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2016年7月30日 (土)

源氏物語を書いて地獄に堕ちた?~紫式部

 

関東も梅雨明けを迎え、いよいよ夏本番!という事で、本日は、ちょっと怖~いお話を・・・

・・・・・・・・・・

世界最古級の長編小説とも言われる『源氏物語』を書いたとされる紫式部(むらさきしきぶ)・・・

もはや説明する必要も無い超有名な歴史人物ですが、一方では、生没年や本名など、細かい部分がよくわからない人でもあります。

なんせ、平安時代くらいまでは、「男性に顔を見られる事は恥」だったり、「プロポーズの返事(OKの場合)が本名を教える事」だったりするような時代ですから、女性には謎の部分が多いのです。

とにもかくにも、寛弘二年(1005年)頃から、第56代=一条天皇の中宮である彰子(しょうし=藤原道長の長女で後の上東門院)家庭教師として仕えた事は間違いないでしょうが、冒頭に書いた通り、「源氏物語の作者」というのも、「だとされる」という雰囲気で、「作者は男だった」とか「作者は複数いた」とか、諸説あるんです。

とは言え、父の藤原為時(ふじわらのためとき)や弟の惟規(のぶのり)式部丞(しきぶのしょう=現在の文部科学省のような行政機関)の役人であった事から、勤務先の宮中にて、最初は藤式部(とうのしきぶ)と呼ばれていたのが、あの『源氏物語』の中で主人公の光源氏(ひかるげんじ)が、自らの理想の女性に育て上げようとするヒロイン=紫の上(むらさきのうえ)にちなんで、いつしか紫式部と呼ばれるようになったというのが一般的な説です。

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彰子(左)に『白氏文集』を説く紫式部(右)『紫式部日記絵詞』

で、その紫式部に・・・実は、「その死後に地獄に堕ちた」という伝説があるのです。

鎌倉時代の説話集『今物語(いまものがたり)によれば・・・

・‥…━━━☆

ある人が不思議な夢を見ます。

枕元に、輪郭もよくわからない、ぼんやりとした影のような物が見えたので、
「誰?」
と声をかけてみると、

「私は、紫式部です。
私は、生前、嘘の作り話ばっかり沢山書いて、人を惑わせてしもたために、今は地獄に落ちて責められ、毎日苦しい思いをしていて、もう耐えられませんねん。
どうか『源氏物語』の巻の名前を詠み込みつつ、南無阿弥陀仏とか、お経を唱えるような歌を一巻ずつ詠んで供養して、この苦しみを和らげてくれはりませんか?」

「めちゃムズっ!(@Д@;」
と思ったその人は、
「たとえば、どんな風に詠んだらえぇんでしょうか?」
と尋ねます。

すると・・・
♪きりつぼに 迷はん闇も 晴るばかり
 なもあみだ仏と 常にいはなん ♪
「桐壺の巻を書いたために入ってしまった迷宮の闇が晴れるように、いつも南無阿弥陀仏と唱えて欲しいワ」

と言い終わるや否や、その影は消えてしまった・・・と、

・‥…━━━☆

源氏物語は五十四帖・・・こんな感じの歌を「54首も作れ」って、かなりの無理難題な気もしますが・・・

とは言え、この「紫式部地獄落ち説」は、けっこう早いうちから囁かれていたようで、平安末期の平康頼(たいらのやすより)による説話集=『宝物集(ほうぶつしゅう)にも、

:;;;:+*+:;;;:+*+

なんや最近、
「嘘八百な源氏物語を作った罪で地獄に落ちて苦しんでるさかい、一刻も早く物語を破り捨てて一日経(いちにちきょう=集中して1日で写経を完成させる事)をやって菩提を弔って欲しい」
と、どこぞの人の夢に紫式部が出て来たよって、歌人たちが集まって、皆で写経して供養したてニュース聞いたわ。

:;;;:+*+:;;;:+*+

と、コチラは実際に供養した事が、巷の噂になっていた事が書かれています。

確かに・・・
言われて見れば、源氏物語って、かなりな内容ですからね~

ドロドロ不倫しまくりで、愛すればこその情念は、ともすれな怨念に変わる・・・1夜限りの関係の女性が「捨てられた」と嘆き悲しんだり、通われなくなった女性が生霊となって現在の恋人を呪ったり・・・

男と女の恨みつらみの愛憎劇を何もないところから作りあげる行為は、言いかえれば大いなる嘘つき・・・

今生きる私たちでこそ、生まれた時から創作童話や小説やドラマなど、フィクションの物語にドップリ浸かってますから、そこに違和感を覚える事もありませんが、書く物と言えば、日記や報告など・・・その出来事を記録するために「物を書く」のが常識だった時代に、フィクションを、それも、怨霊出まくりの奇怪な物語を書けば、そんな風に思われてしまうのも仕方ない事なのかも知れません。

なんせ、「言霊(ことだま)とか「呪詛(じゅそ)とか、真夜中の「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)なんかが信じられていた時代ですから・・・

