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2016年8月19日 (金)

関ヶ原へ~高須城&駒野城&津屋城の戦い

慶長五年(1600年)8月19日、まもなく関ヶ原・・・西上する東軍が南美濃の高須城&駒野城&津屋城を開城させました。

・・・・・・・・・

ご存じの関ヶ原の戦い・・・

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後に表面化した家臣団の亀裂(3月4日参照>>)を利用て家内分裂を図る徳川家康(とくがわいえやす)が、会津上杉景勝(うえすぎかげかつ)「謀反の疑いあり」として(4月1日参照>>)諸将を率いて会津征伐に出発したスキに、留守となった伏見城石田三成(いしだみつなり)が攻撃(=西軍)(8月1日参照>>)・・・それを知った家康は、小山評定(おやまひょうじょう)(7月25日参照>>)にて会津征伐を中止・・・Uターンして畿内へ戻る事を表明(=東軍)します。
(くわしくは【関ヶ原の合戦の年表】からどうぞ>>)

その評定の席で、ノリノリで東軍参戦を表明した福島正則(ふくしままさのり)は、池田輝政(てるまさ)ともに先鋒を任され、一足先に西へと向かい、8月11日には、自らの居城である清州城(きよすじょう=愛知県清須市)へと入ると、そこを拠点として続々と東軍の諸将が集まる中、前日の10日に三成が着陣した大垣城(おおがきじょう=岐阜県大垣市)を睨みつつ、未だ西軍に属している近隣の諸城を攻略していくのです。

Sekigaharafukutukazyoucc
 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

織田信長(おだのぶなが)の嫡孫=織田秀信(おだひでのぶ=清州会議(6月27日参照>>)で後継者となった三法師です)西軍についていた事から、この周辺の武将の多くが西軍についてしまっていたために、数少ない東軍として孤立していた今尾城(いまおじょう=岐阜県海津市平田町)市橋長勝(いちはしながかつ)松ノ木城(岐阜県海津市海津町)徳永寿昌(とくながながまさ)・・・

福島正則の命を受けた両者は、8月16日、西軍に属する周辺の諸城のうち、まずは丸毛兼利(まるもかねと)福束城(ふくつかじょう=岐阜県安八郡)を落としました。(8月16日参照>>)

次に狙うは高木盛兼(たかぎもりかね)高須城(たかすじょう=岐阜県海津市)・・・今尾城と高須城は揖斐川(いびがわ)を挟んで、わずか4kmの距離です。

寿昌は早速、高須城に使者を送り、開城降伏をうながします。

しかし、実は高須城周辺の駒野城(こまのじょう=岐阜県海津市)には高木帯刀(たてわき)、その向こうの津屋城(つやじょう=岐阜県海津市)には高木正家(まさいえ)・・・と、この両城は、盛兼と同族の武将が治める城だったので、盛兼は
「同族の浮き沈みにも関わる事…戦わずして開城する事は武人としできない」
と、無血開城を拒否します。

そこで両者相談のうえ、仮の戦=戦ったポーズだけのウソ合戦をチョコっとやってから開城しよう」というダンドリをつけます。

「ポーズだけの合戦って、そんなんアリ?」
と思いますが、実はコレ、室町時代の建武の新政(けんむのしんせい)(6月6日参照>>)の時に登場した『二条河原の落書』にも、「此頃都ニハヤル物」の一つとして挙げられている虚軍(そらいくさ)という武将ご用達の手段・・・

とは言え・・・
以前にも、薩摩(さつま=鹿児島県)島津義久(しまづよしひさ)(6月23日参照>>)日向(ひゅうが=宮崎県)伊東義佑(いとうよしすけ)(8月5日参照>>)との間で迷走した大隅(鹿児島県東部と奄美群島の一部)肝付良兼(きもつきよしかね)ウソ合戦の話(12月21日参照>>)を書かせていただきましたが、この時のように、ウソ合戦がうまく機能しない場合もあるわけで・・・

今回の場合は東軍の裏切りでした。

慶長五年(1600年)8月19日、高須城の北東に着陣した東軍は、本来なら空砲を撃ち合って、その後開城する約束だったにも関わらず、おもいっきし実弾込めての総攻撃をかけて来たのです。

騙された事に気づいた盛兼は、怒り心頭で兵たちにゲキを飛ばして応戦するよう命じますが、「今回は大丈夫」と油断していた城兵がすぐに動けるわけはなく、またたく間に窮地に陥り、やむなく高須城を捨て、津屋城や駒野城をめざして逃走したのです。

こうして高須城を陥落させた東軍は、その勢いのまま揖斐川を渡って駒野城と津屋城へ・・・

早速、駒野城を包囲した東軍が投降を呼びかけます。

前もってウソ合戦のダンドリを聞かされていた駒野城は、すでに高須城から撤退して来る兵の受け入れ体制を整えてはいましたが、その準備は、あくまでダンドリ通りのウソ合戦用の受け入れ体制・・・

そう、予定通りの撤退が予想外の敗走になってしまったため、予想以上に押し寄せる敗走組で城内は大混乱・・・さらにそんな中で、同族の中でただ一人東軍に属している高木貞友 (さだとも).が帯刀への説得を開始した事もあって、駒野城は抗戦する事なく開城されました。

一方の津屋城・・・コチラも駒野城と同様に、高須城からの受け入れた体制を整えていましたが、いまさら「実はホンマモンやねん」と聞かされても、もはや軌道修正する事も不可能・・・

しかしながら、そんな大混乱な中でも何とか高須城敗走組を収容し、城を包囲している東軍めがけて応戦していましたが、そこへ駒野城を落として来た東軍の別働隊が民家に放火しながら攻撃に加わって来たため、まもなく城に火の手が上がり、あえなく撃沈・・・正家らは大垣城めざして逃走していきました。

こして、南美濃一帯は東軍が制圧・・・

この後、美濃における関ヶ原関連は。
8月22日の
【竹ヶ鼻城攻防戦】>>
【岐阜城の戦い】>>
へと続いていく事になります。
 .

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コメント

茶々さま、おはようございます

地図を見るにつけ福島正則の清州城の重要さが良くわかりますね。

八百長破りも正則的猪突猛進ですかね~

ずうっと後ですが、大坂の陣で正則には大阪入城してほしかったですね。

その後のことを知ってる現代人の後知恵ですが。
その方が絶対に美しかったと思うのですが。

投稿: しまだ | 2016年8月29日 (月) 08時51分

しまださん、こんにちは~

>その方が絶対に美しかったと思うのですが。

…ですね。
同じ散るなら…って感じですが、正則からしたら、その時は「自分も散る」とは思っていなかったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年8月29日 (月) 11時19分

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