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2016年4月30日 (土)

後藤又兵衛の大和口要撃作戦~道明寺誉田の戦い

 

慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日、大坂の陣を迎えた大坂城内にて軍議が開かれ、後藤又兵衛の提案した要撃作戦が採用される事が決定しました。

・・・・・・・・・・・・

天下人=豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に、関ヶ原の戦いに勝利して(2008年9月15日参照>>)豊臣家内の反対派を一掃した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)が、いよいよ豊臣家を潰すべく、秀吉の遺児=豊臣秀頼(ひでより)が進めていた大仏建立事業に難癖(7月26日参照>>)をつけた事をキッカケに勃発したのが大坂の陣・・・
(くわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

前半戦である冬の陣では、真田丸の攻防(2015年12月4日参照>>)で徳川方が痛手を被るも、一方の豊臣方も、徳川の大砲が天守閣に命中(12月16日参照>>)して痛手を被り、慶長十九年(1614年)12月19日に和睦が成立(2011年12月19日参照>>)・・・しかし、かりそめの講和は、ほどなく破られ、後半戦=夏の陣へと突入していくわけですが・・・

一般的には、講和の条件で外堀を埋められた大坂城は裸城同然で、夏の陣は、最初から、浪人ばかりの豊臣方に勝ち目は無かった・・・なんて事も言われたりしますが、それこそ歴史の見方は様々・・・

身も心も豊臣方の私としては、個人的な思いではありますが・・・確かに、すでに冬の陣の時点で、老獪な家康に翻弄されていた感があるので、五分五分とは言えない状態だったかも知れませんが、かと言って負けが見えていたわけではなく、まだまだ勝つ見込みはあったと感じています。

そのページにも書かせていただきましたが、紀州一揆との繋がりができており、樫井(かしい・泉佐野市)の戦い(2013年4月29日参照>>)で勝っていれば、すでに豊臣側を表明していた一揆勢と合流して、その数はとてつもない大軍になるはずでした。

しかし、残念ながら、連携がうまく行かず敗北・・・結局、後世にはターニングポイントだった言われるこの戦いに負けてしまいました・・・が、いやいや、まだ見込みはあります!

それが、今回の後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)の提案した道明寺要撃作戦!

これまた一般的には、夏の陣での豊臣方は籠城作戦一辺倒で、今回の又兵衛の作戦も軍議では一蹴され、やむなく、基次の案に賛成した真田幸村(さなだゆきむら=信繁)毛利勝永(もうりかつなが)だけが、ともに撃って出た・・・なんて事も言われますが、冒頭に書かせていただいた通り、その案が採用されたとする記述もあります。

『豊内記』によれば、慶長二十年(元和元年・1615年)4月30日に大坂城内にて開かれた軍議で、又兵衛の意見を採用して大和口にて要撃する事が決定した・・・とあります。

要撃とは「待ち伏せて攻撃する事」・・・
で、大和口とは・・・そう、この場所を守る事こそが、起死回生のポイントだったんです。

この時、豊臣方の主将格の大野治長(はるなが)の采配により、夏の陣の野戦は、すでに始まっていたわけで・・・

4月26日には、大和郡山城(こおりやまじょう)先制攻撃(4月26日参照>>)、続く27日には、和泉の岸和田城を攻撃し、徳川方の兵の待機場所となっていた堺の町に火を放ち、さらに2日後の4月29日が例の樫井の戦い・・・つまり、豊臣方は、未だ家康の本体が来る前に、徳川配下となっている城と町を攻撃して押さえたわけですが、残念ながら、かの樫井の戦いで負けてしまったために、作戦は練り直し・・・

この間の徳川方は、4月18日に家康が京都二条城に入り、4月21日には将軍:徳川秀忠(ひでただ=家康の息子)伏見城に入城・・・25日は各部隊の編成を定め、26日には家康&秀忠以下、主だった者を集めて、二条城にて軍議を開いています。

つまり、この先は、京都から攻めてくる徳川を、大阪の豊臣が迎え撃つ・・・となるわけですが、まずは衛星写真と地図の比較を見てみましょう。

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●衛星写真はJAXA>>から、地図は国土地理院>>からお借りしました
注:掲載した図は、地理院からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考に趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。

で、ご覧の通り、大軍を率いて京都から大阪へ向かう場合、大阪の東側にドッカリと生駒山地があるため、秀吉が整備した京街道と昔ながらの西国街道が淀川の両岸を通る例の場所か、奈良を経由して、これまた昔ながらの竹内街道付近を通る大和口か・・・実は、この2か所しか無いのです。

Yamazakidougatougecc 「淀川の両岸を通る例の場所」とは、このブログで度々登場しているアノ場所…西に天王山を望み、淀川を挟んで東に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)が建つ男山を望む、神代の昔から(真偽のほどは定かではありませんが日本書紀にも出てきます)鎌倉時代にも、南北朝にも、山崎の合戦にも、そして、かの鳥羽伏見の戦いにもと・・・日本の歴史上、数限りなく戦場になって来た場所ですね。

上記の衛星写真で見ると、生駒(いこま)山地の北端と天王山の間が、少し空いているように見えますが、これは、現在の大阪⇔京都間が、ほぼ切れ目なく家々が建ち、町として開発されている場所なので衛星から撮ると山や森林のように写っていないだけで、実際には、ここも山で、住宅開発もされていない当時は、淀川の両岸に山が迫って来ている感じ・・・なので、どうしてもこの淀川河岸を通らなくちゃいけなくなるわけで・・・

102pa1000 木津川に架かる御幸橋から見る男山(左)…川を挟んで右側手前に見えるのが天王山
男山&石清水八幡宮周辺、写真に写り込んでいる桜の名所の背割堤への行き方は本家HP:京都歴史散歩「男山周辺散策」でどうぞ>>

で、一方の大和口・・・ここは、大阪と奈良を東西に分ける、かの生駒山地が終わり、すぐ南側から、今度は金剛(こんごう)山地が始まる、まさに、一瞬の切れ目の部分・・・やはり、攻めるならココを通るしかない場所で、しかも、その南側には、まさに、そこを通る敵を見降ろせる小松山がある絶好の場所だったんですね。

とまぁ、長い前置きスンマセンでしたm(_ _)m
近畿地方にお住まいの方や土地勘がある方にとっては「そんなんわかってるわ!」てな、お話だったかも知れませんが、この後の道明寺の戦い&若江の戦い&八尾の戦いを語る上では、やはり、この位置関係は大事かと思い、長々とご紹介させていただきました。