しかし、一方で擁護派もいます。

平安末期頃に成立したとされる『今鏡(いまかがみ)は、「紫式部に仕えた侍女」を語り手として話を進めて行く形式の歴史物語ですが、その中で、その老婆に
「源氏物語を、妄語や虚言とかいうのは違うと思います。
虚言とは、自分を良く見せるために起こってもいない事を起こったように話して、他人を騙すような行為ですが、この物語は人を楽しませ、満足させ、明るい良い方向へ導く物語なんです。
こんなすばらしい物語を書いた紫式部は妙音観音
(みょうおんかんのん)の化身なんやないか?と思うくらいです」
と言わせています。

いつしか、そのような考え方が、紫式部を供養する会=『源氏供養(げんじくよう)という文化を生み出します。

鎌倉時代の初め頃から、あちこちで行われた『源氏供養』は、やがて『源氏供養』を題材とした新しい物語が作られるように・・・まさに、源氏物語スピンオフ!

有名な能楽作品の『源氏供養』では、供養の後のクライマックスで、紫式部が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身であった事が明かされてラストを迎えるのだとか・・・

なんだか、ホッとしますね。

果たして紫式部は、
地獄に堕ちた大嘘つきか?
はたまた、
傑作を生み出した観音様か?

その答えは・・・
1000年以上に渡って読み継がれ、21世紀の現代に至っても、何度も映画やドラマの原作になる・・・そんな物語が他にあるでしょうか?

それこそが答えですね。
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2016年7月25日 (月)

平経正の都落ち~平家物語より

寿永二年(1183年)7月25日、平家が安徳天皇を奉じて都落ちをしました

・・・・・・・・・・

ご存じの平安末期に起こった源平争乱・・・

平清盛(たいらのきよもり)を大黒柱に全盛を誇った平家(2月11日参照>>)でしたが、伊豆で挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)(2月9日参照>>)富士川の戦いで敗走(10月20日参照>>)して後に、福原遷都(11月16日参照>>)を決行した強気の清盛が亡くなって(2月4日参照>>)からは、その隆盛にも陰りが見え始める中、何とか頼朝軍は喰いとめるものの(3月16日参照>>)北陸で挙兵した木曽義仲(きそよしなか=源義仲・頼朝の従兄弟)(8月16日参照>>)に、
般若野(はんにゃの)(5月9日参照>>)
倶利伽羅峠(くりからとうげ) (5月11日参照>>)
篠原(しのはら)(6月1日参照>>)
と敗北して義仲軍が京の都に迫った事から、寿永二年(1183年)7月25日、平家は、時の天皇=第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)を奉じ、三種の神器(さんしゅのじんぎ)を携え、一門揃って都をを去る事になったわけです。
(くわしくは【源平争乱の時代年表】からどうぞ>>)

これまで、このブログでは『平家物語』に残る「平家一門都落ち」の哀話の代表格として
【維盛の都落ち】>>
【忠度の都落ち】>>
をご紹介させていただいてますが、本日は、その2話とともに哀話の代表格とされる『経正の都落ち』をご紹介させていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

Tairenotunemasa600a 本日の主役=平経正(たいらのつねまさ)は、清盛の異母弟=平経盛(つねもり)の息子・・・
つまりは清盛の甥っ子で、弟に、一の谷での悲話=『青葉の笛』(2月7日参照>>)でお馴染みの平敦盛(あつもり)がいます。

いよいよ都落ちとなったその時、経正は、わずか5~6騎の武者だけを従えて、御室(おむろ=現在の京都市右京区御室)仁和寺(にんなじ)(4月15日参照>>)へとやって来ます。

門前で馬から降り
「本日、いよいよ都を去る事になりましたが、ただ一つの心残りは法親王様の事だけなんです。
8歳で初めて、この仁和寺にて稚児としてお仕えしてから、13歳で元服するまで、病欠以外は、毎日お顔を合わせていましたのに、今日より後は、幾千万里の海の彼方…次はいつ帰って来れるかわからない状況は、ホンマ、くやしいです。
もう会われへんのちゃうか?と思て、もう一度だけ、法親王様のお顔を拝見したいばっかりに、ここへやって来ましたけど、すでに甲冑を帯び、弓矢を装備した無作法な姿ですよって、やっぱり、お声だけかけさせていただいて、このまま出発させていただきます」

経正から、こう呼びかけられた相手は、守覚法親王(しゅかくほっしんのう)・・・彼は、第77代・後白河天皇(ごしらかわてんのう)(10月26日参照>>)の第2皇子で、すでに仏門に入り、今や仏教界の頂点に登りつめる人物である一方で、御所として住まう仁和寺には多くの者が集い、管弦や和歌などの文化サロン的な雰囲気になっていたほどの文化人でもありました。

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仁和寺御殿の宸殿・南庭

「そのまま入って来てえぇで(*^-^)ノ」
との法親王の返答に、経正が甲冑を脱いで本殿の庭まで進むと、法親王はスダレを上げて
「もっと、コッチへおいで」
とのやさしい声・・・

