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2016年6月24日 (金)

嘉吉の乱~万人恐怖のくじ引き将軍・足利義教の憂鬱

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教を自宅にて騙まし討ちするという・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・・

以前、『あなたが思う戦国の幕開けは?』というアンケート(2010年7月28日参照>>)をさせていただいた時には、応仁の乱>>が圧倒的1位、続いて北条早雲(ほうじょうそううん)足利=堀越公方を倒しちゃう伊豆討ち入り>>が2位につけ、その2強が他に大差をつけた状態だったわけですが、実は、永享十一年(1439年)に起きる永享(えいきょう)の乱(2月10日参照>>)と、その2年後に起きる今回の嘉吉(かきつ)の乱(以前のページは2009年6月24日参照>>)「戦国の幕開け」と位置づける研究者も多いんです。

つまり、戦国時代は関東から畿内にやって来て全国に広がったと・・・となると、永享の乱に勝利して嘉吉の乱にて暗殺される第6代室町幕府将軍足利義教(あしかがよしのり)は、まさに戦国の幕を開けた男という事になります。

とまぁ、上記でリンクを貼っておる通り、すでにこのブログで1度は書かせていただいている永享の乱と嘉吉の乱ではありますので、その内容は少々かぶり気味になりますが、今回は、その両乱の主役でもある足利義教さんを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

足利義教は、室町幕府を開いた初代将軍=足利尊氏(たかうじ)(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)の孫で、南北朝合一を果たして幕府を全盛期へと導いたあの足利義満(よしみつ)(12月30日参照>>)の息子です。

とは言え、彼は五男・・・なので、第4代将軍は長兄の足利義持(よしもち)が継ぎ、第5代将軍は、その義持の息子の足利義量(よしかず)が継ぎ・・・と、本来なら、将軍の座が義教に回って来るはずは無かったのです。

Dscn9028a800 なので、完全に将軍候補から外れていた彼は、10歳にして天台宗のお寺=青蓮院(しょうれんいん京都市東山区粟田口)に預けられて義圓(ぎえん=義円)と号し、兄の義持が亡くなるその日まで、僧として修行する毎日を送っていたのです。

なんせ、25歳で天台座主(てんだいざす=本山の延暦寺の住職で末寺を総監する役職)となった後、大僧正(だいそうじょう=僧を統括する最高位)にまで上り詰めていたのですから、もはや将軍職の事なんか頭のスミにも置かず、ドップリシッカリと僧の道を全うするつもりでいた事でしょう。

ところが人生わからない物・・・応永三十五年(1428年)1月に兄の義持が後継者を指名しないで亡くなってしまい、しかもその時には、5代将軍を継いでいた一人息子の義量も、若くして子供をもうけないまま、すでに亡くなってしまっていた=嫡流がいなくなったために、次期将軍を巡って幕府内は大モメにモメるのです。

と言うのも・・・
わずか11歳で将軍職を継いでから、ヤバイ相手には容赦ない鉄槌を下す、かなりハードな戦人生を送りつつ足利家の全盛を築いた3代将軍の義満が、息子の義持がわずか9歳の時に早々と将軍職を譲りながらも、その後も実権は自らが握るというワンマン社長的な政治体制をとっていたおかげで、いつしか義持の中には、父=義満に反発する気持ちが芽生えており、義満が亡くなって後に義持自身が実権を握ってからは、父とは正反対の(将軍の)側近たちと仲良くし、彼らの意見を聞く」という政治体制をとっていたのです。

なので、大抵の事は側近たちが話し合って決めていた・・・だからこそ、義持は、亡くなる時も、自らが次期将軍を指名せず、「君ら(側近)で話合うて決めてぇな」と遺言して逝ったのでした。

こうして、次期将軍は義持の4人の弟たちの中から選ばれる事になり、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)をはじめ、斯波義満(しばよしみつ)細川持元(ほそかわもちもと)山名時煕やまなときひろ)畠山満慶(はたけやまみつのり)といった将軍側近メンバーたちが、義持の心を汲んで、未だ将軍が生きている段階から話し合いを始めるのですが、

候補となる4人の兄弟たちは、いずれも大寺院に務める立派な僧侶で、辿って来た経歴もほぼ同じ・・・今回ばかりはいくら話し合っても、いっこうに決まる気配がなく、結局、「話し合っても決められない事は神頼み」って事で、戦勝の神様=石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう=京都府八幡市)にてくじ引きする事に・・・