一方の徳川方・・・
豊臣方の作戦が大和口要撃に決まった事を知ってか知らずか、この日=4月30日には、松平忠輝(まつだいらただてる=家康の六男)を総大将にした徳川軍大和方面隊の本多忠政(ほんだただまさ=本多忠勝の息子)松平忠明(まつだいらただあき=家康の外孫)らが奈良に着陣し。

同じく徳川方の伊達政宗(だてまさむね)木津(きづ)に陣を敷いています『本光國師日記』より)
ちなみに、家康と秀忠は、この時点では、まだ二条城と伏見城にいます。

翌・5月1日、大和口での要撃作戦で道明寺付近が戦場となると予想した又兵衛平野村に陣を置き、幸村&勝永は後陣として、そこから少し西の位置となる天王寺方面に陣取りました(5月1日参照>>)

5月3日には、木村重成(しげなり)(5月5日参照>>)今福(大阪市城東区)方面に布陣し、北側の京街道をやって来る敵に備えます。

さらに5月5日には、又兵衛&幸村&勝永が平野にて軍議を開き、作戦の最終確認をするとともに、別れの盃を交わす酒宴を開きますが、同じ、この日、家康は二条城を、秀忠は伏見城を出て京街道を下り河内星田(大阪府交野市・枚方市)あたりに着陣しました。

かくして翌慶長二十年(元和元年・1615年)5月6日、京街道をやって来る家康&秀忠らを重成らが向かえる若江の戦いと、大和口からやって来る忠輝&政宗らを又兵衛らが要撃する道明寺・誉田の戦いが火蓋を切るのです。

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玉手山ふれあい公園(小松山付近)から激戦が展開された眼下を望む

この日の夜明け前、先発隊として平野を出た又兵衛は、未明のうちに藤井寺・道明寺付近にやって来ますが、なんと、その時すでに、間近に敵が迫っている事に気づきます。

本来なら、続く第2弾の薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)や、さらに幸村&勝永らとこの地で合流してから、小松山の向こう側の国分にて敵を迎える手はずでしたが、又兵衛が来た時には、すでに徳川方は、その国分まで来ていたのです。

『孫子:行軍編』(6月17日参照>>)にもあるように、こういう地形の場合、高きに処(お)り、隆(たか)きに戦いて登ることなかれ」視界の開けた高い所に陣を敷き、決して登る側になって戦かってはいけない」てのが戦の定石・・・おそらく敵も狙っているであろう小松山を取るためには、味方の到着を待っているわけにはいかない!

Dscf1036a600 やむなく午前4時頃・・・又兵衛は単独で石川を渡って、まずは小松山を占領し、そこから徳川方の諸隊めがけて攻撃を仕掛けます。

しかし、この時の軍勢は、わずかに2800騎程度・・・なんせ、まだ又兵衛しか来てませんから・・・

一方の徳川方は本多=約5000松平=約3800伊達=約10000などなど・・・合計で約25000もの大軍でした。

さすがの又兵衛も、最初こそ善戦したものの、所詮は多勢に無勢・・・まもなく三方から攻められてしまいます。

戦いは数時間続き、昼頃になってようやく、薄田隼人や明石全登(あかしたけのり・てるずみ=景盛)らか到着・・・さらに遅れて幸村たち、さらに勝永たち・・・と次々に、豊臣方の武将が到着しますが、その頃にはすでに後藤又兵衛も薄田隼人(2009年5月6日参照>>)も討死し、徳川方も石川を越えてしまった後だったのです。

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道明寺・誉田・小松山の戦い布陣図
●布陣図は
国土地理院>>からお借りした地図に、管理人:茶々が文献などを参考にポイント等を付けくわえて趣味の範囲で制作した物で、その正確さを保証できる物ではありません。

この連携ミス・・・『北側覚書』によると「霞故に夜の明候を不存」=つまり、「濃霧だったので夜明けに気づかなかった」と・・・

上記の布陣図を見る限り、豊臣諸隊の出遅れ感満載で、ホントに残念無念・・・

『落穂集』にても幸村は、「手前義時を取違へ刻限遅くなり又兵衛、隼人其外討死と承り此上ハ手立も不入、責ての申訳と存シ一戦に及ひ候」「自分が時間を間違えて遅れたために又兵衛と隼人を死なせてしまったので、その責任を感じて申し訳ないと思い、次の一戦に至った」との言葉通り、

この後の真田隊は、日本第2位の大きさを誇る古墳=応神天皇陵(誉田陵)の西側にて、伊達隊との激戦を展開させるのですが、午後2時頃になって若江の戦い(2011年5月6日の後半部分参照>>)と八尾の戦い(2010年5月6日参照>>)が敗戦となってしまった事を受けて、大坂城内から放たれた「大坂城へ戻れ」との命令が届き、午後4時頃までに豊臣方は徐々に撤退・・・殿(しんがり=最後尾)をつとめた幸村も、無事、大坂城まで撤退しました。

かの『北側覚書』では、
「傍輩(ほうばい=同僚)を討せ面目(めんもく)なく…泪(なみだ)を流し申(そうろう)
と、大坂城に戻った武将たちが、自分たちの連係ミスによって後藤又兵衛と薄田隼人を死なせてしまった事に涙を流しながらくやしがる様子が垣間見えます。

とは言え、大坂の北東と南東を突破した徳川軍・・・

いよいよこの翌日の5月7日大坂城総攻撃を仕掛ける事になりますが、そのお話は、
【大坂夏の陣・大坂城総攻撃!】>>
【毛利勝永×本多忠朝~天王寺口の戦い】>>
【グッドタイミングな毛利秀元の参戦】>>
【大坂夏の陣~決死の脱出byお菊物語】>>
後藤又兵衛については
【後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?】>>
【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】>>
などなどでどうぞm(_ _)m
 .

