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2016年6月 2日 (木)

本能寺の変~信長による家康暗殺計画説について

天正十年(1582年)6月2日明け方・・・・ご存じ、本能寺の変が勃発しました。

・・・・・・・・・・

今以って「戦国最大の謎」と称され、もはやYouTubeでもダンス>>が再生されまくりの超有名事件『本能寺の変』

て事で、これまで、このブログでも、最も史実に近いであろう『信長公記』に記された当日の様子を始め、謎に迫る様々な説をご紹介して来ましたが・・・
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【突発的な単独犯説】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
【その時、安土城では…】>>

今回は、最近話題の『徳川家康、暗殺計画説』について・・・

この説は、上記の「家康、黒幕説」とはちょっと違っていて、「本能寺の被害者である織田信長(おだのぶなが)の方が、実は、かの本能寺に徳川家康(とくがわいえやす)を呼びつけて、そこで暗殺しようと計画していたのを、うち明けられた明智光秀(あけちみつひで)が、その計画を逆手に取って、家康が到着する前の明け方に本能寺を襲撃して信長を討ったのだ」という感じの説で、以前から、一部では囁かれていたのですが、ここに来て、光秀の子孫とおっしゃる明智憲三郎(あけちけんざぶろう)氏がお書きになった『本能寺の変 431年目の真実』なる書籍がベストセラーとなって、にわかに脚光を浴び始めたようです。

なので、本日は、最近人気のこの説について考えてみたいと思いますが、もちろん、日頃から何度も言わせていただいております通り、私は「歴史に100%正しい」なんてのは「無い」と思っており、アプローチの仕方は様々で、どの文献のどの部分に重きを置き、どのように推理して行くかは、それぞれ自由であって良いし、それこそが歴史を楽しむ醍醐味だと思っております。

なんせ、1級史料と呼ばれる文献にも正しく無い部分はあるでしょうし、現在の歴史小説のような物と言われる軍記物の中に真実が隠されてる事もありますからね。

とは言え、そもそもは、自分の思いや考えを言いたいがために、この趣味のブログやってるような物ですので、「真実がどうこう」とか「反論がどうこう」とかではなく、あくまで「私はこう思う」という意味で、私自身の見解と抱いた疑問を、このブログ上でだけは述べさせていただく事をお許しいただくとともに、そこをご理解いただけるとありがたく思いますo(_ _)oペコッ

追記:ネタバレありますので、ご注意!

・‥…━━━☆

で、今回の明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』ですが・・・

この書籍の内容としては、丁寧にお調べになっていて、賛同する部分も多々あります。

信長の家臣になる前の光秀の過去に関しては、「そうなんだろうなぁ」と思う部分もあり、また、この本能寺の直後の家康が、「信長の死を悼むどころか、逆に、そのドサクサで領地を広げようとしていた」という部分も、まさに、その通りだと思います。

今年の大河ドラマ「真田丸」でも描かれていた天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)と呼ばれる複数の合戦集合体ですが、これは実質的には家康と北条による、3か月前に滅亡した武田(3月11日参照>>)の旧領の取りあいであり、武田滅亡後に信長から甲斐(かい=山梨県)を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)が、このドサクサまぎれで命を落とす事になる一揆を扇動していたのは家康かも?という事を、このブログでも書かせていただいております(6月18日参照>>)

また、
「現在のドラマや小説で描かれるような本能寺前後のストーリー展開の基となっている『惟任退治記』は、山崎の合戦に勝利した羽柴秀吉(はしばひでよし=後の豊臣秀吉)が書かせた秀吉を宣伝するための本なので信用ならず、それを基に書かれた『明智軍記』などもウソが多い…」
というところも大賛成です。

秀吉に限らず、その後に天下取った家康によっても「歴史は改ざんされてるんじゃね?」と、私も、このブログで散々書いてますし、果ては明治維新で勝利した新政府なんて、まさに「勝てば官軍」とばかりにイロイロと手を加えたでしょうし、やはり「歴史は勝者が作る物」ですのでね。

なので、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』という書籍に関しては、その内容も、なかなかに読み応えがあり、このストーリーでドラマをやればオモシロイ物ができるかも知れません。

