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2016年4月24日 (日)

大坂の陣の交渉人~淀殿の乳母=大蔵卿局

 

慶長二十年(1615年)4月24日、二条城に在陣中の徳川家康が、大蔵卿局を大坂へと戻しました。

・・・・・・・・

という事で、本日は、この日付けつながりで大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)という女性をご紹介させていただきたいと思うのですが、この日付け・・・まさに大坂の夏の陣直前です。

ここまでの流れは、皆様ほぼご存じだと思いますが、一応、書かせていただきますと・・・
豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に勃発した豊臣家内の家臣同士の亀裂(3月4日参照>>)を、うまく利用した五大老筆頭徳川家康(とくがわいえやす)『会津征伐』(7月25日参照>>)と称して畿内を離れた事をキッカケに、五奉行の一人であった石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守となった伏見城に攻撃を仕掛けた(8月1日参照>>)事で関ヶ原の戦いがスタート・・・(さらにくわしくは【関ヶ原の合戦の年表】から>>)

この戦いに勝利(2008年9月15日参照>>)した事で反対派を一掃した家康は、豊臣政権下で絶大な権力を握る事となり、3年後の慶長八年(1603年)2月には征夷大将軍の宣旨を受けます(2月12日参照>>)・・・そうなると、その心の内は豊臣の大老から、徐々に、自らの天下取りへとシフトチェンジしていくわけですが、

それでも、まだまだ豊臣家は健在だし(7月15日参照>>)、秀吉の後を継いだ遺児=豊臣秀頼(ひでより)は成長していくし(3月28日参照>>)、て事は、逆に家康は老いていくわけだし・・・で、年齢的にも、もう待てない家康は、秀頼が父から引き継いだ大仏建立事業の一環で鋳造された方広寺の梵鐘に書かれた銘文が「家康を呪う言葉だ」として大仏開眼を中止させ(7月26日参照>>)、さらにその交渉に無理難題を吹っ掛けて(8月20日参照>>)、イザコザが解決できないまま大坂の陣へと突入・・・となるわけですが、(さらにくわしくは【大坂の陣の年表】から>>)

そんな大モメの交渉役の一人として活躍するのが、本日の大蔵卿局・・・

今年の大河ドラマ『真田丸』にも、すでに登場していますが、今のところ、後に秀吉の奥さんとなって秀頼を産む事になる茶々(ちゃちゃ)=淀(よど)殿の乳母として、その横にいて世話するだけの、あまり目立たない役どころではありますが、この役を演じられているのが峯村リエさんとおっしゃる女優さんで、あのテレビ朝日系の金曜ナイトドラマ『民王(たみおう) で、遠藤憲一さん演じる内閣総理大臣=武藤泰山の奥さんという、シュールで独特な役をこなしていた女優さん・・・なので、これは、ひょっとしたら、ドラマの後半には、史実同様の活躍をされるかも知れませんね~
ちょっと期待o(*^▽^*)o

そもそもこの大蔵卿局・・・・丹後(たんご=京都府北部)の地侍だったとも、近江(おうみ=滋賀県)とも、あるいは尾張(おわり=愛知県西部)とも言われる大野定長という人物の妻で、彼女自身は浅井家の家臣の娘だったとされますが、結局は、その前半生が、よくわかっていません。

というのも、上記の通り、浅井長政(あざいながまさ)お市(いち)の方(織田信長の妹もしくは姪)との間に生まれた淀殿の乳母としてが歴史上の初登場ですから・・・乳母という事は、おそらく浅井家にゆかりのある人物の身内であり、しかも、同時期に赤ちゃんを産んで、いっぱいおっぱいが出る人でないといけないですからね~

とは言え、この乳母という役どころは、なかなかのクセ者・・・そう、天平(てんぴょう=奈良時代)の昔、あの橘三千代(たちばなのみちよ)(1月13日参照>>)大出世したように、最初こそ身分は低いものの、その世話をした赤ちゃんの将来の立場と、自身の立ちまわりっぷりいかんで、いかようにも化ける事のできる役どころです。

ご存じのように、浅井家は滅亡(8月29日参照>>)、その後にお市の方が嫁いだ柴田勝家(しばたかついえ)も、そのお市もろとも自害(4月23日参照>>)・・・それこそ、大蔵卿局は、その2度の落城の時も、淀殿のそばにいて、彼女たちを守り、彼女たちを励まし、亡き父と母の代わりとなって支え続けたわけです。