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2016年4月24日 (日)

大坂の陣の交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局

 

慶長二十年(1615年)4月24日、二条城に在陣中の徳川家康が、大蔵卿局を大坂へと戻しました。

・・・・・・・・

という事で、本日は、この日付けつながりで大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)という女性をご紹介させていただきたいと思うのですが、この日付け・・・まさに大坂の夏の陣直前です。

ここまでの流れは、皆様ほぼご存じだと思いますが、一応、書かせていただきますと・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に勃発した豊臣家内の家臣同士の亀裂(3月4日参照>>)を、うまく利用した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)『会津征伐』(7月25日参照>>)と称して畿内を離れた事をキッカケに、五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城に攻撃を仕掛けた(8月1日参照>>)事で関ヶ原の戦いがスタート・・・(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】から>>)

この戦いに勝利(2008年9月15日参照>>)した事で反対派を一掃した家康は、豊臣政権下で絶大な権力を握る事となり、3年後の慶長八年(1603年)2月には征夷大将軍の宣旨を受けます(2月12日参照>>)・・・そうなると、その心の内は豊臣の大老から、徐々に、自らの天下取りへとシフトチェンジしていくわけですが、

それでも、まだまだ豊臣家は健在だし(7月15日参照>>)、秀吉の後を継いだ遺児=豊臣秀頼(ひでより)は成長していくし(3月28日参照>>)、て事は、逆に家康は老いていくわけだし・・・で、年齢的にも、もう待てない家康は、秀頼が父から引き継いだ大仏建立事業の一環で鋳造された方広寺の梵鐘に書かれた銘文が「家康を呪う言葉だ」として大仏開眼を中止させ(7月26日参照>>)、さらにその交渉に無理難題を吹っ掛けて(8月20日参照>>)、イザコザが解決できないまま大坂の陣へと突入・・・となるわけですが、(さらにくわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

そんな大モメの交渉役の一人として活躍するのが、本日の大蔵卿局・・・

今年の大河ドラマ『真田丸』にも、すでに登場していますが、今のところ、後に秀吉の奥さんとなって秀頼を産む事になる茶々(ちゃちゃ)=淀(よど)殿の乳母として、その横にいて世話するだけの、あまり目立たない役どころではありますが、この役を演じられているのが峯村リエさんとおっしゃる女優さんで、あのテレビ朝日系の金曜ナイトドラマ『民王(たみおう) で、遠藤憲一さん演じる内閣総理大臣=武藤泰山の奥さんという、シュールで独特な役をこなしていた女優さん・・・なので、これは、ひょっとしたら、ドラマの後半には、史実同様の活躍をされるかも知れませんね~
ちょっと期待o(*^▽^*)o

そもそもこの大蔵卿局・・・・丹後(たんご=京都府北部)の地侍だったとも、近江(おうみ=滋賀県)とも、あるいは尾張(おわり=愛知県西部)とも言われる大野定長という人物の妻で、彼女自身は浅井家の家臣の娘だったとされますが、結局は、その前半生が、よくわかっていません。

というのも、上記の通り、浅井長政(あざいながまさ)お市(いち)の方(織田信長の妹もしくは姪)との間に生まれた淀殿の乳母としてが歴史上の初登場ですから・・・乳母という事は、おそらく浅井家にゆかりのある人物の身内であり、しかも、同時期に赤ちゃんを産んで、いっぱいおっぱいが出る人でないといけないですからね~

とは言え、この乳母という役どころは、なかなかのクセ者・・・そう、天平(てんぴょう=奈良時代)の昔、あの橘三千代(たちばなのみちよ)(1月13日参照>>)大出世したように、最初こそ身分は低いものの、その世話をした赤ちゃんの将来の立場と、自身の立ちまわりっぷりいかんで、いかようにも化ける事のできる役どころです。

ご存じのように、浅井家は滅亡(8月29日参照>>)、その後にお市の方が嫁いだ柴田勝家(しばたかついえ)も、そのお市もろとも自害(4月23日参照>>)・・・それこそ、大蔵卿局は、その2度の落城の時も、淀殿のそばにいて、彼女たちを守り、彼女たちを励まし、亡き父と母の代わりとなって支え続けたわけです。

現在よりは、生まれた赤ちゃんが成人に至る確率も低かったでしょうし、ましてや世は戦国ですから、家が滅亡したり、両親が処刑されたりで、その子供の運命も尽き、そのまま地に落ちた方々も多くいた事でしょうが・・・

そうです!・・・たび重なる落城で、その運命も危うかった淀殿ですが、それこそ、織田信長(おだのぶなが)の血筋という事もあって、勝家の越前北ノ庄城(福井県)落城後は秀吉の庇護を受け、さらに、その秀吉から寵愛されて、天下人の後継ぎである秀頼を産むわけで・・・

まぁ、現代の恋愛からの結婚観から見れば「好きでも無い人と結婚しても…」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、以前から時々お話させていただいている通り(4月22日参照>>)この時代は「結婚に恋愛が絡まない時代」・・・いや、むしろ「恋愛結婚ははしたなく、身分が低い者がする事」と考えられていた時代なのですから、その観点からいけば、淀殿は、戦国の女として、これ以上無い幸せをつかみ、これ以上無い出世を果たした(5月30日参照>>)事になります。

となると・・・そう、その乳母である大蔵卿局も大出世を果たす事になるのです。

慶長三年(1598年)8月18日、未だ幼い息子の将来を心配しつつ、あの秀吉が亡くなり(8月6日参照>>)ますが、このように主が亡くなった場合、その後を仕切るのは、当然、後継ぎの嫡男か、その後継ぎが幼い時は、その生母か後見人として、城内において最も強い実権を握る事になります。

子供がいなかった秀吉の正室=おね(寧・祢・ねね)さんが、大坂城を出て京都・三本木の屋敷に移り、代わって、秀頼と淀殿が大坂城に入ります。

・・・と、この史実から、なんか淀殿がおねさんを追い出したように見え、「二人は仲が悪かった」的な感じでドラマ等では描かれる事が多いですが、上記の通り、後継者が幼い時にはその母か「おふくろ様」と呼ばれて大きな力を持つ事は戦国のならわしですし、彼女たちが大坂城に入るのも秀吉が望んだ事・・・

実際には、
秀頼の生母として大坂城を離れる事ができない淀が大坂城内の事を仕切り、代わりに、自由に動けるおねさんが、朝廷や外部との交渉にあたったり、豊国神社の祭祀に関与したり・・・という役割分担をしていたのだろうというのが現在の見方です。

とは言え、こうして淀殿&秀頼が大坂城の主となった事で、乳母である大蔵卿局は奥向きの事を仕切るお局となり、乳兄弟という立場で秀頼の側近として仕えていた大蔵卿局の息子たちも、大野三兄弟として大坂城にて権勢を振るう事になるのです。

ちなみに大蔵卿局の息子たち=大野三兄弟とは・・・淀殿と幼馴染で、まさに同世代の大野治長(おおのはるなが)大野治房(はるふさ)大野治胤(はるたね)の三人の事。
実際には、その下に四男の大野治純(はるずみ)がいますが、彼は幼くして徳川家に人質となって、そのまま家康に仕えていますので、通常は大野三兄弟と称されます4月18日参照>>)

ただ、いくら大坂城にて淀殿&秀頼がトップの座についたとて、その直後や関ヶ原やら、といった時期は、まだまだ秀吉に仕えていた大物家臣がウジャウジャいましたから、未だ大野三兄弟の出番も少なかったわけですが・・・(家康もおるでヨ)