床へと上がった経正は、ここまで持ってきた琵琶を自身の前に置きながら
「本日は、以前戴いた『青山(せいざん=琵琶の名前)をお返ししようと思いまして…
手放すのはツライんですが、これはもともと天皇家に伝えられた名品ですから、僕が持っていて何かあってはあきません。
もし、無事に戻って来る事ができたなら、その時、もう一度頂戴しますよってに…」

と・・・

この琵琶は、嘉祥三年(850年)に藤原貞敏(ふじわらのさだとし)なる人物が遣唐使の一員として(とう=中国)に渡った際に、琵琶の教えを請うた琵琶名人から授かった3面の琵琶のうちの一つで、皇室の宝とされていた物・・・

それが、経正が宇佐神宮(うさじんぐう=大分県宇佐市)に使者として出向く際に、はなむけにとその琵琶を拝領していたのです。

そう・・・実は経正は琵琶の名手・・・
その宇佐神宮の神殿でも、経正がひとたび琵琶を弾けば、曲の事などわからない庶民までもが感動の涙を流したほどの腕前なんです。

以前、必勝祈願のために琵琶湖竹生島(ちくぶじま)に詣でた時には、その噂を聞きつけた竹生島の僧が差し出した琵琶を経正が弾いたところ、一瞬にして空気が澄み渡り、感動した竹生島明神が白竜の姿となって現れた事もあったと伝えられるほど・・・

別れ際に、
あかずして 別るる君が 名残をば
 後の形見に 包みにてぞおく
 ♪
「別れるんは残念やけど…君の思い出の品、しっかり保管しとくよってに」

と法親王が、歌いかければ、

呉竹の 筧の水は かはれども
 なほすみあかぬ 宮の中かな
 ♪
「時代が変わっても、治世が変わっても、僕はやっぱ、ここが好きですわ」

と、歌で答える経正・・・

涙ながらの法親王との別れを終えて、部屋から出て来た経正を待っていたのは、数人の稚児と仁和寺の僧、そして雑用係の者までもが・・・皆が、経正の袂にすがって泣きじゃくります。

その中でも、幼少時代に、ともに仁和寺で暮らした頃から親しくしていた行慶(ぎょうけい)という僧は、あまりに別れがたく、桂川のほとりまでついてきますが、さすがに、そのまま供に行く事はできず・・・

ふと立ち止まって、
あはれなり 老木若木も 山桜
 後れ先立ち 花は残らじ
 ♪
「寂しいです~その年によって早い遅いあっても、結局、桜の花は最後には散ってしまうんや」

と、行慶が別れを惜しみます。

すると、経正も、
旅衣 夜な夜な袖を かたしきて
 思へば我は 遠く行きなん
 ♪
「パジャマにも着替えんと、旅に出る服のまんまで、毎夜毎夜ひとり寝してるうちに、ふと気がつくと、僕は遠い所におるんやろなぁ」

と返します・・・って、さっきからBL感、ハンパない(@Д@;

まぁ、あの『徒然草(つれづれぐさにも、お寺の稚児って、身分高き人相手に、そういう役もこなしてたように書いてありますから・・・きっと、そうなのねん(登場人物全員が、美形の場合はアリかも(*゚ー゚*)←個人の感想です)

さて・・・とばかりに、経正が、巻いて持っていた赤旗(平家の目印=白は源氏)をザッとさし揚げると、風をはらんでたなびく、その旗のもとに、この周辺にて主君を待っていたであろう兵たちが、どこからともなく100騎ほど集まりました。

「ほな、行くで!」
とばかりに、鞭を当て、その赤旗をなびかせて馬を急がせ走る軍勢・・・(カッコイイ~ヽ(´▽`)/←心の声)

経正一行は、まもなく、安徳天皇を奉じる行幸の列に追いつく事になります。

・‥…━━━☆

そして、この後、平家と入れ換わるように都へと入った木曽義仲(7月28日参照>>)も、その後、頼朝の命を受けた源義経(よしつね)に討たれ(1月21日参照>>)、いよいよ一の谷の戦い・・・

参照ページ
【生田の森の激戦】>>
【鵯越の逆落し】>>
忠度の最期】>>
【青葉の笛】>>

経正は、この一の谷にて、命を落とす事になります。
 .