現在よりは、生まれた赤ちゃんが成人に至る確率も低かったでしょうし、ましてや世は戦国ですから、家が滅亡したり、両親が処刑されたりで、その子供の運命も尽き、そのまま地に落ちた方々も多くいた事でしょうが・・・

そうです!・・・たび重なる落城で、その運命も危うかった淀殿ですが、それこそ、織田信長(おだのぶなが)の血筋という事もあって、勝家の越前北ノ庄城(福井県)落城後は秀吉の庇護を受け、さらに、その秀吉から寵愛されて、天下人の後継ぎである秀頼を産むわけで・・・

まぁ、現代の恋愛からの結婚観から見れば「好きでも無い人と結婚しても…」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、以前から時々お話させていただいている通り(4月22日参照>>)この時代は「結婚に恋愛が絡まない時代」・・・いや、むしろ「恋愛結婚ははしたなく、身分が低い者がする事」と考えられていた時代なのですから、その観点からいけば、淀殿は、戦国の女として、これ以上無い幸せをつかみ、これ以上無い出世を果たした(5月30日参照>>)事になります。

となると・・・そう、その乳母である大蔵卿局も大出世を果たす事になるのです。

慶長三年(1598年)8月18日、未だ幼い息子の将来を心配しつつ、あの秀吉が亡くなり(8月6日参照>>)ますが、このように主が亡くなった場合、その後を仕切るのは、当然、後継ぎの嫡男か、その後継ぎが幼い時は、その生母か後見人として、城内において最も強い実権を握る事になります。

子供がいなかった秀吉の正室=おね(寧・祢・ねね)さんが、大坂城を出て京都・三本木の屋敷に移り、代わって、秀頼と淀殿が大坂城に入ります。

・・・と、この史実から、なんか淀殿がおねさんを追い出したように見え、「二人は仲が悪かった」的な感じでドラマ等では描かれる事が多いですが、上記の通り、後継者が幼い時にはその母か「おふくろ様」と呼ばれて大きな力を持つ事は戦国のならわしですし、彼女たちが大坂城に入るのも秀吉が望んだ事・・・

実際には、
秀頼の生母として大坂城を離れる事ができない淀が大坂城内の事を仕切り、代わりに、自由に動けるおねさんが、朝廷や外部との交渉にあたったり、豊国神社の祭祀に関与したり・・・という役割分担をしていたのだろうというのが現在の見方です。

とは言え、こうして淀殿&秀頼が大坂城の主となった事で、乳母である大蔵卿局は奥向きの事を仕切るお局となり、乳兄弟という立場で秀頼の側近として仕えていた大蔵卿局の息子たちも、大野三兄弟として大坂城にて権勢を振るう事になるのです。

ちなみに大蔵卿局の息子たち=大野三兄弟とは・・・淀殿と幼馴染で、まさに同世代の大野治長(おおのはるなが)大野治房(はるふさ)大野治胤(はるたね)の三人の事。
実際には、その下に四男の大野治純(はるずみ)がいますが、彼は幼くして徳川家に人質となって、そのまま家康に仕えていますので、通常は大野三兄弟と称されます4月18日参照>>)

ただ、いくら大坂城にて淀殿&秀頼がトップの座についたとて、その直後や関ヶ原やら、といった時期は、まだまだ秀吉に仕えていた大物家臣がウジャウジャいましたから、未だ大野三兄弟の出番も少なかったわけですが・・・(家康もおるでヨ)

その関ヶ原の時に、長男の治長が家康暗殺の疑いをかけられた汚名を挽回すべく、本チャンでは徳川方=東軍で参戦して勝ち組になった事、また、その頃から、秀吉恩顧の大物たちが、そのお歳もあって次々と亡くなっていった(6月24日参照>>)などから、徐々に大野三兄弟がステップアップしていく中で、大坂の陣の発端となる例の家康のイチャモン=方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)です。

この時、まず最初に弁明役として家康のもとに向かったのは、『賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人として知られる豊臣家家老片桐且元(かつもと)でしたが(再度8月20日参照>>)、家康は彼に会おうとせず、且元は家康の側近から疑惑への詰問を受けるばかり・・・

そこで、新たな使者として家康のもとへ派遣されたのが大蔵卿局たち・・・家康は、そんな大蔵卿局たちには大歓迎ムードで会い、しかも、豊臣家に対して寛大な態度で接する用意がある事を告げるのです。

しかし、一方で、且元と会見している家康の側近たちは、相変わらず無理難題とも言える厳しい条件を突き付けて来るばかりで・・・

大坂への帰路の途中、大蔵卿局たちと合流した且元は、家康の側近らが突きつけた
① 秀頼が江戸へ参勤する
② 母・淀殿が人質として江戸に入る
③ 秀頼が大坂城を出て、家康の指示する領国へ国替え