その関ヶ原の時に、長男の治長が家康暗殺の疑いをかけられた汚名を挽回すべく、本チャンでは徳川方=東軍で参戦して勝ち組になった事、また、その頃から、秀吉恩顧の大物たちが、そのお歳もあって次々と亡くなっていった(6月24日参照>>)などから、徐々に大野三兄弟がステップアップしていく中で、大坂の陣の発端となる例の家康のイチャモン=方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)です。

この時、まず最初に弁明役として家康のもとに向かったのは、『賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人として知られる豊臣家家老片桐且元(かつもと)でしたが(再度8月20日参照>>)、家康は彼に会おうとせず、且元は家康の側近から疑惑への詰問を受けるばかり・・・

そこで、新たな使者として家康のもとへ派遣されたのが大蔵卿局たち・・・家康は、そんな大蔵卿局たちには大歓迎ムードで会い、しかも、豊臣家に対して寛大な態度で接する用意がある事を告げるのです。

しかし、一方で、且元と会見している家康の側近たちは、相変わらず無理難題とも言える厳しい条件を突き付けて来るばかりで・・・

大坂への帰路の途中、大蔵卿局たちと合流した且元は、家康の側近らが突きつけた
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替え

「3条件のうち、どれか一つを実行せねば・・・」と訴えますが、上記の通り、大蔵卿局たちは家康と直接話して、「ホンマは僕も戦争なんかしたないねんで~」てな平和ムードの会話で盛り上がっていたわけで・・・

そう・・・後から考えれば、これは家康による「仲間ワレさせる作戦」だったわけですが、それに気づかぬ大坂城内では、当然、この食い違いは、「どちらかがウソをついている」って話になるわけで・・・

疑われた事により身の危険を感じた且元は、大坂城を去り、なんと徳川方へ・・・且元という重臣を失った大阪城は、今後は大蔵卿局の息子=大野治長が豊臣方の中心人物として大坂の陣を迎える事になります。

結局、交渉は決裂し、慶長十九年(1614年)の10月に始まった大坂の陣では、12月4日の真田丸の攻防で徳川方が痛手を受け(2015年12月4日参照>>)、逆に豊臣方は12月16日の砲撃によって天守閣の一部が崩壊(12月16日参照>>)・・・という事で、12月19日に和睦が成立(2011年12月19日参照>>)します(ここまでが『大坂冬の陣』と呼ばれます)

ところが、ご存じのように、この和睦は、次の夏の陣へと向かう、かりそめの和睦・・・「徳川方が約束以上に堀を埋めた」だの、「それを戻すために豊臣方は浪人を雇いはじめる」だの、様々な事が暗躍する中(このへんの事情は【大和郡山城の戦い】>>前半部分でくわしく)、家康は「息子の結婚式に出席する」として、慶長二十年(1615年)4月4日に駿府(すんぷ)を出発・・・事実上、これが大坂夏の陣の出陣となります。

で、大蔵卿局は、今回も話し合いすべく、使者として派遣されるのです。

常高院(じょうこういん=浅井三姉妹の次女・初)たちとともに家康のもとに向かった大蔵卿局は、4月10日には、名古屋に着いた家康と面会しますが、貰えたのは「結婚式が終わったら上洛するよって待っててちょ」という返事のみ・・・

この後、息子の結婚式を終えた家康と行動をともにし、着かず離れずおりに触れて面会する彼女たちですが、「国替えがイヤやねんやったら、浪人を全部クビにしたらええねん」と、何かしらの条件を呑む事を即すばかりで、いつも追い返されてしまいます。

4月18日に、家康は京都の二条城に入りますが、話し合いは進展する事無く・・・かくして慶長二十年(1615年)4月24日「是非もなし!」との最後通告とも言える、家康からの書状を受け取り、常高院&大蔵卿局は大坂へと帰され事実上「もう、話し合いの余地は無い」状態となったのでした。

この後は、2日後の4月26日に起こった先の大和郡山城の戦いを皮切りに、夏の陣の勝敗の分かれ目だったと言われる樫井の戦い(2013年4月29日参照>>)をはじめ、一連の大坂夏の陣の戦いとなり、ご存じのように、5月8日の大坂城の落城(2007年5月8日参照>>)を以って、大坂の陣は終結となるのですが・・・

大蔵卿局と、その息子たちは、それぞれがそれぞれの形で主君=豊臣家と運命をともにする事となります。

豊臣大坂城の最後となった慶長二十年((1615年)5月8日・・・大野三兄弟の次男=治房は秀頼の遺児=国松(くにまつ)を抱えて、燃える城を脱出(10月17日参照>>) 、同じく城を脱出した三男の治胤は、後世の武士のバイブル=『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)に登場するほどの壮絶な最期を遂げます(6月27日参照>>)

そして、最後まで淀殿につき従った大蔵卿局と、最後まで秀頼につき従った主将格=大野治長は、やはり淀殿&秀頼とともに一つところで自害するのです。

Dscn0459a600 現在の大阪城には、山里丸と呼ばれる場所に『豊臣秀頼・淀殿 自刃の地』→という石碑が建っていますが、実は、彼らが自刃した場所は文献によって様々で、候補となる場所は10か所以上あって特定されていませんし、そもそも現在の大阪城は大坂の陣の後に徳川が建てた大阪城で、豊臣のソレとは天守の位置も、曲輪の位置も違うので、多分特定はできないんですが(^-^;

とにもかくにも、おそらく情報が錯綜していたであろうおかげで、ほとんどの文献が、秀頼&淀殿が自害した事と、その場所の名前しか書いていない状態なのですが、少しだけ様子がわかる文献を・・・

『豊内記』『明良洪範』によれば・・・
天守閣の火をよけて、本丸下の蘆田曲輪(あしだくるわ)にある朱三櫓(しゅさんやぐら)食糧貯蔵庫に逃げ込んだ後、
「もはやこれまで」
覚悟を決めた秀頼は、
「甲斐守(かいのかみ)は母君を、氏家は我を、毛利は女・幼子を介錯せよ」
と命じ、豊国大明神を拝んだ後、淀殿の前に進み出て
「あの世にて…」
と挨拶し、母を頼んだ甲斐守=速水守久(はやみもりひさ)に目配せする・・・と、速水が淀殿に向けて刀を振り下ろしますが、それと同時に、秀頼が懐から出した脇差を腹に当て、かの氏家行広(うじいえゆきひろ=卜伝)が介錯をしたと・・・

その後、秀頼の言葉通りに、毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)が女たちを介錯したとの事なので、おそらく大蔵卿局も、この時に・・・