で、神の御前でくじ引きし、義持の死後に開封された、その結果が義教・・・となったわけですが、この時代のくじ引き、しかも神前でのくじ引きは神託=神様のお告げであって、決してふざけているわけではなく、これでも、立派な将軍決定劇に間違い無かったのです。

とは言え、例え神のお告げであったとしても、前例のないくじ引きに、前例のない還俗(げんぞく=僧侶をやめて一般人に戻る事)からの将軍誕生という、このドタバタ劇は、内外に多大なる影響を与える事になるわけで・・・

こうして、早速、兄の死から2ヶ月後の応永三十五年(1428年)の3月に左馬守に任じられ、将軍の邸宅である室町殿に入った義教ですが(当時の名は義宣=よしのぶ)、2ヶ月後の正長元年(4月に応永から改元)5月に、早くも不穏な動きが・・・

それは、関東にて度々勝手な行動に出ていた鎌倉公方(かまくらくぼう=関東公方とも)足利持氏(あしかがもちうじ)上洛を企てているとの噂

と、ここで、これまでもブログに度々登場している鎌倉公方・・・この鎌倉公方というのは、そもそも室町幕府を開いた初代の足利尊氏が、自らの出身&領地が関東であったにも関わらず、かの後醍醐天皇(ごだいごてんのう)との南北朝問題があった事などから、その幕府を京都で開く事になっために、

留守がちになる関東の領地を、息子の義詮(よしあきら)に治めさせていたのですが、尊氏の死後、その義詮が2代将軍になったために京都へ行き、その弟である基氏(もとうじ)初代鎌倉公方に就任し、以来、その基氏の家系が代々鎌倉公方職を継いでいて、今回の持氏が4代目・・・という事になるのですが、

そう、もはや4代目ともなれば、関東は関東で、独自の道を歩み始めていたわけで・・・

しかも、この持氏は、生前の義持に「猶子(ゆうし=契約上の養子)なりたい」との話を持ち掛けて来た事もあり、「くじ引きするくらいモメるんなら、俺が将軍になるってのもアリじゃね?」的な匂いがプンプン・・・

なんたって、本来なら仏門に入った人は将軍候補から外されるのですから、将軍家の直系がいなくなった今、分家とは言え、仏門に入って無い持氏は候補者の一人なわけで、そこを「くじ引きさせて還俗させて就任させるくらいなら俺が…」って考えるのも無理のないところ・・・

とは言え、この一件に関しては、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)の取りなしで、なんとか事無きを得ました。

しかし、このタイミングで伊勢国司北畠満雅(きたばたけみつまさ)が南朝勢力の回復を企んで(7月20日参照>>)後亀山天皇(ごかめやまてんのう)(4月12日参照>>)の一派と組み、かの持氏に連絡を取ったりなんぞ・・・

さらに、8月頃から近江(おうみ=滋賀県)で始まっていた土民(農民や都市の庶民)たちの不穏な動きが、9月には京都まで波及して、さらに播磨・丹波・伊勢・大和近畿一帯を巻き込んで大暴れ・・・ご存じ、正長の土一揆(9月18日参照>>)です。

伊勢のゴタゴタには守護の土岐持頼(ときもちより)を、一揆には幕府侍所(さむらいどころ)赤松満祐(あかまつみつすけ)を派遣して鎮圧に当たらせ、何とか事を治める義教・・・

ところが一方で、朝廷からは「こんな前代未聞な誕生っぷりの将軍は見た事無いよって、将軍宣下なんかしたるかい!」と言われ、正式な将軍就任を1年も待たされる事に・・・

Asikagayosinori600_2 とか何とかありながらも、翌・正長二年(1429年)3月には、無事、正式に第6代将軍に就任した義教(実際にはここで義宣から義教に改名)は、しばらくは、何かと側近たちに相談しつつ、その意見を聞きつつ、波風立てぬように、表面上はうまくやって来ていたわけですが、

その後も、周防長門(すおう・ながと=山口県)豊前(ぶぜん=福岡県東部)の三国を治める大内氏と、豊後(ぶんご=大分県)大友筑前(ちくぜん=福岡県西部)少弐(しょうに)連合軍との合戦や内紛に関与せざるを得なくなったかと思えば、比叡山延暦寺の僧が神輿をかざして強訴(ごうそ=力づくの強引な訴え)して暴れるわ・・・