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2016年7月16日 (土)

豊臣秀次事件に連座…熊谷直之と7人の小姓たち

文禄四年(1595年)7月16日、豊臣政権への謀反を企てたとして、関白の豊臣秀次が切腹に追い込まれた、世に言う「秀次事件」に連座して、秀次の家老であった熊谷直之が自害しました。

・・・・・・・・・・

豊臣の姓に関白の座・・・もはや、手に入れるべき物は、全部手に入れた感のある豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、晩年になってやっと、淀殿(よどどの=浅井茶々)との間に授かった鶴松(つるまつ)が、わずか3歳で亡くなります。

そのショックとともに、56歳という年齢もあって、「もはや子供は望めない」と思ったのか?秀吉は、姉・とも三好吉房(みよしよしふさ)との間に生まれた甥っ子の豊臣秀次(とよとみひでつぐ=三好秀次・羽柴秀次)(4月4日参照>>)に関白を譲った事から、事実上、秀次が豊臣家の跡取りに・・・

しかし、その後、またまた淀殿が懐妊し、文禄二年(1593年)に男の子を産んだ(8月3日参照>>)事から、秀吉×秀次の間に重~い空気が漂い始め、結局、謀反をはじめとする様々な罪に問われた秀次は切腹となり、その一族までもが処刑されてしまうのです。
【摂政関白~豊臣秀次の汚名を晴らしたい!】参照>>
【豊臣秀次一族の墓所~瑞泉寺】参照>>

世に「秀次事件」と呼ばれる有名な出来事ではありますが、一方で、その原因や、その結果も、未だ謎多き出来事でもあります。

もともと、謀反だ殺生だご乱行だという話はでっち上げだろうと囁かれていますし、最近では、その結果となった切腹も、秀吉が、秀次が送られる事になった高野山に対して、秀次の食事や身の回りの世話を手厚くするよう手配していたとおぼしき記録の存在などから、秀吉は「切腹しろ」とは言って無いんじゃないか?との見方も出て来ていますし、秀次自身が、自ら高野山に入って自ら切腹したなんて話も出て来ていますが・・・

とにもかくにも、一般的には・・・
罪に問われた秀次は切腹し、彼に連なる一族郎党&側室や子供たちまでもが犠牲になるこの事件・・・ここに連座して命を落とす一人が本日の主役=熊谷直之(くまがいなおゆき=直澄)です。

この「熊谷」という苗字でお気づきかも知れませんが、この熊谷さんは、源平の戦い「青葉の笛」の逸話(2月7日参照>>)で有名な熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)の子孫・・・ご存じのように、直実自身は合戦後に戦いの空しさに悩んで出家します(11月25日参照>>)が、その後も脈々と続いて枝分かれしつつ、子孫たちは戦国時代を迎えていたのです。

この当時、直之は若狭(わかさ=福井県西部)武田氏の家臣として活躍していましたが、永禄十年(1567年)に当主が第9代武田元明(たけだもとあき)に交代した頃に、ここのところの主家の衰退ぶりに我慢できなくなり、その支配下から脱し若狭大倉見城(井崎城=福井県三方上中郡)の城主として、事実上の独立を果たしていたと言われます。

この少し前には、直之と同族で、安芸(あき=広島県)武田氏に仕えていた熊谷家が、毛利との戦いで熊谷元直(もとなお)(10月22日参照>>)が討死した事をキッカケに、息子の熊谷信直(のぶなお)は愛娘の新庄局(しんじょうのつぼね)を、毛利元就(もうりもとなり)の息子=吉川元春(きっかわもとはる)と結婚させて(8月30日参照>>)武田から毛利へと鞍替えしていますので、時代の流れという物かも知れません。

そんなこんなの元亀元年(1570年)、越前(えちぜん福井県)朝倉義景(あさくらよしかげ)手筒山城&金ヶ崎城を攻撃(4月26日参照>>)すべく出陣した織田信長(おだのぶなが)が、若狭の熊河(くまかわ=熊川=福井県三方上中郡若狭町)で陣宿した際に、直之は信長とよしみを通じる事に成功し、以来、織田家の傘下となって各地を転戦しますが、

ご存じのように、その信長が本能寺に倒れたため、その後は秀吉の傘下となって、やがて秀次の家老という役職についておりました。

しかし、冒頭に書いた「秀次事件」・・・

軍記物などでは、直之が「秀次に謀反を勧めた」と描かれたりもしますが、先に書かせていただいた通り、「秀次事件」そのものが謎多き物なので、何とも・・・

とにもかくにも、古文書の記録としては、主君の秀次が逝った翌日の文禄四年(1595年)7月16日、京都は嵯峨野の二尊院(にそんいん=京都市右京区:倉山二尊教院華台寺)にて、熊谷直之は切腹するのです。

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紅葉の二尊院…黒門付近

以下、『柳庵雑筆 (りゅうあんざっぴつ)によりますと・・・

・‥…━━━☆

蔵に保管してあった金銀や米などを家臣たちに分配した後、小姓7人だけを連れて二尊院へやって来た直之は、門前で、小姓に持たせていた袋を受け取り、その中から黄金を小分けにして包んであった物を7つ、彼ら7人にそれぞれ手渡し、自らその袋を持って堂内へと入り、しばらくご本尊の前で祈りを捧げました。

