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2015年10月22日 (木)

有田城外~中井手の戦いに散る熊谷元直とその妻

永正十四年(1517年)10月22日、武田元繁毛利元就有田城外・中井手の戦いに参戦した熊谷元直が討死しました。

・・・・・・・・・

ご存じのように守護大名と戦国大名が入り乱れる戦国時代・・・

鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)政権を握った後醍醐天皇(ごだいごてんのう)と南北朝に分かれて(12月21日参照>>)争った足利尊氏(あしかがたかうじ=高氏)に始まる室町幕府が、南北朝合一(10月5日参照>>)を経て、名実ともに政権を掌握したのが、第3代将軍=足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の時代です。

以来、その幕府から、各地方を統治する役を任されたのが守護大名・・・有名なところでは、桶狭間(おけはざま)織田信長(おだのぶなが)にヤラレちゃう今川義元(いまがわよしもと)の今川氏や、甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)の武田氏、周防長門(すおう・なごと=山口県)を治めていた大内氏(12月21日参照>>)・・・彼らなんかは、いわゆる幕府公認の守護大名です。

一方、義元を倒した信長の織田は、やっぱり信長に倒される事で有名な朝倉義景(あさくらよしかげ)(9月24日参照>>)の朝倉氏とともに、尾張(おわり=愛知県西部)越前(えちぜん=福井県)の守護大名だった斯波(しば)被官だった家柄ですが、そこを武力で以って尾張を統一し、幕府の任命うんぬん関係無く、事実上の領主として独自に統治する・・・こちらが戦国大名ですね。

あと・・・
最近では、もともと将軍の近臣だった(9月21日参照>>)とも言われている北条早雲(ほうじょうそううん)ですが、とりあえずは足利幕府系列の堀越公方足利茶々丸(あしかがちゃちゃまる)を倒して(10月11日参照>>)以来、100年に渡って関東に君臨する事になるので、早雲の北条氏も戦国大名の部類だと思います(【後北条・五代の年表】参照>>)

もちろん、細かいところでは両者の違いはもっともっとあるでしょうが、とにこかくにも、室町幕府の力の弱りようと比例するように守護大名の力が弱くなっていき、それに代わるように、力をつけた各地の国人(こくじん=地元密着の半士半農の地侍)たちが、その場所を戦国大名として事実上統治していった時代というのが、今回の有田城外の合戦=有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)の頃だったわけです。

前置きが長くなりましたが・・・
今回の舞台となる安芸(あき・広島県)を、鎌倉の昔から守護として統治していた安芸武田氏は、甲斐の武田氏から枝分かれした同族で、一時は甲斐武田氏よりも勢いがあった時期もありましたが、上記の通り、やがて周辺の国人たちにちょびっとずつ領地を奪われるようになり、第7代当主の武田元繁(もとしげ)の時代には、かなり領地を削られていたのが現状だったわけですが・・・

そんな時、第10代室町幕府将軍=足利義稙(よしたね)を奉じて上洛し、先の永正八年(1511年)=船岡山の戦い(8月24日参照>>)に勝利して、中央での力をつけた大内氏の当主・大内義興(よしおき)が、「君、ゴチャゴチャやられてる場合やないで…ここらで一発ガツンとやったって安芸を平定をしてみぃや」と元繁に命じます。

もともと、できる物なら昔の領地を回復したいと思っていた元繁にとっては、この上からの命令は渡りに舟・・・そんなこんなの永正十三年(1516年)8月、未だ安芸の小豪族の一人だった毛利氏の当主・毛利興元(おきもと)24歳の若さで亡くなり、まだ2歳という幼さの息子=幸松丸(こうまつまる)が後を継いだ事を大チャンスと見た元繁は、同月3日、近隣の国人たちに声をかけ、その2年前に興元に奪われていた有田城(広島県山県郡)を包囲したのです。

この時、有田城を守っていたのは毛利配下の吉川元経(きっかわもとつね・興元の義弟)・・・その有田城を救うべく駆け付けたのが、未だ2歳の当主をサポートして事実上の当主の役割をこなしていた亡き興元の弟=毛利元就(もとなり)・・・なんと、この時、21歳での初陣でした。

かくして、毛利本隊と吉川隊を含む元就の軍が有田へと到着した永正十四年(1517年)10月22日・・・武田VS毛利有田城外の合戦=有田中井手の戦いが展開される事になります。

元就たちが現地に到着した頃には、すでに有田城下にも火が放たれ、もはや周辺は戦場と化していましたが、迎え撃つ武田軍の中で、この元就軍と最初に相対したのが熊谷元直(くまがいもとなお)でした。

この元直は、源平争乱の時の一の谷の合戦=青葉の笛(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)から数えて13代目の末裔・・・その源平争乱の後、戦いの空しさに出家する直実ですが(11月25日参照>>)、彼の孫の直時(なおとき)の時代に安芸に所領を与えられて以来、この地に根付き、室町時代には、この地の守護であった武田氏の傘下となっていて、この頃には「大内>武田>熊谷」という縦関係ができており、元直も、先の船岡山の戦いにも大内配下として参戦して、その武勇を誇った武者だったのです。