文献によって、速水=氏家=毛利のメンバーが誰を介錯というのがテレコになってたりしますが、そんな彼らも、この後、それぞれ自刃するので、そのあたりは曖昧(ほとんどの人がともに亡くなっているので…)・・・おそらく治長も彼ら側近が自刃するのと刺し違えるように自刃したものと思われます。

豊臣家において、おそらくは徳川で言うところの春日局(かすがのつぼね)(10月10日参照>>)のような役割を果たしていたであろう大蔵卿局・・・

乳母という役割は、その育てた赤子とともに浮き、ともに沈み、最後までその赤子と運命をともにする・・・低き身分ながら、その役目をしっかりと見据えた強き女性がなるべき役職なのでしょうね。
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2016年4月17日 (日)

当主・織田信長の最初の戦い~三の山・赤塚の合戦

天文二十一年(1552年)4月17日、父の後を継いで織田家当主となった織田信長の最初の戦い=三の山・赤塚の合戦がありました。

・・・・・・・・・・・

もはや説明するまでもない尾張(おわり=愛知県西部)の国は織田信秀(おだのぶひで)次男(三男とも)として生まれた織田信長(おだのぶなが)ですが、

信長が幼き頃の尾張には、守護(知事)斯波(しば)がいて、守護代(副知事)織田達勝(たつかつ)がいて、その達勝の居城である清州城(きよすじょう=清須市)での清州三奉行の一人が父=信秀といった感じで、未だ上には上がいる状態・・・

ただ、祖父=信定(のぶさだ=信貞)の代から、流通の要所や賑やかな門前町を掌握していた事で、信長の織田家は経済的には恵まれていたようです。

そんな中で父の信秀は、北に位置する美濃(みの=岐阜県)斉藤道三(さいとうどうさん)や、東の三河(みかわ=愛知県東部)遠江(とおとうみ=静岡県西部)をも掌握する駿河(するが=静岡県中北東部)今川義元(いまがわよしもと)度々の交戦を繰り返していましたが、
【第1次小豆坂の戦い】参照>>
【井ノ口の戦い】参照>>
【加納口の戦い】参照>>

一方で、未だ一族の内紛(1月17日参照>>)をも抱えていた信秀は、天文十八年(1549年)、自らの息子=信長と、道三の娘=濃姫(のうひめ=帰蝶とも)との婚姻を成立させて和睦(2月24日参照>>)・・・今川に集注すべく、ひとまず美濃との戦いに終止符を打ちました。

これが信長16歳の時・・・しかし、そのわずか2年後の天文二十年(1551年)3月、父=信秀は他界するのです(3月3日参照>>)

もちろん、嫡男として、織田家の家督を継ぐ信長ですが、ご存じのように、この頃の信長は、周囲から「うつけ」呼ばわりの真っただ中・・・後世の事を知ってる私たちだからこそ、若き信長にも大器の片りんが見え隠れするものの、実際には、味方である家臣さえ、その才能には気づいていなかったわけで・・・

で、やっぱりいました~
「こんなうつけの当主やったら、この先心配…今のうちに今川についた方がええんちゃうん」
って思った人が・・・

それが、亡き信秀から鳴海城(なるみじょう=愛知県名古屋市緑区:別名=根古屋城)を任されていた城主=山口教継(やまぐちのりつぐ)でした。

教継の山口家は、もともとは周防(すおう=山口県)大内氏の一族だったそうですが、いつしか尾張笠寺(かさでら=名古屋市南区)付近の土豪(どごう=土地の小豪族)となって織田家に仕えるようになり、故郷の地名である山口を名乗ったとされますが、教継も信秀の家臣として、先の小豆坂の戦いでも武功を挙げ、むしろ、信秀からの信頼篤い猛将でした。

なんせ、この鳴海城・・・隣国との国境に位置する重要な場所にある城ですから、主君からその場所を任される=それだけ信頼されている証でもあるわけです。

しかし、かの信秀の死で今川に寝返る決意をした教継は、その鳴海城に息子の教吉(のりよし)を入れて守らせた後、笠寺に砦や要害を構築して、そこに、岡部元信(おかべもとのぶ)をはじめとする義元配下の者を手引きして配備し、自らは中村(同名古屋市南区)の屋敷を合戦用に改築して、そこに立て籠もりました。

Nobunaguizin600a この状況を見た信長・・・自ら800ばかりの軍勢を率いて那古野城(なごやじょう=愛知県名古屋市中区)を出陣し、

中根村(名古屋市瑞穂区)を駆け抜けて小鳴海(名古屋市緑区=古鳴海)へと進み、三の山(名古屋市緑区鳴海町字三王山)へと登りました。
(←織田信長初陣図(個人蔵))

.

時に天文二十一年(1552年)4月17日信長19歳・・・
すでに14歳で初陣を済ませていたとされるものの、亡き父を継いで織田家当主となってからの、初めての戦いでした。

これを受けて鳴海城を出た教吉は、信長より1つ上の20歳・・・鳴海からは十五~六町(約1.6kim)北、三の山からは同じく十五~六町東にあたる赤塚(名古屋市緑区)へと約1500の軍勢を率いて出陣して来ます。

三の山・赤塚の合戦です。

三の山の上から、この山口勢の状況を見た信長は、早速、内藤勝介(ないとう しょうすけ・かつすけ)荒川与十郎(あらかわよじゅうろう)らの先陣を赤塚へと向かわせます。

両者の距離が五~六間(約9~11m)となった時、どちらからともなく矢が放たれ、しばしお互いの矢戦と相成りますが、そんな中で、織田方で先頭を切っていた与十郎が、兜のひさしの下部分を深く射抜かれ、その衝撃とともに落馬してしまいます。

そこを、「その首取らん」と一斉に襲撃してくる敵兵・・・ある者は、そのスネを掴んで引きずり、ある者は与十郎が指していた太刀(たち)の柄(つか)を掴む者もいる中、コチラはコチラで、「与十郎を敵に渡してなるものか!」と、与十郎の上半身をしっかりと持って引っ張る・・・何とか引きずり勝って、結局、与十郎の首は取られなかったものの、

午前10時頃に始まった戦いは正午頃まで、打ち合っては退き、また攻めかかりの乱戦となりました。

しかし、あまりに近距離での戦いであったため、双方が討ち取った敵兵の首を取る事ができないまま、その後は四~五間(約7~9m)の距離を隔てて数時間の睨みあい・・・結局は、勝敗が着かないまま、この日の合戦は終了する事となりました。

