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2016年6月 9日 (木)

加賀一向一揆の始まり~長享一揆・高尾城の戦い

長享二年(1488年)6月9日、長享一揆=高尾城の戦いで一揆勢が勝利し、富樫政親が死去しました。

・・・・・・・・・・・

ご存じ、約100年の長きに渡って本願寺門徒が一帯を支配する事になる加賀一向一揆・・・まさに百姓の持ちたる国」の始まり~という事になるのですが、

そもそもは嘉吉元年(1441年)、赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍・足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉の乱(6月24日参照>>)をキッカケに、加賀の守護大名だった富樫(とがし)が分裂し、やがて起こった応仁元年(1467年)の応仁の乱(5月20日参照>>)で、兄の富樫政(とがしまさちか)東軍細川勝元に、政親の弟の富樫幸千代(こうちよ)西軍山名宗全(そうぜん=持豊)について家督争いを激化させていたわけですが、

この間ず~と、戦いがあれば、軍費を徴収されるし、田畑は荒らされるし、男たちは人夫に駆り出されるしで苦しめられ続けていた領民たちの唯一の救いは仏の教えでした。

ちょうどその頃、京都にて他派からの迫害を受けて北陸へと逃れ、各地を巡っていた蓮如(れんにょ)(2月25日参照>>)が、教えを広めるとともに、部落ごとに、道場をを建て、信者が集まって談合をする事を勧めた事で、その場所は領民たちにとって、信仰の場所でもあり、議会を行う場所でもあり、やがては一致団結し、組織として活動する場となっていくわけですが・・・当然、そこには、100%の農民ばかりではなく、半士半農の地侍たちも多く含まれていたわけで・・・

文明六年(1474年)、その団結を警戒した幸千代が、本願寺門徒を弾圧し始めると、彼らは、幸千代と対立する兄=政親と組んで対抗・・・最初の加賀一向一揆である文明一揆となります(7月26日参照>>)

しかし、この文明一揆で一揆勢を味方につけた政親も、実のところは、この団結力は脅威なわけで・・・結局、政親は、すぐさま一揆衆と結んだ同盟を破棄して、一転、本願寺門徒の弾圧に取りかかったのです。

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富樫と一揆勢との戦いの挿絵…蓮如上人御一代記図絵より部分抜粋(国立国会図書館蔵)

・・襲撃された門徒は散り散りに逃げるしかなく、その多くが越中(えっちゅう=富山県)瑞泉寺(ずいせんじ)へと逃れ、教祖様=蓮如が北陸の拠点としている吉崎御坊(よしざきごぼう=福井県あわら市)に救いを求めます。

しかし、この時に対応に当たった蓮如の側近=下間蓮崇(しもつませんそう)は、あくまで平和解決を考えていた蓮如の思いを伝えず、門徒には徹底抗戦を命令・・・それを受けた門徒たちがますます過激になった事から、翌文明七年(1475年)、蓮如は蓮崇の行動に失望して吉崎を退居(8月21日参照>>)、以後の蓮如は、大坂を拠点にする事に・・・

一方、加賀に逃れて越中に集結しつつあった門徒たちを、文明十二年(1480年)、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)が襲撃します。

ところが、手勢を二手に分けて石黒勢を挟み討ちにした一揆勢は、この戦い=越中一向一揆に見事勝利(2月18日参照>>)・・・この勝利に勢いづいたのが、各地へと逃れ、あるいは隠れるように身を潜めていた加賀の門徒たちでした。

やがて訪れた長享元年(1487年)、近江(滋賀県)にて六角氏との戦い(12月2日参照>>)に苦戦を強いられていた第9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)が、全国の武将に援軍を要請した事を受けて近江へと向った政親の留守を見計らって、再び、活発な動きを見せ始める一揆勢・・・

この一報を聞いて、慌てて戻って来た政親は、一揆勢を抑えるべく、更に弾圧を強化します。

しかし、もはや一揆勢の勢いは止まらないばかりか、ここに来て、その一揆勢を一つにまとめるべく、富樫家の中で、政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)総大将として担ぎあげたのです。

一方の政親は、自らの居城=高尾城(たかおじょう・たこうじょう=石川県金沢市)に籠城・・・ここは天然の要害となる山の上に造られた大規模な山城でした。

かくして長享二年(1488年)5月・・・南無阿弥陀仏と書かれたむしろ旗を先頭に、12万人とも20万人とも言われる一揆勢が、その高尾城を取り囲んだのです。

政親を守る城兵は、わずかに1万ほど・・・相手が烏合の衆である一揆勢とは言え、この数の差は大きい・・・

この軍勢の差に、もはや将軍の権威も地に落ちたこの時期に、その呼びかけに応じてくれた政親を助けようと、将軍=義尚も援軍を派遣しますが、一揆勢の数の多さに高尾城までたどり着けず・・・