「3条件のうち、どれか一つを実行せねば・・・」と訴えますが、上記の通り、大蔵卿局たちは家康と直接話して、「ホンマは僕も戦争なんかしたないねんで~」てな平和ムードの会話で盛り上がっていたわけで・・・

そう・・・後から考えれば、これは家康による「仲間ワレさせる作戦」だったわけですが、それに気づかぬ大坂城内では、当然、この食い違いは、「どちらかがウソをついている」って話になるわけで・・・

疑われた事により身の危険を感じた且元は、大坂城を去り、なんと徳川方へ・・・且元という重臣を失った大阪城は、今後は大蔵卿局の息子=大野治長が豊臣方の中心人物として大坂の陣を迎える事になります。

結局、交渉は決裂し、慶長十九年(1614年)の10月に始まった大坂の陣では、12月4日の真田丸の攻防で徳川方が痛手を受け(2015年12月4日参照>>)、逆に豊臣方は12月16日の砲撃によって天守閣の一部が崩壊(12月16日参照>>)・・・という事で、12月19日に和睦が成立(2011年12月19日参照>>)します(ここまでが『大坂冬の陣』と呼ばれます)

ところが、ご存じのように、この和睦は、次の夏の陣へと向かう、かりそめの和睦・・・「徳川方が約束以上に堀を埋めた」だの、「それを戻すために豊臣方は浪人を雇いはじめる」だの、様々な事が暗躍する中(このへんの事情は【大和郡山城の戦い】>>前半部分でくわしく)、家康は「息子の結婚式に出席する」として、慶長二十年(1615年)4月4日に駿府(すんぷ)を出発・・・事実上、これが大坂夏の陣の出陣となります。

で、大蔵卿局は、今回も話し合いすべく、使者として派遣されるのです。

常高院(じょうこういん=浅井三姉妹の次女・初)たちとともに家康のもとに向かった大蔵卿局は、4月10日には、名古屋に着いた家康と面会しますが、貰えたのは「結婚式が終わったら上洛するよって待っててちょ」という返事のみ・・・

この後、息子の結婚式を終えた家康と行動をともにし、着かず離れずおりに触れて面会する彼女たちですが、「国替えがイヤやねんやったら、浪人を全部クビにしたらええねん」と、何かしらの条件を呑む事を即すばかりで、いつも追い返されてしまいます。

4月18日に、家康は京都の二条城に入りますが、話し合いは進展する事無く・・・かくして慶長二十年(1615年)4月24日「是非もなし!」との最後通告とも言える、家康からの書状を受け取り、常高院&大蔵卿局は大坂へと帰され事実上「もう、話し合いの余地は無い」状態となったのでした。

この後は、2日後の4月26日に起こった先の大和郡山城の戦いを皮切りに、夏の陣の勝敗の分かれ目だったと言われる樫井の戦い(2013年4月29日参照>>)をはじめ、一連の大坂夏の陣の戦いとなり、ご存じのように、5月8日の大坂城の落城(2007年5月8日参照>>)を以って、大坂の陣は終結となるのですが・・・

大蔵卿局と、その息子たちは、それぞれがそれぞれの形で主君=豊臣家と運命をともにする事となります。

豊臣大坂城の最後となった慶長二十年((1615年)5月8日・・・大野三兄弟の次男=治房は秀頼の遺児=国松(くにまつ)を抱えて、燃える城を脱出(10月17日参照>>) 、同じく城を脱出した三男の治胤は、後世の武士のバイブル=『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)に登場するほどの壮絶な最期を遂げます(6月27日参照>>)

そして、最後まで淀殿につき従った大蔵卿局と、最後まで秀頼につき従った主将格=大野治長は、やはり淀殿&秀頼とともに一つところで自害するのです。

Dscn0459a600 現在の大阪城には、山里丸と呼ばれる場所に『豊臣秀頼・淀殿 自刃の地』→という石碑が建っていますが、実は、彼らが自刃した場所は文献によって様々で、候補となる場所は10か所以上あって特定されていませんし、そもそも現在の大阪城は大坂の陣の後に徳川が建てた大阪城で、豊臣のソレとは天守の位置も、曲輪の位置も違うので、多分特定はできないんですが(^-^;

とにもかくにも、おそらく情報が錯綜していたであろうおかげで、ほとんどの文献が、秀頼&淀殿が自害した事と、その場所の名前しか書いていない状態なのですが、少しだけ様子がわかる文献を・・・