その度に、側近と話し合えば、これまた意見は分かれるわ、そのワリには義教にとっては許し難い事さえも「まぁまぁまぁ」と側近たちによって無理やり鉾を納めさせられるわ、鎌倉公方はチョイチョイ出て来るわ、比叡山の僧はうっとぉおしいわで・・・ここらあたりから、とうとう義教はぶち切れはじめるのです。

永享六年(1434年)2月、義教に待望の男子(後の第7代将軍=義勝)が誕生し、祝賀のために多くの人々が彼の御所につめかけましたが、一方で、その男子を産んだ義教の側室=日野重子(ひのしげこ)の実家である日野家にも多くの人が参賀にやって来たのです。

ところが、なぜか、義教は、その日野家の邸宅前に見張りを立てて、誰が祝いにやって来たのかをチェックさせ、それらの人物=60人余りに所領没収の処分を下したのです。

しかも、その3ヶ月後に、その日野家の当主であった日野義資(よしすけ=重子の兄)強盗に殺害されるという事件が・・・「黒幕は義教?」との噂が流れる中、数日後には、犯人として高倉永藤(たかくらながふじ)という公家が逮捕されますが、一貫して無実を訴える彼をしり目に、罪状は所領没収のうえ硫黄島への島流しに決定してしまいました。

さらに、ここに来て、一旦おとなしくなっていた延暦寺が再び暴れ出すと、以前の時には側近になだめられて、何とか押さえた怒りが、数倍になって爆発・・・義教は、延暦寺の使節として京都に滞在していた3人の僧を捕えて処刑します。

これに激怒した僧徒たちは、翌日、根本中堂に火を放ち、その中で約20人の僧が、抗議の自害をするという事態に・・・

よく、義教の独裁政治っぷりを表す時に『万人恐怖』という言葉が使われますが、これは、この比叡山の一件の事を日記に記した伏見宮貞成(ふしみのもやさだふさ)親王が、日記の中で「万人恐怖す、言う莫(なか)れ」と書き残した事にはじまります。

そんな中、ここらあたりで徐々に側近たちも世代交代して行き、もはや、誰も義教を止められない状態になる中、いよいよ関東の持氏が動き始めます

これまでも何度となく不穏な動きをしながらも、なんとなく事無きを得ていたものの、中央では永享に改元されてからも、なんだかんだと関東では正長を使い続けていたヤル気満々持氏は、永享十年(1438年)、自らの嫡男の元服に当たって、息子を義久(よしひさ)と名乗らせます。

これは、これまでは京都の将軍の一字をもらって名を名乗っていた鎌倉公方(持氏は義持の「持」なのねん)将軍家が受け継ぐ「義」の文字を使った・・・つまり、「俺らも同格やで」と宣言したわけです。

しかも、それに反対した関東管領の上杉憲実を討つべく出陣・・・憲実からの救援要請を受けた京都では、奥州の諸将に上杉の応援をするように命じるとともに、出兵の大義名分となる綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発給する命令文書)を得て軍制を整え、錦の御旗を掲げて官軍として京都を出発・・・さすがに義教自身が京都を離れる事はありませんでしたが、将軍の意を受けた官軍は見事勝利し、持氏を自害に追い込みました永享の乱>>)

ところがその後・・・永享12年(1440年)、将軍の右腕だった一色義貫(いっしきよしつら)若狭(わかさ=福井県南部)武田信栄(たけだのぶひで)に、同じく幕府の重要人物だった土岐持頼は伊勢の国人=長野氏に、それぞれ殺害されるという事件が勃発・・・これまた「義教が黒幕なのでは?」と噂される中、翌年1月には畠山持国(もちくに=満家の息子)が追放され、6月18日には加賀守護の富樫教家(とがしのりいえ)義教の怒りに触れて出奔・・・かくして事件は、その6日後に起きました。

嘉吉元年(1441年)6月24日、病気で欠席の赤松満祐に代わって、息子の赤松教康(のりやす)が、義教はじめ、管領や側近などの大名たちを赤松の宿所に招き、酒宴の席を設けます。

宴席では猿楽が繰り広げられ、ゴキゲンの義教が盃を重ねていく中、その後方にあった障子がいきなり開かれ、そこから数十人の武装した兵が乱入・・・アッと言う間に義教の首を跳ねてしまったのです。