♪あはれとも 問ふひとならで とふべきか
  嵯峨野ふみわけて おくの古寺 ♪ 
熊谷直之辞世

その後、7人の小姓たちに、
「ここまでついて来てもろたけど、ここからは自由やさかい。
暇をやるよって、好きなようにしたらええからな」

と・・・

しかし、7人が7人とも
「殿の最期を見届けてから、僕らもすぐに、殿のおそばに参りますよって…」
と、自分たちの覚悟を伝えます。

「いやいや、後は追わんでええ。どこかで自由に…」
「いえお供します、僕らは退きません!」
と、問答が続きますが、

そうこうしている中、検使役の見届け人が時間を知らせて急かすと、直之は
「心得た」
と返答した後、見事、腹を掻っ捌いて自刃しました。

直之の最期を見届けた検使役が、二尊院の僧に遺骸を葬るよう申し渡して立ち去ると、7人の小姓が裏手の山を掘って、主の棺を納めた後、本尊の前にてしばらく念仏を唱えた後、誰がリードするでもなく、7人輪になって、今後の事を話始めました。

7人の中でも最も年若い、未だ16~7と思しき少年は、
「殿の仇は、あの石田三成(いしだみつなり)や!アイツをこのままには、しておけん!殺ったる!」
と息巻きますが、少し年上の者は
「お前なぁ…ここから東に見えるあの山見てみぃ…三成には、あの山々の向こうに、トンデモ無い数の兵を持ってるんやゾ。
俺らだけで、どうやって刃向かえって言うねん」

と、たしなめます。

「そない言うても、このまま退かれへん」
「何とか、ええ作戦が無いか?」
と、口々に意見を交わす彼らでしたが、やがて時間が経つにつれ、主を亡くして直後は興奮気味だった心の内も、少しずつ落ちついて来て

ある一人が
「俺は…殿の菩提を弔うために諸国を巡礼しようと思う」
と言うと、さらに皆が落ち着きを取り戻し、
「ほな、僕は、町人になって、これからは平穏に暮らすわ」
という者も・・・

結局、7人のうち3人が町人になり、4人が諸国を巡礼するという事になり、その決意を二尊院の僧に告げて、直之が最後に持っていた袋を手渡しながら
「これは主君の遺品なんですが…数年後に、皆で、また、ここに集まろうと約束してますんで、それまで預かっといて下さい」
と頼み、その後、それぞれが東西へ分かれ、どこへともなく立ち去って行きました。

果たして5年後の慶長五年(1600年)9月、誰とも知らぬ若者5人が二尊院を訪れ、直之のお墓の前で高らかに念仏を唱えた後、それぞれが一同に腹を斬って果てたのです。

異変に気付いた僧が、慌てて駆け寄ると、直之のお墓の前で自刃した若者たちは、まさに、あの時の7人の小姓のうちの5人でした。

僧が、
「…にしても、あの時は7人やったけど、あと二人は…?」
と、思っていたところに、一人の男が息を切らせながら走って来ます。

彼は、その脚力を買われて、「この文を届けてくれ」と頼まれた飛脚役の青年・・・
「おそらく、ここ(二尊院)に、熊谷の小姓衆が来るだろうから…」
と手渡されたその手紙は、残りの二人からの物でした。

「今度、京都の侍所(さむらいどころ=現在の警察署)に士官できる事になりました。
彼らに会うたら、
(あとの5人も就職できそうなので)京都に来るよう伝えて下さい」
という物でした。

しかし、その5人は、すでに・・・

二尊院から戻って来た使いの者から、5人が自刃した事を聞いた二人は、すぐさま上司に暇をもらい二尊院へ直行・・・境内へと入るや否や、かの直之のお墓の前で、彼ら二人も自刃して果てたのでした。

・‥…━━━☆

と、まぁ、最初に、この逸話を知った時、「5人が自刃する」のと、「2人の手紙が届く」のとが見事なタイミング過ぎて、ホンマかいな?・・・と思っていたんですが・・・

『柳庵雑筆』には慶長五年(1600年)9月としか書いていないので、あくまで推測ですが・・・

そう、慶長五年(1600年)9月と言えば、あの関ヶ原です。

ひょっとして、関ヶ原で三成側が敗戦したタイミングのなのか?と考えると、
なるほど・・・
あの時は、バラバラに去って行ったものの、三成の失脚を知った5人が、誰が先にという事もなくお墓の前に集まる・・・

一方、残りの二人は、合戦が終わって組織の体制が変わる事で就職できるようになって・・・という事なのか?
と考えると、同時に7人全員の心が二尊院に向いた事も無きにしも非ずと思えて来ました。

とは言え、悲しい物語ではありますが、これが、武士の忠義、武士の誇りという物なのかも知れませんね。
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2016年7月11日 (月)

天皇家・摂関家・源平…それぞれの保元の乱

保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇崇徳天皇との対立を軸にした保元の乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・・・

そもそもは天皇家と摂関家、それぞれの内部抗争が発端の保元の乱・・・すでに5年前のブログで、その流れを書かせていただいておりますので、少しかぶる部分もあるかと思いますが、簡単にご紹介させていただきますと・・・