やがて6月に入ると、高尾城内は敗戦ムードに包まれますが、このタイミングで一揆側から総攻撃をチラつかせながらの投稿をうながすと、城内からの離反者が次々と現れ、ますます敗戦の色濃くなりばかり・・・やがて城兵の数も底をつき始めます。

そんなこんなの長享二年(1488年)6月9日、いよいよ一揆勢は城内へと怒涛の如く押し寄せ、山頂へと追い詰められた政親は、そこで討死して果てたとも、自害したとも言われます。

享年34歳。
一方の泰高は齢70の老人で、政親の祖父の弟にあたる人物・・・この戦いの後、この泰高が加賀の守護となるわけですが、もちろん、それは名ばかりで、実際には一揆勢=本願寺門徒や僧、半士半農の国人衆たちが支配する事となります。

蓮如の五男=実如(じつにょ)の言う「百姓の持ちたる国」の誕生です。

この後、加賀一向一揆は、朝倉や上杉との北陸争奪戦をくりかえしながら、
【九頭竜川の戦い】>>
【朝倉宗滴】>>
【上杉謙信の和睦】>>
この地に、日本史上最強の戦国武将がやって来るまでの100年間、加賀一向一揆の支配が続く事となります。

その最強の戦国武将とは、
ご存じ織田信長(おだのぶなが)・・・そのお話は
【金沢御坊・落城】>>
【鳥越城攻防戦】>>
でどうぞ

★一揆の方法や惣村について
 【一味同心・一揆へ行こう】で>>
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コメント

茶々さん、こんばんは。
私は中世が苦手です。蓮如がダメだと言っているのに武力で対抗したり、武力で滅ぼすのを蓮如が破門にしたのに続いたのがよくわかりません。
世界史で十字軍の時代にベネチアが金を背景にハンガリー、イスタンブールを攻撃してローマ教皇から破門になりましたが、金、武力ではねのけましたが、今回の場合はよくわかりません。
確か加賀、越前、越中は白山信仰、立山信仰が強いはずです。なぜここまで本願寺派が強くなったのでしょうか?
義仲のころに強かった平泉寺は一向一揆で廃寺になりました。そこが不思議なのです。

投稿: non | 2016年6月10日 (金) 20時37分

nonさん、こんばんは~

白山宮が「国人や地侍が本願寺の威勢を借りて年貢を納めへん」とグチをこぼしているお話は、本文でもリンクした蓮如の吉崎退去のページ>>に書かせていただきましたが、実際にはどのくらいの兵力差があったんでしょうね?

蓮如が「武力反対」なのにも関わらず…に関しては、加賀一向一揆の場合は、文字通り「百姓が持ちたる国」であって「本願寺門徒が持ちたる国」じゃ無かった所なんじゃ無いでしょうか?
白山宮がグチをこぼしているように、その中にはけっこうな数の国人や地侍が含まれているので、その行動も血気盛んだったんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2016年6月11日 (土) 03時58分

茶々さん、こんにちは。
なんとなくわかりました。阿弥陀如来を信仰しても現世は自分たちなのですね。
百姓といいますか地侍の国ですね。紀伊、伊賀も似ていますね。
まあ富樫云々でなくこの地域は自立心が旺盛なのですね。四国でも土佐がほかの三国と全然違うのです。
でもこういう地方政権は短期間ですが日本は長期間です。案外日本人は変えたらそのまま続けるのでしょうか?今の憲法もそうですし・・・

投稿: non | 2016年6月11日 (土) 16時59分

nonさん、こんにちは~

織豊時代には、信仰というよりは、外国との交易目的でキリスト教徒になった戦国武将もいたようですから、コチラにもそういう人たちがいたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年6月12日 (日) 14時32分

茶々様、こんばんは~

100年も続いたとはすごいですね。
3世代以上ですかね。
信長が攻め込まなければもっと続いてたのでしょう。
一向宗以外の人には肩身が狭かったかもしれませんが、けっこう善政だったのかな。

投稿: しまだ | 2016年6月14日 (火) 23時24分

しまださん、こんにちは~

どうなんでしょうね~
吉崎御坊の「肉付きの面」の話なんて聞くと、他の宗派の方は住んでいられないような雰囲気ですが…
まぁ、それだけ一致団結していたという事なんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年6月15日 (水) 15時03分

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