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2016年1月25日 (月)

恋の歌姫~式子内親王と藤原定家

建仁元年(1201年)1月25日、後白河天皇の皇女で歌人として知られる式子内親王が薨去されました。

・・・・・・・・・・

式子(しきし・しょくし・のりこ)内親王は、あの源平争乱期源頼朝(みなもとのよりとも)をして「日本一の大天狗」と言わせた後白河(ごしらかわ)天皇(10月25日参照>>)第3皇女・・・

あの平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)中宮に迎えて(12月14日参照>>)安徳(あんとく)天皇をもうける第80代:高倉(たかくら)天皇(1月14日参照>>)は、彼女の異母弟にあたり、その清盛に最初に反旗を翻す以仁王(もちひとおう)(4月9日参照>>)は、彼女の同母兄にあたるという超セレブなお姫様です。

とは言え、お察しの通り、この時代に皇室のお姫様が政治的or軍略的に何かをするという事はほぼ無いので、この式子内親王も特記するほどの「何かをした」という事も無いわけですが、彼女の歌が『小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)に収められていたり、新三十六歌仙女房三十六歌仙の一人にも選ばれてもいる事などから、歌詠み人として、彼女の名前を記憶されている方も多いかと思います。

そんな式子内親王は、10歳前後だった平治元年(1159年)に内親王宣下を受けたのをキッカケに斎院(さいいん)として賀茂神社(かもじんじゃ=京都の上賀茂神社と下鴨神社の総称)に奉仕する事になります。

この斎院とは、賀茂神社の神に仕えて祭祀を行う巫女の事で、もともとは、第10代崇神(すじん)天皇の時代(3世紀~4世紀頃)に始まったとされる(『日本書紀』による:実際には天武天皇の時代=飛鳥時代に正式な制度が確立したと思われる)、未婚の内親王が伊勢神宮に一定期間奉仕する斎宮(さいぐう)にならって、平安時代の初め頃から鎌倉時代頃まで行われた制度・・・

上記の通り伊勢神宮に奉仕する内親王を斎宮と言い、賀茂神社に奉仕する内親王を斎院と言い、その総称を斎王(さいおう)と言います。

ちなみに、現在、京都三大祭の一つに数えられている葵祭(あおいまつり)で、毎年、一般市民の未婚の女性から選ばれている最も華やかで注目される斎王代(さいおうだい)は、太平洋戦争後に葵祭が復活する際に、平安時代に祭を主宰していた斎王の代理という意味で「斎王代」なんですね。

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京都・葵祭…王朝行列の斎王代

こうして11年という月日を神に仕えて過ごした式子内親王でしたが、嘉応元年(1169年)に病気を理由に退下した後、母の実家である高倉三条第、父の後白河院の法住寺殿、叔母である八条院暲子(はちじょういんあきこ)内親王の館などで暮らしていましたが、

その八条院母子とのモメ事や、建久三年(1192年)に崩御された父の後白河院の遺領の相続問題やら、橘兼仲(たちばなのかねなか)陰謀事件などに翻弄される中、晩年には病気がちなり、建仁元年(1201年)1月25日式子内親王は薨去・・・・53歳の生涯を閉じられたのです。

このように、その心の内を察する事ができるような記録が皆無な式子内親王ですが、実は、彼女の事を、自らの日記に書きとめている人がひとり・・・

それが、式子内親王が斎王を退下した直後、三条第に住んでいた頃に、そこに足しげく通っていた藤原定家(ふじわらのさだいえ=ていか)・・・ご存じ、『小倉百人一首』の撰者です。

一般的には、その頃の定家は三条第の家政の管理をしていたから・・・つまり、仕事で通っていたとされますが、日記の記述を見る限りでは、その頃だけでなく、晩年になっても、定家と式子内親王の間には交流があった事がうかがえ、特に晩年に病気が悪化した頃には、頻繁にお見舞いにも訪れている事から、一説には、二人は恋人同士?・・・いや、計算上では定家が13歳年下になる事から、「式子内親王は定家の初恋の人だったんじゃないか?」てな事も言われます。