ただ・・・
この一連の検証を、著者ご本人は「歴史捜査」と銘打っておられるのですが・・・
残念ながら、「捜査」するなら、身内(子孫)ではなく、今ハヤリの名(迷)ゼリフ=「第三者の厳しい目」で捜査しなければ・・・

やはり、ご子孫であるが故の「ご先祖の汚名を晴らしたい感」による解釈があちらこちらに・・・おそらくは、ご自身が描く「明智光秀の名誉回復ストーリー」があるのだと思われますが、それを正当化するために、文献の都合の良い所だけを取り出して、都合の悪い所はウヤムヤのままにしてしまっているような気がします。

なので、先に、他の説を否定するために「嘘ばかり」とこき下ろした文献を、後で、「ここに書いてあるから…」と、ご自身の説の正しさを示すために持ち出される事多数で、読み手は少々混乱してしまうかも・・・

とにもかくにも、今回の明智憲三郎氏の『徳川家康、暗殺計画説』の流れを大まかに書かせていただくと・・・
「自らの出自である土岐(とき)の再興を悲願としていたものの、信長が宣教師に対して唐入り(大陸を攻める)の夢を語っているのを聞き、せっかく平和になると思っていたのに、これから唐入りとなれば、老いた身で遠い国まで行く事になり、老い先短い自分では土岐氏の再興が叶わなくなる」
と思っていた光秀に、
「少人数で堺見物している家康を本能寺に呼び出すので、お前が暗殺しろ」
と信長が命じた事で
「これはチャンス」
と思った光秀が、家康にこの暗殺計画を打ち明け、両者合意のうえ、信長が家康を呼びつけた6月2日の明け方(家康が来る前に)に謀反を決行した。
という事のようですが、

私個人的には・・・
●土岐氏の再興が、なぜ、この時期に急がねばならないのか?(←こういう事は何世代にも渡って貫く悲願なのでは?)
●唐入りと言っても、未だ信長は天下統一すらしてない
ですから、まだまだ先なのでは?(←毛利も上杉も北条も…九州&東北も手つかずなのに?)
などなど、いくつかの疑問が湧くのですが、

そんな中・・・そもそも、なんで?家康を暗殺??

著書による、その暗殺理由は、
「信長にとっての家康との同盟は、武田への対策であり、武田が滅亡した今となっては家康は不要・・・また、この先、唐入りのために日本を留守にしている間に家康が反旗をひるがえすかも知れず、その存在が脅威となるであろう」
との事ですが・・・

う~ん?武田が滅亡しても、まだ北条も上杉もいますよ。
しかも、武田が滅亡して、まだ3ヶ月・・・奪い取ったばかりの領地を、織田配下の者が、ちゃんと治め切れてもいないこの時期に???
しかも、西では毛利とドンパチやってるこの時期に???

それに、家康を脅威に思うのは、この先の歴史を知ってるからではないですか?
確かに、晩年の秀吉は家康を脅威だと思っていたでしょうが、この時点での信長にとって家康は脅威だったんですかね?
かなり兵力に差があると思うんですが・・・

また、歴史上、これだけの兵力差があって、反旗を翻したわけでもない従順な同盟者を暗殺した例ってあるんでしょうか?
(ちなみに、もし書籍の通りなら「暗殺」というより「騙し討ち」ですが…)

古今東西・・・暗殺とは、力の無い者が力のある者に対してする行為・・・なんせ、まともに戦っては勝ち目が無いので「暗殺」ですからね。

これに対しては『孫子』の兵法を出して、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ…これが、孫子の言う『戦わずして勝つ』 という事だ」
とおっしゃっておられますが、

ま、文献の解釈もそれぞれなので、何とも言えませんが、私は、「戦わずして勝つ」というのは、単に、その言葉通り=戦わないで勝つのが1番(そのためには暗殺でも良い)という意味では無いと解釈してます。

