洞城は落城しました。

その日の夜は佐藤くんちに泊めてもらい、翌日に首実検して本拠へと戻ろうとした信長でしたが、そこを、関方面から長井道利が、井ノ口(いのくち=岐阜市)方面から斉藤龍興が、約3000もあろうかという軍勢で追撃を仕掛けて来ましたが、残っている信長の軍勢は800ほど・・・

とても叶う人数では無いと判断した信長は、すかさず撤退する判断を下しますが、なにぶん多勢に無勢・・・多数の死傷者を出してしまいますが、信長自ら馬で駆けまわって指示しまくったおかげで何とか撤退に成功・・・

追撃を全うできなかった美濃勢は、大いにくやしがったとか・・・

この後、8月末から9月にかけての織田方の攻撃で関城が陥落した後、いよいよ、斉藤家の本拠である稲葉山城(いなばやまじょう=岐阜市・後の岐阜城)での戦いに向かう事になるのですが、そのお話は・・・
*2009年8月1日の【美濃三人衆の内応】>>
*同年8月15日の【天下への第一歩~稲葉山城・陥落】>>
それぞれのページでどうぞ
(内容がかぶってる部分もありますが、お許しを…m(_ _)m)
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2015年8月22日 (土)

関ヶ原~竹ヶ鼻城攻防戦に散る杉浦重勝

慶長五年(1600年)8月22日、関ヶ原の戦いを前に岐阜城へと迫る東軍が攻撃した竹ヶ鼻城で杉浦重勝が自刃しました。

・・・・・・・・

先日に引き続きの関ヶ原の戦いですが・・・
これまでの経緯は_

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用して、その分裂具合を広げようとする徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発・・・

そのスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)した事を知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

・・・で、その評定の席で、ノリノリで東軍=家康方での参戦を表明して先鋒を任された福島正則(ふくしままさのり)池田輝政(てるまさ)が、正則の居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)を拠点に、西軍=三成方についた南美濃の諸城を落としにかかる・・・先日=8月16日は、その最初の福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)の開城についてお話させていただきましたが(2015年8月16日参照>>)・・・

Sekigaharafukutukazyoucc ←福束城攻防戦のページにupした位置関系図ですが、今回のご参考に…
(クリックしていただくと大きいサイズで開きます)

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その後、周辺の高須城(たかすじょう=岐阜県海津市海津町)駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市南濃町)津屋城つやじょう=岐阜県海津市南濃町)次々と制圧した東軍(8月19日参照>>)は、いよいよ次の狙いを岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)に定めます。

というのも、先日も書かせていただいた通り、この岐阜城は、あの織田信長(おだのぶなが)の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)が城主を務めていて、今回、その彼が西軍として参戦していた事から、この南美濃周辺の諸将が西軍についたという事もあり、そういう意味でも重要な城だったのです。

とは言え、ご存じのように、この岐阜城・・・もともとは、あの斎藤道三(さいとうどうさん)が構築した稲葉山城(いなばやまじょう)(2009年8月15日参照>>)に信長が手を加えた屈指の名城で、その難攻不落ぶりは有名なところ・・・

しかも、今回の東軍からだと木曽川を越えねばなりません。

渡河の候補地は、上流の河田(こうだ)と下流の尾越(おこし=尾起)の2か所・・・全軍を福島正則隊と池田輝政隊の2隊の分けて渡河する事になりますが、最短距離で渡れる河田コースと、迂回しなければならない尾越コースとを「どちらの隊がどちらを行くか」で大モメにもめる正則と輝政・・・どっちもが、先陣を切りたいですからね。

で、結局、「どちらが先に渡河しても、すぐに攻撃に出ず、後からの隊が渡河してから合図の狼煙(のろし)を上げた後、両者が同時に攻撃を開始する」という約束を取り交わして、輝政が上流=河田、正則が下流=尾越へという事で、何とか収まりました。