斎院を退下して間もなくの頃なら、式子内親王は20歳を少し過ぎた頃・・・
定家は10歳の少し前・・・

小学校4~5年の、ちょっと色気づき始めた男の子が、バッチリ化粧の女子大生に憧れる・・・
「キレイお姉さんは好きですか?」っていうアレですね。。。
(相手が美人なら、完全にアリやな(o^-^o))

この「二人恋仲」の噂は、かなり昔から囁かれており、ご存じのように、この話を題材にした謡曲『定家』も室町時代に誕生し、能の演目になっています。

とは言え、皇室の姫が自由な恋愛など許されるわけもなく、まして式子内親王は、それまでの10年間神に仕えていた身でもあるわけで、そんな恋だの愛だのという記録が残っている事もないですから、あくまで想像するしかないわけで・・・

実際には、歌人としても名高い式子内親王が、その歌の手ほどきを受けた先生が藤原俊成(としなり)(7月25日【忠度の都落ち】参照>>)であり、その息子が定家だったというだけの仲だったのかも知りません。

しかし、例え妄想の範ちゅうであったとしても「どうせならステキな恋であってほしいヽ(´▽`)/と人は思う物・・・

そんな中、有名な『小倉百人一首』・・・

以前の5月27日【百人一首に秘められた暗号】>>で書かせていただいたページでは、その『小倉百人一首』の成立を、承久の乱(5月14日参照>>)て流罪となった後鳥羽(ごとば)上皇に絡めてお話させていただきましたが、それはあくまで伝説の域を超えない話・・・

しかし、後鳥羽上皇うんぬんがなかったとしても、沢山の歌を残している歌人に対して、その中から一首を選ぶ段階で、歌の名人である定家が「なぜ、その一首を選んだの?」と、歌の善し悪しがわかる人が見れば首をかしげる一首もあるのだそうで・・・

つまり、この『小倉百人一首』は、「定家の独断=好みで歌を選んだ」可能性が大いにあるわけです。

一般的に式子内親王の作風&評価は、悲しみや孤独といった情感をモロに出す事はなく、それを内に秘めた感じでありながら、なんとなくそれを匂わせるような・・・で以って、他の歌人の影響を受けつつも一線を画する独自性を持つ見事なバランスを保った世界観で、まさに新古今時代の代表的な歌人とされています。

当然、複数の歌集に複数の式子内親王作の歌が収められているわけですが、その中から定家が『小倉百人一首』に選んだ一首は・・・

♪玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする ♪

「玉の緒」とは、直訳すれば「玉に開けた穴に通されたヒモ」の事ですが、この場合の「玉」は「魂」の事を意味していて、つまりは「命をつなぐ糸」みたいな意味ですね。

で、全体を意訳するなら
命をつなぐ糸なんか、切れるんやったら切れてしもたらええねん。
このままやったら、この気持、隠し通されへんようになってしまうもん!」

てな感じでしょうか?

ここには、文字に表さなくとも・・・
「このまま我慢できなくなって、忍ぶ恋が世間にバレてしまって悲しい結末になるくらいなら、いっその事…」
てな前置き的な気持ちが含まれている事も想像できます。

もちろん、これは「歌」ですから、現在の作詞家さんがそうであるように、歌詞に書いた事がすべて事実の実体験とは限らないわけですが・・・

自由な恋愛など許されない皇女という身分で、この歌を詠んだ式子内親王・・・

式子内親王亡き後、複数の彼女の歌の中から、この一首を選んだ定家・・・

そんな定家が百人一首に残した自らの歌は・・・

来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩
(もしお)の 身もこがれつつ
「海岸で藻塩を
(藻を焼いて塩を精製する)焼いてる火のように身をこがして、俺はけぇーへん人を待っているんやで」

う~~ん・・・亡くなった人(男女問わず)への情と言えば情ですが、恋と言えば実らぬ恋と知りつつ相手を待っている歌のような気もする・・・

・・・と、まぁ、おそらく実際には何も無かったんでしょうけど、膨らむ妄想で胸キュンとなりそうですね((w´ω`w))
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2016年1月19日 (火)

大河ドラマ「真田丸」の1~2回の感想

 

始まりましたね~

今年の大河ドラマ「真田丸」!!