Hogennoransoukanzu (←相関図)
天皇家では、第74代鳥羽(とば)天皇が、第75代天皇となっていた息子の崇徳(すどく)天皇(8月23日参照>>)を強制的に退位させて、同じく息子の第76代近衛(このえ)天皇を擁立し、さらに近衛天皇が若くして亡くなった後は、これまた息子の第77代後白河(ごしらかわ)天皇(10月26日参照>>)即位させた事で、兄=崇徳と弟=後白河の確執が生まれ・・・

摂関家では、関白の藤原忠通(ふじわらのただみち)に対し、父で先の関白である藤原忠実(ただざね)が、その関白の座を弟の藤原頼長(よりなが)に譲るよう持ちかけますが兄=忠通は拒絶・・・これで忠実は忠通を義絶(ぎぜつ=父子の縁切り)して、頼長を氏長者にした事で、これまた兄と弟で対立・・・

で、保元元年(1156年)7月2日、思いっきしモメ事の種をまいた鳥羽院が崩御した(7月2日参照>>)事をキッカケに両者の抗争が表面化したのが保元の乱というワケです。

で、否応なくその抗争に源平の武士たちが巻き込まれてて行く・・・そう、ここで彼らは、どちらの側につくのか?という、究極の選択を決断せねばならなくなるのです。

ところで、「源平」と聞くと、あの『平家物語』のイメージが、どうしても強いので、何となく「源氏VS平氏」という構図を頭に浮かべてしまいますが、実は、この保元の乱は、源氏は源氏で、平氏は平氏で、それぞれが一族同士で袂を分かつ事になる戦いなのです。

という事で、本日は、参戦した源平の武士たちによる、それぞれの事情、それぞれの選択にスポットを当てつつ、乱の流れを見ていきたいと思います。

Hogennoranbyoub900
保元合戦図屏風(馬の博物館蔵)

とは言え、それぞれの武士たちは、結局は、自分たちが直に仕える上司、あるいは荘園領主の側に立つ事になるのですが・・・

最終的に鳥羽院が擁立した天皇である後白河側は、その鳥羽院の遺志を受け継ぐ者として、未だ鳥羽院の崩御前の6月1日の時点から、院の名を借り、後白河天皇の里内裏(さとだいり=邸宅)である高松殿の守護命令を出していますが、この時、これにすぐさま応答したのが、源義朝(みなもとのよしとも)源義康(よしやす)らでした。

義朝の父は、武士の鑑とされる、あの八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)(10月23日参照>>)の孫にあたる源為義(ためよし)で、母は白河院の側近の藤原忠清(ふじわらのただきよ)の娘でしたが、この為義が若くして家を継いだ事が災いしたのか?何かと周辺がゴタゴタ続きであったため、武名はあるものの、なかなか出世コースに乗れずにいました。

しかし、やがて、荘園の管理や武装する寺院の僧兵たちへの対策として武力を必要としていた摂関家の藤原忠実に接近する事ができ、康治二年(1143年)には、その息子の頼長と正式に主従関係を結ぶ事に成功していたのです。

途中、八男の為朝(ためとも(3月8日参照>>)が西国で暴れ過ぎて出世にストップかかったりなんぞしながらも、やはり、事が起これば、当然、上司である頼長に加勢する事になりますが、実は、この保元の乱勃発の前年に亡くなった近衛天皇の死は、「頼長の呪詛(じゅそ)による物」との噂が流れていて、それを信じた鳥羽上皇は、忠実&頼長父子に、只今激怒真っ最中だったわけで・・・

そうなると当然、忠実&頼長父子は鳥羽上皇の意思を引き継ぐ後白河側とは敵対し、敵の敵は味方とばかりに、為義は崇徳上皇側として参戦する事になります。

一方・・・・そんな中で、東国での活躍にて、ここのところメキメキ名を挙げて来たのが嫡男の義朝でした。

この時代、武士が昇進するためには、やはり京の都で活躍せねばならず、長期に渡って京を離れる事ができない為義に代わって、東国は嫡男の義朝が仕切っていたわけですが、いつしか義朝は、忠実&頼長の配下となっている父から距離をとるがの如く、鳥羽院や、その皇后である美福門院藤原得子(びふくもんいんふじわらのなりこ=近衛天皇の生母)に近づいていくのです。

おかげで仁平三年(1153年)には、父=為義よりも官位が上になるという出世街道まっしぐら・・・しかも、この保元の乱の前年には、義朝の長男=義平(よしひら)が、東国にて為義の息子(義平にとっては叔父)源義堅(よしたか=木曽義仲の父)を殺害する(8月16日参照>>)という事件も起こっています。

なので、今回、鳥羽上皇の遺志を受け継ぐ後白河側が声を挙げた時、義朝はすぐに従ったわけです。

また、義朝と行動をともにした義康は、父=為義の従兄弟にあたる人物で、鳥羽院の近臣であり熱田大宮司である藤原季範(ふじわらのすえのり)養女(実孫)を正室として迎えており、同じく季範の娘の由良御前(ゆらごぜん)を正室に迎えている義朝とは、奥さんを通じての義兄弟という関係となり、彼もまた後白河側で参戦する事になるのです。

