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2016年4月 4日 (月)

甲州征伐後の信長~駿河見分と安土帰陣と息子・織田勝長の事

 

天正十年(1582年)4月4日、甲州征伐を終えた織田信長が黒印状を残しています。

・・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)4月4日付けで、織田信長(おだのぶなが)から公家の吉田兼見(よしだかねみ=吉田神社の神主)宛てに送られた黒印状・・・当然ですが、個人的な手紙ではなく、公文書です。

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織田信長黒印状(大阪城天守閣蔵)

内容は
「今回の出陣のために、禁中(きんちゅう=御所内)で丁寧に必勝祈願していただいたお札と衣が、コチラに届きました…心の底から喜んでます」
てな感じでしょうか?

宛名は兼見で書状には禁中と書かれていますが、この必勝祈願を命じて実行させたのは時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)です。

ドラマ等では、
「神になろうとしていた」とか、
「天皇に代わって天下を取ろうとしていた」とか、
何かと天皇を下に見る雰囲気で、鬼のような信長さんが描かれますが、公式文書であるが故の社交辞令的な面もあるとは言え、この時期になっても、信長が正親町天皇に敬意を払っている事が、この書状でわかります。

この2年前に、やっとこさ終結した石山合戦も、もともとは最後の室町幕府将軍=足利義昭(あしかがよしあき)の声かけに応じた形で蜂起した石山本願寺に対して、その鉾を収めさせるためには、
「将軍よりもエライ人にお願いしよ」
と、信長側から正親町天皇にお願いして、快諾した天皇が本願寺を説得して終戦に持ち込んだわけですし(8月2日参照>>)

このブログでも度々書かせていただいているように、天正二年(1574年)に東大寺の蘭奢待(らんじゃたい)を削った時も、意外に腰が低かったし(3月28日参照>>)、前年=天正九年(1581年)の御馬揃えも、天皇さんへの大サービスの可能性大だし(2月28日参照>>)・・・おそらく、一般的に言われているほど、天皇と信長の関係はギクシャクはしていなかったのでしょう。

ところで、書状に書いてある「今回の出陣」ですが、ご存じの甲州征伐(こうしゅうせいばつ)武田勝頼(たけだかつより)武田氏を滅亡へと追いやる、あの戦いですね。

実際には、木曽義昌(きそよしまさ)の武田離反を受けた信長が合戦の命令を出したのは天正十年(1582年)2月9日(2月9日参照>>)・・・その後、2月20日に田中城・開城(2月20日参照>>)され、3月1日に穴山梅雪(あなやまばいせつ)寝返り(3月1日参照>>)、3月2日に高遠城が陥落(3月2日参照>>)となって、いよいよ3月11日、天目山に逃れた勝頼以下が自刃(3月11日参照>>)、戦いは終結していました。

さらに、3月24日には兵士たちに兵糧を配って労をねぎらって、それぞれが順に帰国するよう促した後、3月29日には論功行賞と訓令発布を行って(3月24日参照>>)、4月2日には、自らが帰国の途につくとともに、未だ屈しない武田氏の菩提寺=恵林寺へと嫡男の織田信忠(おだのぶただ)を向かわせています(4月3日参照>>)

なので、御所にて必死のパッチで必勝祈願をやってる真っ最中に、すでに戦いは終了していたわけですが、それこそ、信長さんのリップサービス・・・その事には触れず「うれしい~」という気持ちを全面に押し出す内容となってますね。

・・・で、『信長公記(しんちょうこうき)によれば、遠征先より、この手紙を出して後、戦後処理を済ませた信長は、甲府を出発するのですが、その帰りの道筋の手配をしたのが徳川家康(とくがわいえやす)でした。

兵士の持つ鉄砲が周囲の木々に当たらぬよう、木々を伐採して街道を拡張し、石を取り除いて水をまき、道の両側には、ネズミ一匹逃がさないほどに、ビッシリと警固の兵士を配置したうえに、この先の宿泊地となる各場所には堅固な陣屋を建築し、その周りを何重もの垣根で囲い、周辺には1000軒に及ぶ警固兵士の常駐場所=警備員詰所を設置して守りを固める念の入れよう・・・もちろん、朝夕の食事の用意も、各地担当の徳川の家臣たちに命じてぬかりなく・・・

そんな中を信長率いる一団が・・・4月11日には女坂(甲府市=旧上九一色村)から本栖湖(もとすこ=河口湖町)のほとりへ、翌日には出迎えに来た浅間神社(せんげんじんじゃ)の神官の案内で有名な白糸の滝を巡った後、浅間神社境内の宿泊所に一泊します。

さらに翌日は田子の浦から富士川を越えてさらに行き、三保の松原では羽衣の松も見物など、他にも、道筋各地の名所を巡りつつ、その夜は江尻(えじり=静岡市)で一泊・・・この間、行く先々に休憩所が設けてあり、そこには、当然の如く、大量の酒と肴が用意されていたのだとか・・・

これら全部、家康さんによる信長さんへの接待らしいですが・・・なんか、すごいなΣ(゚д゚;)