なんだかんだで、「真田丸」が始まってからの我がブログアクセス数が約2割増しwwとなっており、本年も、不肖茶々にとってはNHK様々・・・

てなワケで、本日は番組の感想など、チョコッとだけ書かせていただきたいと思いますが、まだ、始まって2回めですので、あくまで、ここまで見みただけの、しかも個人的なツッコミのような感想である事をご理解くださいませm(_ _)m

そんなこんなで、
まずは・・・イイ!o(*^▽^*)oイイです。

頑張って、16~7歳の真田信繁(さなだのぶしげ=幸村)を演じている堺雅人さんもですが、なんたって武田勝頼たけだかつより)愚将に描かれなかったところが断然イイです。

これまでは、身内や家臣に見放されたあげくの負け組の将として、特に織田信長(おだのぶなが)が主役のドラマなんかでは、悪く・・・いや、敵としてラスボスのような悪人に描かれるならまだしも、けっこう軽く扱われる事が多かった中で、今回は、愚将扱いされなかったばかりか、平岳大さんの名演技により、かなりカッコイイ最期でしたね。(勝頼の最期は2008年3月11日参照>>)

私としてはステキな奥さんが出て来なかったのがちと残念でしたが・・・(奥さんについては2010年3月11日参照>>)

さらに、三谷作品独特の、わかる人にはわかる小ネタ&伏線も入っていて、思わずクスリとする場面もありましたね~

チョコッとだけの回想シーンではありますが、高嶋さん演じる北条氏政(ほうじょううじまさ)は、味噌汁の2度かけ逸話(2月13日に後半部分参照>>)を思わせる湯漬けを食べながらのご登場・・・

徳川家康(とくがわいえやす)穴山梅雪(あなやまばいせつ)は恩ある武田を裏切った」(3月1日参照>>)と嘆けば、「徳川には、そんな裏切り者はおりません」と高らかに宣言する石川数正(いしかわかずまさ)・・・(11月13日参照>>)

そんな数正を冷ややかな目で見る本多正信(ほんだまさのぶ)のそばには、いつも鷹がいる・・・(9月5日の後半部分参照>>)

何かにつけて考え方や立ち位置が違う兄と弟・・・(7月21日参照>>)

三谷ワールドですね~ただ全体の雰囲気としては、そんな三谷ワールド全開なぶん、「賛否両論あるだろうなぁ」と感じてます。

まず、セリフがかなり現代風・・・てか、ほぼ現代語。

これを受けつけない大河ファンは少なく無いでしょうね~

まぁ、私としてはOKなんですけどね。

それは、以前にも、別のページ(2月25日参照>>)で書かせていただいているように「言葉は変わる」という事・・・

しかも、日本語という物は「話し言葉」と「書き言葉」が違うので、実際には明治の頃以前の「話し方」が垣間見えるのは狂言歌舞伎くらいですから、もし、本当に、その時代に話していたであろうと推定される言葉で時代劇をやれば、おそらく視聴者は能や狂言や歌舞伎を見ている感覚で、中には何を言ってるか解らない場合もあるんじゃないかと・・・

それに、言葉(セリフ)というのは、怒った時は怒った雰囲気、悲しい時は悲しい雰囲気が出る物で、ただ単に単語を並べるだけでは無い感情が伴う物・・・「好きだ」と言ったから好きとは限らないし、「嫌いだ」と言っても嫌いだとは限らない、同じ単語でも別の意味がこもってる場合もあるわけで、それを見ている現代人の我々に、よりうまく伝わるようにするためには、ある程度現代風の言葉の方が良いのではないか?と・・・
(実は、私がブログを書く際に、登場人物のセリフ等が、普段自分が使っている大阪弁になってしまうのも、言葉のウラにある気持ちを生き生きと伝えたいがためである事を、この機会にご理解いただければ幸いです)