一方の平氏・・・

平氏は、有名な平清盛(たいらのきよもり)の祖父にあたる平正盛(たいらのまさもり)が、天仁元年(1108年)に源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)を平定した(12月19日参照>>)事で第72代白河天皇(しらかわてんのう=鳥羽天皇の祖父)からの信頼を得て、息子の忠盛(ただもり=清盛の父)も白河院の近侍として仕え、白河院亡き後は鳥羽院にも使えますが、そんなこんなの長承四年(1135年)に西海の海賊追討で多大な成果を挙げた(8月21日参照>>)事で、一気に源氏との差を広げ、武士のトップに躍り出る事となり、同時に、息子の清盛も出世コースに乗る事になったのです。

ちなみに、この追討使には為義も希望を出していましたが、残念ながら為義は採用されませんでした。

と、このように、白河院から鳥羽院への流れで出世して来た平氏ですが、一方では崇徳上皇や摂関家との関係も強くしようと働きかけてもいました。

ふふ~~ん、何やら戦国時代のどっちか生き残り作戦(7月14日参照>>)にも似た雰囲気ですね~
(ま、源氏もソレっぽい気がしないでもない…)

その役回りをしていたのが、忠盛の弟=平忠正(たいらのただまさ)と、清盛の弟=平頼盛(たいらのよりもり=清盛の異母弟)(6月2日参照>>)でした。

忠正の生年が不明なので、あくまで予想ですが、おそらく未だ10代であろう元永二年(1119年)に、すでに崇徳院(当時は顕仁親王)の御監(ごげん=馬廻り)として仕えた後、忠実&頼長父子にも仕え、その流れから、忠正の息子の平長盛(ながもり)も崇徳院に仕えています。

また、頼盛を産んだ忠盛の後妻さん=宗子(池禅尼)は、崇徳天皇の皇子=重仁親王(しげひとしんのう)の乳母をやってますので、コチラでも繋がりが・・・

結局、忠正は崇徳天皇&藤原頼長派として保元の乱に参戦します。

そんな中、乱の勃発寸前まで動向を明らかにしていなかったのが清盛でした。

彼は、天皇家とも摂関家ともつかず離れず・・・そう、乱の成り行きを見ていたのです。

Hogennoranitikankeizucc (位置関係図→)
鳥羽院が崩御した3日後の7月5日、後白河側は、崇徳院と頼長が挙兵の準備をしているとして市中の警戒を強め、7月8日には綸旨(りんじ=天皇の意を受けて発する命令書)を発して忠実&頼長父子の荘園を差し押さえ、東三条殿(ひがしさんじょうどの=現在の京都市中央区にあった摂関家の邸宅)も没収しました。

これを知った崇徳側が、7月10日、白河北殿(しらかわきたどの)兵を集結させますが、同時に白河側も兵を集めます。

すでに参戦している義朝らは当然ですが、ここで清盛、そして源頼政(みなもとのよしまさ)(4月10日参照>>)らも後白河側に集結する事になるのです。

乱勃発の直前にて「後白河優位」と判断した清盛・・・これにより宗子も我が息子=頼盛に、異母兄の清盛に従うよう進言し、彼ら兄弟は後白河側として参戦する事になります。

かくして翌・保元元年(1156年)7月11日保元の乱勃発・・・戦いの流れについては2011年7月11日 【武士の時代の幕開け…保元の乱】のページでどうぞ>>
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2016年7月 3日 (日)

新世界ルナパークと初代通天閣の誕生

明治四十五年(1912年)7月3日、大阪・天王寺新世界ルナパークが開場し、通天閣が人気となりました。

・・・・・・・・・・

明治三十六年(1903年)、3月1日~7月31日の153日間に渡り、大阪の天王寺一帯で開催された第五回内国勧業博覧会は、欧米をはじめとする世界18ヶ国が参加する、事実上日本初の万国博覧会であった事から、
(↑これまでの東京&京都での博覧会は、日本がパリ条約に加盟していなかったために外国からの出品はありませんでした)
これまでの最高=前回の京都(4月1日参照>>)の5倍近くの約500万人の入場者数を記録する大成功イベントとなりました。

その博覧会を成功に導いたのが土居通夫(どいみちお)という実業家・・・彼が、実際にフランスパリへと飛び、そこでパリ万博のノウハウを吸収して来た事が大きかったのです。

Tuutenkaku1912a700 で、その彼がパリで見たエッフェル塔凱旋門に魅了され「日本にもあんなん造りたい!」と構想・・・

と、同時に、明治四十四年(1911年)に起こった火災によって閉園を余儀なくされた遊園地=東京の浅草ルナパーク(ニューヨーク=コニーアイランドのルナパーク がモデル)の後を引き継ぐ遊園地の設立を模索していた河浦謙一が、未だ開発中だった、かの博覧会の跡地に2番目となるルナパークの建設を決意します。