4月16日に天竜川を渡る時には、舟を一列に並べてロープで縛って固定して橋にする=いわゆる舟橋を、家臣領民総動員で構築・・・周辺の警備には大量の兵士を配置して万全態勢にし、川を渡った向こう岸にも休憩所を設置し、酒と肴でエンヤラヤ~って、どんだけの出費!!w(゚o゚)w

もちろん、信長も、そのぶん大喜びですし、付き従っていた将兵も家康に感謝・・・まぁ、家康は、今回の武田滅亡で、ここらあたり一帯=駿河を、信長から与えられたわけですから、おそらく、接待にかかった出費以上の物が、後々得られるであろう計算はあるでしょうけどね。

こうして、武田の元領地だった場所を見て廻った信長は、この日は浜松に一泊してから、19日には清州(きよす)まで戻り、20日に岐阜に到着・・・その翌日、安土へ向けて移動しますが、ここから先は、稲葉一徹(いなばいってつ)織田勝長(おだかつなが=信長の五男もしくは四男・信房とも)丹羽長秀(にわながひで)などなど、配下の者がそれぞれに、家康に負けず劣らずの接待合戦でもてなしつつ、信長はその4月21日のうちにに安土に帰陣したと言います。

思えば、この安土帰陣から、わずか40日後に、あの本能寺があるんですよね~(2015年6月2日参照>>)

ところで、上記の21日に垂井(たるい=岐阜県不破郡垂井町)で信長の接待をしたとされる息子の勝長・・・甲州征伐では兄で嫡男の信忠に従って活躍し、この信長帰還の時には、新しく屋形を建てて、酒と肴で父をもてなしたと言いますが、実はこの息子さん、あの美濃岩村城(いわむらじょう=岐阜県恵那市岩村町)にいた信長の叔母=おつやの方(岩村殿)に養子に出されていた幼名=御坊丸(ごぼうまる=信房とも)その人なんです。

その生年がはっきりしないので、当然、年齢もはっきりしませんが、前後の兄弟との関係からみるに、おそらくは3歳くらいの時に、おつやの方の夫だった亡き遠山景任(かげとう)に代わって、将来の岩村城主となるべく養子に出されたものの、そこが武田の攻撃を受けて落城(3月2日参照>>)、彼はそのまま武田の人質として甲斐(かい=山梨県)で暮らす事に・・・

その人質の任が解かれて、織田家に戻ったのは、この前年=天正九年(1581年)頃だったとか・・・つまり、3歳で養子となってまもなく落城で人質となり、そこから10年ほどの、おそらく10代前半=13~14歳で、やっと父のもとに戻ったと・・・

そして、この後、勝長は、かの本能寺で父とともに命を落とす事となるのです。
(厳密には勝長は、二条御所に籠った信忠と行動を供にしてますが…=(2008年の6月2日へ>>)

父を接待したその日、勝長は、酒を酌み交わしながら、父とともに語らったのでしょうか?
信長は、最も不遇な幼少期を過ごしたこの息子に、何か声をかけたのでしょうか?

40日後に命尽きる父子の、ほんのひとときの酒宴の事を思うと、戦国の世のならいとは言え、なんだか切ないです。
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コメント

茶々さんこんばんわ。
信長が川の流れを堰き止めていた領民達に向かって、何度も会釈をしながら渡ったと聞いた事がありますが、この時のエピソードだったのですねー。
秀吉の奧さんに贈った手紙といい、案外礼儀正しい?のかなって思えますね。

投稿: 愛知者 | 2016年4月 6日 (水) 21時09分

愛知者さん、こんばんは~

>何度も会釈をしながら渡った…

えぇ!そんな逸話が残ってるんですか?
私は、「信長さん=イイ人」と思ってる派なので、そんなお話を聞くとウレシイです。

投稿: 茶々 | 2016年4月 7日 (木) 02時45分

茶々さん、こんにちは。
山岡荘八氏の小説では、信長が「俺は勤皇家だ」と本気なのか上辺なのかの台詞をちょくちょく見かけましたね。


勝長は三歳ぐらいで人質になったというのなら、当然両親や兄弟達のことはあまり覚えてない筈ですよね。
まだ家族に甘えたい年頃で、やっと再会したと思ったらすぐ本能寺だとは。
今まで問答無用に処刑されたお艶の方が可哀想と思ってましたが、勝長も同じぐらい可哀想ですね。
勿論、本能寺の変で親子を永遠に引き離したのは光秀(と黒幕?)ですが、
山岡徳川家康で何度も目にする「これも乱世が悪いのじゃ」という台詞も、案外間違ってないかもと思いましたgawk

投稿: 禿げ鼠 | 2016年4月 7日 (木) 11時42分

禿げ鼠さん、こんにちは~

>問答無用に処刑されたお艶の方…

私も…「美人の叔母さんを逆さ磔かい!」とも思いましたが、信長にしてみれば、戦わずして勝長を武田側に渡しちゃった事になるわけで…身内だからって情をかけると、家臣にも示しがつきませんしね。

小説やドラマは、キャラがハッキリしている方がオモシロイですしね。

投稿: 茶々 | 2016年4月 7日 (木) 16時25分

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