それは、一部の所作にも言えると思います。

第2話で、本拠の岩櫃城(いわびつじょう=群馬県吾妻郡)へと向かう真田一家がピンチに陥った時、駆けつけて来た草刈さん演じる真田昌幸(まさゆき)に、安堵した奥さんの高畑さんが抱きつくシーンがあり、ネット上では「戦国の女性はあんな事しない」なんて意見も見受けられましたが、私としては、奥さんの「怖かったわぁ~」という感情が、セリフ無しで表現されていたので、これくらいならアリなのでは無いか?と・・・

もちろん、これもセリフと同様に「ある程度」の暗黙の了解の範囲を守ってという条件がつくとは思いますが・・・

また、その高畑さんのシーンを見てもわかりますが、今のところ、高畑さんを中心とした女性陣がコミカルなシーンを演じておられるようです。

おそらくは、まだ2回目という事で、未だヒロインと呼べる役どころの女優さんが出ではいらっしゃらないので、そのような感じになっているのでしょうが、何やら女性ばかりが笑われているようで・・・

そんな中で、一つ気になったのは、その高畑さんに真田側に斬られた敵兵士が倒れ込み、高畑さんがものすご~くオーバーに驚くシーンがあったのですが、コレって、笑うとこなんですかね?

すんません・・・多分、笑いのツボが違うみたいな事なんでしょうが、例え敵であっても、人が斬られて死ぬシーンで、私は笑う事ができませんでした。

ひょっとしたら
「本当に斬られてるわけじゃない=斬られてる人も演技」
なので笑えるでしょ?

って事なのかも知れませんが、それだと、後々、感動的なシーンが出てきても、「結局は役者さんが演技してるだけ」ってなって感情移入し難くなるんじゃないか?と・・・

思うに、シリアスな場面とコミカルな場面を45分の一つのドラマの中にれるのは難しいんだろうなぁと・・・

未だ、そんなシリアスとコミカルが噛みあっていないようにも感じますが、まぁ、まだまだ序盤なので、本番はこれからという事でしょう・・・

もともと三谷作品ファンの私ではありますが、残念ながら、昨年公開された「宇宙モノ」系の笑いは苦手でありますので、是非とも、次回からは、往年の「刑事モノ」系のような、品のある笑い、小気味良い伏線で、よろしくお願いします。

もちろん大河なので、感動的なシーンも・・・

とにもかくにも、久々に合戦シーンなどもやってくれそうな雰囲気ですので、ここのところ低迷気味で苦戦中の大河に一石を投じるような一年を期待しておりますゾ!
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2016年1月11日 (月)

上杉謙信から武田信玄へ~「敵に塩を送る」

永禄十一年(1568年)1月11日、今川との関係が悪化したために、塩の流通を止められた武田信玄に対して、上杉謙信が塩を送りました。

これが、「敵対する者の弱みに付け込まず、戦う時は正々堂々と真正面から戦う」てな意味を表す『敵に塩を送る』という言葉の語源となったとされる出来事です。

・・・・・・・・・・

そもそもは・・・
天文二十三年(1554年)には甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)を結ぶほどにイイ感じだった甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)相模(さがみ=神奈川県)北条氏康(ほうじょううじやす)駿河(するが=静岡県東部)今川義元(いまがわとしもと)・・・

室町幕府の関東管領(かんとうかんれい)を敵に回して実質的に関東支配をしたい北条(4月20日参照>>)、その関東管領から頼られている上杉謙信(うえすぎけんしん)越後(新潟県)へと触手を伸ばしたい武田(4月22日参照>>)、西の織田をけん制するためにも、これまで怪しかった自らの領地の北と東を安心できる場所にしておく必要があった今川(11月6日参照>>)・・・それぞれの利害関係が一致する中で、お互いの息子と娘をテレコテレコで結婚させて姻戚関係を結んでの見事な同盟成立でした。

しかし、永禄三年(1560年)5月のあの桶狭間(おけはざま)(2007年5月19日参照>>)状況が変わります。

もちろん、すぐに・・・という事では無く、永禄四年(1561年)9月には、全部で5回あった川中島の合戦の中でも最も激しい第4次川中島の戦い(9月10日参照>>)なんかも、信玄と謙信の間で繰り広げられていたわけですが、