とりあえずは以前書かせていただいた『孫子の兵法・謀功篇』(4月19日参照>>)を見ていただけると解りやすいと思うのですが、孫子の言う「戦わずして勝つ」は、
「合戦をすればお金がかかるし、人も死ぬ」というのは、その通りですが、だからこそ、
「合戦の前に敵の事を入念に調べつくして、様々な対策を取り、敵を孤立させるなど完璧な姿勢で挑み、相手が「こんだけされたら、もうアカン、降伏するしかない!」と思うように持って行って、結果、両者無傷のまま勝つ」
みたいな事であって「戦わずして勝つ」なら「どんな手段を用いても良い」事では無いように思うのです。

なんせ、孫子は、その第一章(【孫子:第一章:始計篇】参照>>)の第一番目に
「一に曰く道」
という言葉を持って来ています。

この「道」とは「道理」=「大義名分」の事・・・「その戦いに大義名分があるからこそ、領民も納得するし、兵卒もついて来る」
というわけですが・・・もはや天下を目前にした信長が、この時期に、兵力差のある家康を暗殺する事に大義はあったのでしょうか?

とは言え、例えそれが、古今東西に例が無かったとしても、例えそれが、天下人にあるまじきコスイ手段=弱者を騙し討ちという行為であったとしても、信長が家康を暗殺しようとした事、それに乗っかった光秀が家康と組んで信長に謀反を起こそうとした事が、絶対に=100%無い事だとは言えません=それが歴史・・・事実を直接見る事は不可能ですから。

なので、もし、それも含め、その他の事も含め(色んな疑問を言いだすと長くなるので…)、すべてが、明智憲三郎氏のおっしゃる『本能寺の変 431年目の真実』の通りであったとしても・・・残念ながら、私が、この本能寺の変の中で最も重要だと思っている謎は、この明智憲三郎氏の説では解決されていないように思います。

それは、「信忠スルー」です。

個人的な考えではありますが・・・
謎解きに至る重要事項はイロイロあれど、このどれよりも、実は「信忠スルー」が、この本能寺の変にとって1番大事な事なんじゃないか?と、私は思っています。

この「信忠スルー」というのは、あまりドラマ等では描かれないのですが、信長の嫡男=織田信忠(おだのぶただ)が、この日、本能寺のすぐそばの妙覚寺にいたのに、光秀は、信長の暗殺ばかりに夢中になり、かなり後になってから「あ、信忠もいたんだ」てな感じで攻撃に向かう、あの状況の事です。

この時、本能寺が襲撃された事を知った信忠は、逃げる時間があったにも関わらず、自ら二条御所へと移動して、そこで籠城戦に挑み、結局、明智軍に討ち取られるのです(くわしくは2008年6月2日の後半部分で>>)

これは、本能寺の事が書かれている文献で、ほぼ一致した内容となっており、おそらく史実とされていて、反対意見もほぼ無い出来事・・・現に、信忠はここで死にますが、寸前まで信忠とともにいた息子の三法師(さんほうし=後の織田秀信)(8月22日参照>>)や弟の織田長益(ながます=後の有楽斎)(12月13日参照>>)は逃走して助かり、その後も歴史に登場します。

さらに・・・
この時、移動した二条御所には、時の天皇である正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第1皇子の誠仁親王(さねひとしんのう)と猶子の和仁親王(後の後陽成天皇)がいましたが、妙覚寺から移動して来た信忠は、その二人に、
「ここは、もうすぐ戦場になりますので、内裏(だいり=天皇の私的区域)へとお移り下さい」
と言って送り出していますが、当然、このお二人も無事です。

この雰囲気を見る限りでは、やはり、本能寺→妙覚寺→二条御所の間には、なかなかの時間差あったように思えてなりませんね。

信長は、7年前に嫡男の信忠に家督を譲っています(11月28日参照>>)から、もし、ここで信長が死んでも、信忠が生きていれば、そのまま、信忠が織田家の当主としてバトンタッチされるだけですので、この「信忠スルー」は、光秀の謀反が計画的かつ計算通りであるなら、あってはならない事なのです。

確かに、この時点で信忠が譲られていたのは織田家の家督ですので、それはあくまで織田家の当主として織田家を仕切れる権であって、天下うんぬんとは別物・・・ではありますが、もし、信忠が生きていたとしたら、おそらく、織田家家臣団の結束が揺らぐ事も無いですから、例え信長を討ったとしても、ただ信長を暗殺した謀反人とされるだけで、結局は大きな態勢の変化は無く、むしろ、信忠率いる織田家とその配下全員を敵に回す事になるだけで、逆に天下が遠のくような気がします。

