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2015年9月13日 (日)

鳥羽城の戦い~九鬼嘉隆&守隆・父子の関ヶ原

慶長五年(1600年)9月13日、関ヶ原の合戦にて東西に分かれた九鬼嘉隆&守隆父子が戦いました。

・・・・・・・・・・

度々の関ヶ原の戦いですが・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、その政権下で家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用しつつ五大老筆頭として実権握る徳川家康(とくがわいえやす)は、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(8月1日参照>>)した事を知り、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明しました。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

・‥…━━━☆

この時、その会津征伐軍に従軍していた志摩(しま)鳥羽城(とばじょう=三重県鳥羽市)の城主=九鬼守隆(くきもりたか)は、とりあえず帰国の途につく事にしますが、その直後に、すでに隠居していた父=九鬼嘉隆(くきよしたか)西軍についた事を聞かされます。

この嘉隆は、もともと伊勢志摩周辺を活動拠点とする海賊であったのが、あの織田信長(おだのぶなが)と出会った事から一大水軍への道を歩み始め、長島一向一揆攻め(9月29日参照>>)石山本願寺との海戦(9月30日参照>>)でも大活躍・・・秀吉の時代には朝鮮出兵(4月13日参照>>)で数百隻の造船を担当し、「水軍大将」と呼ばれた人物・・・

しかし、一方では隣国の伊勢(いせ)岩手城(いわでじょう=三重県度会郡玉城町)の城主=稲葉道通(いなばみちとう)と度々対立していたのです。

そう、今回の関ヶ原では、その稲葉が東軍参戦を表明していたわけで、そこを突いて、すでに西軍参戦していた新宮城(しんぐうじょう=和歌山県新宮市)城主の堀内氏善(ほりうちうじよし=嘉隆の娘婿)を通じて、石田三成(いしだみつなり)からのお誘いがあったわけです。

さすがは水軍大将と呼ばれた男・・・「西軍で参戦!」と決めたからには、多少老いたとて行動が早い!

早速、息子が留守にしている鳥羽城を占拠し、稲葉の岩手城を攻め、志摩周辺を横行する東軍の船に次々と攻撃を仕掛けます。

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鳥羽城跡から伊勢湾を望む

この状況に、息子=守隆は、家康に対して志摩の平定を願い出・・・家康は「勝利のあかつきには南伊勢5郡を与える」との条件を付けて守隆を送り出したのです。

早速、安乗(あのり)から上陸して国府城(こくふじょう=三重県鈴鹿)に拠点を置いた守隆は、父=嘉隆に「鳥羽城の開け渡し」を求める使者を送りますが、嘉隆はその使者を送り返し、断固「No!」の姿勢・・・

おぉ!見事な連携プレーですね~
と、これ↑は、記録には残ってませんので、あくまで私個人の私見ですが、おそらく、あの「大きな合戦における、どっちか生き残り作戦」=人呼んで「二股作戦」ですよね?

以前【前田利政に見る「親兄弟が敵味方に分かれて戦う」という事…】>>のページで書かせていただきましたが、戦国の彼らが大きな戦いに巻き込まれた時、1番の重要事項は「家名と血筋を残す事」・・・全国が東西に分かれて戦うような場合なら、父子や兄弟が敵味方に分かれて、「どちらかが生き残る…あわよくば、戦後に、勝った側が家名と負け組の命の存続に奔走する」

当然ですが、勝った側が上記の使命を遂行するためには、負けた側の命が救われるに値するほどの活躍を合戦の中でしておかなくてはならないわけで・・・「二股かけてるから中途半端に戦おう」では問屋が卸さないわけで・・・

なので、しばらくは両者ともに、ゆ~っくりと、様子見ぃ見ぃで行動していましたが、慶長五年(1600年)9月11日、ようやく守隆は、鳥羽城に向けて1500余の軍勢を率いて国府城を出陣します。

すると、鳥羽城を占拠していた嘉隆は、こちらも約1300の軍勢を率いて城下を出ます。

そう、鳥羽城ではなく、そこから少し南下した舟津(ふなつ)に布陣・・・おそらく、我が息子の大切な城と城下町を、戦火から守ったのでしょう。

慶長五年(1600年)9月13日、父の行動を受けて、息子=守隆も舟津へ・・・ここで戦闘が開始されます。

息子の軍に被害があってはならないと空砲を撃ち続ける父・・・しかし、守隆側では家康から付けられた目付=石丸雲哲(うんてつ=池田家の家臣)がシッカリ見極めているため、さすがに「戦うフリだけ」というわけにはいかず、一応真剣に応戦しますが、そうなると当然、父の嘉隆側は、またたく間に不利な状況に陥るわけで・・・

結局、負けが濃くなった嘉隆勢は、例の堀内氏善の新宮城目指して落ちて行きますが・・・ところがドッコイ、この間に堀内は東軍に降伏してしまっていたため、城内には入れず、やむなく嘉隆は、伊勢湾内に浮かぶ答志島(とうしじま)へと逃れ、そこで身を潜めていたところ・・・

そう、ご存じのように、この2日後の慶長五年(1600年)9月15日、本チャンの関ヶ原の戦いが、わずか半日で決着がついてしまいます(2008年9月15日参照>>)