一方で、桶狭間キッカケで三河(みかわ=愛知県東部)で独立した徳川家康(とくがわいえやす)が、義元亡き後の今川を狙いはじめる(2008年5月19日参照>>)尾張(おわり=愛知県西部)を統一した織田信長(おだのぶなが)が隣国=美濃(みの=岐阜県)へと攻め入る(8月15日参照>>)

Takedasingen600 この状況を真横で見ている信玄にしてみたら、もはや、決着つきそうに無い謙信の事より、家康が狙う駿河が欲しいわけで・・・「おいおい家康くん、駿河を取るんやったら、おっちゃんも協力したるさかい、半分っこにしよーや」てな感じで、永禄十年(1567)、かの甲相駿三国同盟を一方的に破棄しちゃいます。

なんせ、その同盟の証として今川の姫を娶っていた嫡男=義信(よしのぶ)と決別して(10月19日参照>>)の破棄ですから・・・その後の展開を見る限りでは、この後はもう、信玄の心は、家康と連携を組んでの東海侵攻へ一直線!

で、これに激怒したのが、亡き義元の後を継いだ息子=今川氏真(うじざね)・・・かの北条と連携して信玄への経済封鎖=武田領内への塩止めを決行したのです。

ご存じのように、甲斐は「山があっても山梨県」・・・海の無い山梨では自国で塩を生産する事が難しい中で、隣国からの輸入をストップされちゃったワケです。

Uesugikensin500 言うまでもありませんが、塩は人間が生きて行くうえで欠かせない物・・・当然、この塩が入って来ない状態に甲斐の領民たちは苦しむわけですが、そこを知らん顔できなかったのが義の人=謙信・・・
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永禄七年(1564年)8月の塩崎の対陣(8月3日参照>>)を最後に、決着が着かないままになっている川中島での敵である武田と言えど、「合戦の勝敗は合戦で着けるべき物…領民が苦しむのを見過ごす事はできない」とばかりに、永禄十一年(1568年)1月11日越後の塩を甲斐へと送ったのです。

まぁ!なんてカッコイイ~ヽ(´▽`)/
と、大絶賛される逸話ですが、もう、皆様ご存じの通り、この逸話は後世の創作だと言われています。

現に、同時代の1級史料とされる史料には、まったく、この話は出て来ません。

出どころがわからぬまま、いつの間にか語られるようになり、いつの間にか「ことわざ」にまでなっちゃったわけですが、それなら、なんで?まことしやかに永禄十一年(1568年)1月11日という日付けまで言われてるのか?

実は、越後からの塩は、本当に武田領に到着していたんです。

それは、謙信が「送った」というよりは、(塩の流通を)止めなかった」って事・・・つまりは、あえて「何もしなかった」って事なわけですが、ここで、今川&北条に同調して、謙信も経済封鎖してたら、武田は困ったでしょうか?

歴史に「もしも」は禁物なので、あくまで推測ですが・・・確かに、多少は困ったかも知れませんが、私としては、「結局は、何とか出来た」と思っています。

それは・・・
後々に、結局は徳川&織田と敵対する武田ではありますが、この直後に起こる永禄十一年(1568年)12月の薩埵(さった)峠の戦い(12月12日参照>>)今川館攻防(12月13日参照>>)掛川城攻防戦(12月27日参照>>)を見る限りでは、どう考えても、この時期の武田&徳川の連係プレーが見え隠れしますし、実際に、信玄と家康は「今川の攻撃に関しては協力していた」という話もあります。

・・・て、事は、ここで今川&北条&上杉が塩を止めたところで、いずれは徳川から運ばれて来るわけで、徳川から来れば織田からも来るわけで・・・

それならば、あえて流通を止めずに・・・「もし、本当に困ってんなら、そのぶん+αで高値で売った方が得じゃね?」って事になるんじゃないでしょうか?