むしろ、なんなら「信忠も京都にいたからこそ、謀反に踏み切った」と考えた方がシックリくるくらいなのですが、それならそれで、やはり信長の本能寺と信忠の妙覚寺とを同時攻撃しなければ意味が無く、信長攻撃に夢中で信忠が逃げちゃうようなスキを与えてはならないわけで・・・(結果的に信忠が逃げずに戦ってくれたおかげで討つ事ができましたが…)

まさに、ここが1番の悩みポイントです。

ただし、ひょっとしたら、この日の光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らなかった可能性もゼロではありません。

この本能寺の2日前の5月29日、家康は京都から堺に移動して堺見物をしていて(上記の【徳川家康、黒幕説】参照>>)、信忠も、それに同行していたわけですが・・・
実は、本来なら、この後も家康と行動をともにするはずだった信忠は、急きょ予定を変更して、その日のうちに京都へとやって来ていて、6月1日の夕方から本能寺で行われた酒宴にも出席しています。
(注:この年の5月は29日までなので、29日の翌日が6月1日となります)

27日付けの信忠の書状でも
「家康さんに同行して堺見物するつもりやったけど、お父ちゃんがもうすぐ安土を出ると聞いたんで、堺見物は止めて、京都でお父ちゃんを出迎える事にするわ」
と、信長につき従っている森蘭丸(もりらんまる)に言っています。

って事は、信長からの中国出陣命令を受けて、すでに5月17日の段階で安土を発って坂本城へ入城し、さらに5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入っていた(5月28日参照>>)光秀は、この信忠の移動を知らなかったのかも・・・

で、この明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』でも
「光秀は、信忠が妙覚寺にいた事を知らず、彼が二条御所に籠った時点で気付いた」
としています。

明智憲三郎氏の説によると、それは
「家康が信長の接待を安土城で受けていた時に、安土城内の一室で密談して、二人が信長暗殺計画を練ったであろう時点では、この信忠の京都入りは予定に無かった事で、家康に同行していたはずの信忠が予定を変更した時には、すでに亀山城に入っていた光秀は、その予定変更を知らず、信長も(光秀は家康を討ちに京都に来ると思っているので)あえて光秀に知らせる必要は無かった
と考えれば謎が解ける・・・とおっしゃってますが、

んん???
確かに、亀山城にいた光秀は知らなかったかもしれないし、信長もあえて言わなかったかもしれませんが・・・

堺にいた家康は???

だって、家康は光秀と組んでるんですよね?
ともに、信長暗殺の計画を練った家康は、なんで、光秀に信忠が予定変更した事を知らせなかったんでしょう?

まして、明智憲三郎氏の説では、あの安土で密談をした時に、光秀が本能寺で信長を討つと同時に、家康も堺で信忠を討つという綿密な打ち合わせをしていた事になってるんですよ。

たった4~50人の側近しか連れていない家康が、5~600の馬廻りを従える信忠を、どうやって討つのか?という疑問も残りますが(それこそ暗殺かも?)
それ以上に、討つはずだった信忠を討ち漏らしたばかりか、そのターゲットが、もう一人のターゲットと接触する事を「仲間に知らせない」なんて事がありえるんでしょうか?・・・これ、1番知らせなきゃいけない事なんじゃ?

しかも、家康との親交も深かった京都の商人=茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)の屋敷は本能寺にも近く、彼ら茶屋家の人が、この時、家康のいる堺と自宅のある京都を行ったり来たりしてる記録もあるようで・・・つまり、知らせる時間もあったし、伝令として使える人材もいたわけですよね?