かくして慶長五年(1600年)8月22日、夜明けとともに、前後して清州城を出陣した福島隊&池田隊は、両者それぞれの場所へと軍を進めます。

この東軍を動きを敏感に察したのが、竹ヶ鼻城(たけがはなじょう=岐阜県羽島市)杉浦重勝(すぎうらしげかつ)でした。

早速、城中にて軍議を開いた結果、まずは大浦に柵を構築し、対岸の尾越から渡河しようとする東軍を食い止める・・・さらに、もし、木曽川を突破された場合は、竹ヶ鼻城に籠城しつつ、岐阜城&大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)からの援軍を待つという作戦に決定します。

そう、この杉浦重勝の軍が、迂回した福島正則隊とぶつかるのです。

とは言え、当然、川を渡る前に、対岸にて準備万端で待ち構える西軍=杉浦隊を目の当たりにした正則・・・「簡単には突破できない」と判断した正則は、隊を少し下流へと移動させ、別の場所から密かに渡河しようと動きますが・・・

その時です!
上流から、激しい銃撃音とともに聞こえる鬨(とき)の声・・・池田隊が渡河を開始したのです。

「おいおい!狼煙の合図で、同時に川渡るんちゃうかったんかい!」
と驚く正則でしたが、もはや、上流で渡っちゃってる以上、「約束破りやんけ!」と、ここで地団太踏んで立ち止ったところでどーしようもありません。

すぐに気持ちを切り替えて、渡河を決行する東軍=福島隊・・・渡った先に、まずあったのが加賀野井城(かがのいじょう=岐阜県羽島市)でした。

この加賀野井城の城主は加賀井重望(かがのいしげもち)という武将・・・彼は、あの小牧長久手の戦いで秀吉に敵対したものの、その勇猛ぶりをかわれて戦後に秀吉傘下へと組みこまれたという武勇伝の持ち主。

今回も、家康の会津征伐に従軍していて、本来なら東軍の彼らとともにいるはずでしたが、この1ヶ月前の7月19日に三河国池鯉鮒(ちりふ=愛知県知立市)にて行われた宴会の席で、水野忠重(みずのただしげ)堀尾吉晴(ほりおよしはる)の両名と口論の末に斬り合いとなって殺害されてしまっていたのです。
(一説には、「家康暗殺」の密命をおびて東軍に潜入していたのがバレて殺害されたとも)

この事件の時、加賀野井城にて、兄=重望の留守を守っていた弟の秀盛(ひでもり)は、当然、水野&堀尾のいる東軍ではなく、西軍に与する事をいち早く表明して、この時は、すでに援軍として竹ヶ鼻城に入っており・・・って事は、加賀野井城は城主不在・・・

なので、東軍に攻め込まれた加賀野井城は、あっさりと陥落しますが、上記の通り、城主が援軍として竹ヶ鼻城に入っている時点で、加賀野井城は、はなから捨てる覚悟ですから、これは、あくまで予想通り・・・

予想と違っていたのは、先に尾越の対岸=大浦に柵を構築して待ち構えていた守備隊でした。

上記の通り、そこではない少し下流から渡河した東軍=福島隊は、加賀野井城を落した勢いのまま竹ヶ鼻城へと向かいますが、それに気づいた大浦の守備隊が、慌てて竹ヶ鼻城へと戻るも、東軍の突入に間に合わなかったのです。

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「四戦の図」(金沢城成巽閣蔵)に描かれた竹ヶ鼻城

竹ヶ鼻城は、沼地という天然の要害に、大きな堀を構えたなかなかの堅城でしたが、未だ主力が戻らぬ間に大軍に攻め込まれては、もはや防ぎようもありませんでした。

またたく間に本丸のみになってしまった竹ヶ鼻城ですが、城主の杉浦重勝は、なおも奮戦し続けます。

しかし、所詮は多勢に無勢・・・もはや味方の兵が30名余りとなってしまった午後4時頃・・・覚悟を決めた重勝は、城に火を放った後、自刃して果てたのでした。

この時、最後まで重勝とともにいたのは、わずか7名・・・彼らは、その主君の遺体を取り囲むようにして次々と自刃したと言います。

この光景には、さすがの東軍の武将たちも、彼ら主従の絆の深さに感激しきりだったとか・・・

ドラマ等では、大抵ひとまとめにされる関ヶ原ですが、一つ一つの戦いにドラマがある事を改めて痛感させられます。

とは言え、まだまだ続くのが関ヶ原・・・ちょうどこの竹ヶ鼻城攻防戦が終焉を迎えた頃、正則は、一方の池田隊が岐阜城下へ侵入した事を知らされ、
「遅れてなるものか!」
とばかに、彼も、岐阜城下へと向かうのです。