ま、そのへんの心の動きは想像するしかありませんが、とにもかくにも、謙信が今川&北条に同調する事なく、塩の流通を止めなかった事から、永禄十一年(1568年)1月11日越後の塩が松本に到着して、その日「塩市」が立ったんですね~

以後、毎年、1月11日に松本「塩市」が行われるようになって、その「塩市」がいつしか「あめ市」に変わって、それが現在でも毎年行われている「松本あめ市」なのだそうです。

って事は、この「塩を送る」に感謝した信玄が、謙信に送ったとされる福岡一文字の太刀=『「弘口(通称:塩留めの太刀)も、「塩を止めない」に感謝という事なのか?

ま、実際に塩が届いた事は確かなようですし・・・めでたしめでたし

でも、ドラマなんかではやっぱり、謙信から信玄へ「カッコよく敵に塩を送って」欲しいですけどね~
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2016年1月 6日 (水)

薬師寺貴能ら討死~福岡合戦の終盤

文明十六年(1484年)1月6日、前年より続いていた福岡合戦で、福岡城に籠城していた薬師寺貴能らが討死しました。

・・・・・・・・・

そもそもは、
嘉吉元年(1441年)、一大名である赤松満祐(あかまつみつすけ)が第6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺という暴挙に出た嘉吉の乱(かきつのらん)(6月24日参照>>)・・・

その乱の時に、将軍家の命で赤松氏を追い込んだ功績にて、一躍武家のトップクラスに躍り出たのが、応仁元年(1467年)に勃発したあの応仁の乱(5月20日参照>>)で西軍を担う山名宗全(そうぜん)だったわけですが、

その後、その宗全と、東軍の主将だった細川勝元(ほそかわかつもと)相次いで亡くなった(3月18日参照>>)事もあって、やがて応仁の乱は終焉を迎えたものの、そのドサクサで功を挙げたとして、以前の嘉吉の乱で滅亡状態となっていた赤松氏の赤松政則(あかまつまさのり=満祐の甥の子で細川勝元の娘婿)播磨備前美作(みまさか=岡山県北東部)を賜って復権します。

「オイオイ、そこは俺のジッチャンが、赤松倒した功績で賜った領地やろがい!」と不満を抱くのは山名政豊(やまなまさとよ=宗全の孫もしくは息子)・・・と、もう一人

衰退を機に赤松を離脱し、自らの力で領地を拡大しつつあった、もと赤松氏の被官(部下=守護に従属する国人領主)で備前玉松城(別名:金川城=岡山県岡山市)城主の松田元成(もとなり)でした。

こうして、共通の敵が赤松となった元成は、山名と水面下で同盟を結び、文明十五年(1483年)9月に挙兵し、続く11月21日より、赤松配下の浦上則国(うらがみのりくに)が守る福岡城(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に向けて攻撃を開始・・・これが福岡合戦と呼ばれる戦いなのですが、その合戦の前半部分は2012年12月13日【会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦】でどうぞ>>

・‥…━━━☆

こうして始まった福岡合戦は、年が明けても未だ終わる事なく続いていましたが、そんな戦いの中でも屈指の激戦だったのが文明十六年(1484年)1月6日の戦いでした。

この日の松田勢からの猛攻撃に、敗北の色が濃くなった状況を見た浦上の城兵たちは、ひとまず福岡城内へと戻る事となりますが、そんな城兵の中の一人が、赤松年寄衆薬師寺貴能(やくしじたかよし)という武将・・・

「よっしゃぁ、ここで俺が命かけて防ぎ止めたる!」
と長刀を取って応戦・・・味方が城内に戻るまで、決死の覚悟で戦う姿勢を見せます。

それを見た薬師寺家臣の弥四郎らが、主君を守るべく取って返して、これまた奮戦・・・山の麓から城壁間近のあたりまでの多勢を、わずかな手勢で追い払います。

そこに松田方の福屋九郎右衛門という剛の者が登場し、激しく圧しましたが、これも何とか討ち倒して防御・・・しかし、防いでも防いでも、その都度、敵方は新手を登場させ、城兵たちは、どんどん追い詰められて行きます。