まさか、同行していた信忠がいなくなった事を、家康は気づかなかったとか?
いやいや、この時点では信忠も、光秀&家康の計画は知らないわけですから、別行動とるなら挨拶くらいしてから行くでしょうし、第一、これから討とうと思ってるターゲットの行動を、戦場でも無い場所で見失っていては戦国武将としてやっていけません。

一つだけ考えられるのは、光秀から信長暗殺をうち明けられた家康が、光秀に同意するフリをしておきながら実は裏切っていて
「光秀が信長殺ってくれんなら、これ幸い…そのドサクサで領地増やして、知らん顔しといたんねん」

と思っていた・・・なので、信忠の予定変更を、あえて光秀に知らせなかった可能性ですが・・・

しかし、明智憲三郎氏の説では、
「家康は、光秀を援護しようと、慌てて岡崎に帰って準備していたが、秀吉があまりに早く中国から戻って来たために、光秀を救援する事ができなかった」
「それでも家康は、落ち武者となった者を救うべく、軍を西へ向けようとするが、山崎の戦いに勝利した秀吉から『すべてが片付いたので帰陣せよ』との知らせを受けたので、やむなく兵を退いた」

とおっしゃる・・・

・・・て事は、山崎の合戦の時点でも家康は光秀の味方だったわけで・・・それなら、やはり、
「家康が、堺にて信忠を暗殺できなかった事を、相棒の光秀に報告しない」
からの
「光秀が、信忠が妙覚寺にいる事を知らないまま、本能寺の信長を攻撃してしまう」

という展開は、なんか変・・・一つの創作物語としても辻褄が合って無い気がします。

○○黒幕説うんぬん、野望説うんぬん、四国説うんぬん・・・イロイロありますが、それらの説すべてが、この「信忠スルー」を、「光秀は信忠が妙覚寺にいた事を知らなかった」で、一応の解決ができるのですが(解決=それが「正しい」という意味ではなく「可能性がゼロではない」「あり得るかも」「否定はできない」という意味です…個人的には、優秀な光秀が「知らなかった」とは考え難い気がしてますが…)

残念ながら、最後の最後まで光秀と家康が共謀している設定である、明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実』における『徳川家康、暗殺計画説』は、この「信忠スルー」を、「光秀は知らなかった」では「謎を解いた」とは言えないような気がするのですが・・・

結局のところ・・・やっぱ、まだまだ謎かなぁ~(*^-^)と、実は、謎のままな事を喜んでいる茶々でした~
 .

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コメント

茶々様
面白く拝見しました。見た人のいない歴史なので、謎のままあーだこーだと言っているのが楽しいですよね。ただ、信忠スルーは重要なこと。光秀単独の謀叛が一番、納得がすっきりします。

投稿: いんちき | 2016年6月 2日 (木) 13時59分

いんちきさん、こんばんは~

やはり…「信忠スルー」は重要だと思います。

本文では、この「信忠スルー」を、他の説は「知らなかったで、一応の解決ができる」とは書きましたが、実際には、もし謀反が計画的であるなら、優秀で用意周到で戦略に長けたあの光秀が「知らなかった」って事あるの?って不思議に思いますよね?

なので、この「信忠スルー」には、「衝動的」って香りが漂います~

投稿: 茶々 | 2016年6月 3日 (金) 03時20分

茶々さんこんにちは。
クーデターを起こすなら当時家督を譲られていた信忠も視野に入れていないとおかしいですよね。
個人的な見解ですが、家康説よりも四国説が真実だと思っています。
というか、本能寺の現地には光秀は参加していなく、弟と斎藤利三だけで実行したんじゃないかと思えます。もちろん山崎合戦すら光秀は参加してないのかなと思ってます。
真実はわかりませんが歴史っておもしろいですね

投稿: 三河者 | 2016年6月 3日 (金) 17時32分

最近、何かの歴史劇画コミックだと思いますが、この経緯について説明していたような…?
う~ん、思い出せないです。ちらっと見たことあります。

投稿: えびすこ | 2016年6月 3日 (金) 17時40分

三河者さん、こんばんは~

>信忠も視野に入れていないとおかしい…

おっしゃる通りです。
なんなら、信忠が京都にいない状態=堺や安土にいたとしても、同時攻撃をしないと…
信長だけ殺しても、何も変わらないと思います。

>本能寺の現地には光秀は参加していなく…

それはオモシロイですね~
私も、本文の冒頭でリンクしてる【突発的な単独犯説】でチョコッと触れてるんですが、犯人が光秀じゃない可能性もゼロではないんじゃないかと…

ホント、あっちを考えれば、こっちの辻褄が合わず…ホント、不思議な事件です。
ひょっとしたら、「日本人全員が年百年もの長きに渡って騙されてる何か」があるのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年6月 4日 (土) 03時15分