おそらくは九鬼父子の計算通り・・・いや、むしろ、さすがの彼らさえ、あの大戦がわずか半日で決着がついてしまうとは!ひょっとしてウレシイ誤算だったかも・・・

とにもかくにも、こうなれば勝った側が負けた側の助命に奔走するのがダンドリ・・・やがて守隆の嘆願が家康に聞き入れられ、「勝てば加増されるはずだった南伊勢5郡を返上する代わりに、父=嘉隆の命を救う」という約束を取り付けます。

大喜びの守隆・・・早速、滞在中の大坂より、家臣の野津甚右衛門を使者として派遣し、答志島で待つ父に、命助かった事を知らせます・・・と、おそらく、ここまでは父子の計算通りの事が運んでしたはず・・・

しかし、『三河後風土記』なる文献によると・・・
重要な任務をおびて、大坂から一路、志摩へとひた走る甚右衛門ですが、昼夜問わずの走りっぱなしにさすがに疲れ、伊勢明星(あけぼし)茶屋にて休憩をとってゴロンとしていたところ、従者として同行していた2名の若者が、甚右衛門が腰にブラ下げていた財布の中身に反応・・・いきなり、刀を振りかざして襲って来たのです。

慌てて応戦しながら両者を切り捨てた甚右衛門ですが、最初の一撃で、不覚にも負傷・・・やむなく、少しの間、滞在して養生するのですが、その滞在3日目の時、その茶屋でバッタリ、顔見知りの男に再会します。

何やら大きな物を抱えるその男は豊田五郎右衛門 (とよたごろうえもん)・・・五郎右衛門の奥さんは九鬼嘉隆の長女ですから、まさに側近中の側近です。

・・・で、その五郎右衛門が抱えていたのが・・・なんと!嘉隆の首だったのです。

実は、嘉隆が答志島に身を隠していたこの間に、五郎右衛門は、かの目付=石丸雲哲からの手紙を受け取っていたのです。

そこには・・・
「息子の守隆くんは、今回、東軍で参戦してくれて、家康さんへの忠誠心を見せてくれたけれども、父親の嘉隆はんは敵対しただけやなく、その後、逃走して身を隠したまんまっていう状況は、家康さんにとっては、あんまし気分のええもんちゃいまっせ」
とのアドバイスが書かれていたとか・・・

これによって、「九鬼家の存亡が嘉隆の動向にある」と考えた五郎右衛門が嘉隆に助言すると・・・

嘉隆は、その目に涙を浮かべながら
「この命、惜しいとは思わん中で、この何日間か、恥を忍んで生きながらえたんは、ひとえに子供らの行く末が気になっての事…
せっかくの守隆の忠義が、俺の罪でかき消されてしまうんは本意やないし、子供のためやったら、この命、露とも思わん。
カッコ悪い白髪頭やけど、この首、大坂へ差し出して、守隆への災いを避けてやってくれ」

と言って、慶長五年(1600年)10月12日、覚悟の上に自刃・・・そして、その首を、今まさに五郎右衛門が大坂へと運んでいる真っ最中だったわけです。

万事休す・・・まるでドラマのような時間差で、残念ながら嘉隆の命を救えなかった息子=守隆・・・

結局、この後、守隆は、父に自刃を勧めた五郎右衛門を鋸引き(のこぎりびき)という恐ろしい方法で処刑しているのですが・・・

実は、今回の話のように、「五郎右衛門は九鬼家の将来を考えて嘉隆に自刃を勧めた」という話がある一方で、この件の後、その理由を詰問する守隆に対して、のらりくらりとかわし、なんだかんだと言い逃れするばかりであったところ、やがて、反逆的な企みが露呈し・・・つまり、九鬼家のためではなく、五郎右衛門自身の手柄として嘉隆の首を大坂へ持って行こうとしていたのでは?との見解もあるようで、

それだと、守隆の五郎右衛門への仕打ちも納得できるわけですが・・・

いずれにしても、水軍大将=九鬼嘉隆ともあろう者ならば、一たび合戦となれば、万が一の時には、自らが犠牲になって息子を盛りたてる覚悟は、最初の時点で持っていたのでしょうから、おそらくは、息子のために身体を張った父親として、誇り高く、死出の旅路へと向かわれた事でしょう。
いや、そうであって欲しいです。

*後半の最期の部分が内容かぶってますが、以前、嘉隆さんのご命日に書かせていただいた【戦国の水軍大将・九鬼嘉隆~覚悟の自刃】>>もどうぞo(_ _)oペコッ
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コメント

関ヶ原の戦いにおいて、九鬼嘉隆・守隆親子が、敵味方に別れて戦うという構図は、真田昌幸・信繁(幸村)親子VS真田信幸(後に、信之に改名)と同じですね。九鬼親子が取った、それぞれの行動は、嘉隆が、結果として九鬼の名を残し、守隆が、九鬼の家を残したのではないかと思います。そのおかげで、九鬼家は、外様大名として、幕末の時代まで存続できたわけですからね。

投稿: トト | 2016年5月 5日 (木) 07時45分

トトさん、おはようございます

関ヶ原に限らず、大坂の陣でも親兄弟で敵味方に分かれた武将は数多くいましたね。
天下分け目となれば、どちらかが生き残らねばなりませんからね。

投稿: 茶々 | 2016年5月 6日 (金) 06時18分

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