8年前のページなので、かなり未熟で大雑把な記事ですが、
よろしければ、この続きとなる・・・
【信長の嫡流断絶!岐阜城の戦い】もどうぞ>>
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2015年8月16日 (日)

関ヶ原~福束城攻防戦

慶長五年(1600年)8月16日、関ヶ原の戦いで東軍についた市橋長勝徳永寿昌が、西軍についた丸毛兼利福束城を落としました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用して、その分裂具合を広げようとする徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発・・・

そのスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)した事を知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

その評定の席で、ノリノリで東軍参戦を表明した福島正則(ふくしままさのり)は、池田輝政(てるまさ)ともに先鋒を任され、一足先に西へと向かい、8月11日には、自らの居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)へと入りました。

ご存じのように、この清州城は、もともとは、あの織田信長(おだのぶなが)が居た尾張(おわり=愛知県西部)の城ですが、今回の場合、敵=西軍の拠点となる大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)岐阜城(ぎふじょう=岐阜県岐阜市)にも近い事から、おそらくはここが東軍の最前線基地となるべき場所・・・

続々と東軍の諸将が集まり、8月にはほぼ全軍が集結し、あとは御大=家康の到着を待つばかり・・・と、ちょっとその前に・・・

Sekigaharafukutukazyoucc
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

正則は、家康の到着を待つ間に今尾城(いまおじょう=岐阜県海津市平田町)市橋長勝(いちはしながかつ)松ノ木城(岐阜県海津市海津町)徳永寿昌(とくながながまさ)周辺の平定を命じました。

・・・と言うのも、今回、かの岐阜城にいる信長の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)が西軍についた事から、ここらあたりの武将の多くが西軍についてしまったわけで・・・

逆に、家康の会津征伐に同行していた事から、今回は東軍参戦となった市橋長勝と徳永寿昌の所領は、その留守の間に、西軍での参戦を表明した福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)丸毛兼利(まるもかねと)らに囲まれる状況になってしまっていたのです。

そこで市橋長勝と徳永寿昌は、まずは近隣のよしみとして、丸毛兼利に「東軍に来ないか?」と誘いをかけますが、兼利は、「一旦、西軍参戦を表明した以上、寝返りはできひん!」と拒否・・・

現在は揖斐川(いびがわ)の流れが変わってしまったため、城跡は水没してしまったようで、その正確な位置がわからなくなっている福束城ですが、当時の記録によると、水門川(すいもんがわ)牧田川(まきたがわ)相川(あいかわ)大榑川(おおくれがわ)が合流して揖斐川に注ぐ位置に城があり、大垣から伊勢湾へと通じる水運の要となる港も整備されていたとの事・・・

いざ!合戦となれば、武器や兵糧の輸送なども含め、この場所は、是非とも抑えておきたい場所なわけで・・・

かくして慶長五年(1600年)8月16日朝、市橋長勝と徳永寿昌は、福島正則配下の横井時泰(よこいときやす)とともに、福束城への攻撃を開始したのです。

これを知った西軍側は、伊藤盛正(いとうもりまさ)武光忠棟(たけみつただむね)3000余騎を援軍として福束城へ派遣・・・

丸毛兼利は、城に籠らず撃って出る事にしたため、両者は大榑川を挟んで布陣し、しばらくの睨みあい・・・

しかし、川幅が広く、両者ともが容易に渡れないため、睨みあったまま時間が過ぎ、やがて日も暮れ・・・

あたりがすっかり闇につつまれた頃・・・市橋長勝は、密かに別働隊を上流へと向かわせ、上流で川を渡った後、敵の背後=北東に位置する楡俣村へと向かわせ、タイミングを見計らって村に火を放ちました。