あまりに突然の事だったのか?
一部の側近は奮戦するものの、列席していた大名たちの多くは、将軍の仇を、その場で討とうとのそぶりも見せず、ただただ唖然とする者、慌てて逃げる者ばかり・・・

実は、この宴席に欠席していた赤松満祐の病気は「狂乱」だったとの記録もありまして・・・あまりの義教の暴走っぷりに、満祐は気を病んでしまったのだと・・・

なので、満祐だけでなく、他の大名たちも「処刑や追放の憂き目に遭うのは次は自分か?」と、毎日恐怖におののいていたわけで・・・(だから、将軍の仇を討とうなんて思う者はいなかった?)

そのおかげで、教康たちは、義教の遺骸をその場に放置したまま、首を剣に突き刺して高々と掲げて京都市中を練り歩き、堂々と故郷の播磨(はりま=兵庫県南西部)へと去って行ったのです。

この将軍暗殺劇が嘉吉の乱です。

とは言え、さすがに将軍殺害犯をそのままにして置くわけにはいかず、この後、幕府による討伐軍が派遣され、そこで活躍したのが山名持豊(やまなもちとよ)・・・後に、日本を東西に分けて戦う西陣代表の大大名となる名宗全(そうぜん)(3月18日参照>>)です。

また、義教の死によって、彼と敵対していた一部の人々の罪も許された事から、この後、あの持氏の遺児=足利成氏(あしかがしげうじ)大暴れして、まさに関東は戦国に突入する事となるのですが、そのお話は2012年9月30日のページ>>

に、しても・・・
『万人恐怖』やら『魔将軍』やら『悪御所』やら、

その暴君っぷりで散々に言われる義教さんですが、その生涯を見てみると、なんか最初はイイ人だったような?気が・・・

そもそも、ご本人も将軍になりたかったんですかね?
「俺はくじ引きパス!」てな事は言えなかったんでしょうか?

なんとなく、そのまま僧として過ごしていたら、穏やかに、それでいて凛々しい高僧になられたような気がしてなりませんね。
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コメント

茶々さん、こんにちは。
万人恐怖と言いますとローマ皇帝のカリグラ、ドミィテイアヌスを思い浮かべます。後者はよしのり同様にやり手です。でも殺されました。過ぎ足るは及ばざるは正しいです。
ところで義教は何故怪しいと思わなかったのでしょうか?万事慎重で教養深い将軍なのにです。

投稿: non | 2016年6月24日 (金) 16時35分

nonさん、こんばんは~

義教さんは警戒してたんでしょうかね?
意外に、みんなを信用してたのかも…

投稿: 茶々 | 2016年6月25日 (土) 02時12分

茶々さま、初めまして
茶々さまのブログに心鎮めて日々過ごしています。今日も納得です。乱世の流れが、CG無しでわかる感じです。
青蓮院のお庭も見れて嬉しいです。

投稿: まつこ | 2016年6月25日 (土) 09時55分

まつこさん、こんにちは~

コメントありがとうございます。
励みになります!

投稿: 茶々 | 2016年6月25日 (土) 15時36分

おはようございます、茶々さん。
昨日バスの変更をしようとしたら騙されて27日月曜日にしたのに21日にさせられてました。私はかなり慎重です。用心深いです。でも騙されやすいです。義教も慎重なので不意打ちにあったかもしれません。でも細川も連れていたのは用心していたのでしょう。それでもやられたのですね。徳川時代まで不安定でしたがこれが一番ですね。

投稿: non | 2016年6月27日 (月) 07時53分

nonさん、こんにちは~

信長も無防備でしたし…
意外にイイ人だったのかも知れません。

投稿: 茶々 | 2016年6月27日 (月) 13時51分

茶々さん、こんばんは。
スターリン、フランコ、毛沢東みたいに用心深く無いのが日本の特徴でしょう。
そんなに疑い深く無いので殺されるのでしょう。
毛沢東、スターリンは招いて飲ませて自白させたそうです。
義教、信長もそこまで徹底していないのでしょう。

投稿: non | 2016年6月29日 (水) 20時30分

nonさん、こんにちは~

外国の方は用意周到ですね。

投稿: 茶々 | 2016年6月30日 (木) 16時01分

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