『豊内記』『明良洪範』によれば・・・
天守閣の火をよけて、本丸下の蘆田曲輪(あしだくるわ)にある朱三櫓(しゅさんやぐら)食糧貯蔵庫に逃げ込んだ後、
「もはやこれまで」
覚悟を決めた秀頼は、
「甲斐守(かいのかみ)は母君を、氏家は我を、毛利は女・幼子を介錯せよ」
と命じ、豊国大明神を拝んだ後、淀殿の前に進み出て
「あの世にて…」
と挨拶し、母を頼んだ甲斐守=速水守久(はやみもりひさ)に目配せする・・・と、速水が淀殿に向けて刀を振り下ろしますが、それと同時に、秀頼が懐から出した脇差を腹に当て、かの氏家行広(うじいえゆきひろ=卜伝)が介錯をしたと・・・

その後、秀頼の言葉通りに、毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)が女たちを介錯したとの事なので、おそらく大蔵卿局も、この時に・・・

文献によって、速水=氏家=毛利のメンバーが誰を介錯というのがテレコになってたりしますが、そんな彼らも、この後、それぞれ自刃するので、そのあたりは曖昧(ほとんどの人がともに亡くなっているので…)・・・おそらく治長も彼ら側近が自刃するのと刺し違えるように自刃したものと思われます。

豊臣家において、おそらくは徳川で言うところの春日局(かすがのつぼね)(10月10日参照>>)のような役割を果たしていたであろう大蔵卿局・・・

乳母という役割は、その育てた赤子とともに浮き、ともに沈み、最後までその赤子と運命をともにする・・・低き身分ながら、その役目をしっかりと見据えた強き女性がなるべき役職なのでしょうね。
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コメント

管理人様、ご無沙汰してます。

大蔵卿局という女性、今回の大河で初めて知りました。
淀殿は当たり前のようにドラマになっているのに、乳母がいないなーと思ったことは不思議とありませんでした(^^;

この時代の乳母って、現代のベビーシッターとかとは違うんだなと改めて思います。
プライベートも政治的な話も、お仕えする人にホントに密に関わる人なんですね。

今回も勉強になりました。
ありがとうございました p(^-^)q

投稿: ぶれす | 2016年4月26日 (火) 08時15分

大坂の陣にかかわる大野治長と治房は知っていましたが、四男の治純が徳川家の家臣だったのは知りませんでした。
今年の真田丸では「家政婦はミタ」に出ていた中川大志くんが豊臣秀頼役ですね。

ところで5年前の大河ドラマに出た前田健さんが今日未明に亡くなられました。一昨日の夜に都内で倒れたと聞いて心配していましたが、残念なことに今日息を引き取ったとのことです。2011年大河では徳川秀忠(今年の配役は星野源さん)の兄の結城秀康役で何回か出ていました。

投稿: えびすこ | 2016年4月26日 (火) 09時29分

ぶれすさん、こんにちは~

今回の大河では、大蔵卿局にスポットが当たりそうですね。
楽しみです。

投稿: 茶々 | 2016年4月26日 (火) 19時20分

えびすこさん、こんにちは~

前田健さんについては残念でしたね。
結城秀康役の時は、出演回数もあまり多く無かったので、私としては、20世紀少年のニューハーフ役ですかね~
あれは、すごく良かったです。
ご冥福をお祈りします。

投稿: 茶々 | 2016年4月26日 (火) 19時24分

こんにちは、茶々さん。
http://www.austria.info/jp/%E6%97%85%E3%81%AE%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%EF%BC%86%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%93%E3%83%86%E3%82%A3/%E8%8A%B8%E8%A1%93%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E5%9B%B3 こういうのを見ますと大阪城は要塞だったのと大阪の繁栄がよく分かります。ところで大阪城を出る代わりに豊臣が関白を独占すると言う提案をしなかったのかなと思いました。豊臣家は関白、徳川は将軍と言う分担が出来たのではと思います。西本願寺と東本願寺みたいな関係になっただろうと思いますが・・・
秀頼は右大臣です。関白になる資格はあると思いますが・・・

投稿: non | 2016年5月 9日 (月) 15時08分

茶々さん、何故日本人は交渉が下手なのでしょうか?
案外空海みたいな留学僧、馬鹿にされている幕末の幕府官僚の方が有能です。
豊臣方は条件交渉に徹すべきですし、そう言う意見一致を出来なかったのかなと思いましたし、両者とも朝廷への働きかけが無いですね。そう言う点は信長は上手いですよ。石山合戦を終わらせるために正親町天皇の勅命を出させています。無能すぎます。でも家康ですがスペイン海洋帝国が豊臣方に加わった時を考えていたのでしょうか?豊臣もスペインに協力を求めなかったのかなと思ったりします。