炎が上がると同時に、本隊も渡河して夜襲をかけると、挟み撃ちとなった西軍は総崩れとなり、援軍の多くは大垣城へと敗走し、丸毛隊も福束城へ敗走・・・

城に戻った丸毛兼利は、籠城して戦おうと考えますが、もはや兵の数が何ともならない状況に・・・やむなく城を捨て、兼利自身も大垣城へと逃走したのでした。

こうして、その日のうちに開城となった福束城・・・この後、東軍は、南美濃を制圧(8月19日参照>>)し、木曽川を渡り(8月22日参照>>)・・・と、徐々に運命の関ヶ原へと近づいていく事になります。
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2015年8月 6日 (木)

九州における南北朝最大の合戦=筑後川の戦い

正平十四年・延文四年(1359年)8月6日、南朝方の懐良親王を担いだ菊池武光が、北朝方の少弐頼尚らを攻撃した筑後川の戦いがありました。

・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、その後の建武の新政(6月6日参照>>)で溝が入った事をキッカケに、後醍醐(ごだいご)天皇と敵対した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、京都での市街戦に勝利(6月30日参照>>)して開いた室町幕府北朝と、京都を追われた後醍醐天皇が奈良吉野にて開いた朝廷=南朝(12月21日参照>>)に始まる、ご存じ南北朝時代・・・
(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

この尊氏が京都を制圧した延元元年・建武三年(1336年)、吉野へと逃げる後醍醐天皇は、自らの皇子たち幾人かを地方へと落ち延びさせましたが、そのうちの一人が、未だ8歳?(←生まれ年に諸説あり)という幼さで征西大将軍(せいせいたいしょうぐん)に任命され、西国へと派遣された懐良(かねよし・かねなが)親王でした。

ちなみに名将=新田義貞(にったよしさだ)の警固を受けて北国へ(10月13日参照>>)と向かった恒良(つねよし・つねなが)親王尊良(たかよし・たかなが)親王(ともに懐良親王の異母兄)は、延元二年・建武四年(1337年)の越前金崎城(かねがさきじょう)の落城(3月9日参照>>)とともに北朝の手に落ちています。

その後の南朝は、それまで陸奥守(むつのかみ)に任じらた義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇=後醍醐天皇の皇子)とともに東北にいた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、延元三年・建武五年(1338年)に、馳せ参じた大坂で無念の死を遂げ(5月22日参照>>)、その1ヶ月余後には、かの新田義貞も討死(7月2日参照>>)する中、一方の北朝=尊氏は室町幕府初代将軍に就任(8月11日参照>>)・・・

翌延元四年・暦応二年(1339年)には後醍醐天皇も崩御(8月16日参照>>)され、その後、正平三年・貞和四年(1348年)には名将=楠木正成(くすのきまさしげ)(5月25日参照>>)の遺児=楠木正行(くすのきまさつら)四条畷の戦い(1月5日参照>>)で討死・・・と南朝の主要人物が次々とこの世を去った事もあってか、

北朝は、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>)という内部分裂も乗り越え、さらに八幡合戦(3月24日参照>>)の危機も乗り越え、父=尊氏に反発する足利直冬(あしかがただふゆ)らも抑え(3月13日参照>>)、ここに来てようやく北朝は、ほぼ揺るぎない物となり、すでに息子に将軍職を譲った尊氏も一安心・・・と、心が緩んだのか?正平十三年・延文三年(1358年)4月30日、尊氏はこの世を去ります(4月30日参照>>)

そんな中で、唯一、北朝に対抗できる勢力を維持していたのが、西国へ下った懐良親王だったのです。

やっと出て来た~
ここまで前置き=これまでの経緯ですo(_ _)oペコッ

Kaneyosisinnou600a あの延元元年・建武三年(1336年)、父=後醍醐天皇と分かれて西へと向かい、瀬戸内海の水軍の力を借りながら数年の歳月をかけて九州へとたどりついた懐良親王は、いち時は、自らの南朝と、敵対する北朝勢力・・・