後に「新世界」と呼ばれる事になるこの場所ですが、実はこの、土居さんの夢見たパリと、河浦さんの目指したニューヨーク合体作品だったんですね~
・・・てか、そもそも通天閣だけで、エッフェル塔と凱旋門が合体してるんですがww

なので、通天閣の北側は、パリの凱旋門を中心にのびる放射状の道路と同様の構造となっており、大阪の新名所的な意味を持つ「新世界」という名称になる前は「新巴里」と呼ばれた時もあったのだとか・・・

とは言え、結果的に遊園地のシンボルとなる通天閣・・・
設計したのは建築家=設楽貞雄(しだらさだお)で、通天閣と命名したのは儒学者の藤沢南岳(ふじさわなんがく)、その意味は「天に通じる高い建物」という意味だと言われますが、実は通天閣の「通」は通夫さんの「通」らしい・・・てな事も。

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誕生した新世界…左奥が通天閣で右がホワイトタワー、その手前の木々のある部分がルナパーク

とにもかくにも、こうして・・・
明治四十五年(1912年)7月3日大阪天王寺界隈の博覧会の跡地に、通天閣とルナパークが誕生します。

通天閣の高さは75m(諸説あり)で東洋一とのフレコミ・・・世界初の円形エレベーターが装備され、現在でもお馴染みのネオン広告も、誕生の時から、すでにあったとか・・・

一方のルナパークには、現在の絶叫マシーン的な物やメリーゴーランド演芸場映画館ローラースケート場スパワールドコンサートホールと、平成のテーマパークに勝るとも劣らない設備の数々・・・

Luna_park2a550 また、メインとなる展望塔=ホワイトタワー(白塔=現在の「づぼらや」付近に建っていた)は通天閣と対峙する形の高さ40mで、両塔の間には飛行機型のゴンドラに乗って移動できるイタリア直輸入のロープウェイが!
(写真→)

いやはや、明治の遊園地とは思えませんねぇ~

で、そのホワイトタワーの下部にあった白雨亭という休憩所の奥に、お堂建てて祭ってあったのが、アメリカ生まれのビリケン像でした。

いつの間にやら、すっかり有名になって、今じゃ大阪のあちこちで見かけるビリケンさんですが、もともとは1908年(日本では明治四十一年)にフローレンス・プレッツというアメリカの芸術家が、自身の夢に出て来た人物をモデルに造った像が、「幸運の神様」として世界中に大流行・・・
(ちなみにビリケンという名前は、当時のアメリカ大統領=タフトのニックネームだそうな)

Billiken700a 日本では、明治四十四年(1911年)に大阪の繊維会社=神田屋田村商店(現在の田村駒株式会社)が、同社商品の販売促進キャラクターとして広告で使用した事から大人気となり、おそらくは、その人気にあやかってルナパークにもビリケン像が設置されたと思われ・・・って事は、今で言うところの「お台場のガンダム」「神戸の鉄人28号」みたいな物かしらん?
(ちなみに現在のビリケンさんは3代目で←写真のビリケンさんは2代目…最近はどんどん人気が出てどんどん神様っぽいキンキラの飾り付けが増えて来ている気が…(>0<)

とは言え、時代の流れは酷な物・・・

大正時代に入ってからすぐには隣接する天王寺公園動物園が誕生したものの、それ以降は、ほぼ同じ敷地の南側に大相撲を中心とした興業を行う大阪国技館が、南東側には、当時、日本最大級の遊郭街と称された飛田新地が・・・と、次々と町並みが変化していく中で、徐々に新世界は大人の遊び場=歓楽街へと姿を変えていく事になります。

となると、当然、家族連れは少なくなって行き、やがて人出もまばらになった遊園地ルナパークは大正十二年(1923年)に閉鎖・・・

一方の通天閣は、それでも残っていたのですが、昭和十八年(1943年)の第二次世界大戦真っただ中の1月に、ねきにある大橋座火災発生した事から足元部分を損傷・・・
これを受けて、通天閣が高い建物であるが故に空襲での標的にされやすい事、金属類不足による鉄材供出などを理由に翌・2月に解体されたのでした。

そう、現在の通天閣は2代目!・・・コチラが建設されたのは昭和三十一年(1956年)なんです。

大阪が日本一の人口を誇った大大阪と呼ばれる時代・・・明治の終わりから大正の初めにかけて、その大大阪の象徴のごとく隆盛を誇った通天閣は、一度は壊されながらも、戦後の高度成長期を迎えて再び活気づく大阪の空によみがえったのです。

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清水寺(大阪市天王寺区伶人町)の舞台から望む2代目通天閣

平成の世となった今、東洋一&日本一どころか、あべのハルカスから見下ろされ、大阪一の高さでもなくなった通天閣に、初めて訪れた人は「思たより低いな」と言わはりますが、そこには、高さだけやない、大阪人の夢と希望と憧れがつまってますのや!

てな事で、もし、新世界に来られて通天閣に登られる機会がありましたら、展望台からの風景に、古き良き大大阪の時代を垣間見ていただけましたら幸いです。

ほな、今日は、これくらいにしといたろww
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