えびすこさん、こんばんは~

「信忠スルー」の経緯ですか?
それは、興味津津ですね~

投稿: 茶々 | 2016年6月 4日 (土) 03時16分

今日は何の日?徒然日記管理人様
いつも楽しく拝見しています。
当方、みちのく瓦版というサイトの管理人でございます。

本日は、アクセストレードの件でご連絡させていただきました。
当サイトに貴サイトのリンク・RSSの登録をさせていただきましたので、もしよろしければ一度、当サイトをご覧ください。
当方、歴史や哲学、神話、オカルトに至るまで知識を深めるサイトを目指して運営しております。


もしご迷惑でなければ、サイト発展のためアクセストレードをしていただけたら幸いです。

サイト名:みちのく瓦版
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メール:ryouun0702@yahoo.co.jp


みちのく瓦版管理人

投稿: みちのく瓦版管理人 | 2016年6月 7日 (火) 16時51分

諸説あり、どれも論評が面白いですね。私の「天皇黒幕説」(http://yabunira.blog.so-net.ne.jp/2010-01-05)も論評していただけたらと思います。

投稿: おら | 2016年6月 7日 (火) 23時36分

みちのく瓦版管理人さん、こんばんは~

リンク集に追加させていただきました。
今後ともよろしくお願いします。

投稿: 茶々 | 2016年6月 8日 (水) 03時41分

おらさん、こんばんは~

そうですね。
「天皇黒幕説」もありますね。

安土城に入った光秀への朝廷の接触ぶりが「天皇黒幕説」へと導くのでしょうね。

ただ、私としては、正親町天皇と信長の関係は、良好だったと思っております。
おっしゃる通り、天皇と信長に確執があったという文献は残ってませんし、逆に良好だった事を匂わせる記述や書簡は残ってます。

当時の正親町天皇は、むしろ側近とギクシャクしてる記録が残ってますので、個人的には、あるとしたら「天皇黒幕説」より「(天皇棚の上の)公家黒幕説」の方が可能性が高い気もしますが、天皇や公家だけに限らず、事「○○黒幕説」においては、やはり「信忠スルー」をクリアにしない限り、説得力に欠ける気がします。

信忠が京都にいる事を知らなかったにせよ、知っていてスルーしたにせよ、計画的である限り、信長だけを討って、その先どうしようと思ったのか?が、とても不可解ですからね。

投稿: 茶々 | 2016年6月 8日 (水) 03時54分

歴史好きにとって、本能寺の変の推理は、
信長公には悪いけど、楽しいですよね
ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ

ご子孫の本は読みました。
その名誉を回復したいって言う想いは、
ありありと伝わってきました。

本能寺の変とは直接関係は在りませんが、
佐久間信盛と林秀貞の追放は、
影を落としてそうです。

投稿: tobiguruma | 2016年6月 8日 (水) 21時09分

私の地元、静岡市では毎年4月の初めに静岡祭りが開催されます。そこそこ有名な芸能人を呼んで家康公と御台所として練り歩くのですが、その祭りに最中、必ず雨が降る日があります。お年寄りなどは今川家のたたり、などと言います。もともと今川のお殿様の地なのに、家康公をメインのするのはどうか、ということなのです。たまたま雨の降りやすい時期なのかもしれませんが、今川さん、ちょっぴりうさを晴らしているのかも。

投稿: Clef | 2016年6月 8日 (水) 21時22分

tobigurumaさん、こんばんは~

>佐久間信盛と林秀貞の追放は…

ベテラン勢の追放に、自らの老いを感じた光秀の心が揺らいだ…というのは、動機の一つに数えられる事が多いですね。
現段階での光秀は、信長さんの1番のお気に入りでしたが、やはり将来に不安を感じたのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2016年6月 9日 (木) 02時46分

Clefさん、こんばんは~

えぇw(゚o゚)w
メインは家康さんなんですか?
駿河の守護と言えば今川家なのに…それは、今川のお殿様にとっては、ちょっぴり寂しいかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2016年6月 9日 (木) 02時54分