信長方で討死した者は30名・・・近距離だったため、両者ともが馬を下りて戦ったので、その馬たちが、お互いの敵陣へ駈け込んでしまっていたりしましたが、敵も、もともとは織田の配下だった山口家で、お互いが顔見知りだった事から、お互いの馬たちも、生け捕りにした捕虜も、お互いに返し合い、交換して恨みっこ無しのドローという事で・・・

いや、本来、城ごと敵に寝返った武将なら、主人は、その謀反人を討って当然なわけで、それがドローなら、それは引き分けではなく、信長の負けって事になるのかも・・・

しかも、さすがは信秀が見込んだ山口教継です。

未だ若き信長は、彼らを討つどころか、逆に、この後、大高城(おおだかじょう=名古屋市緑区)沓掛城(くつかけじょう=愛知県豊明市)をも計略で以って、教継に奪われてしまいます。

つまり、三河との国境付近の重要拠点である鳴海城・大高城・沓掛城の3城が今川義元の物となってしまったわけで・・・おかげで、信長は、この城を奪い返すための拠点として、それらの城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・鷲津砦・丸根砦などの複数の砦を構築する事になります。

ところが・・・です。

間もなく、かの鳴海城には、あの岡部元信が城代として入り、大高城&沓掛城のそれぞれの城にも、今川の家臣たちが入城・・・

今川に対して、これだけの忠勤を見せた教継父子を駿河に呼び寄せた義元は、褒美を与えるどころか、なぜか、この父子に切腹を申し渡すのです。

・・・と言っても、この教継父子の死に関しては、複数の説があり、
上記の義元が切腹させたというところは同じでも、その原因は信長の調略にあるという話もありますし、義元ではなく信長によって殺されたという話もあります。

しかも父子が亡くなった年でさえ、この赤坂の合戦の翌年=天文二十二年(1553年)とも、永禄三年(1560年)とも言われる謎に満ちた最期となってしまっています。

この謎の死は、やはり、教継が奪い取ったこれらの城が、尾張と三河の国境の攻防戦において、最も重要な場所となるからなのでしょうか?

そう・・・この赤塚の戦いの8年後に起こる、あの桶狭間・・・この3つの城と周囲の砦は、まさに、その奇襲作戦の舞台となるのです。

Okehazamaitikankeicc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは下記リンク【二つの桶狭間古戦場】に掲載した物で、周辺の位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した必ずしも正確さを保証する物ではありません)

桶狭間については・・・
【二つの桶狭間古戦場】>>
【桶狭間で名を挙げた毛利良勝と服部一忠】>>

でどうぞ
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2016年4月 9日 (土)

大河ドラマ「真田丸」の感想~青春編

 

恥ずかしながら、不肖私、最近まで知らなかったのですが、聞くところによると、今回の大河ドラマ『真田丸』には、「○○編」という「くくり」があるらしく、先日=4月3日の放送で「青春編」が終了し、次回からは「大坂編」が始まるとの事・・・

ならば、キリが良い・・・という事で、ここらあたりで、その「青春編」の感想など書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

全体的な感想としては、以前、初回の感想のページ(1月19日参照>>)でも書かせていただいたように・・・
まずは・・・イイ!o(*^▽^*)oイイです。

かなり三谷ワールド全開なので、「三谷氏の脚本が苦手」という方には不評なんでしょうが、もともと、私は嫌いでは無いので、「こんな大河があっても良いかな?」という感じ・・・

むしろ、昨今の「トンデモ&ファンタジー大河」よりは、「わざとやってる」「知っててやってる」が出てる気がするので、それこそ「あまりにトンデモな事はなさらないだろう」という安心感が、見ている側にあるのかも知れません。

それに、三谷作品では必須となっている、歴史好きの心をくすぐるような小ネタも入ってますしね。

それこそ、以前の初回の感想にも書いた北条氏政湯漬けすすりまくり(2月13日に後半部分参照>>)に、「徳川には裏切り者はおりません」と宣言する石川数正(11月13日参照>>)や、本多正信(9月5日の後半部分参照>>)・・・なんてのもそうですが、何回か前には、イライラしながら爪を噛んでる家康に、阿茶局(あちゃのつぼね=雲光院)(1月22日参照>>)「爪を噛まない!」と言ってたりなんかして・・・

家康の爪を噛むクセは、史料にも書かれていてけっこう知られたエピソードですが、ドラマで見たのは初めてだと思います。。。。伊賀越え(6月4日参照>>)の逃げっぷりもオモシロかったですしね。

ただ、一つ気になったのは、やはり俳優さんとの年齢のギャップですね~
それこそ「青春編」「大坂編」とブロック分けするのであれば、「青春編」は10代の若い俳優さんにお願いした方がシックリきたかも・・・

なんせ、大坂にやって来る時で、信繁(幸村)は、やっとこさ20歳越えたばかりですから・・・最初の頃なんて15~6歳ですが、いくらなんでも42歳の堺さんは・・・頑張って若い感出してはりましたが、演技にも限界ってモノがあるやに思います。

そのために、きりを演じた長澤さん「きりウザイ」「きりジャマ」と、ネットでさんざんに言われてはりましたが、よくよく考えれば、長澤さんのあの役は、おそらく12~3歳?=小学校高学年か中学生くらいの設定のはずので、そのくらいの女の子の、好きな人に対する態度としては、思うようにならないイラだちをぶつけてみたり、邪魔してみたり、イケズしたり・・・と悩める中学生みたいで、ごくごく普通の姿のような気もします。

でも、それを28歳になられる長澤さんがやってしまうと、見てる側は「うっとぉしい女」って感じてしまうんじゃないかと・・・

とは言え、若い俳優さんが演じる期間が、あまり長くなると堺さんや長澤さんの出番も少なくなりますし、そもそも1年間放送予定との兼ね合いなんかもあって、そこのところは作り手の方のみぞ知る・・・スタッフさんとしての1番良い選択が「初回から堺さん」だったのでしょう。

ところで、最初の頃に「高畑さんを中心とした女性陣がコミカルなシーンを演じておられる」と書かせていただきましたが、そのパターンは今も健在ですね。

もともと、三谷さんは、その作品の中で、男性を魅力的に描くのがお得意なようにお見受けしますし、なんたって大河ですから、締めるところは締めないとならないわけで、その引き締める役割をするのが物語を進めて行く男性陣なのですから、男性陣はたいせつに扱わねば・・・なので、ギャグ担当が女性陣になるのは致し方無いところ・・・

に、してもですよ!
敵方の室賀さんの長~くカッコイイ死に方に比べて、お梅ちゃんの亡くなり方には、ちょっとビックリ!です。

そもそも、ドラマの初回に、長女を産むお梅ちゃん(堀田興重の娘もしくは妹)と、後に片倉小十郎(10月14日参照>>)の息子と結婚する三女を産むきりちゃん(高梨内記の娘)が出てた事で、おそらく、この先、嫡男の大助くんを産む新婚ラブリン大谷さんの娘も登場するものと思われ、「おっ!久々の側室アリかい?」と、ちょっとワクワクしたんですが・・・