さらに、あの足利直冬の勢力との三つ巴の戦いを繰り広げていました。

もちろん、そこには、中央の彼らをそれぞれに支持する九州のもともとからの地元豪族がいたわけけで・・・

南朝の懐良親王についていたのが菊池武光(きくちたけみつ)で、そこに、室町幕府から鎮西総大将を命じられていた一色範氏(いっしき のりうじ)・・・彼が北朝ですね。

そして、尊氏と敵対して九州に入ってきた足利直冬を指示していたのが少弐頼尚(しょうによりひさ)でしたが、上記の通り、正平八年・文和二年(1353年)に山名時氏(ときうじ)に担がれた(6月4日参照>>)直冬が京都を目指して九州を去っってしまった事から、これをチャンスと見た一色範氏が少弐潰しとばかりに、頼尚に攻撃を仕掛けます。

この時、頼尚が支援を求めたのが菊池武光・・・もともと肥後(ひご=熊本県)を本拠地に九州一円の制覇を夢見ていた武光は、これ幸いと頼尚とともに一色勢を攻撃・・・大宰府(だざいふ)での戦いに勝利し、さらに日向(ひゅうが=宮崎県)畠山に勝利して、豊後(ぶんご=大分県)大友も破って、一色勢を九州から追い出しました。

ところが、ここで少弐頼尚が北朝への突然の寝返り・・・これを受けて正平十四年・延文四年(1359年)7月、菊池武光は懐良親王を頂いて、少弐を討つために進発したのです。

これが「筑後川の戦い」、または「大保原の戦い」、あるいは「大原合戦」、別名を「菊池合戦」と呼ばれる南北朝時代の九州における最大の合戦です。
(呼び方多過ぎひんか?)

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大保原合戦図(国立国会図書館蔵『三井郡史蹟調査委員編『懐良親王と三井郡』より)

筑後川を挟んで南の高良山に親王&菊池、北の鰺坂(あじさか)(福岡県小郡市)に少弐・・・

まさに南北に布陣して両者が対峙する事になりますが、菊池勢は、なかなか渡河できずに攻めあぐねておりました。

しかし7月19日の真夜中、武光自らが5千騎を率いて夜襲を決行・・・川を渡って攻撃を仕掛けようとします。

しかし、これを察知した少弐側は、すかさず、敵が攻撃し難いであろう湿地帯=大保原の沼地に撤退して陣取り、さすがの菊池も、それ以上は、思うように進めません。

しばらくの間、かなり近い距離で睨みあう両者・・・

やがて正平十四年・延文四年(1359年)8月6日夜、菊池武政(たけまさ=武光の息子)率いる先鋒が闇に乗じて、搦め手より少弐勢に夜襲を仕掛けると、まもなく菊池の本隊が正面から鬨(とき)の声を挙げて突入・・・四方八方に暴れまわり、激戦となります。

戦いは数時間続き、少弐側では、頼尚の嫡男=直資(ただすけ)の討死をはじめとする多大な損害を受け、やむなく頼尚は、宝満(ほうまんやま=福岡県太宰府内山)退却しますが、一方の菊池側も被害大きく、懐良親王までが負傷した事もあって、追撃を諦めて、一旦、肥後へと引き揚げました。

追撃しなかったとは言え、今回の合戦自体には勝利した親王&菊池軍は、やがて待望の大宰府入りを果たし、懐良親王の征西府は、九州における全盛期を迎える事になります。

なんせ大宰府に上陸した(みん=中国)の使者が、懐良親王に「日本国王」のお墨付きを与えちゃって、第3代室町幕府将軍となった足利義満(あしかがよしみつ)が大慌てするくらいですから・・・と、そのお話は、懐良親王のご命日=3月27日に書かせていただいた【独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心】のページでどうぞ>>
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