明智憲三郎さん、この間テレビで見ました。
私でも、穴のある説だなと思いました。

私としては、三河者様の光秀不参加説に近いことを妄想してます。
大体こんな感じ↓
1.信長襲撃計画(嘘)を知る。
2.救援に向かう。
3.明智軍が襲撃し、信長死亡。
4.死体とともに真相を打ち明けられる。
5.言い訳不可能な状況に気づく。
6.生き残るには、天下獲るしかない。

これだと、本能寺後の泥縄感も不思議じゃないと思います。

投稿: ことかね | 2016年6月17日 (金) 13時28分

ことかねさん、こんばんは~

本当に、そうですね~
私も、「信忠スルー」の辻褄の合わなさを、1番うまく説明できるのが「光秀不参加」あるいは「最初は知らなかった(一部の暴走?か騙された?)」では無いかと思います。

それでも謎は残りますが、それ以外なら、いわゆるノイローゼでも無い限り、行動が不思議すぎますもんね~

投稿: 茶々 | 2016年6月18日 (土) 01時41分

光秀が妙覚寺を朝五時に攻めていたら、ほぼ全て辻褄があいそうです。
まず斎藤利三が主導すれば「四国説」「怨恨説」「黒幕説に必要な五条件」をクリア。利三が主力を率いて山陰道を通り、光秀が別動隊を率いれば「記録と違う上に、遠回りで険しい道に明智越の名がついた」謎もクリア。利三に本能寺を攻めさせれば「信忠スルー」「同時に討つ」もクリア。信忠を討ち漏らした後、信長と合流したと思って探せば「九時に着いて、燃え盛る本能寺を呆然と見る」という記録もクリア。信忠が親王や三法師を逃がす余裕ができて、「二条御所を囲むのが十二時と遅くなった」理由もクリア。

投稿: しましま | 2016年6月18日 (土) 22時27分

しましまさん、こんばんは~

斉藤利三が先発隊で別働隊の光秀が遅れて…って事ですか?

>利三に本能寺を攻めさせれば「信忠スルー」「同時に討つ」もクリア。

ここがよくわかりません。
信忠を同時に討つはずだったのが、別働隊が遅れたために討ち漏らした=計画が失敗した
という事なんでしょうか?

信忠は、本能寺の襲撃を聞いて、はじめは父を助けに行こうとしますが、妙覚寺を出たところで、様子をに見にいった側近から
「もはや本能寺は敗れ、御殿も焼け落ちました」
と聞いて二条御所に移動した事になってます。

つまり、本能寺が焼け落ちた時点でも、二条御所どころか、妙覚寺さえも敵に囲まれていなかったわけで…

明智軍は全部で1万3000…3手に分かれた先発隊だけでも4~5000はいたとされてますから、仮に本能寺襲撃の使命をおびた先発隊だけが先に到着したとしても、別働隊の到着を待って同時攻撃するか、もし、その時間が無いなら、相手は100人足らずの本能寺と、5~600の妙覚寺ですから、その先発隊を2手に分けて、両方同時に攻めないと意味がないと思うのですが、

現に、本能寺が焼け落ちてから信忠は二条御所へ移動してるので、少なくとも同時攻撃はされていないわけで、やっぱり「信忠スルー」になってしまっている気がしますが???

投稿: 茶々 | 2016年6月19日 (日) 04時57分

ご自身の家康黒幕説(2008年5月29日) では「信忠スルー」がクリアされているのですか?
「信忠スルー」を解決した、本能寺の真相説にはどの様なものがありますか?

投稿: いっちょ噛み | 2016年7月12日 (火) 17時11分

いっちょ噛みさん、こんばんは~

これまで、あまたの専門家やマニアが本能寺の謎に挑戦しておられますので、「家康黒幕説」に関しても、細部が微妙に違う様々な説がありますし、私もすべての説を知っているわけではありませんので、「信忠スルー」がクリアかどうか?というのは、それぞれの説による場合が多いと思います。

ただ、これまで読ませていただいた説を参考に、個人的な推理をさせていただきますと、「黒幕だからといって、最初から最後まで全面協力しているかどうかは別物」なんじゃないか?という印象を受けます。