投稿: non | 2016年5月 9日 (月) 15時15分

ところで最近調子が悪いので、淀殿はどこから煙草を仕入れたのかなと思います。
秀頼は2メートルぐらいの背ですが、とうとう私は220㎝ぐらいになりました。昔の建物どころか今の建物でも窮屈です。
それなので大柄な淀殿、秀頼はどうしていたのかなと思いました。
少し前ですがエリザベス1世、メアリースチュアートが在位していましたが、エリザベス女王が175㎝、メアリー女王が180㎝だったそうです。今でもかなり背が高い方に入りますが、当時の基準だと今では195㎝、200㎝を超える身長みたいです。そんな感じなので秀頼だと欧州よりも狭い大阪城でどうしていたのかなと思ったりします。

投稿: non | 2016年5月10日 (火) 14時51分

nonさん、こんにちは~

>豊臣家は関白、徳川は将軍と言う分担が出来たのでは…

ブログにも、すでに書かせていただいてますが、まさに、秀吉の遺言がそうでしたから、家康が将軍になった時点では、朝廷も豊臣家もそう思ってました。

家康が「豊臣を潰したい」と思ったんだと思います。

投稿: 茶々 | 2016年5月10日 (火) 17時56分

茶々さん、こんにちは。
最近トレーニングに行っていますが、腹筋を鍛えているのでお腹が痛いです。今朝も山登り、筋トレをしました。
関ヶ原の時に東軍だった加藤清正、蜂須賀家政が何故かその後豊臣に忠誠を尽くしています。清正は亡くなったのですが、家政は家臣が止めなかったら大阪城に行っていました。と言うくらいに豊臣に忠節を感じていたようです。淀殿、秀頼が逃げたと言う説を見ますと浅野が陰で助けたなど加藤、蜂須賀、浅野、木下と言う縁戚又は秀吉の幼少期から関係しているところは豊臣にシンパシーがあったと思います。私は片桐でなく家政が代表して当たったら豊臣存続は出来たのではと思います。と言うのは家政は出家し、知行を返し、蜂須賀の家臣の大部分は大阪にいたが西軍に味方せず、息子に東軍に行かせ手柄を立てさせるなど両方を立てた戦略をしました。家政が相手だと家康も柔軟な妥協案を出したかなと思います。ただ言えることは豊臣側の交渉役は駄目でした。もっと島津みたいな老獪さがあったら関白になり、二元政治が明治維新まで可能だったと思います。その方が開国の時に孝明天皇を宥められたと思います。それが残念です。

投稿: non | 2016年5月15日 (日) 13時11分

nonさん、こんばんは~

関ヶ原は豊臣家臣による勢力争い、大坂の陣は徳川家康による豊臣潰し…合戦の性格がまったく違いますから…
ひょっとしたら、関ヶ原の時点ではあの家康でさえ、「豊臣潰しは自分の生きてる間にはムリなんちゃう?」
って思ってたかも知れません。

スミマセンm(_ _)m
GWから。5月6月最盛期のヒトメタニューモウイルスに感染し、熱は3~4日でひいたものの、現在も咳が醜く、記事をupできていません。

カウンターを見ると、本日=5月16日中には2000万アクセスに届きそうなので、2000万達成したら、何か、喜びのページをupします。

投稿: 茶々 | 2016年5月16日 (月) 01時55分

大蔵卿局といえば、淀殿&豊臣秀頼親子を語る上で、必要不可欠な存在ではないでしょうか。何しろ、淀殿の乳母で教育係だったわけですから、あれこれ口出ししてしまう性分な上に、疑心暗鬼なのかもしれません。その一方で、徳川家康の老獪さを見抜けなかった側面があったような気がします。最終的に大蔵卿局は、淀殿&秀頼親子らと共に、滅ばされるしかなかったとするなら、ある意味、不運な人生だったように思えますね。

投稿: トト | 2016年12月19日 (月) 10時34分

トトさん、こんばんは~

大蔵卿局が、あれこれ口出ししてしまう性分なのかどうかは存じ上げませんが、乳母や乳兄弟は、世話をしたその子らと運命を共にする定めだと思います。
その世話をした子によっては、1度も浮かばない場合もあるわけですから、1度は頂点を見た大蔵卿局は幸せだったかも…ですね。

投稿: 茶々 | 2016年12月20日 (火) 00時57分

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