どうやら、「日曜ゴールデン」という「家族大集合で見ちゃうヨ」枠では、やはり側室の存在はマズイのか?、どうやら、次から次へと亡くなる作戦になったようで・・・まぁ、そこは、平成日本のモラルに合わせて、先に去って行っていただくのも仕方ないのかも・・・

に、してもですよ!(2回目)
合戦序盤からあからさまに立った死亡フラグの中、「お乳が…」「みんなが…」と、跡取り息子の嫁が無防備に戦場をウロウロしまくりで、「もうアカン!」と思ったところをHOT!HOT!佐助に助けられてセーフ・・・と思いきや、知らん間に死んでもてた~って、

確かに、実際の合戦ではそんな感じでしょう。
どこでどう亡くなったかわからない人も多い・・・てか、ほとんどそういう死に方だったと思いますが、それはそこ・・・やっぱりドラマですし、主人公の奥さんですし・・・もうちょっと粘って、感動的な亡くなり方が良かったかな?とも、個人的には思いますが、三谷さんの事ですから、これも何かのフリ、何かの伏線なのかも知れませんから、今は、あまり声を挙げずにおきましょう。

だって、なんだかんだで今回、あの城下での戦いの描き方が最高~ヽ(´▽`)/!でしたからね。

往年の「風雲たけし城」のセットの如き、堀やら柵やら落とし穴やらをほどこした城下に敵を誘いこんで、団子状になった敵を左右の壁に隠れていた兵士が、石つぶてやら熱湯やらで攻撃(さすがにウ●コは無かった(^-^;)・・・って、これまで、軍記物で散々見て来たけれど、アレを映像で再現してくれたドラマは見た事無いです(あったかも知れんけど記憶にないです)

これまでの合戦シーンは、原っぱで騎馬が駆け抜けて雑兵がぶつかって・・・っていう戦闘シーンがほとんどでしたからね。
(これはこれで良いんだけれどもね)

これはこれは・・・茶々としてはメッチャ期待してしまいますヨ!
何が?って・・・最後の最後に描かれるであろう大坂の陣です。

やはり、これまでは、例えそれが大坂の陣の合戦シーンであっても、原っぱで騎馬が駆け抜けて・・・って感じばかりでした。
(大坂の陣には野戦もあるので、「間違い」という事では無いです)

でも、本当は、あの大坂の陣の多くは市街戦・・・大坂の町を、徳川方の軍がグルリと取り囲んで、最終的には、その中で戦闘があったわけですから・・・

Oosakanozinfuzinzu330
↑冬の陣で家康が陣を敷くのが茶臼山…その茶臼山に夏の陣では信繁(幸村)が陣を敷きます。
茶臼山については
2013年4月14日のページで>>

『大坂陣山口休庵咄』によれば、
「町人百姓等城より出候(いでそうら)わば、両手の指を切、はたになし(磔にして)城へ追い入れらるる由(よし)に候(そうろう)
とあり、徳川方が大坂城を包囲した後は、一般人がその包囲をかいくぐって出入りする事ができなかったらしく、取り残された人たちは、やむなく、その包囲の中=戦場で商売をして日銭を稼いでいた事が書かれています。
*さすがにコレはゴールデンの映像にできないでしょうが『みしかよの物かたり』>>もご参考に…)

つまり、城下町で一般人が生活している中での合戦となっていたわけですが、少なくとも、大坂の陣の合戦シーンをそのように描いたドラマを、私は見た事が無いです。

もちろん、私もすべての映画やドラマを見てるわけではありませんが、「知らない」「記憶にない」という事は、「それだけ少ない」という事でもありますから、やっぱり1度は見てみたい・・・

今回の第一次上田合戦=神川の戦い(8月2日参照>>)が、まさに、今までとは一味違う合戦シーンだっただけに、クライマックスの大坂の陣の描き方にも、自然と期待してしまうのです。

とは言え、それはまだまだ先の話として・・・
もちろん、次回からの「大坂編」も楽しみにしてますよ~

なんたって、予告編での秀吉の名乗りが
「かんぱく、とよとみひでよしであ~る」ですからね。

やはり、これも、ほとんどの映画やドラマが
「とよとみひでよし」
ですが、織田や徳川などの苗字ではなく、朝廷から賜った姓(かばね)である豊臣の場合は、本来は
「とよとみひでよし」
ですから・・・
【豊臣姓に秘められた秀吉のコンプレックス】参照>>
【氏・素姓と苗字の話】参照>>

例え大河であっても、三谷ワールドのクスリとする小ネタに期待してます( ̄▽ ̄)

できれば、茶々一押しの逸話=秀吉の遺言だった家康との結婚をドタキャンした淀殿が大野治長と高野山へ逃避行(2010年12月16日参照>>)なんかもねじ込んでいただきたいものですが、やっぱ日曜ゴールデンのファミリータイムに三角関係のゴタゴタはアカンでしょうなぁww(*´v゚*)ゞ

いずれにしても、まだまだこれから・・・楽しみな「真田丸」です。
 .

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2016年4月 4日 (月)

甲州征伐後の信長~駿河見分と安土帰陣と息子・織田勝長の事

 

天正十年(1582年)4月4日、甲州征伐を終えた織田信長が黒印状を残しています。

・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)4月4日付けで、織田信長(おだのぶなが)から公家の吉田兼見(よしだかねみ=吉田神社の神主)宛てに送られた黒印状・・・当然ですが、個人的な手紙ではなく、公文書です。

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織田信長黒印状(大阪城天守閣蔵)

内容は
「今回の出陣のために、禁中(きんちゅう=御所内)で丁寧に必勝祈願していただいたお札と衣が、コチラに届きました…心の底から喜んでます」
てな感じでしょうか?