この状況に、自らの死に場所を見た薬師寺貴能・・・自ら敵中へと飛び込み、壮絶な死を遂げました。

その光景を目にした二人の戦士・・・それは、この合戦の前に、「死ぬ時はいっしょに…」と誓い合っていた額田十郎左衛門(ぬかたじゅうろうざえもん)片岡孫左衛門(かたおかまござえもん)なる二人の武将でした。

実は、この少し前、福岡城内には、一つの情報がもたらされていたのです。

前半部分に書かせていただいている通り、今回の福岡合戦は、直接対決している攻め手=玉松城の松田と、籠城=福岡城の浦上だけの戦いではなく、それぞれ、松田には山名、浦上には赤松、という後ろ盾がいて、それぞれが援軍を送って援助する事になっていたわけですが、その両者が先日、真弓峠(兵庫県朝来市)でぶつかり、赤松側が敗北・・・

福岡城にとって、頼みの綱の赤松政則が姫路に戻ってしまって、「もう援軍は来ない」というのでした。

援軍が来ないとなれば、この籠城戦も時間の問題・・・そこで、薬師寺貴能は友人である額田十郎左衛門と片岡孫左衛門の前で
「もう赤松からの援軍もけぇ~へんし、味方の士気も落ちてるし、この次に大きな戦いがあったら、おそらく負けるやろ。
せやから俺は、その時は先頭で戦って討死しようと思う…死に遅れて生きながらえるのは本意ではないんや」

と宣言していたのです。

もちろん、貴能の宣言を聞いた二人も
「思いは同じだ!」
と宣言し、イザという時は、ともに枕を並べて死のうと決意していたのです。

そして訪れた合戦の日・・・
貴能は、
「すぐに敵の手に渡る首や!最後の対面をしとこ」
と言って、鏡に自らの姿を映し、その前でにっこり笑って身支度を整え、出陣したのだとか・・・

額田十郎左衛門は、未だ若年の一人息子を
「僕といっしょにいてたら、きっと討死しますさかいに…」
岡本筑後守なる武将に息子を預けて戦場へと向かいました。
(なので息子=又三郎は生き残りました)

片岡孫左衛門は、側近に向かって
「俺の首はきっと取られるやろから、コレを目印に遺体を探してくれ」
と、自らの左の二の腕のこよりを2重に結んで出陣しました。

果たして戦後、このこよりを目印に遺体を探し当てた孫左衛門の家臣・・・その傍らには、「ともに死のう」と約束した貴能と十郎左衛門の姿もあった事でしょう。

・‥…━━━☆

こうして、大きな戦いのあった1月6日が過ぎた後、城内では、どうやってこの籠城戦を終わらせるか=開城に向けての話し合いが行われる事になりますが、
「城を枕に、側近たちと刺し違えて死ぬ!」
と主張する則国に対して、
「敵の目前で同志討ちなど、末代までの恥!」
と説得する側近たち・・・

「ならば、皆は逃げたらええ!
俺一人で自刃する!もとからその覚悟や!」

と、今まさに刀に手をかけようとするのを抑え、
「この戦いがすべてでは無いんですから…
世の中には一旦落ちてから、態勢を整えて巻き返した例も少なく無いですから…」

と、とにかく説得に次ぐ説得で、何とか納得した則国は、1月24日の夜半頃に福岡城を脱出して播磨守護代・赤松政秀(あかまつまさひで)高田城(兵庫県上郡町)を目指してに落ち延びました。

かくして、福岡城が陥落・・・約4ヶ月に渡る福岡合戦が終了しました。

と、本日は『常山紀談』『備前軍記』の内容を中心にして書かせていただきましたが、小説やドラマで描かれる戦国時代より以前の、あまり馴染みの無い頃のお話という事でとっつき難い感じがあったかも知れません。

しかし、小説やドラマで、あまり描かれない時代にも、魅力的でカッコイイ武将がいる事を、しみじみと感じる逸話でしたね。

この後、則国を諭したかの側近が言った通り、浦上が巻き返す事になるのですが、そのお話は、また別の機会に・・・m(_ _)m
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