たとえば、黒幕説の中には「秀吉黒幕説」や「天皇黒幕説」もありますが、これらは、計画の段階では黒幕だったかも知れないけれど、なんとなく、途中から見放してる感ありますよね?
秀吉に至っては天王山で戦ってますし…

そういう意味で、例え家康が計画段階で黒幕であったとしても、当日になって「光秀に信忠の移動を知らせない」からの「家康から知らされなかった光秀は、信忠が京都にいる事を知らなかった」という可能性がゼロでは無いと思うんです。
(明智氏の説では「家康が堺で信忠を討つとの約束ができていた」「最後まで家康は協力体制にあった」という事なので、それなら、なぜ、信忠の移動=信忠を討ち損じた事を光秀に知らせないのか?という疑問が残るわけです)

とは言え、これも、本文にも書かせていただいております通り、(否定する決定打が無いので)「可能性がある」「そうかも知れない」程度の物で、「真実だ」とか「クリアできる」とかというほどの物では無い事を、ご理解いただければありがたいです。

あと、他の方のコメントにも書かせていただいていますが、「信忠スルー」を解決するには、光秀が実行犯でないかも知れない事を含め、今のところ、何者かにハメられたか、心の病気にかかっていたくらいしか、解決のしようが無いように個人的には思います。

それほど、難しい謎だと思っています。
何か、新しい史料が発見されるとウレシイですね~

投稿: 茶々 | 2016年7月13日 (水) 01時50分

おもしろい分析ありがとうございます

わたしも信長が家康を亡き者にしようとした可能性は高いと思います
信忠、信雄、信孝などのこどもたちに日本を譲るさいに一番厄介なのが徳川だと、武田征伐で三河などを訪れて実感し、危機感が高まったのではないでしょうか

・信長は光秀に家康一行を抹殺するように指示したのですが、まじめな光秀は毒殺するのを拒絶した
 秀吉ならためらいなく遂行したであろうに…

・安土城での暗殺をあきらめた信長は、光秀に中国攻めを命令するとともに丹波坂本を取り上げた

・家康暗殺は最も信頼でき、家康への随行もしやすい嫡男である信忠にさせることにした。しかし信忠はまだ若いため当日に家康が謀反したとして500の手勢で討ち取らせようと信長は考えた

どうでしょうか

投稿: 伊勢高虎 | 2017年9月 3日 (日) 18時00分

伊勢高虎さん、こんばんは~

すみませんm(_ _)m
私の書き方が悪かったでしょうか?

本文で「信長の家康暗殺計画が100%無いとは言い切れない」と書いたのは、あくまで「その場面を直接見る事ができない歴史上の出来事であるが故に」→「言い切れない」=「断言できない」という意味であって、私の中の推理としては「(暗殺計画は)おそらく無い」と思っています。

理由は本文にもいくつか書いてますが、最も言えるのは、このタイミングでの暗殺は時期的に変だという事です。
信長が、もう少し生きて、もう少し多くの領国を手にし、家康がもう少し強くなっていたなら考えられるかも知れませんが、この時点では早すぎる気がします。

また、現代の感覚でいくと、「天下を取る」という事を「中央集権」のように思ってしまいますが、江戸時代でもそうであったように天下は「地方分権の集合体」です。
つまり、同盟を結んで傘下にする形で戦いを避ける感じだったと…
なので敵対するならともかく、傘下にはいっている同盟者を暗殺してまで奪うというのは(例外もあろうかとは思いますが)おおむね考え難い気がしています。

信長の時代は、未だ「天下を取る」事が「畿内を制する」事だった時代ですが、信長は、その畿内である大和でさえ、「初めは松永と、後に筒井と同盟を結んで治めさせる」という傘下の形を取っていますし、河内の半分も、もともとは三好義継に安堵(結局は反発して三好家は滅亡しますが…)していましたので、やはり、「暗殺してまで三河を手に入れる」というのは考え難いように思っています。
もちろん、個人的に「腹立つ」「性格合わん」「アイツ嫌い」と思っていたら、あり得るかも知れませんが…

文章が解り難くて申し訳なかったです。

投稿: 茶々 | 2017年9月 4日 (月) 01時57分

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