宛名は兼見で書状には禁中と書かれていますが、この必勝祈願を命じて実行させたのは時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)です。

ドラマ等では、
「神になろうとしていた」とか、
「天皇に代わって天下を取ろうとしていた」とか、
何かと天皇を下に見る雰囲気で、鬼のような信長さんが描かれますが、公式文書であるが故の社交辞令的な面もあるとは言え、この時期になっても、信長が正親町天皇に敬意を払っている事が、この書状でわかります。

この2年前に、やっとこさ終結した石山合戦も、もともとは最後の室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)の声かけに応じた形で蜂起した石山本願寺に対して、その鉾を収めさせるためには、
「将軍よりもエライ人にお願いしよ」
と、信長側から正親町天皇にお願いして、快諾した天皇が本願寺を説得して終戦に持ち込んだわけですし(8月2日参照>>)

このブログでも度々書かせていただいているように、天正二年(1574年)に東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)を削った時も、意外に腰が低かったし(3月28日参照>>)、前年=天正九年(1581年)の御馬揃えも、天皇さんへの大サービスの可能性大だし(2月28日参照>>)・・・おそらく、一般的に言われているほど、天皇と信長の関係はギクシャクはしていなかったのでしょう。

ところで、書状に書いてある「今回の出陣」ですが、ご存じの甲州征伐(こうしゅうせいばつ)武田勝頼(たけだかつより)武田氏を滅亡へと追いやる、あの戦いですね。

実際には、木曽義昌(きそよしまさ)の武田離反を受けた信長が合戦の命令を出したのは天正十年(1582年)2月9日(2月9日参照>>)・・・その後、2月20日に田中城・開城(2月20日参照>>)され、3月1日に穴山梅雪(あなやまばいせつ)寝返り(3月1日参照>>)、3月2日に高遠城が陥落(3月2日参照>>)となって、いよいよ3月11日、天目山に逃れた勝頼以下が自刃(3月11日参照>>)、戦いは終結していました。

さらに、3月24日には兵士たちに兵糧を配って労をねぎらって、それぞれが順に帰国するよう促した後、3月29日には論功行賞と訓令発布を行って(3月24日参照>>)、4月2日には、自らが帰国の途につくとともに、未だ屈しない武田氏の菩提寺=恵林寺へと嫡男の織田信忠(おだのぶただ)を向かわせています(4月3日参照>>)

なので、御所にて必死のパッチで必勝祈願をやってる真っ最中に、すでに戦いは終了していたわけですが、それこそ、信長さんのリップサービス・・・その事には触れず「うれしい~」という気持ちを全面に押し出す内容となってますね。

・・・で、『信長公記(しんちょうこうき)によれば、遠征先より、この手紙を出して後、戦後処理を済ませた信長は、甲府を出発するのですが、その帰りの道筋の手配をしたのが徳川家康(とくがわいえやす)でした。

兵士の持つ鉄砲が周囲の木々に当たらぬよう、木々を伐採して街道を拡張し、石を取り除いて水をまき、道の両側には、ネズミ一匹逃がさないほどに、ビッシリと警固の兵士を配置したうえに、この先の宿泊地となる各場所には堅固な陣屋を建築し、その周りを何重もの垣根で囲い、周辺には1000軒に及ぶ警固兵士の常駐場所=警備員詰所を設置して守りを固める念の入れよう・・・もちろん、朝夕の食事の用意も、各地担当の徳川の家臣たちに命じてぬかりなく・・・

そんな中を信長率いる一団が・・・4月11日には女坂(甲府市=旧上九一色村)から本栖湖(もとすこ=河口湖町)のほとりへ、翌日には出迎えに来た浅間神社(せんげんじんじゃ)の神官の案内で有名な白糸の滝を巡った後、浅間神社境内の宿泊所に一泊します。

さらに翌日は田子の浦から富士川を越えてさらに行き、三保の松原では羽衣の松も見物など、他にも、道筋各地の名所を巡りつつ、その夜は江尻(えじり=静岡市)で一泊・・・この間、行く先々に休憩所が設けてあり、そこには、当然の如く、大量の酒と肴が用意されていたのだとか・・・

これら全部、家康さんによる信長さんへの接待らしいですが・・・なんか、すごいなΣ(゚д゚;)

4月16日に天竜川を渡る時には、舟を一列に並べてロープで縛って固定して橋にする=いわゆる舟橋を、家臣領民総動員で構築・・・周辺の警備には大量の兵士を配置して万全態勢にし、川を渡った向こう岸にも休憩所を設置し、酒と肴でエンヤラヤ~って、どんだけの出費!!w(゚o゚)w

もちろん、信長も、そのぶん大喜びですし、付き従っていた将兵も家康に感謝・・・まぁ、家康は、今回の武田滅亡で、ここらあたり一帯=駿河を、信長から与えられたわけですから、おそらく、接待にかかった出費以上の物が、後々得られるであろう計算はあるでしょうけどね。

こうして、武田の元領地だった場所を見て廻った信長は、この日は浜松に一泊してから、19日には清州(きよす)まで戻り、20日に岐阜に到着・・・その翌日、安土へ向けて移動しますが、ここから先は、稲葉一徹(いなばいってつ)織田勝長(おだかつなが=信長の五男もしくは四男・信房とも)丹羽長秀(にわながひで)などなど、配下の者がそれぞれに、家康に負けず劣らずの接待合戦でもてなしつつ、信長はその4月21日のうちにに安土に帰陣したと言います。

思えば、この安土帰陣から、わずか40日後に、あの本能寺があるんですよね~(2015年6月2日参照>>)

ところで、上記の21日に垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)で信長の接待をしたとされる息子の勝長・・・甲州征伐では兄で嫡男の信忠に従って活躍し、この信長帰還の時には、新しく屋形を建てて、酒と肴で父をもてなしたと言いますが、実はこの息子さん、あの美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)にいた信長の叔母=おつやの方(岩村殿)に養子に出されていた幼名=御坊丸(ごぼうまる=信房とも)その人なんです。

その生年がはっきりしないので、当然、年齢もはっきりしませんが、前後の兄弟との関係からみるに、おそらくは3歳くらいの時に、おつやの方の夫だった亡き遠山景任(かげとう)に代わって、将来の岩村城主となるべく養子に出されたものの、そこが武田の攻撃を受けて落城(3月2日参照>>)、彼はそのまま武田の人質として甲斐(かい=山梨県)で暮らす事に・・・

その人質の任が解かれて、織田家に戻ったのは、この前年=天正九年(1581年)頃だったとか・・・つまり、3歳で養子となってまもなく落城で人質となり、そこから10年ほどの、おそらく10代前半=13~14歳で、やっと父のもとに戻ったと・・・

そして、この後、勝長は、かの本能寺で父とともに命を落とす事となるのです。
(厳密には勝長は、二条御所に籠った信忠と行動を供にしてますが…=(2008年の6月2日へ>>)

父を接待したその日、勝長は、酒を酌み交わしながら、父とともに語らったのでしょうか?
信長は、最も不遇な幼少期を過ごしたこの息子に、何か声をかけたのでしょうか?

40日後に命尽きる父子の、ほんのひとときの酒宴の事を思うと、戦国の世のならいとは言え、なんだか切ないです。
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