この時、正面から戦いを挑んで、多勢から挟み討ちされる事を警戒した元就は、有田の城下町そのものではなく、城山のふもとで柵と防塁を築いて防戦を張っていた元直の本陣ただ一つに狙いを定めて一気に突入したのです。

これを受けた元直は、その武勇の誉れ高きゆえ・・・そう、彼の自信とプライドが退く事を許さなかったのです。

真正面からの攻撃を真正面に受けながらも、
「直実以来、敵に後ろを見せたる例は無し!」
と、自らの鎧を脱ぎ捨てながら豪快に笑い飛ばし、自らが先頭に立って指揮を取りながら奮戦していたのですが、

文字通り、矢面に立っていた事が仇となり、戦いの真っ最中に額に流れ矢を受けて馬上から転落・・・そこをすかさず近づいた吉川配下の宮庄経友(みやのしょうつねとも)なる武将に首を取られてしまったのです。

当然ですが、大将が首を取られてしまった以上、味方の士気は一気に下がり、戦いの意味すらウヤムヤになる中で、ある者は討死し、ある者は逃げ帰り・・・

やがて、元直の居城である三入高松城(みいりたかまつじょう=広島県広島市安佐北区)にたどり着いた雑兵から、「元直死亡」の一報がもたらされると、城内は悲しみに包まれました。

そんな中、皆の目の前で、流れる涙を抑えながらも、すくりと立ちあがった元直の妻・・・
「ほんで、君ら、殿にお供しながら、その首取られたばかりか、遺骸をも、そのへんにうち捨てたままにして、よ~戻って来たな!どんだけ臆病者やねん!」
と怒りに震えます。

・・・で、どうしても怒りが収まらないこの奥さん・・・その夜、ただ一人で城を抜け出し、かの戦場へと向かうのです。

やがて真っ暗な戦場跡に、累々と横たわる遺体をかき分け、一つ一つ、首の無い遺体の中で見覚えがありそうな衣類の者の右腕を確かめていく彼女・・・

そう、実は元直の右腕には、昔に患った腫れ物の跡がアザとなって残っており、それを目印に夫の遺体を探したのです。

そうこうするうち、夫婦の絆の深さ故か・・・多くの遺体の中から夫の遺体を見つけ出した彼女・・・その遺体をやさしく抱きかかえながら、声を限りに泣き叫ぶ慟哭が、夜空に響き渡ります。

ひとしきり涙にくれた彼女は、何とか、夫の遺体を持ち帰ろうとしますが、当然の事ながら、女の身一つで、その遺体を持ちかえる事なんて不可能・・・見れば、夫の遺体にはすでに無数の傷があり、その腕も、もはや斬れ々々の状態・・・

やむなく、彼女は、その斬れ々々の傷口を、涙ながらに押し斬って、愛しきアザのある右腕だけを懐に入れて城へと持ち帰ったのだそうです。

一般的には、その右腕は、その後菩提寺に埋葬されたと言われていますが、『続武将感状記』によれば、彼女は命尽きるその日まで、その腕を肌身離さず持っていたと記されています。

たった一人で真っ暗な戦場に・・・
考えただけでも恐ろしいですが、これも愛あればこそ…なんでしょうね(゚д゚;)

・‥…━━━☆

この後、元直を失った武田軍は、最終的に武田元繁という総大将も失い(2009年10月22日参照>>)毛利の完全勝利となる事から、この有田城外の合戦は「西の桶狭間」とも呼ばれます。

信長が義元を破って全国ネットの舞台に上がったと同様に、元就も守護の武田氏を破って・・・という事で、そう呼ばれるそうですが、元就の場合は、イキナリ全国ネットとは行かず、この後も、少々の時間を要する事になりますが・・・(くわしくは人物事典「も」の項目で毛利元就関連を>>)

ちなみに、今回の合戦で武田が滅亡した事もあって元直さんの息子である熊谷信直(くまがいのぶなお)は、自身の娘=新庄局(しんじょうのつぼね)を元就の息子=吉川元春(きっかわもとはる)に嫁入りさせて(8月30日参照>>)その後の熊谷は、毛利の傘下となっています。

ちなみのちなみに・・・元直さんのひ孫にあたる人物も、まったく同じ熊谷元直という名で歴史上に登場します(関ヶ原の頃です)ので、ゴッチャにならないようにお気をつけを・・・
 .

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コメント

こんばんわ♪
中村橋之介さんの毛利元就思い出してきました!
また観たい!

投稿: 来年30 | 2015年10月26日 (月) 21時26分

来年30さん、こんばんは~

あまり描かれない元就さんの若い時代が良かったですね。
個人的には超多忙な頃で、ちゃんとは見て無いんですが…(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2015年10月28日 (水) 02時45分

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