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2016年3月19日 (土)

徳川譜代の雅楽頭~酒井忠世の失敗

寛永十三年(1636年)3月19日、徳川家康に仕えて、江戸時代初期に老中大老を務めた酒井忠世がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

徳川譜代の家臣として若き日の徳川家康(とくがわいえやす)に仕えた酒井重忠(さかいしげただ)の息子として三河西尾城(にしおじょう=愛知県西尾市)に生まれた酒井忠世(さかいただよ)は、幼くして家康に仕えました・・・ちなみに、家康と父=重忠が同世代で、忠世は、家康とは30歳くらいの歳の差があります。

やがて天正一八年(1590年)に家康の嫡子である徳川秀忠(ひでただ)豊臣秀吉(とよとみひでよし)に謁見するために上洛する時に、そのお供を命じられた事をキッカケに秀忠付きの家臣となり、その家老にまで抜擢されました。

家康が関東に入った時には、父の重忠とは別に武蔵国川越(埼玉県川越市)5000石を与えられ、川越城主となりました。

以来、秀忠に付き従い、大戦では度々留守居役を任される父に代わるように、忠世は、秀吉の朝鮮出兵(3月17日参照>>)でも九州・名護屋まで赴き、慶長5年(1600年)6月の会津征伐(7月25日参照>>)や、それに続く第二次上田合戦(9月7日参照>>)にも出陣しています。

やがて慶長十二年(1607年)、完成した駿府城(すんぷじょう=静岡県静岡市)のお祝いに、秀忠の名代として参加した際に、家康から「雅楽頭(うたのかみ)を名乗るように命じられ、以後、忠世の酒井家は『雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれ、代々続いていく事になるのです。

その後も、大坂の陣で秀忠の旗本を務めた後、元和三年(1617年)に父の重忠が死去して遺領の厩橋(うまやばし=群馬県前橋市)3万3千石を継ぎ、合計8万5千石の領地を領するようになりました。

この頃・・・45歳前後の働き盛りの忠世は、亡き家康の後を継いだ秀忠政権の年寄衆(老中)の一人として幕政の中心を担うようになり、さらに元和九年(1623年)、秀忠の嫡子である竹千代(たけちよ)が、徳川家光(いえみつ)として将軍職を継ぐと、秀忠の命により、忠世は家光付きの年寄衆となります。

寛永十一年(1634年)3月には、家光が、子飼いの側近である松平信綱(まつだいらのぶつな)堀田正盛(ほったまさもり)三浦正次(みうらまさつぐ)阿部忠秋(あべただあき)阿部重次(あべしげつぐ)太田資宗(おおたすけむね)の6名を、日常の雑務(旗本や御家人の支配等)を行う六人衆(若年寄)とし、

一方の、幕府としての全国支配を担当する年寄衆との役割分担を明確にして年寄衆には最高の権限を与えた事から、忠世も益々のご発展・・・

と、なるはずだったのですが、人生、どこで何があるかわからない物です。

そのわずか4ヶ月後の寛永十一年(1634年)7月・・・先代の秀忠が生きていた頃にはギクシャク感満載だった後水尾天皇(ごみずのおてんのう)との関係(11月8日参照>>)を修復すべく、家光が上洛して、留守となっていた江戸城で火災が発生し、西の丸が全焼してしまうという惨事が起こります。

そうです・・・この時、留守居役を任されていたのが忠世・・・

その責任を感じた忠世は、速やかに上野寛永寺(かんえいじ=東京都台東区)に入って、自ら謹慎・・・家光からの処分を待つ事にしますが、

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江戸時代の寛永寺(江戸名所図絵より)

意外にも、失火に関しては、家光からのお咎めは一切無し・・・しかし、逆に、速やかに寛永寺に入った事に、家光は激怒したのです。

「お前、コレ、戦国時代の合戦やったら、どうすんねん!」と・・・

城の留守を任されている重臣たる者が、出火の原因解明も、後始末もそこそこに、さっさと寺へと入ってしまった・・・
「逆に、最後まで城を守護するのが、任された者の役目ちゃうんか?」(『翁草』より)
と叱責したのだとか・・・

なるほど~言われてみれば、おっしゃる通りのような気も・・・

ただ、叱責はされたものの、酒井家はご覧の通りの重臣中の重臣・・・これまでの功績もあり、周囲の赦免嘆願もありで、この年の暮れには登城を許され、西の丸の留守居役にも復活する事ができました。

しかし、結局は年寄衆に復帰する事はなく、その権勢にはすっかり陰りが・・・と同時に、それらの事を思い悩むうち、心身ともに疲れて果ててしまったのでしょうか?
忠世は、突然の脳溢血に襲われて倒れてしまったのです。

さすがの家光も心配して、お見舞いの使者をよこしたりして気をつかいまくりでしたが、その甲斐もなく、倒れてから7日目の寛永十三年(1636年)3月19日忠世は、1度も意識を快復せぬまま、65歳の生涯を閉じたのです。

その無口な性格から『むっつり雅楽頭』というニックネームで呼ばれていたという忠世さん・・・ただ1度の失敗に、少しは弁解の口も開きたかったかも知れませんが、こればかりは、お家が存続しただけでも、ヨシとしなければならないでしょうね。

家が残ったおかげで、忠世亡き後の酒井家は、息子の忠行(ただゆき)が、すぐ後に亡くなってしまうものの、その後は嫡孫の忠清(ただきよ)が家督を継ぎ、見事、明治維新まで生き残ります。

鳥羽伏見から戊辰戦争の真っただ中を、後の最後まで徳川家を裏切らず忠誠を貫いた忠世の子孫たち・・・
そこには、徳川家譜代の家臣=雅楽頭酒井家の意地と誇りが見え隠れするようです。
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